Ⅷ
夏休みに入り、太陽はより一層燦燦と輝き、ますます忌々しい存在と化していた。
「何なのこの暑さ。ふざけてるわ」
「優子さんがそんなこと言うなんて……さすが今年一番の暑さ」
ある休日。伊織がキッチンで茹でるそうめんとにらめっこしていると、リビングに入ってきた優子が吐き捨てていた。気温の高さに文句を言っている優子が珍しく、つい声を掛けた。振り返ると、彼女はキャミソール一枚と短パン姿だった。伊織は仰天した。
「ちょ、服……!」
「あん? いつも通りでしょーが。男のくせにぐちぐち言わないの」
「……」
なんだかいつもより機嫌が悪い。普段通りの日曜日だし、朝食も普通だった。いや、卵が賞味期限間近だった。火にかけるから良いかと思って使ったが、優子にバレただろうか。だけど優子がそんなこと気づくわけないし。やっぱり暑さのせいだな、と納得して肩をすくめた。
「ワタヌキ。これはパスタじゃないのか」
「…………」
そして、隣でまじまじとそうめんを眺める美少女はもっと奇怪だった。エメラルド色の瞳を興味津々に輝かせ、お湯の中でくるくる回る白い麺を見つめている。伊織は露骨に顔をしかめて、口を開く。
「……おまえ、なんでウチにいんの」
「へ? あっ。……あー、世話になったから、その」
シルビィ・ユーグネーは質問にびっくりした様子で目を逸らしながら言う。ちなみに今日は私服だった。Tシャツに七分丈のジーンズ。綺麗なブロンドの髪をポニーテールにしていた。露出した白い柔肌が艶めかしい。
「なんというか……見舞い。そう、見舞いよ」
シルビィはブロンドの毛先をいじりながら思いついたように頷く。それでも理解できない伊織はますます呆れ顔になった。
「見舞いはありがたいんだけど、おれはもう大丈夫だし。あのときには治ってた気がするし」
「あのとき……そっか」
するとシルビィはぼんやりと呟き、頬を朱に染める。
彼女の反応に伊織もどぎまぎしてしまった。気持ちをまぎらわすため、さいばしでそうめんを掻き回す。
あのとき、伊織は他人の血を初めて飲んだ。吸血鬼にとって、死にそうな身体に人間の血は薬のように効き、受けた傷はすぐに治ったみたいだ。骨折も竜道寺の使い魔に治療してもらい、すぐに治った。医者いらずとは自分の身体が末恐ろしい。
しかし、行為に及んだ自分が今でも信じられない。だいたいどうして彼女が承諾したかもわかっていない。覚えているのは血をむさぼる自分だけだった。無論そんなことを聞く勇気は伊織にはない。
「か、感謝してるよ。おかげで元気だし。飲んだのは……ごめん」
この沈黙は良くない。伊織は鍋の中を見ながら言った。
シルビィがぐりんと勢いよくこちらに首を向けるのがわかった。視界の端が金色より赤色のほうが多かったのは気のせいではないと思う。
「あっ、あんなの……大したことないわ。あのときはどうしようもなかったし……その、だいたい、謝るのは私のほうだし……」
「……?」
尻すぼみになってぼそぼそ言うので、伊織は思わず顔を向けてしまった。しかし目が合うと、シルビィは我に返ったように、すぐに目を吊り上げて睨みつけてきた。
「仕方なくだからっ! ああでもしないと二人とも危なかったわよ。それに勝手に介入してきて怪我したのはあなただしお互い様よっ。だから謝ってほしくないわ」
「お、おう……」
いきなりまくし立てる彼女にたじろぐが、彼女の見解はどうでもよかった。伊織は肩をすくめて笑う。
「まぁ、今も元気でいるんだし。ユーグネーも今まで通りだしさ」
「えっ? あ、うん」
シルビィは意表を突かれたようで頷き、首からぶら下がる銀のロザリオに触れた。
あの魔族はあの場所で即座に竜道寺に滅された。男は最後まで不気味に微笑み、消えていった。しかし殺人事件の方はどうなるのか、と竜道寺に聞いたところ笑ってごまかされた。その笑みが恐ろしく聞けていない。この前被疑者が逮捕されたと報道されたが、疑問は深まるばかりだった。
シルビィもエクソシストとして今後もやっていくらしい。
竜道寺の話によると、あの魔族はシルビィが所属する教会が処罰すべき対象だったらしく、竜道寺の口八丁と厚かましい性格が功を奏したか、シルビィは処分を受けなかった。余談だが、竜道寺は教会に恩着せがましく迷惑料を請求したらしい。どこまで腹黒い男か。
そしてシルビィは当分日本に滞在する様子。
「……だからって人ん家にいるか? 普通」
コンロの火を消して、伊織はぼやく。聞いたシルビィが慌てた様子で彼を覗き込んだ。
「わ、悪いのっ?」
「いや悪くないけど、なんでいるの? せっかくだから観光して来いよ」
「観光……。あなたが案内してくれる?」
「は? なんでおれが。こんな暑い日に外行くって……おまえ、おれに死ねって言ってる?」
「そんなつもりないわ。どうしてそんな考えになるの」
「吸血鬼的見解」
シンクにザルを置いてお湯を流し込んだ。不満げな顔をするシルビィだが、伊織にとって、いや吸血鬼にとって夏は不倶戴天の敵と言っていい。
「夏は涼しい部屋で静かに時を経つのを待つもんなの。優子さんみたいに」
顎で優子を指す。彼女はソファに転がって気だるそうにテレビを見ていた。
シルビィは呆れた様子でため息を一つ。
「……冬眠みたい」
「夏眠って呼ぶか?」
笑って相槌を打ったら優子がソファ越しに振り返っていた。ジト目で不機嫌なおかげか顔つきも怖い。伊織は引きつった顔をした。
「なんすか」
「無性に腹立つ。フラれた私に嫌がらせ? 殺すぞ伊織」
「はぁっ?」
わけのわからない宣告に奇声を上げた。そんな伊織に構わず優子はシルビィを睨む。
「あんたも、掌ひっくり返して伊織にベタベタして。吊り橋効果って知ってる? そういうの長続きしないわよ」
「べ、ベタベタなんか……」
「優子さん、機嫌悪いのわかりますけど八つ当たりはやめてください」
「はぁー? あんた本気で言ってるわけ?」
「しんどいからやめて……」
本当に機嫌の悪い優子を心底呆れ、手を動かす。氷のたくさん入れたボールでそうめんを冷やした。かき混ぜながらシルビィに言う。
「気にすんなよ。毎年あんなんだから、おれも似たようなもんだけど」
「別に。ヴァンパイアの嫌みをいちいち気にしていたらきりがないわ」
ふいっと顔を背けて早口に答える。彼女の性格上今にも食ってかかりそうだが、抑えたみたいだ。それがなんだか可愛げがあって伊織はくすりと笑った。
「ユーグネーが居たいなら、ウチに居たいならいいんじゃないの。優子さんも文句言ってないし」
言うと、シルビィはまた首をぐりんと回す。首を痛めないか不安になる動きだ。横目で彼女を見やると、眉をひそめて口元が何かに堪えるように歪んでいる。
「……変な顔」
「なっ! 失礼な!」
噛みつく彼女に笑う。
「なんでもいいわ。ユーグネー、皿取ってくんない?」
「名前」
「は?」
取ってくれなかった。シルビィはぷいっと顔を背けたまま動かない。伊織は不思議に思いつつ、棚に手を掛けようとしたらシルビィに手を掴まれた。ぎょっとして振り返ると彼女は顔をうつむかせて、艶のある桃色の唇が震えた。
「名前……。呼んでくれたら……と、取ってあげるわ」
か細い声で呟く。
伊織は意味がわからず、顔をしかめながら考えた末に口を開いた。
「…………ユーグネー」
「は?」
「え?」
「…………」
「……え、無言やめて」
何がそんなに気に食わなかったのか、シルビィは信じられないと言わんばかりに目を見開いた。
「なんで?」
「いや、こっちもなんで?」
なんでそんな正気を疑われるような眼差しで見られるのかわからない。伊織はますます首を捻り、固まるシルビィを放っておいて食器を取り出した。
「あんなのあんたら? やっぱり私にケンカ売ってる?」
いつの間にか側で冷蔵庫を漁っていた優子が怨念のこもった視線をぶつける。
「そういうのは余所でやれ。人ん家でイチャイチャするな。今から施行ね」
「何言って?」
「伊織」
声音が変わった。すっと手を伸ばされ、後ずさりするも棚に背をぶつける。優子の右手が真横を過ぎ、棚に触れて逃げられない形になった。目線はわずかに伊織のほうが上。自然と見下ろすと胸の谷間が目に入ってすぐさま目を逸らす。優子は切れ長の目を細めた。
「別にこの子がウチにいようが関係ないけどさ。面倒事起こさないでね? 前みたいなこと嫌だから」
「そ、それはもちろん。ここは優子さんの家だし」
刺激的な優子から目を泳がせて答える。視界の端でシルビィが目を丸くしていたが気にしていられなかった。
そしてついっとシルビィに冷たい視線を送る。
「トラブルメーカーのあんたも覚えときなさいよ」
「トラブルメーカー!? 私が?」
なぜかシルビィは声を上げた。何を仰天することがあるのか。
「当然でしょ。事件に巻き込んで伊織怪我させて、媚売って……挙句伊織の初めて奪っておいて」
「初めて……?」
「変な言い方するな!」
冷蔵庫から取り出しためんつゆを持って優子は興奮気味に続ける。
「私はヤれって言ったけどこんな生意気な子とヤれとは言ってないわ。もっとおしとやかで純真な子を汚して落とす思いでやってほしかったのに!」
「あんた、頭おかしいだろ!?」
優子は止まらない。人差し指でうりうりと伊織の頬をつつく。
「ほらほら。こんな子じゃなくてもっと、こう真面目な……誰かいないの」
「純真って……麻美さんみたいな人?」
指を払いつつ答えると、優子は馬鹿にしたように笑う。
「あんた、すぐ麻美ちゃんの名前出るわね、好きなの?」
「ち、違いますよっ」
「麻美ちゃんは素直だけど綾人くんが近くにいて、吸血鬼に対しての知識があるからダメよ。それにあの二人、もうヤッちゃってるでしょ。いろいろ」
「いろいろって……」
「残念だったね、伊織」
「もういいからっ。ごはん食べましょう」
ハッと鼻で笑う優子に腹が立ったが、暑くて拳を振り上げる気力もなかった。
ため息を吐き、伊織はキッチンの端で固まるシルビィに声を掛けた。
「気にすんな。別におれは……まぁ、トラブルメーカーとは思ってるけど」
「わかってる」
ふんと鼻を鳴らし、怒ったように腕を組む。
「嫌われるのは慣れてる。私は人外の天敵なんだから」
意地っ張りな彼女に伊織は肩をすくめて小さく笑った。
「おれは吸血鬼だけど。おれはユーグネーのこと嫌いじゃない」
シルビィがピクリと肩を揺らす。
「初めて吸血鬼ってバレたときは焦ったけど、ユーグネーもどっちかって言うと普通の人間じゃないし、近いじゃん」
「全然近くない」
睨み返された。鋭い視線に苦笑いを浮かべて伊織はあっさりと続ける。
「おれだっておまえだって、普通にしてたら普通の人間だろ。だったら普通に付き合っていけると思うんだけど……どう?」
「……」
シルビィはぱちぱちと目を瞬く。やがて目を逸らして頬を染めた。
「付き合う? い、いや待って、いきなり……」
いじいじと再び毛先をもてあそぶ。どこか嬉しそうな顔つきをする。反応がよくわからない。伊織は顔をしかめて、先に答えを出した。
「おれは仲良くしてくれたら嬉しい」
「へ?」
「エクソシストだって吸血鬼だって変わんないんだから、仲良くできんじゃねーの? おれはそう思うけど、おまえはどうなんだよ」
「そう、ね……」
喜んでいたと思ったら、今度はがっくりと肩を落とすシルビィ。女性は謎である。そしてその行動はNOと言う現れか。
伊織はがしがしと後頭部を掻いて小さく息を吐いた。
「ま、いいけど。なんとなくわかってたから。立場あるもんな。吸血鬼と仲良くしちゃあ駄目だよな」
「そ、それは違う!」
シルビィは慌てたように詰め寄る。勢いよく伊織の手を取り、必死にそうにこちらを見上げてきた。
困惑に揺れるエメラルド色の瞳。朱に染まる白い頬。小さく艶のある桃色の唇から吐息が漏れ、握られる手は温かく柔らかかった。
伊織はシルビィから目が離せなかった。
「わ、私もあなたと……。仲良くしたい」
「……じゃあ、友達になろ」
伊織は唾を飲み込んで、口を開いた。
それを見てシルビィは安心したように微笑み返した。
「うん。ありがとう、イオリ」
その輝く笑顔に胸が高鳴った。それは体験したことのない胸騒ぎだった。優子に見つめられるときは恐怖と不安しかなかったが、今は違う。
胸の中がもやもやとしてきて、なんだか幸せな気持ちになった。
「あ、今名前……」
「そ、それより! 私はそのソウメンなるパスタを食べたい」
ぎこちなく両足を動かしてリビングに向かうシルビィ。
伊織は彼女の真っ赤な耳を見て、素直に可愛いなと思った。
Fin.