4-B 間接キス
5人は、人混みをかき分けかき分け、やっとの思いで道1本、裏手に入ることができた。
六本木通りは、北東から南西の方向に伸びている。そして影郎たちがいるのは、これに対して南東の方角だ。そこに、通りとほぼ平行に走る、小道がある。
左右には、飲食店や服飾雑貨屋などが、軒を連ねていた。
ここにもそれなりに、人がいる。労せず歩けるとは、決して言えない。
とはいえ少なくとも、前がつかえて道なりに歩くこともままならない、とまではいかない。ましてや、押し流されて、行きたくない方向への移動を強いられる、などといったことはなかった。
5人はここを、北東を向いて歩いた。
「死ぬかと思った……」
早月は、息も絶え絶えといったようすだ。演技が混じっているか否かは、ちょっと分からない。
「早月ちゃん、〈白樺〉でも〈ハンノキ〉でも、何でもあるじゃない」
晴日が指摘した。
「あの状況じゃ、ストーンもスティックもとり出せないよ」
2人のやりとりだけでは、魔法についての話だと見破るのは、至難の業だ。だから灯巳の前でも、平気で行えるのだろう。
影郎は後で知ったが、〈ベオーク〉は守護の効果をもたらすルーンだ。〈ファルン〉は、盾の象意をもつオガム。
共に、防御に関連する魔法だそうだ。
「嶺、来ぉへんで正解やったな」
らんは左を向いた。
視線の先にある散髪屋は、表も裏もガラス張りになっている。
そして壁ごしに、大通りのようすが見える。向こうはいまだに、ごった返しているようだ。
「今日と明日、体操と弓道の大会が立て続けにあるって知ったときは、この世の終わりみたいに嘆いてたけど」
早月も釣られて、表通りを眺める。
「ホンマやな。ハロウィーンとか特別なイベントやなかったら、日ぃずらしとったんに」
「この込み具合を写真に撮って送ったら、少しは気がラクになるんじゃない? 嶺、もともと人の多い所は、あんまり好きじゃないから」
「もうやったわ」
らんは自身のスマートフォンを、早月に示した。
画面が映っているものは、影郎の位置からは見えない。だが恐らく、嶺に送信したメールの文面か、これに添付した写真でも見せているのだろう。
「早いね。さっすがあ」
「まあでも」らんの面持ちが、がぜん神妙に変わる。「次どっか遊びにいくときは、嶺も来れる日ぃにせんとな」
「そうだね。嶺に疎外感を与えたくないもん」
嶺はらんたちが魔法使いであると知ってなお、従前どおりに親しい関係を維持している人間だ。現在の状態を保つためであれば、らんたちは大抵のことなら、喜んで行うだろう。
その後、5人は雑談をしながら、裏通りを歩いた。
らんと早月は代わる代わる、灯巳に趣味や家族や住所などを尋ねた。
だが大部分の質問に対し、灯巳は回答を濁した。
らんたちを警戒しているようすはない。だが多くの場合、答えにくそうな、申しわけなさそうな顔をしていた。
晴日ならば、らんらほど親しくない相手との会話でも、大抵の問いには、躊躇なく答えてくれる。自ら積極的には話さない、というだけだ。
しかし灯巳は、それさえなかった。
ともあれ、率先して会話を主導せず、基本的に聞き手に回る点については、晴日と灯巳は似た者同士である印象を、影郎は受けた。
2人が初対面で気が合ったというのは、そのためでもあるのだろうか、とも思った。
歩いているうち、人数が減っているような気がして、影郎は周囲を見回した。
らん、早月、灯巳の3人は、隣にいる。ちょうど、成鸞館高校について話しているらしい。
欠けているのは晴日だ。
らんらもそれに気がつき、4人は一斉に立ち止まって、後ろをふり向いた。
今しがた通り過ぎたケバブの移動販売車の前に、晴日はいた。店員から、紙のカップを受けとっているところだ。
「ガマンできへんくなったんやな」
らんが早月に耳打ちする。
早月は吹き出す。
「晴日ちゃん、どうしたの?」
灯巳が晴日に声をかけた。
「いま行くわ」
晴日は小走りで、こちらにかけてきた。食べ物を両手で、大事そうに抱えている。
器の中にあるのは、白い物体だ。それに、プラスチック製のスプーンが刺さっている。
「ドンドルマか。ウチも横目でメニュー見たけど、そんなん書かれとったっけ?」
らんが尋ねた。
「裏メニューだって。訊いてみるものよね」
晴日は早速、スプーンで中身をすくった。
白い物体は、接着剤のようにどこまでも糸を引く。
「何だそりゃ?」
影郎には、今もさじから容器にこぼれ落ちるものが、およそ食べ物に見えなかった。
「ドンドルマよ。トルコのアイスクリームだって」
言うが早いか、晴日はスプーンを口に運び、パクつく。
そのおいしそうな表情ときたら、この瞬間のために生きている、とでも言わんばかりだ。
「よくそんなモン食えるな。ドロドロで気持ち悪い」
影郎は、嫌悪感をあらわにした。
「そんなことないわよ。絶対おいしいから。試してみてよ」
晴日は影郎に、さじを突き出した。その上には、氷菓が山のようにのっている。
「え……?」
影郎は絶句した。
その理由は、得体の知れないものを食べるのがイヤだからではない。晴日が自分の使っている食器を、影郎にさし出したのが意外だったのだ。
もしも、言われるままドンドルマを食べたら、間接キスが成立する。晴日はそのことを、理解しているのだろうか?
「ほら、こぼれるから早く」
晴日はスプーンを握った手を、ゆっくり上下に振る。
「いや……、その……」
影郎は、目を四方八方に泳がせる。
らんがニヤニヤと、こちらに注目しているのが、その目に入った。
早月のほうは、興味深げにこちらの動向を見守っている。ただ、らんのように面白がっているようすではない。
「遠慮しないでいいから」
晴日が再度、急かした。
「いや、いい」
影郎はもはや、ドンドルマを食べるか否かなど、どうでもよくなっていた。
通常のシチュエーションでならば、カップ10杯分でも食べていい。それでも今、ただの1口がためらわれる理由は、間接キスが気恥ずかしいという、1点に尽きる。
ましてや、ギャラリーが3人もいる状況下など、前代未聞だ。
押し問答が3分くらい続いた。
晴日に、引き下がる気配は一切ない。
「分かったよ。じゃあ食べる」
影郎が根負けした。しかしスプーンだけは、自分で口に運んだ。
「おおーう!」
らんが淫びな声を上げる。
早月も大きく目を見開いて、影郎を見つめる。
(この野郎……!)
影郎はらんに、ほんの少しだけ憤る。
ドンドルマは、恐ろしくうまかった。
晴日がこれほど頑強に勧めてくる時点で、おいしいということは、影郎もうすうす分かっていた。
ところが実際の味は、予想を遥かに上回った。クリームの濃厚な味は、市販のカップアイスなどと、格が違う。
「うまっ!」
影郎は思わず口にした。一種の敗北宣言だ。
「でしょ? だから言ったのに」
晴日が勝ち誇る。
「もっと食べたいな。自分の分、買ってくる」
影郎はケバブ屋を目指し、来た道をとって返した。
「これで、またひとり犠牲者が……」
「晴日の布教活動、順調に進んどるなあ」
「ふ、布教!?」
後ろで早月、らん、灯巳の声が聞こえる。
影郎は晴日と同じように、移動販売車でドンドルマを購入して、4人の元に戻った。
「っちゅうか、ドンドルマぐらいで気持ち悪がっとったら、納豆らよう食べんやん」
らんが言った。
「納豆なんかと比べるの自体、失礼だよ」
ここまで過激なことを言うのは、早月にしては珍しい。
「『納豆なんか』って、土浪さんは納豆、あまり好きじゃない?」
灯巳が尋ねる。
「納豆だけじゃないわよ。早月ちゃん、臭いの強いものは全部ダメなの。特にパルメザンチーズなんか食べた日には――」
晴日はアイスクリームをすくう手を止めた。
「ち、ちょっと晴日。言わないでよっ!」
早月は慌てて、晴日の口を塞ごうとする。
結局、そのとき何が起こったのか、影郎はついぞ知ることができなかった。
「なあ、これ知っとる? トルコ料理って、世界3大料理の1つなんやって」
らんが出し抜けに言った。
晴日にふり回される早月を見かねて、助け舟を出してやったように、影郎には見えた。
「本当に? トルコ料理なんて、今日はじめて聞いたぞ」
影郎は問うた。
灯巳もしげしげと、らんを注視する。
他方、晴日と早月は平然としている。前から知っていたか、驚くには及ばないと感じたかの、どちらかであるようだ。
「ホンマやって。まあ嶺も直子も、最初にゆうたときは、今のあんたみたいな反応しとったけど」
「世界3大料理って、当然フレンチと中華は入るよな」
「正解やで」
「最後の1つ、イタリアンじゃないのか?」
「それがちゃうねん」
「まだ和食のほうが、知名度がありそうな気がするぞ」
「日本におるから、そう感じるだけなんとちゃうん?」
「この流れだともう、お昼をどこで食べるか、決まったようなものだよね」
早月が割りこんだ。
「そやな。トルコ料理店、探してみよか」
らんは、スマートフォンを操作し始める。近辺に該当する店舗があるかないか、調べているのだろう。
「どう?」
早月が画面に見入る。
「お、あったわ。『ケナン・アドナン。メルシン出身の兄弟が提供する本場の味が楽しめるとして、関心度急上昇中の1軒。特にスイーツのラインナップが豊富で、舌の肥えた六本木マダムたちの間で、瞬く間に新たなスタンダードとして定着した』やって」
らんが、口コミサイトの記述と思しき文面を読み上げた。
「ス、スイーツ!?」
晴日の目に、不気味な光が灯る。
「今、ドンドルマ食べたとこだろうが」
影郎は心底あきれた。
「ラッキー! この道をまっすぐ行ったとこにあるわ。これはもう、『ここでお昼食べぇ』っちゅうこっちゃ」
らんは、スマートフォンを見ながら歩き出した。
晴日がそのあとに、ピッタリとくっつく。他の3人も、これに従った。
「なあ、晴日。間接キス迫るなんて、やるやないか」
前でらんが晴日に耳打ちするのが、影郎にもかすかに聞こえた。
「間接キスってなあに?」
晴日は聞き返す。
「え、あんた知らんの?」
らんに訊かれても、晴日は首を横に振るばかりだ。
らんは晴日に間接キスの意味する所を教えた。聞いているうちに、晴日の顔が紅潮していく。
「わ、私はただ、ドンドルマの味を影郎に知ってほしかっただけで……」
晴日はあたふたした。
「しーっ。声、大きい」
らんが、一段と声を潜める。
(全部聞こえてるよ)
影郎は心の中で突っこんだ。
同時に、晴日が間接キスを知らなかったことに、驚きもした。
「全く……。『晴日がこんなかけ引きに出るなんて、何ごとやろ』思うたけど、ウチの深読みやったわ」
らんは見こみ違いに、少しばかりがっかりしたようだ。




