第29話 奈落の底を前に
「……ここ、だな」
オレとエリスは第四層にある、奈落の底に通じる崖っぷちに辿り着いた。
崖下を覗いてみるが周囲が薄暗いせいもあり、やはり底は見えない。
四年前のあの日、オレはここから落ちたんだ。
こんなところを落ちて、よく無事だったものだ。
エリスが来てくれて、間に合ってくれて、助けてくれたおかげだ。
オレ一人だったら、絶対に間違いなく死んでいたと思う。
エリスもオレの隣で、オレの左腕を軽くつかみながら崖下を覗き込む。
「いよいよ、奈落の底、だね」
「ああ」
ちなみに、奈落の底、っていうのは正式名称じゃない。
オレとエリスが勝手にそう呼んでいるだけだ。
だが、まあ、オレたちの間では通じているんだから問題無いだろう。
実際、正式名称なんてあるハズもない。
レギーナムトの迷宮第四層のマップは出回っているが、この辺りは空白地帯だ。
ここは第五層に通じるルートからは外れているし、かなり奥まったところだからな。この迷宮が賑わっていた時も、こんな所にわざわざ好き好んで来る奴なんてほとんどいなかったんだろう。ましてや、降りてみようなんて考えを持つ酔狂なヤツもいなかったんだろうな。
オレだって、ケルベロスに追っかけまわされて、たまたまここへ逃げてきてしまっただけだ。あれが無ければ、きっと一生知らずにいただろうな。この下に《神水》があるだなんて。
運がいいのか悪いのか。
さて、どっちだろうな?
それはともかく、この先は今まで以上の困難が待ち受けているのは確かだ。
だから、事前にエリスと少し打ち合わせておく必要がある。
そう思いながらオレはエリスに向かって口を開いた。
「エリス。下に降りる前に、いくつか確認しておきたい」
「……確認って?」
「オレたちの、奈落の底での第一の目的は《神水》を得ることだ」
一旦言葉を区切り、エリスが頷くのを見てから言葉を続ける。
「だから、例えばだが、もし幸運にもアイツがいなかったとしたら、すぐに《神水》を確保して、さっさと撤退する」
「……うん。でも、いいの? タクマ、この下にいる奴もぶっ倒すんだって、言ってなかった?」
「……言ってたな」
うん。
間違いなく言っておりましたです、はい。
あの時は、勢いというか、それだけ気合が入っていたというか……
いや、今だって気合は十分に入っている。
それに、因縁のあったA級モンスターのケルベロスも今さっき倒したばかりだ。
このまま勢いに乗って……と思わなくもない。
だが、調子の良い時ほど慎重になれ、というのはオレたちハンターが長生きするための鉄則だ。
……D級ハンターがA級モンスターのケルベロスに立ち向かっておいて、どの口がそれを言う? と自分でも思わなくも無いが、まあ、そこは置いといて。
それにアイツは……、この下にいる奴は、そんな勢いや気合だけでどうにかなるような奴じゃない。
オレは崖の方に視線を向けながら口を開いた。
「……この下にいる奴のこと、エリスも覚えているよな?」
四年前のあの日、ケルベロスに追いかけられたオレはこの奈落の底に落ちた。
死も覚悟したあの時、後を追って飛び込んでくれたエリスのおかげで、オレはどうにか助かることができた。
そして、ケルベロスを回避できる別の脱出経路が無いかと奈落の底を模索していたとき、オレたちは見たんだ。
迷宮の中とは思えない程広く開けた場所のど真ん中で、柔らかい光を放ちながら宙に浮いてゆっくりと回転している巨大な紫水晶。そこから金色に輝きながら垂れ落ちている雫。そして、その傍にいた炎を纏いし巨人。
エリスがオレを見上げながらゆっくりと頷く。
「……うん。覚えてる。あそこにいたのは、間違いなくイフリートだった」
その名を口にし、エリスの目が少し険しくなる。
オレもエリスの言葉に頷いた。
イフリート。
それは、神話の中にも出て来るような存在。
おとぎ話の中では炎の魔神とまで呼ばれるような存在。
そのイフリートに比べれば、オレたちが倒したケルベロスなんか、そこらの野良犬のようなモノなのかもしれない。
それ程の、相手。
オレたちにとって、間違いなく今までで最強の、S級のモンスターだ。
「イフリートを相手に戦って、こちらに全く被害無く完勝できる保証なんてどこにも無い。だから、もし戦わないで済むなら……。戦わずに《神水》を手に入れられるなら、それに越したことはないと思っている」
「うん。そうだね。ても……」
「ああ、分かってる。そう都合良くはいかないだろうな」
お宝を手に入れるには、それを守護する怪物を倒さなければいけない。
それは物語の中ではお約束であり、だけど現実だって、大抵の場合そう変わりはないものだ。残念ながらな。
「だから、戦う場合についても当然確認しておくぞ。基本的な戦術としては、奴の魔法に対する防御はオレがするつもりだ。オレが奴の魔法をできるだけ収納庫に収納し、状況に応じて奴に返す。ケルベロスを倒したときと同じだな。エリスはできるだけ攻撃に集中してくれ」
エリスが神妙な面持ちで頷く。
それを見ながらオレは言葉を続けた。
「あと、戦闘が始まったら相手を倒すまで気を抜くなよ。例えば、相手がダメージを受けた隙を狙って《神水》を奪って退却ってのは無しだ」
何しろ初めての相手だし、分からないことも多い。
一般的に言って、手負いのモンスター程怖いものは無い。
中途半端なダメージではどんな反撃をしてくるか分からない。
そんなイフリート相手にうまく逃げ切れる自信なんか無い。
ましてやS級モンスターなんだ。
オレたちを追って、万が一地上に出られでもしたら、とんでもないことになる。
エリスもその辺は分かってくれているのだろう。
特に反論無く、素直に頷いてくれている。
それに、とオレはさらに言葉を続けた。
「倒せるのであればちゃんと倒しておきたい。今後のためにも、な」
「……今後って?」
エリスが人差し指を顎に付け、小さく首を傾げた。
その姿はとても可愛らしい……が、ひとまずそれは置いておこう。
「もしかしたらだけど。今後また、《神水》が必要となる場合があるかもしれないだろう? 今回ちゃんと倒しておけば、次回は楽に《神水》を得ることができると思う」
「ああ、そういう事ね」
エリスが納得したように頷いた。
最後に、もう一つ言っておくべきことがある。
なにせ相手はS級モンスターだ。
いつも以上に慎重に、様々な状況を想定しておく必要がある。
……オレたちでは、倒せない場合についても。
「もし……。もし今のオレたちではまだ敵わないと判断したら、その時は、負けないための奥の手を使う」
「……負けないための……? 奥の手?」
「ああ。その場合、イフリートを収納庫に収納する。要は、奴を閉じ込めてしまうんだ」
オレの言葉を聞いて、エリスが息を呑む気配を感じた。
驚いたかのように、少し目を大きくしながらエリスが口を開いた。
「……できるの?」
「正直、やってみなければ分からないが、今までの経験から考えれば、十分可能だと思っている」
「……そっか。分かった」
エリスが頷く。
オレはそれを見ながら、そこで少し間を置いてみた。
もしかしたら、それに関連してエリスが何か言って来るんじゃないかと思って。
だが、エリスは特に何も言うことは無さそうだ。
じぃっと見つめるオレに対し、どうしたんだろう、と言いたげに首を傾げる。
なので、オレの方から話を振ってみることにした。
「……言わないんだな」
「ん? 何を?」
オレの言葉の意味が分からないといった感じで、エリスはさらに首を傾げた。
気付いていないのか?
いや、エリスならとっくに気付いているハズだ。
「……奴を収納できるなら、最初からすればずっと簡単なのに、ってさ」
それだけ言ってオレは口を閉ざした。
そんなオレをエリスはじぃっと見つめ、やがてゆっくりと首を横に振った。
「言わないよ。だってタクマ、それはしたくないって顔に書いてあるもの」
……オレ、そんなあからさまに嫌そうな顔をしていただろうか?
ふふふ、とちょっと笑いながらエリスは言葉を続ける。
「タクマ。さっき『負けないための』って言ってたけど、ホントは、それをしたら負けだと思ってるでしょ。最初からそれをしたら、戦う前から相手に負けを認めてしまうようなものだと思っているんじゃない? 違う?」
……違わない。そう思っている。
けど、参ったね。
そこまでエリスにはお見通しなのか。
だがオレは肯定も否定もせず、無言でエリスに続きを促した。
「だからそれはしたくない。相手をちゃんと倒したい。勝ちたい。そう思ってるんだよね?」
……その通りだ。
オレの収納魔法は、収納した相手に何かをすることはできない。
相手から攻撃されないで済むが、こちらからも攻撃することはできない。
もし、収納した上で何らかのアクション、例えば殺すことができるなら話は違ったと思う。それができるなら、収納して殺して取り出す、という恐らく殺し合いの上では最強に近いモノになっていたかもしれない。
だが、実際は相手を閉じ込めておくことしかできないんだ。
いつまでも閉じ込めておくことはできるかもしれないが、それで勝ったなんて思えない。だって、収納庫から取り出せは、相手はピンピンしているのだから。
相手を倒す、相手に勝つ、っていうのは、そういうことじゃないよな?
ついでに言えば、いつかオレに寿命が来た時、収納したものがどうなるのか分からない。そのままどっかに消えてなくなってしまうのか、それともオレが死んだと同時に収納庫にあったものが自動的に全て取り出されてしまうのか。
文献を調べてみても、今までの収納魔法はどうだったのか、その辺は曖昧ではっきりしていない。もし後者だったら、閉じ込めていたモンスターどもが突如現れ、暴れまわるという事態になるかもしれない。
それを考えても、やはり閉じ込めただけで相手に勝ったなんて、オレには思えないんだ。
「ホント、変なところで律儀というか、意地っ張りというか、負けず嫌いというか……。そういうところ、小さい頃から全然変わらないよね」
……意地っ張りで悪かったな。
そういう性分なんだから、仕方ないだろう?
そんなことを思いながら、ちょっとした気恥ずかしさもあって、思わず視線をエリスから逸らしてしまう。
でも、とエリスは少し俯き、上目遣いでオレを見上げながら言葉を続けた。
「でも、さ。……私、タクマのそういうところ、好きだよ?」
――っ!?
その言葉にドキッとした。
ゆっくりと視線を向けると、エリスは少し頬を染めてオレを見上げていた。
「だから、頑張ろう、タクマ! またカッコいい所見せて! 期待してるっ!」
エリスが両手を強く握り、オレに笑顔を向けてそう言った。
ふふっ……ふふふ……
……こういう時、常々思うよ。
オレって、なんてちょろいんだろうなって。
エリスの言葉一つで、オレのやる気も気合も、いつでも瞬時に満タンだ。
さあ、覚悟しろよ? イフリート!




