3-B 学年総会
翌週の月曜、6時限が終わると、1年生は全員、講堂に集まった。
修学旅行の目的地を決める、学年総会のためだ。
入り口のすぐ脇に、パイプいすが大量に立てかけられている。
だが部屋の中には、座席に座る生徒もいれば、床に直接腰を下ろす者もいる。いすは使いたい人だけが、勝手に持っていけ、ということらしい。
座る位置も、決まっていないようすだ。
広間の真ん中よりも、心持ち入り口側が、最も人口密度が高い。そこから離れるに従って、人がまばらになっていく。
唯一の例外は、奥にあるステージ直下だ。そこに、10数人の男子生徒が群がっている。
影郎は、部屋の中央よりも若干奥に、いすを持ってきて腰かけた。
カバンを持参して、いすの下に置いてある。総会が終わったら、教室に立ち寄らないで、そのまま下校するためだ。
総会で発言する気など、さらさらない。目的地がどこになっても、受け入れられるためだ。
ではなぜ、観戦しやすい場所を選んだのか。それは、「弁論大会」というものに興味があったからだ。真具那に言い負かされて、彼の趣味につき合わされるのを防ぐために、何か得られるものがないか、と考えたのだ。
その徹底ぶりときたら、メモの用意までするくらい。この日のために、ICレコーダーを購入することも、検討した。
午後3時半になると同時に、学年総会が始まった。
まず、1年A組の担任がステージに立って、注意事項を伝えた。
意見は挙手して、マイクを手渡されてから言うこと。最初に喋るときは、クラスおよび氏名と、行きたい場所を告げること。1回の演説は、5分が最長。1人が発言する累計の時間や回数に上限はないが、マイクはそれまでに発言した時間が少ない者に、優先的に渡される。舞台の真下に置いてあるホワイトボードは、自由に使ってよい。これらのことが伝達された。
奥に座っている10余名の目と鼻の先に、キャスターつきの白板が用意されている。
必要に応じて、図や文字を使いながら話してもよい、という趣旨だ。
「では、最初に何か言いたい者は――」
先生が言うや否や、ホワイトボード付近の男子生徒が、一斉に手を挙げた。
影郎はこのとき初めて、彼らがステージの間近にひしめいている理由が分かった。
この男たちは、目的地について、並々ならぬ関心を持っているのだ。だから、発話するとき目立つ必要がある。しかも自分が喋る時間を、少しでも長くしたい。
それで必然的に、部屋のいちばん前の狭い範囲に集中した、というワケだ。
影郎は、鬼気迫るものを感じた。
「では、トップバッターは君。さあどうぞ」
先生は、適当な1人にマイクを渡した。
その生徒は立ち上がり、拡声器をむんずとつかむ。
ステレオタイプ的には、いかにも野球部に入っていそうな、クリクリの坊主頭だ。
彼はステージに上がることはせず、その場で、手に持っている紙片を読み上げた。
「D組の雲路と申します。当方は断然、台湾を推します! 何たって料理がうまい。ふかひれスープ、担々麺、小籠包。本格的な中華料理が食べられます。しかも値段が安い。私事ですが、先月、父が仕事の出張で、台湾へ行ったんです。帰ってきたら、『1食が日本円にして、100円程度ですんだ』と言っていました。ということで、皆さん。ぜひ、台湾へ行きましょう! 行って、おいしいものを安く、たらふく食べましょう」
影郎は、雲路と名乗る男に対し、かなりの好感を持った。
まず、アピールポイントが食の1点集中と、実に明快だ。話しかたによどみがなく、論旨がまとまっているという、原稿があることの強みも、遺憾なく発揮されている。
何より、「中華料理を満喫したいっ!」というまっすぐな希望が、ひしひしと伝わってくる。
講堂内の至る所から、ぱらぱらと拍手が起こった。影郎と同じように感じた者は、少なくないらしい。
2番目にマイクを手にとったのは、眼鏡をかけた、まじめそうな少年だ。
「B組の女川と申します。ぼくは沖縄を推奨します。というか台湾はあり得ない。ハワイ推しの人にも言えることですが、何であなた、やたら外国に行きたがるんですかねえ? 外国だからという理由だけで、考えもなしに飛びつくのはどうでしょう? 論理性に欠けると言われても、しかたありません」
女川が言い終えると、またも拍手が起こった。口笛を鳴らす者もいる。
雲路のときと違い、音の発生源は女川の周囲、すなわち舞台の近くに集中している。
沖縄へ行きたい者はすでに、ある程度の人数の間で、意思の連絡がとれていて、女川が彼らを代表して、論壇に立っていると見える。
「修学旅行の行き先として外国を推したからといって、何も考えていないとは限らないでしょう。現に当方は、台湾がいい理由として、食べ物を挙げました。さらに言えば、ハワイのほうにも、行くに値する十分な根拠があると思いますよ」
雲路が反論した。
以下しばらく、雲路と女川の論戦が続く。
「いや、非論理的としか言えませんね」
「どうしてです?」
「非論理的だと気づかないあなたが悪い」
「分かるんなら、言葉で言い表せるでしょ?」
「非論理的なのが当たり前すぎて、説明のしようがない。あなたは、1+1が2である理由を、説明できるとでも言うのですか?」
雲路にいくら問いただされても、女川は「当然だ」の一点張りだ。だが、あまりに自信満々に受け答えするものだから、彼の発言には、思いのほか説得力がある。
影郎など、「修学旅行は外国へ行きたい」と言うのが、なぜ直ちに非論理的になるのか、今もって理解しかねた。
だが、それは己の知識不足に起因するのではないか、とさえ思った。
「そんなに当たり前だと思うのなら、いっそのこと検証してみましょうよ。幸いこんなにたくさん人がいるんですから、挙手でも求めて訊いてみるとか」
雲路が言った。
「待った」
女川が初めて、慌てたようすを見せる。
「どうしたんです? 当たり前なんでしょ? ちょいと手を挙げてもらうだけだから、1分もかかりませんよ」
「それは――」
女川は言葉に詰まった。
その間に影郎は、メモ帳に素早く書きこんだ。
「印象の悪い言葉を、ひたすら相手に叩きつけよ。自分がそうだと思う根拠は示さなくていいから、同じ単語をくり返せ。そうすれば第三者は、何となく『その通りなんじゃないか』という気がしてくる」と。
「聴衆に意見を求めることは、認められていません。弁論だけで勝負しなさい」
A組の担任が横槍を入れた。女川にとっては、窮地を救われた格好になる。
「では……」雲路が改めて確認する。「本当に、非論理的だとあなたが思う理由を、提示する気はないんですね?」
「外国に対して子供みたいに無条件に憧れるのではなくて、もっと現実を見すえた議論がしたいものですね」
女川は、雲路の質問に正面から答えなかった。
そればかりか、これまでとは全く脈絡のない話題を持ち出した。先刻と同様、その態度は、覇気に満ち満ちている。
「現実を見すえた議論? 『非論理的』の件は、もういいのですか?」
「そんな些細なことに、いつまでもこだわるのも、幼稚な証拠だ」
(ついさっきまで「非論理的」と大々的に喚き立てていたくせに!)
影郎は思った。このときは確かにそう思った。
「それで、『修学旅行は外国へ行きたい』という意見が、どうやって幼稚さにつながるわけで?」
雲路は、相手が次はどういった主張を展開してくるのか、わくわくしているようにも見える。
「それは、統計的にも明らかです。あなたは、あの三鷹学院高校と大麗高校が、去年どこへ修学旅行に行ったか、知っていますか?」
三鷹学院高校と大麗高校はいずれも、全国でも偏差値が最下位に近い高校だ。
影郎が中学生のとき聞いた話によれば、受験しただけで、確実に合格するらしい。
3年生の学力が、中学1年生の平均よりも下だとか、ここに進学するよりも中卒のほうが就職に有利だなどという、侮蔑のこもった噂も、後を絶たない。
女川が「あの三鷹学院高校と大麗高校」と言ったのは、そういうワケだ。
「寡聞にして」
雲路は首を横に振る。
「前者はロサンゼルス、後者はモンゴルだそうです」
「いいじゃないですか。どちらも楽しそう」
「目的地のよし悪しの話をしてるんじゃない。外国は、そういった幼稚な連中が好んで行きたがる場所だと言いたいのです」
再び、女川の近くで、拍手と口笛が響いた。
「結論から言うと、その考えには同意できかねます」
雲路は静かに、それだけ言った。
「それは、あなたができないだけ」
「まあお聞きよ。まず、学力だけからだと、精神的に幼稚かどうかは分からないでしょ? それに、ご指摘の2校が目的地をどうやって決めたかも、分からない。というか本当に生徒が幼稚なのなら、なおさら先生が勝手に選ぶ可能性が高いんじゃないですか? 百歩譲って多数決にかけていたとしても、学力の低い生徒が、旅行先の選択まで愚かだとは限らない。案外、進学校の人間よりも、よっぽど真剣に検討するかもしれませんよ」
「あなたが勝手に、そう思っているだけでは?」
「確かに、今のはこれ以上言い張っても、水かけ論ですね。それよりも個人的に気がかりなのは、たった2つの事例に、いかほどの意味があるのか、という点です」
「意味が分からない」
「今調べたところですが」雲路はスマートフォンを操作しながら話す。「日本全国に、高校は4千あまり存在するそうです。そのうち成績下位の学校が2か所、修学旅行で外国へ行ったというだけでは、『学力の低い生徒は、外国へ行きたがる』と結論づけるには早い、と言いたいのです。せめて、上位校と下位校のそれぞれについて、国外へ飛んだ所と、国内ですませた所の数を算出しなければ。ひょっとしたら、偏差値が上の学校のほうが、かえって海外旅行をする割合が高いかもしれない」
「何でいちいち、そんな面倒なことをする?」
「だってあなた、『幼稚な人が外国に憧れるのは、統計的に明らかだ』って言ったでしょ? 統計的に処理するんだったら、これくらいのことはします。ちなみに、いま2つの学校だけを出してきたみたいに、人が自分の立てた仮説を支持する事例ばかり集めてくる傾向には、『確証バイアス』という名前がついているそうですよ」
「証拠は?」
「『文系でも分かるラクラク「カイ二乗検定」入門』。アンチョコ本っぽい書名ですけど、社会心理学者の本なので、信用には足ると思いますよ」
「…………」
女川は、二の句が継げなかった。
女川が「統計」という語句を用いたのは、権威づけのためだろう、と影郎は思った。だが、今回は相手が悪かった。
影郎はメモ帳に、「確証バイアス」、「生兵法は大ケガのもと」と速記した。
とはいえ、これで引き下がる女川ではない。
「いずれにせよ、外国へ行こうなどというのが、外国かぶれ以外の何物でもないことに、変わりはない。そういうのを『狂信』といいます」
彼はまた、新しい言葉を出してきた。
「今度は『狂信』ね……。当方が『幼稚』かどうかは、検討しなくていいのですか?」
「こちらのほうが遥かに重要なんで」
女川の顔に、王者の風格が舞い戻る。もはや、自身が言い出した「幼稚」という言葉に、触れるつもりはないらしい。
影郎は、女川が「非論理的」うんぬんの話でも、論破される寸前まで追いつめられていたことを、今の今まで完全に忘れていた。
そこで、みたびメモをとった。「言い負かされたら、間を置かずに論点を変えよ。別の話題について、長々と議論するうちに、それまでしていたやりとりの印象は薄まる。リセットボタン」と。
「当方は確かに、台湾に限らず、異国の文物は大好きです。ただ、かぶれているという意識はない。まして、どこまで外国好きだと、女川くんの言う『狂信』になるのかも分からない。ここは1つ、女川くんは『狂信』という単語を、どういう意味で使っているのかを、明らかにしてもらえないか?」
「そんなことも分からないようでは、話し合う余地もない」
「まあそう言わずに。定義を説明したって、何も減るものなんかないでしょう? 話し合いは、用語についての認識を共有してからでも、遅くはないかと
「あなたが相手では、お話にならない」
影郎には、女川が雲路を論壇から引きずり下ろしたくて、しかたがないように見えた。
一方で雲路に対しては、「もの分かりの悪いカタブツ」という印象を抱きもした。冷静に考えればすぐに、それが先入観だと分かるが。
影郎は、またも走り書きをする。「分が悪い相手は門前払いせよ。その際、論敵が自分よりも知能の劣る相手であることを、周囲に印象づけよ」と。
「では、『狂信』の意味する所を、明確にする意思はあくまでない、と?」
「その必要性がないのでね」
「ふむ。では、その定義不明な言葉にどうして当方が該当するのか、教えてもらおうか。それさえも『あまりに明白だから、今さら説明するまでもない』と思うのなら、それはそれで構わないが」
雲路の口ぶりにも、トゲのようなものが見え隠れし始める。彼も相当、イラついているようだ。
「簡単なことです。ぼくの周囲には、まごうことなき正真正銘の外国狂信者が大勢いる。日本語にもある言葉を、わざわざ英語で言ったり、横文字の製品名がついていると、それだけですごい商品なのだと錯覚したりするような、ね。そういった輩に限って、やたら口に出すのが、『タイへ行きたい』だの『フィジーへ行きたい』だの。あなたもそれと同類と言わざるを得ません」
「ご飯をライスと呼ぶ程度で、『狂信者』と言われる筋合いはないと思いますけど、それは置いときます。どうせまた、平行線だから。この場で真偽を明らかにできる事項だけに的を絞って話しますけど、女川くんの主張は、こういうふうに要約していいですか? 『外国狂信者は外国へ旅行したがる。当方は外国へ旅行したがる。ゆえに当方は外国狂信者である』と」
「三段論法を知っているということを見せびらかして、自分がちょっとは知的なんだぞと、周囲にアピールする作戦か。姑息ですね」
(自分も不用意に、「統計的」とかいう言葉を使っといて)
影郎は呆れた。
それから、「姑息」は「卑怯」という意味ではない。
「とんでもない。この論法は推論のしかたとしてまずい、と言いたいんです」
「は? 『人は死ぬ。カエサルは人だ。ゆえにカエサルは死ぬ』とかが三段論法でしょう? あなたがいま言ったのと何が違うと?」
「小前提と結論の順序が逆なんですよ」雲路は白板の真ん前に立ち、書きこみながら話した。「カエサルのは、『BはC。AはB。ゆえにAはC』でしょ? 狂信のだと、『BはC。AはC。故にAはB』。一例を挙げると、『ライオンはほ乳類だ。シマウマはほ乳類だ。ゆえにシマウマはライオンだ』っていう論証が、後者に該当します。前提は2つとも正しいのに、結論は間違ってるでしょ?」
ホワイトボードは4つに仕切られ、次のように書かれた。左上に「○ B→C A→B ∴ A→C」、右上に「e.g. 人→死ぬ カエサル→人 ∴ カエサル→死ぬ」、左下に、「× B→C A→C ∴ A→B」、右下に、「e.g. ライオン→ほ乳類 シマウマ→ほ乳類 ∴ シマウマ→ライオン」と。
「詭弁ですね」
女川は肩をすくめる。
(その自信はどこから来る?)
影郎は突っこんだ。
女川のように、どんなに劣勢でも自分の意見が正しいという態度を貫くのは、天賦の才のなせる業なのか、それとも訓練によって身につくものなのか。影郎は、そんなことを考えていた。
「そう、詭弁なんです」雲路は否定しなかった。「論理学の畑では、詭弁の類型が整理されています。狂信やほ乳類の類型は、『媒概念を包まない虚偽』と名づけられているそうですよ。また出典を言います?」
雲路がそう言った直後、聴衆がどっと吹き出した。
1人や2人ではない。音量から察するに、講堂にいる人間の約3分の1が笑っているようだ。
現に、影郎の眼前であぐらをかいている、7人の男子生徒に関していえば、全員の肩がふるえている。
「近年まれに見る見事な自滅っぷりだ。ははは!」
「だっせ! 言ったことが全部、自分に返ってきてら」
「わざわざ人格攻撃なんて、しなきゃよかったのに。バカだな」
女川をやゆする声も、少なからず聞かれる。
女川は顔を真っ赤にして、拳を握り締めている。今にも泣き出しそうだ。
影郎は多少、女川に同情した。
確かに彼は先ほどまで、非論理的、幼稚などと、相手を散々ののしっていたわけではある。
だが影郎は、敗者にせよ悪人にせよ、当事者のどちらかが、陰惨な結末を迎える決着のつきかたというものが、好きになれなくなっていた。
8月に小瓢尽絵の生き霊に憑依され、これと記憶を共有して以降のことだ。
その後、北海道へ行きたい生徒や、ハワイ推しの人が、次々と手を挙げ、自説を披露した。2人の論戦が、決着したと見たらしい。
以後は特に、相手の意見を否定する者は現れず、みな己の推薦する目的地の長所を述べるにとどめた。「関西も全然アリだと思います。でも――」などといった、和やかな前置きも、多分に聞かれた。
女川はその後も、何度か挙手した。
しかし発言権は、最後まで回ってこなかった。前半に、数えきれないほど喋ったためだろう。
影郎は忘れないうちに、「媒概念を包まない虚偽」を書きとめた。




