第二章(1)
その日はもう夜も遅いので、マリはその小部屋で、毛布をもらって眠ることにした。その部屋は使用人達がいらない物を入れておく物置き部屋だったので、まず誰も来ることはなかった。一方バーバラも自分の寝部屋があるので、自分の部屋へと戻って行った。
ロンドンの夜はとても寒かった。部屋の中は白い息で染まった。それでもマリは目の前に飾られている白いドレスにうっとりしていて、それだけで十分だった。そのうち眠りにつくと、自分が舞踏会で躍っている夢を見た。白いドレスは羽のように舞い、自分も鳥のようにくるくると踊るのだった。
次の日になるとバーバラは朝食の残りとメイド服を持ってきてくれた。お腹のすいていたマリはそれをぺろりと食べると、持ってきてくれたメイド服を不思議そうに見つめた。
「それ、私が着るの?」
「そうよ。そんな格好じゃあ、怪しまれるじゃない。このメイド服を着てれば、ここの屋敷のメイドと思われるでしょ」
「ああ、なるほど。バーバラ頭いい」
「そんなこと言ってないで、さあ早く。私も仕事の合間にきてるんだから」
彼女はてきぱきとマリにメイド服を着させてしまった。
サイズはぴったりだった。黒いドレスに白いエプロン。そして頭には白いキャップ。マリは自分のその姿を鏡で見て思った。どこからどうみてもメイドさんね。まさかこんなところでメイドコスプレをすることになるなんて、びっくり。しかしまんざらでもなさそうにマリはバーバラに言った。
「ところでお嬢様、私はここでどうすればよいでしょうか」
言われたバーバラは顔を真っ赤にして口をぱくぱくさせた。
「やめてよ。お嬢様だなんて。バーバラにして」
「でも舞踏会の時はお嬢様ですからね。」
マリは念を押すようにそう言った。
「それより、そのピンクのドレスなんだけど、もう少し袖をふくらませてもらえないかしら。アンナお嬢様が着るんですもの、もう少し豪勢じゃなきゃ」
「分かりました、お嬢様。私がやっておきます」
「もうマリったら。いいかげんにしてよ。またお昼になったら来るからね」
バーバラは言うだけ言うと階下へおりて行った。
メイド服になったマリは本物のメイドのようにドレスの手直しをし始めた。見本はバーバラの作った白いドレスだ。とてもよく袖がふくらんでいる。どうなったらこうなるのだろうと、ああでもないこうでもないとマリはこねくり回しながら、なんとかそれらしい形にした。私の腕もたいしたものだなんて思いながらも、バーバラの作ったドレスにはとても太刀打ちできない何かがあった。
腕も違うっていうのもあるけれど、それだけじゃないような、ひょっとして気持ちかなあ。本物の舞踏会と演劇の舞踏会じゃあ、全然違うもんね。やっぱりバーバラ、舞踏会に出たいんだろうなあ。
それと同時にロミオとジュリエットの劇で、この白いドレスを着て演じる自分の姿も思い浮かべた。きっと完璧だろうなあ。マリは物思いにふけりながら、午前中を過ごした。
お昼になるとバーバラが上にあがってきた。お昼の残り物をマリに食べさせながら、彼女は真剣にマリの作ったドレスを眺めていた。袖や裾をチェックしながら、彼女は厳しい表情を浮かべていた。マリもお昼を食べながらも、バーバラの様子がとても気になった。こんなんじゃ駄目と駄目出しされるのではないかと内心びくびくしていた。
しかし彼女はいかめしい表情をふっとやわらげるとマリに言った。
「すばらしいわ。よくできてる。これならアンナお嬢様が着ても平気だと思うわ」
マリはそれを聞いて喜んだ。
「それじゃあ、バーバラは明日の舞踏会に出られるね」
「それがね。ちょっと心配なことがあるの」
「心配なことって?」
マリがきょとんしていると、バーバラは困ったように眉根を寄せた。
「舞踏会に行くには皆普通は馬車で行くのよ。私は当然馬車なんて持ってないし、馬車を借りるとものすごくお金がかかってしまうの。もし歩いて行ったら怪しまれるんじゃないかと思って」
「なら、安く借りられる馬車屋さんを探せばいいんでしょ」
「それはそうだけど。私はこれから仕事だし…」
しばらく沈黙のあった後、マリが意を決して言った。
「いいわ。私が馬車屋探してくる。で、いくらぐらい払えるの」
「ほんと? ほんとにいいの。あなたここらの地理分からないでしょ」
びっくりした様子でバーバラは顔をあげた。
「なんとかなるって。で、お金は」
マリも自分でもすごいことを言ってるなあと思いつつも、バーバラの舞踏会をどうしても見たいという思いがあった。
そうよ。バーバラの舞踏会は間違いなくロミオとジュリエットなんだから。
バーバラはマリの燃えるような目に押されて、お金の入っている袋を渡した。
「私が持っているお金はこれだけよ。これでお願いできるかしら」
マリは中のお金を見たが、お金の通貨自体もよく分からなかった。それでもバーバラに言ってのけた。
「大丈夫やってみる」
それから二人は物置き部屋をこっそり抜け出した。マリもメイド服を着ているとはいえ、他のメイドに出会ったら大変と、バーバラの後ろにぺったりはりついて階下までおりて行った。廊下にはふかふかの絨毯が敷かれ、踊り場には綺麗な花が飾られてあった。壁には名画とおぼしき絵が飾られ、ここがお屋敷であることがよく分かった。そして廊下を渡っていると、急に目の前の扉が開いた。
「バーバラ」
その声は怒っていた。
「どうかしましたか、アンナお嬢様」
「ちょっと、あんたねえ、私の宝石どっかにやったりしてないでしょうね」
バーバラの陰に隠れながら、そのアンナお嬢様とやらの容姿をマリはうかがった。眉はつりあがり、目は細く、鼻は低く、まんまるい顔をしていた。とてもお世辞にも美人とは言えない顔立ちだった。
「めっそうもございません。今朝も同じように掃除をしましたが、指一本触れてません」
「ほんとなの? あんた舞踏会に出られないからと言ってひがんで私に嫌がらせしてるんじゃないの」