第七章
準備室でのことがあってから、麻里は安心して学芸会のロミオとジュリエットの裏方を努めていた。木やら、壁やらをみんなと楽しみながら作り、他の出演者の服も作ったりとてんてこまいだった。須藤利恵はあの純白ドレスを着て、演じられることが楽しみらしく、演技には熱がこもっていた。最近麻里は須藤利恵があのドレスを着たとしてもいいだろうと思うようになってきた。でも劇が終わってあのドレスがいらなくなった時は自分が何が何でももらおうと思うのだった。
こうして幾日が過ぎて、いよいよ本番のロミオとジュリエットの劇が公演されることになった。皆が待ちに待った日、最悪の事態が起きた。なんと須藤利恵が足をくじいてしまったのだ。とてもじゃないが、劇には出られないとのことだった。先生も困って、代役なんているかしらと途方に暮れていた。その時麻里の脳裏にバーバラの言葉が蘇った。
『マリはロミオとジュリエットのジュリエット役にぴったりだわ』
それからこうも言っていた。
『今度はあなたが舞踏会に出るべきだわ』と。
これはまさに舞踏会ではないだろうか。バーバラではなく私の舞踏会。そしてそれはジュリエットの舞踏会なのだ。麻里の足が一歩前へ出た。
「先生。私ジュリエットのセリフ全部覚えてるんです。私をジュリエットの代役に出させてもらえませんか」
その声は震えていた。先生も麻里の思わぬ言葉にびっくりしたようだったが、そのうち先生もうなずき、
「分かりました。やってみなさい。ジュリエット役を」
と、麻里の肩を押した。
まさかこんなことでジュリエット役をすることになるなんて、びっくり。ねえ、バーバラ本当に事件は突然起こるんだね。でも私絶対こなしてみせるわ。このジュリエット役。だってバーバラの作ってくれた純白ドレスが着れるんだもの。きっとうまくいく。
麻里は気合いを入れると、劇の準備にとりかかった。
純白のドレスを着て、化粧をすると麻里はジュリエットそのものになった。優雅な気品あふれるジュリエット。それは麻里の見てきたバーバラのイメージでもあった。麻里はバーバラになろうと思った。
そうしてロミオとジュリエットの幕は開いた。
麻里はよく演じた。ジュリエットには他の縁談があり、断り切れずにいるところは、アーサーの気持ちを演じ、いよいよロミオとジュリエットが舞踏会で初めて出会い、優雅に踊るシーンでは舞台に出ていく前にひとつ大きな深呼吸をした。
すると、まざまざといろんなことが思い出されてきた。バーバラがアーサーと踊ったあの舞踏会。彼らの軽やかなステップが、麻里の胸に迫ってきた。そしてこの白いドレスが見る者を魅了し、皆がため息をついたあの夜。あの夜は夢ではなく現実にあったことを麻里だけが知っていた。
それから、ロバートと麻里で開いた小さな劇。あの時楽し気にバーバラと一緒に踊ったことが頭をよぎり麻里は懐かしさで気持ちがいっぱいになった。思わず涙がこぼれ落ちそうになったが、麻里は気丈に舞台へと出て行った。
たくさんのスポットライトと期待に満ちた観客達の目が麻里に注がれていく。麻里は舞台の上で、純白のドレスに身を包んだバーバラを見たような気がした。
『さあ、踊りましょう、マリ』
あの小さな劇では麻里がバーバラを誘い、一緒に踊ったが、今はバーバラが麻里を誘ってくれていた。うれしくなった麻里は緊張がほぐれ、自由に踊り始めた。
ロミオ役の男の子も麻里の完璧な踊りに舌を巻いていた。気品はあるけど、自由奔放なジュリエットを麻里は演じ始めていた。バーバラのように綺麗に踊りながらも、それは麻里らしいダンスだった。観客達もそんな小さなジュリエットに惜しみない拍手を送り、劇に引き込まれていった。
そして劇はそのあとロミオとジュリエットがお互いに惹かれあい、恋しい思いを伝えあっていく。麻里はバーバラとアーサーの恋模様を思い出しながら、自分なりにバーバラになりきったつもりで演じていったが、麻里の熱のこもった演技に相手役の男の子は驚きを隠せなかった。
教室の中では目立たない麻里が、こんなにも大胆に演じることができるとは思わなかったのだ。それは他の配役の子達も思うところだった。けれども麻里はそんなことは微塵も考えていなかった。ただひたすら、ロンドンで感じてきたことを思う通りに演じたい。それが私なりのジュリエットなのだと麻里は答えを見つけ、劇に没頭した。
そうして劇は悲しい結末へと向けて流れて行く。毒薬を飲み、死んだふりをするジュリエットを麻里は至福の時のように笑みを浮かべる。このあとロミオと会えるんだってことを信じ切って。しかし悲劇は起こる。ジュリエットが死んだと思ってロミオが自害してしまう。それをジュリエトが悲しみにくれながらロミオのあとを追う。
最後の気持ちはバーバラとアーサーの先行を心配する麻里の心が重なった。
エンディングを迎え席で観ていた観客から大きな拍手が起きた。割れんばかりの拍手は劇の成功を物語っていた。
先生や、みんなが駆け寄り、麻里によくやったと声をかけた。麻里は照れ臭そうに笑っていたが、内心は泣いていた。
バーバラ、私、私の舞踏会を踊ったよ。これでよかったんだよね、これで。
泣きたい気持ちをこらえながら、麻里は皆と笑っていた。
それから家に帰ると、学芸会を観に来ていた両親が言った。
「麻里、あんた演劇の才能があるんじゃないの。お母さん、今日感動しちゃった」
母親は顔をほころばせて喜んだ。
「何、俺が劇を観にいったりするからその影響だよな」
父親もまんざらでもなさそうにそう言う。
「英語じゃなくて、子供の劇団とかに入った方がいいんじゃない」
「おいおい、それって芸能界に入るってことかい」
驚いた口調で、父親は母親に訊いた。
「まあ、そういうことね。顔だって麻里はかわいいんだし、演技がうまければうまくいくかもしれないじゃない」
「ちょ、ちょっと何言ってるの」
さすがに当惑して麻里が口をはさんだ。
「私はたまたまたロミオとジュリエットが好きなだけだったから、セリフも覚えてただけ。演劇なんて興味ないよ。まして芸能界なんて何いってるの」
「あら、そうなの。それは残念」
陽気な母親は舌を出した。
「まったくおまえは早とちりしすぎなんだよ」
「そういうあなたこそ、麻里の演技もたいしたもんだってうなってたじゃない」
「それはそうだが…」
「ねえ、そんなことより、約束通り、英語勉強させてね」
麻里は二人の間に割って入るとそう言った。そうして自分の部屋へと駆け込んだ。
二人して何言ってるんだか。私はロンドンであったことをそのまま表現しただけ、それは演技でもなんでもないよね。今日の舞台バーバラにも見せたかったなあ。麻里は持ってきた純白のドレスに顔をうずめた。




