1-B 灯巳の家庭
灯巳はこの日、川崎市のアパートを6軒と、横浜市のアパートを3軒回った。
ドアを開けてもらえたのは、先刻の1部屋だけだ。
ほかに、インターフォンごしに会話できるにとどまったのが3部屋、明らかな居留守が同じく3部屋。残りの数十部屋は、留守か居留守か判別できない。
帰宅したときには、午後10時になっていた。灯巳の家は、川崎市幸区の一軒家だ。
居間では、母がテーブルにつき、再光教会の機関誌を読んでいた。
「遅いわよ、灯巳。夕飯、とっくに冷めちゃったじゃない。自分で温めて食べなさい」
母が目で、机の上を示した。ラップのかかった皿が、4枚ほど置いてある。
「…………」
灯巳は、女学生から言われたことが悔しくて、言葉が出ない。
「それで、今日は誰かとりこむことができた?」
母が尋ねた。
食卓に両ひじをついて手を組み、その上にあごをのせている。そして、期待に満ちた目で、灯巳を見上げる。
「全然だめだった。1回は成功するかもしれなかったんだけど、途中で邪魔されて――」
「言いわけは結構。どうせそんなことだろうと思ったわ」
母は今しがたの態度をがぜん改め、当初から当てにしていなかったということを、ことさらに強調する。
「…………」
灯巳は口答えしたかったが、ぐっとこらえた。
「ねえ、これ知ってる? 北加瀬に住んでる同学の長男。調子の悪いときでも月に1人は、新しい『正義の戦士』を連れてくるそうよ。おかげであのご夫妻、教化活動は免除されて、『廟』の管理の仕事をおおせつかったそうよ。彼、灯巳よりも1つ年下なのにね。この差は一体、どこから生まれてくるのかしらねえ」
母の声音に、皮肉が混じる。
灯巳がこの話を聞かされたのは、少なくともこれで5回目だ。
悔しいが、何も言い返さない。そんなことをしたら、いつ手が飛んでくるか、分かったものではない。
「正義の戦士」、つまり再光教会の会員は、挙げた成果の度合いに応じて、異なる役目を与えられる。成績の芳しくない者は、詐欺などによる資金集めや、異教徒への攻撃など、いつ警察のご用になってもおかしくないことをやらされる。
灯巳ら一家が従事するのは、いわば布教活動だ。「教化」と称されている。
再光教会の所有する建物を「廟」という。これの管理は、教化よりも格の高い役目に位置づけられている。
また、ノルマの割り当てや評価は、個人ではなく家を単位に行われる。
「それに引き換え灯巳は何なの? この半年間、1人も改心させられないなんて。うちに割り当てられたノルマ、実質的にわたしとお父さんの2人だけで達成してるのよ。もう限界だわ、こんな生活!」
(それなら再光教会を脱退すればいいのに……。世の中の大多数の人は、そんなのに入ってなんかいないんだから)
「あの夫妻、再光教会に入ったのが、わたしとお父さんよりも、2年あとなの。わたしたちが兄で、同学が弟みたいなものなの。なのに、今は完全に立場が逆じゃない? わたしたち、肩身が狭いわ」
(だったらなおさら、再光教会なんて抜けてしまえば――)
「ちょっと。聞いてるの、灯巳!? だいたいあんた、中学生のときまでは、もっと賢く見えたのに、卒業したとたんにこれなわけ?」
さすがの灯巳も腹が立ってきた。
「ねえ、お母さん」
灯巳は、努めて静かな口調を保った。反発していると、思われないようにするためだ。
「何よ?」
「今日たずねた所で、こんなこと訊かれたわ。『お墓を壊して先祖とのつながりを断ち切ること自体に、意味はないんじゃないか?』って。これにはどう答えたらいいの?」
灯巳は内心、再光教会の教えはつじつまが合わないということに、母が気づいてくれればいいと思っていた。
「何が言いたいの?」
「その人が言いたかったのは、多分こういうことだと思うわ。『先祖とのつながりを断ち切っても、先祖が犯した罪を償わないといけないのだとしたら、お墓を壊したり、先祖を辱めたりしても、先祖の残したプラスの遺産を受け継げなくなるだけなんじゃないか』って。どのみち先祖の罪から逃れられないのに、先祖との関係まで断てというのは――」
「灯巳っ!」
母が灯巳のほおを、平手打ちにした。
灯巳は痛さのあまり、反射的に手でほおを抑える。手の熱が伝わって、余計にじんじんした。
「あんた、教化しようとした相手に、何を逆に丸めこまれそうになってるの? もしまた同じようなことを言われたら、こう言い返してやりなさい。『論理などしょせん、人間が作った枠組みに過ぎない。「過去の哲学」は人間の思考を超越しているから、論理なんていう正しくないルールには、囚われない』って」
母が怒鳴った。
(むちゃくちゃだよ……)
灯巳は思った。
人間が、そのすごさや有益さを理解できない教えに、人間がなぜ従わなければならないのか。
「灯巳、勘弁してちょうだいよ。あなたが再光教会を抜けたら、わたしとお父さんまで、いづらくなるんだから。『過去の哲学』が矛盾しているとか、そんなこと二度と考えたらダメよ。次はこんなものじゃ、すまないから」
母はそう言い残し、寝室へ行ってしまった。