第一章(1)
皆が帰った放課後。麻里は一人だけ学校に残って熱心に縫物をしていた。縫っているものは袖の大きく膨らんだピンク色のドレスだった。ドレスの裾には白いかわいいフリルが幾つもついていて、その中の最後の一つを麻里は丁寧に縫いつけている最中だった。教室の時計は五時を回ろうとしていた。窓からは夕日がさしこんでいて、麻里の手元を薄ぼんやりと照らしている。
「カチカチカチカチ」
教室の時計の針が五時の時を刻もうと追いかけっこをしている音だけが妙に響いていた。麻里は息をつめながら慎重に最後の一針を縫い上げた。
「できた!」
麻里が一声叫んだのと同時に学校のチャイムも鳴り響いた。
「キンコンカンコン、キンコンカンコーン」
麻里は緊張の糸がほぐれて、ほっとした。
彼女は得意げに椅子から立ち上がると、そのピンクのドレスをよく見るために肩の部分を両手でつかみ、自分の目元の辺りまで持ち上げた。
すらっとした美しいドレスが麻里の目の前にはあった。麻里は満足だった。学校の学芸会で着るドレスとは思えないほどうまくできている。麻里は思った。これでジュリエット役がもっといい人だったらよかったのになあ。彼女は大きなため息をつくと、とても残念がった。
このドレスは学校の学芸会でやる劇の出し物、ロミオとジュリエットのジュリエット役が着るドレスだった。
麻里は以前ロミオとジュリエットの劇を父親に連れられて観に行ったことがあって、その時ものすごく感動したのだ。それ以来麻里はロミオとジュリエットの劇が大好きになった。
清らかで美しいジュリエット。麻里の中にはそのイメージが強くあった。そして今度の学校の学芸会ではロミオとジュリエットが演目になったのだ。
麻里はなんとしてもこの劇を成功させたいと思った。けれども自分は舞台にあがって、劇を演じるほど活発な女の子ではない。どちらかというとあまり自分の意見が言えない目立たない女の子だった。それなら自分は裏方に回って大道具でもやってればいいだろうと麻里は考えた。
そして皆が注目するジュリエット役はいったい誰がやるのだろうと固唾をのんで見守っているとあろうことか高慢ちきな態度で有名な須藤利恵がやることになったのだ。クラスの中でも成績優秀で自分の意見をずばずば言うような彼女はまさに活発な女の子だった。ただあまりにも自分の才能を鼻にかけて人を見下す癖が彼女にはあった。
こんな女の子がジュリエット役をやるなんて! それだったら自分がやった方がまだましだ。麻里はとても後悔したが、自分がジュリエット役に立候補したところで選ばれることはなかっただろうと思った。
彼女はジュリエット役の配役はしかたなかったとしても、ロミオとジュリエットっぽさを出すためにジュリエットの着るドレスを作る役を引き受けた。
中身は須藤利恵でも外見だけでもジュリエットらしさを出したいと麻里は奮闘したのだ。その結果、とてもいいドレスが出来あがったので、麻里は大満足だった。
それでも彼女はやっぱり恨めしかった。ああ、こんなにすてきなドレスなのに、彼女が着るなんてもったいない。いっそ私が着てしまおうか。麻里はドレスを自分の身体にぴったり合わせて思った。
教室の時計は五時五分を指そうとしていた。そろそろ家に帰らなければいけない時刻だったけれども、麻里は一瞬思ったその考えが頭から離れなかった。
そうだ。彼女が着る前に私が袖を一回通したって罰は当たらないだろう。それに着心地を確認するというのも大事なことじゃないかな。麻里はそう考えるとドレスを持って教室を出た。廊下を渡って上の階段をのぼり、廊下の隅にある準備室に行く。なぜならそこには全身を映すにはちょうどいい姿見があるのだ。
何度か先生の手伝いで準備室に入ったことのある麻里はそれを知っていた。彼女の胸は期待でわくわくしていた。着たらジュリエットみたいになるだろうか。麻里はそわそわしながら準備室に急いだ。
準備室を開けると、狭い窓から少しだけ夕暮れの光がさしこんでいた。中は地球儀やら教科書などが雑然と並んでいた。部屋の中は薄暗くて足下があまりよく見えない。電気をつければいいのだけれども用もないのに準備室に入ったことが分かれば先生達に何を言われるか分かったものではない。麻里はつまずかないように慎重に歩いた。
姿見は準備室の一番奥にあった。誰にも使われていないせいかほこりをかぶっていた。麻里は鏡の前に行くと急いでピンク色のドレスに着替えた。サイズは麻里にぴったりだった。膨らんだ袖にふんわりとしたドレスを着た麻里はまるでどこかのお嬢様のようだった。これだったらジュリエットにもなれるかなあ。麻里は鏡の中の自分をもっとよく見ようと鏡に近づいた。
鏡の表面はほこりがあるせいか、曇って汚れていた。これじゃあ、よく見えない。麻里は更に近づいて手で鏡の表面をこすった。
さあ、これでよく見れる。そう思って鏡をのぞきこむと麻里は驚いた。さっきまでピンク色だったドレスが真っ白に変わっているのだ。これはいったいどういうことなんだろう。
麻里は目をぱちぱちした。しかしドレスの色は白のままだ。しかも鏡の中の少女はよく見ると麻里ではなかった。金色の髪をアップにした青い目をした美しい女性だった。
どうなっているんだろう。混乱した麻里は鏡の表面をもう一度こすった。と、気がつくと麻里の手は細い女性の腕をつかんでいた。そして見上げるとそこには鏡の中に映っていた金色の髪をした女の人がいた。
透けるような白い肌に煌めくような美しい青い瞳はなぜか悲し気に光っていた。
麻里は思った。きれいや美しいという言葉はこういった女性のために作られたに違いない。しかもどうだろう。
彼女が着ている純白のドレスは雲をつむいだような細い絹で作られ、精巧に編まれた花の形のレースはふんだんにドレスの襞に使われ、それはまるでウェディングドレスのようだった。それと比べると麻里の作ったピンク色のドレスは単なる普段着にしか見えなかった。ドレスというのはこういうものをいうのだろう。
思わず見とれて、ぼうっとしていると、その美しい女性は慌てて麻里の手をほどいた。
「お願い! このドレスを着ていたことを誰にも言わないでくれる?」
彼女は熱心に頼んできた。麻里は見るからに外国人の人にしか見えない相手が流暢な日本語をしゃべるのに驚いた。しかもドレスを着たことを言わないで欲しいというのだ。
「それってあなたのドレスじゃないの」
麻里は不思議そうに訊いた。
「私はこの家の使用人なの。それでこのドレスを作るよう言いつかったの。このドレスの持ち主はアンナお嬢様です」
女性はドレスを大急ぎで脱ごうとし出した。