アライブ
申し訳ないが君に娘は任せられないよ。
ライブの前日、必ず同じ夢を見る。
娘が大切なんだ。わかってもらえるかな。
あの日、あの時、自らのふがいなさに目をそらし続けることができなくなった、その瞬間を。
優しそうな彼女の父は、苦悶の表情を浮かべた。あの時、彼女はいったいどんな表情をしていたのだろうかと思う。
それでも、僕の視線は彼女の父から離れることはない。それから、だんだんと視線は下がり、強く握りすぎて、真っ白になった自分の小さな拳しか見えなくなる。
相手に届いたのかさえ分からないような声で、はいと返事をした。かすれた声で、自分でも驚くほど声は震えていた。
ここにはもういられないと強く思った。早くいなくならなければと。
椅子から立ち上がろうとして、自分の足元が不安定なことにようやく気が付いた。
何もないわけじゃない。ただ、ここに立っていたのかと愕然とした。崩れゆく足場を、彼女が必死になって支えていた。時には、彼女の背に立っていた。その事実が初めて恐ろしいことだと気が付いた。
家を出ていくとき、彼女は真っ白の顔をこわばらせて大丈夫かと尋ねた。自分の顔を辛そうにゆがめ、わずかに目に光るものをためてなお、僕に大丈夫かと尋ねた。
対等ではなかった。同じ高さだと思っていた視線は、彼女が膝を曲げ、ようやくあっていたのだ。
元気でな。
最後に聞いた彼女の声は、泣き声だった。
ふと目を開けると、部屋は薄暗く雨のうつ音が聞こえた。
明日の打ち合わせと、ほんのささやかな前夜祭をして、そのままリビングのソファで眠っていたらしい。
床にバンドメンバーが転がっており、僕と同じように毛布がかかっていた。
拠点を海外へと移してから、5人のメンバーとはシェアハウスで同じ時間を過ごしていた。その方がかかってくる様々な費用が安くなるうえに、管理もしやすいという、実利をとった結果だ。
「起きたか」
メンバーの一人がバスタオルを肩から掛け、リビングに入ってきた。明かりは付けず、床に転がっている男を一瞥し、キッチンの方に消えた。
「今何時だ?」
あまり長く寝ていた感覚はないものの、ソファで寝ていたためか、体が痛い。
「2時過ぎ。明日早いんだから、さっさと寝ろよ」
ペットボトルの水を片手にキッチンから出てきた彼は、バンド結成時からの古参メンバーで付き合いは学生のころからである。
「毛布ありがと」
風邪をひかれたら困るからなと、平坦な声が聞こえる。彼はそのまま髪を拭きながら、床で寝ているメンバーを、軽く蹴飛ばす。間抜けな声を上げ、むくりと体を起こした男は、僕や彼よりも一回り大きな体つきをしていた。それでも彼は、気にすることなく先ほどより少しだけ強く蹴り、男の寝室へと追いやってしまった。
「お前も早く寝ろよ。おまえの体はどうでもいいが、明日お前の声がいるからな」
一見冷たい言葉も付き合いが長くなると、それが温かいものだと感じられる。緩む口を隠して、適当な同意を聞かせた。
部屋に差し込む町の光は、どこか排他的でそれが一層心の波を大きくした。
「明日俺たちの世界は変わる」
彼の熱い声は静かに消え、憂いを帯びた雨音が部屋に響く。
「なぁ嘘ってさ、どっから嘘なんだろうな」
思わず漏れた言葉は、彼の発した熱のこもった声とは対照的に、ひどく乾いていた。
「なに? 新曲のテーマか何かか?」
「いや、そんなんじゃないけど」
窓を打つ雨の音は、だんだんと大きく熱くなっていく。
「そうだな。口にしたら、かな」
「僕はさ、聞いた人が嘘だと思ったら、だと思うんだよね」
後ろの彼がこわばったのを感じた。
「あの時、絶対売れるっていうことも出来たんじゃないかって思うわけ。絶対人気が出ます、娘さんを幸せにして見せますってさ」
そしてそれを彼女は嘘にはしなかっただろう。嘘にせず、いつか本物になると信じて僕に付き添い続けただろう。
「待っててって、彼女に言うことも出来たんだ」
言わなければわからないと、伝わらないと言う。
言うことで壊れるものもあるというのに。
伝えることで傷つくこともあるというのに。
「だけどさ、もう痛いのは嫌だった」
僕も、彼女も。もういいと、仕方がなかったのだと。
「だから、手を離したんだろう。互いを守るために」
そうだ。守るために失った。そうすることでしか、僕には守れなかった。守るすべがなかった。
雨はもう一度降り出したかのように、窓を激しく打ち出した。勢いを増し、これでいいのかと僕を糾弾する。
「でもさ、つらいんだよ」
心の奥で叫び声が聞こえる。辛い、痛いと、涙ながらの叫びが聞こえるのだ。
ふとした瞬間に彼女の影が見えたとき、胸の傷をかきむしってしまう。思い出す度、死にたくなる。
あのさ、こういうの苦手だからうまく言えないかもしれないけど、そういって彼は気まずそうに口を開いた。
「大切なのは、傷つけちゃダメなのか」
いや、お前が間違ってたっていうわけじゃないんだ。慌てたように彼は言った。
言わなきゃ伝わらない。でも、言葉にすれば嘘になる。
それなのに互いに傷つけあわないってのは虫が良すぎるだろ。
そりゃ、あの子はずいぶん傷ついたろうよ。でも、それを不幸だと決めつけるのはお前じゃねぇだろ。
傷ついて、間違えて、たまには壊れちまうかもしれない。
それでも、それでもやっぱり愛おしいって思うのが、大切なんじゃないかって。
「俺はそう思うけどな」
心臓がやけにうるさい。つばを飲み込む音が耳の中に残る。
もう一度。もう一度だけ手を伸ばしてもいいのだろうか。体のすべてが歓喜に震えた。
「もう一度。僕はそう言ってもいいのだろうか」
あれほどまでに望んだ未来が、本当は手に入れてもいいのかもしれない。
「それが、一緒に生きるってことだろう」
間違えてもやり直せばいい。彼は上気した声でそう言った。
あぁそうか。可能性だけあればいいのだ。その可能性があるだけで、生きていける。僕は僕の道を歩いて行ける。
「ありがとう」
「先に寝る。おまえも早く寝ろよ」
逃げるように彼は背を向けた。彼の背中にもう一度、感謝の言葉を口にしたが、きっと彼は聞こえないふりをしただろう。
雨は一晩中、優しく町を濡らした。