Ⅶ
「…………」
制服が生暖かい赤色の液体に濡れ、胸元が重たくなる。目を落とすと黒髪のうなじが見えて、それが一瞬誰だかわからなかった。
「……ワタヌキ?」
か細い熱い息が胸にかかり、シルビィはわけがわからず首を振った。
「なんで……なんで! 私……!」
「まさか……いやはや、驚きですね」
滲む視界を上げると、面妖な男が血に塗れた左手を開いたり閉じたりさせて、こちらを見つめていた。
「ヴァンパイアがエクソシストを庇う。ニッポンとは不思議なところですね」
「貴様……」
「少し予定が狂いましたが、まぁ良いでしょう。どのみち吾輩も空腹で倒れそうだ、ニッポンのヴァンパイアも食べてみましょう」
舌なめずりをしてコツコツと革靴を鳴らす。シルビィはぎゅっと血塗れの伊織を抱き、逃げる手段を巡らせた。そのとき這わせる無事な左手に何かが当たった。転がっていた拳銃だ。
「まだっ」
構える。息を飲む男だがもう遅い。
「ぐおおおっ!」
照準をしっかり合わせなかったため、弾丸は男の脚を掠めるだけに終わる。だが銀の弾丸はアンデッドにとって大敵だ。肉も骨も焦がし、腐敗させていく。掠めただけでも幸運だった。男は焼ける脚を押さえ、跪いた。
その隙にシルビィは立ち上がる。ぼろぼろの身体を引きずって、瀕死の伊織を共にその場を後にする。
しかし手負いの男女で遠くへ逃げることも叶わない。建物の一階に降りて、最奥のコンテナの陰に隠れた。
こんなことをしても時間稼ぐにもならないのは重々承知だ。弾丸が掠めただけではあの男は殺せない。しっかりと心臓に撃ち込まねば。
弾丸はあと一発。骨折した右腕は使い物にならない。左手だけでちゃんと狙えるだろうか。
そして。
シルビィは側でコンテナにもたれかかる少年を見た。弱々しい息遣いが聞こえる。血塗れの彼は肉は再生しつつあるが、元通りにはならなってない。吸血鬼の再生能力が追いついていないのだろうか。
「どうして……」
シルビィは我慢できず口をつく。震える拳が拳銃を揺らし、怒るように吐き捨てた。
「私なんかどうでもいいのにっ」
「死んだら、意味ないじゃん」
伊織は目を上げた。コンタクトレンズが外れたのか、いつの間にか彼の瞳は紅く染まっていた。
霞む視界は心許ない。金色と白い肌と翡翠色が視界を彩るが、彼女の表情はまったく見えなかった。
「こんなこと言ったらあれだけど。せっかく生きてんだから、家族の分まで生きないと……優子さんも言ってたけど、物騒なことしないでさ」
「なんでっ……」
「おれだってわかんねーよ。でも……なんかさ、」
――ヒトとして何かできないかなって。
蒼白な顔色に驚きが乗る。シルビィは目を見開いて息を飲んだ。
この吸血鬼は頭がおかしいのではないか。魔族が人間に肩入れするなんて聞いたことも見たこと無い。他人のことを心配できるような男でもないのに。極東産まれの吸血鬼はどこまで馬鹿で人が良いのだ。
「おれ、死ぬのかな……」
呟きに我に返る。
生きている方が不思議だろうか。人間ならとっくの昔に死んでいる。口の中一杯に広がる鉄の味に、伊織は自嘲気味な笑みを浮かべ、虚ろな目でコンクリートを見つめる。
「嫌だな、死ぬの……。やっぱ優子さんの言う通りだったかも……関わると碌なことねぇ」
「もういいからっ!」
シルビィは叫んだ。彼の頬に手を当ててこちらに顔を向けさせた。その顔は五年前の、父親の死に顔と重なった。
「おい、しっかりしろ! 私の前で死ぬなっ。……嫌、死ぬところなんて見たくない! あんなことは、もう……! 誰か助けて……!」
「血が、欲しい」
「え……?」
それは、吸血鬼の本能的な呟きだったのだろう。
シルビィは涙を止め、茫然と伊織を見つめた。そして自分の掌に凝視した。
「…………」
何を考えているんだ。自分の考えは突拍子も無く、聖職者としてあるまじき行為だ。そんなことをすれば自分はエクソシストとしての名誉も矜持も捨てることになる。正直、狂っていると言っていい。
でも。
彼を死なすことは、見捨てることは自分のプライドが許さなかった。
シルビィはごくりと唾を飲み込み、シャツのボタンを握る。
「ワ、ワタヌキ」
緊張に震えた声。ヴァンパイア――それも異性に肌を曝すなど恥ずかしくて死ねる。
「ち、血が欲しいなら……私ので、よかったら」
「あぁ?」
伊織は声に反応する。シャツのボタンを外す彼女に紅い目を剥いた。
「おま……っ。何してんだよっ……」
「だって……苦しそうだから」
「ふざけんなっ、血なんてっ」
伊織は必死に首を振った。
今まで他人の身体から直接、血を飲むことはなかった、いやできなかった。いつも優子の血を容器に移して飲んでいた。
ただただ、怖かった。もし吸血鬼の本能のままに血を飲んだら、自分はヒトではなくなるのでないかと。優子が普通に血を飲んでいるのを見ると吐き気がしていた。そんな人間離れした行為を自ら起こす勇気がなかったのだ。
彼女は答えず顔を背けたままシャツを肌蹴させた。
うっすらと浮き出る鎖骨と綺麗な首筋に、伊織は目を奪われた。
「っ……」
唾液が溢れる。彼女との距離など無いに等しい。目の前で首元を曝し出す美少女は現実で夢ではない。
紅い瞳が興奮し切ったように煌々と輝く。鼻息が荒くなり、口が半開きになって犬歯が覗く。おもむろに動く両腕を抑えることはできなかった。
目をぎゅっと瞑り、肌を曝した彼女は倒錯めいていてなんとも煽情的で。
もう、止められない。
伊織は爪を立てて彼女の肩に触れ、彼女の襟元を乱暴に引き剥がし、白い肌を外気に晒した。恐怖に顔を歪める彼女のことなど見ていない。
「あ……っ」
そして伊織は刃のように尖った歯を首筋に突き立てた。
小さな悲鳴が耳に届いた。が、構う必要なんて無いと思った。
一心不乱に、むさぼる。
傷つけたところに舌を這わせ、彼女から溢れる鮮血を飲む。
「すげぇ……甘い」
「んっ……!」
ぎゅっと強く彼女を抱き、牙を立てる。
この蜜のように甘美なものは本当に血液なのだろうか。こんなに美味しい飲料物を伊織は知らない。この高揚感、幸福感は脳まで溶かされる気がする。
そう感じる自分は狂っているだろうか。
いや……。
今は否定しよう。
これが吸血鬼なのだと。
「はぁ……。直接飲むと全然違う。優子さんの言ってること合ってる……」
「あっ……、舌っ……喋ん……ッ!」
何か言っているが知ったことではない。伊織は喉を鳴らして流れる血を飲み干した。
やがて、伊織の口がシルビィのうなじから離れた。
「はぁ、はぁ……っ」
シルビィは苦しげに息を吐き、地面に横たわった。脂汗で髪が額に貼りついており、肌蹴たシャツを胸元に寄せて霞んだ目を動かした。そしたら伊織がすくっと立ち上がり、まじまじと自分の両手を見つめていた。
「なんか、すげぇ……」
「ワタヌキ……?」
楽しそうに瞳を輝かせ、徐々に笑顔になっていく。
「ごめんシルビィ。おれ、今すげぇ吸血鬼感あるわ」
「意味が、わからない……」
血を吸っておいて何を言うか。しかし今のシルビィは拳の一つも振るうことができないくらい消耗していた。血液は吸われた側の体力を奪うのか。それとも聖職者と相性が悪いのか。
舌足らずに言うと伊織は膝をつき、シルビィの頬を柔らかく撫でた。
「ありがとうシルビィ。おれ、今ならなんでもやれる気がする。おまえを助けるからな、心配すんな」
「性格変わってる……?」
頭が痛くて考える余裕もないが、今の伊織は気持ち悪かった。
「――見つけたぞッ!」
そのとき、前方にあったコンテナが吹き飛んだ。
埃が舞う中、長身の男が現れた。右腕が欠落し、足を引きずっている。怒り一色の表情で伊織たちを睨みつけていた。
「手こずらせましたね……。今度こそ終わりにしましょう」
「やってみろよ」
伊織が気丈に答えた。落ちている鉄パイプを持って、男に突きつける。彼は紅い瞳を鋭く細める。
「知ってるか? 四月朔日って武門らしいぜ。だったらおれにだってできるかもな。戦闘」
「君、怪我をして頭がおかしくなりましたか?」
男は伊織を指差し、睥睨する。
「ニッポンのヴァンパイア、しかも十代の若輩者。そんな君が吾輩に勝てるとでも思っているのか?」
「やってみなきゃ、わかんねーだろっ」
鉄パイプを握り締め駆け出した。全力で男へと走り抜け、伊織は勢いよく鉄パイプを振りかぶる。しかし男は易々と鉄パイプを受け止め、握り潰した。
「ナンセンス!」
直角に折れ込む鉄パイプ。伊織は驚愕して手を離したが、遅い。男の鉄拳が脇腹を抉った。
一瞬呼吸が止まり、あっさり伊織は地面に投げ出され、硬いコンクリートに背中を打ちつけた。
「いってぇ~……」
肋骨が何本か逝ったような気がした。
のたうつ伊織に男が容赦なく追撃を加える。顔面に降る革靴をかろうじて避け、地面を転がった。視線を戻すと、男の足元がコンクリートにめり込んでいた。それを見て、伊織は青ざめた。
「ヤベ……」
「ワタヌキ! これを使え!」
シルビィの声に首を向けると彼女は銀色の拳銃をこちらに投げ渡していた。これにも驚愕した伊織は慌てふためいて拳銃をキャッチする。
「あっぶねーだろこれ! 暴発とかしたら……」
「いいから撃て!!」
「――させません」
降ってくる声。振り返ると同時に伊織の側頭部に蹴りが直撃した。
吹き飛ぶ伊織は地面を舐めさせられ、手にしていた拳銃も取り落とした。立ち上がろうとして男に襟首を掴まれ、背中を叩きつけられ仰向けに寝かされる。そのまま首を掴まれ、締め上げられた。
紅い眼がギラギラと伊織を睨めつける。
「さっさと終わらせる。このまま首をへし折ってやりますよ」
「ぐ……あっ」
「ワタヌキ!!」
万事休す。
拳銃は彼方に転がっている。シルビィの罵るような悲鳴が聞こえるが、応えることはできない。この状況から抜け出すことは不可能であった。
伊織は覚悟した。
そのとき――。
「“血よ。私に従いなさい”」
「“縛――剣山、獄”!」
赤い光線が伊織を掴む男の腕を吹き飛ばし、男の足下には白と黒の法陣が出現し、瞬時に男を無数の直刀で突き刺した。
「ギャアアアッ!!」
刃に拘束された男が悲鳴を上げ、血潮を散らした。
投げらされた伊織は強かに頭を打ち、頬を打つ血に我に返った。
「――伊織っ!」
「え……?」
唐突に抱きすくめられる。それが優子だとわかるまで数瞬掛かった。伊織は呆けて優子を目に入れた。
「え? 優子さん? ……どうして」
「バカ伊織!」
優子の怒鳴る声に首を縮めた。優子は伊織と同じ紅い瞳を潤ませ、怒ったように柳眉をひそめている。
「何してんよの……私言ったよね? 関わるなって。また怪我して……」
「え、いや、これは……」
「うるさいっ」
遮られてぎゅっと背中に腕を回される。苦しくて息が詰まったが優子は離してくれなかった。優子は伊織の肩に顔を埋めて呟く。
「約束ぐらい守りなさい馬鹿。……心配したんだから」
「優子さん……。ごめんなさい」
そんな優子を見て、戸惑って、伊織は素直に謝った。
「間に合ったな。善哉善哉」
「りゅ、竜道寺さん……?」
優子に拘束されまま顔を上げると、竜道寺錬がこちらを見下ろしていた。いつものスーツではなく、黒い束帯を身につけていた。黒い袍を着て同色の冠を戴き、腰からは平緒を垂らし太刀を佩く。平安時代の貴族みたいな恰好だ。ただし眼鏡は掛けていて、手には五芒星の紙片が握られていた。
「伊織君は無事か。ま、死ぬとは思っていなかったが」
竜道寺はフッと笑みを浮かべて、串刺しになっている男に目を向けた。地面の方陣から現れているのは茎剥き出しの無数の直刀。その刃は赤くしとどに濡れている。男は這う体勢で両腕を失い、顎下から伸びる刀に口と右目を潰され、なんとも恐ろしい姿だった。男はひゅうひゅうと風の抜けるような息を漏らす。
「あなたは……何者ですか?」
「答える必要は無い。お前は後だ」
すげなくそう言い捨て、屋内の端にへたり込むシルビィを見やった。竜道寺はにこりと感情の乏しい顔を緩めた。
「シルビィ・ユーグネー、大義であった。おかげで悪鬼を捕えることができた。怪我をしているらしいな。――“みな、手当してやれ”」
『はい、旦那様』
竜道寺がピッと紙片を弾くと煙を吹き、現れるのは和服姿の女性だった。艶やかな黒髪を左の耳下でまとめて流して肩に垂らし、三白眼で右目の下に鱗のような痣が特徴だ。伊織は彼女を知っている。確かシロヘビのあやかしだった。
彼女は主とは正反対のにこにこした笑顔でシルビィに寄り添い、右腕に触れて淡い光を放つ。何をしているのかわからないが、シルビィの顔色はさっきより良くなった。
「少しは加減できないわけ?」
「ん?」
そんな光景を見ていると優子が竜道寺を睨んでいた。視線を受けた彼は何のことかわからないように肩をすくめるだけ。それに優子は顔を厳しくし、伊織の背中をぽんぽん叩いた。
「伊織まで磔にしようとしたでしょ? 伊織に何かあったら承知しないから」
「そんなつもりはなかったが……申し訳なかった。しかし優子さん、あなたも存外に甥思いですね。こういうのはなんと言うのだ? ブラザーコンプレックスか?」
「その口、上下に斬り裂くわよ」
「おお、怖い怖い」
そんな気持ちがあるのかわからないぐらいフランクに言う。
二人に苦笑しつつ、優子さんから半歩ほど距離を置く。こう密着が続くといろいろなところが当たってどきまぎしてしまう。
伊織はぼろぼろで血塗れのTシャツを見下ろした。
「おれ、何やってんだろ……」
覚えているが、あの化け物に立ち向かった自分が信じられなかった。無謀にもほどがあるだろう。普通のニンゲンがやることではない。
深々とため息を吐くと、優しい表情をする優子が頭を撫でてきた。
「な、なんすか」
突然でびっくりしてしまう。恥ずかしくて優子の手を退けようとするも優子はしつこく撫でてくる。いつになく優しい顔をするから余計恐い。
「ちょ、やめてくださいっ」
「何よ、心配してきてやったのに」
「ありがとうございます。だから撫でないでください」
「素直じゃないなぁ、このこの」
「だからやめて……」
『ちょっとあなたっ!』
それは竜道寺の使い魔の声。みなと呼ばれる女性のものだった。振り返るとシルビィが真っ直ぐと磔にされた男に歩み寄り、いつの間に拾ったのだろう、銀色の拳銃を手にしていた。
「この五年……ずっと待っていた」
拳銃を構え、シルビィは涙を流しながらしかし笑って言う。
「やっと、やっと! この手で……! 父さん、やったよ私……」
「やめろユーグネー」
伊織は止めに入った。脇腹が死にそうに痛いが、どうにか歩いてシルビィに立ち塞がった。
シルビィは嫌悪に顔を歪め、彼に怒鳴る。
「退け! 私はこいつを殺すんだ!」
「もういいだろ? もう終わったんだから、おまえだって……」
「そうよ、あとは始末するだけよ! だったら誰が殺そうと関係ないでしょ!」
「それは違うな。シルビィ・ユーグネー君」
竜道寺が答えた。眼鏡を中指で修正してこちらを冷たく眺める。シルビィが睨み返すが竜道寺は動じず続けた。
「ここは日本国だ。日本で起こった怪異は日本で祓うのが道理だろう。他国の祓い屋が干渉するなど越権行為ではないか?」
「何?」
「まさか治外法権でも主張する気か? そこの悪鬼が西洋産だからか? 何百年前の話をするつもりだ? 偉ぶってもらっては困る。日本の事例はこちらに任せてもらいたい」
威圧的な物言いにシルビィは黙り込んだ。ここぞとばかりに竜道寺は口をつく。
「それに君も本国に、勝手な行動をしたと報告されるのは困るだろ? ――少々調べさせてもらったぞ」
竜道寺は袖から新しい紙片を取り出し、それに何か呟くとポンと小さく分厚い本が現れた。パラパラと項を繰り、話し出す。
「君は今、教会で破門されかけているな?」
「……」
息を飲むのが伝わった。伊織はちらりと彼女の横顔を眺める。
「理由は読まなくても想像がついた。悪鬼に対しての過激な言動は快く思われていないのだろう。組織では協調性は大事だからな。家族を亡くしたのはわかるが、それとこれとは別だ」
竜道寺は本を閉じて、みなに顎をしゃくって命じた。
「波風は立てない方が良いだろう? ここは大人しく治療を受けてくれ」
しずしずと、みなが歩み寄るがシルビィは拳銃を下ろさなかった。
「罷免されるならそれでいいですよ」
吐き捨て、撃鉄を起こした。
「私は敵を討てるならそれでいい! 後のことなんてどうでもいいわよッ!」
「そっ、そんなこと言うなよ!!」
伊織は怒鳴った。響く声に一同が目を見張る。首を戻したシルビィが一番驚いて硬直していた。伊織は彼女に近づき、拳銃が握られる左手の指を一本一本ほどいていく。
「どうでもよくないだろ。家族の敵を討って人生が終わるはずないし、家族だっておまえに生きてほしいだろうし……どうでもよくないって」
「……」
拳銃を彼女の小さな手から取り出し、伊織は天井に向けて引き金を引いた。音が反響して耳がイカれるかと思ったが大丈夫みたいだった。これで弾は使いきった。こんな物騒なものは怖くて持っていられない。伊織はすぐに打ち捨てて、ズボンのポケットに手を突っ込んだ。
「お父さんだってエクソシストだったんだろ。今のユーグネーがあるのはお父さんのおかげじゃんか。そんな簡単に捨てちゃ駄目だと思う。――ほら」
チャリ、と銀細工の鎖が鳴る。シルビィはハッと息を飲み、潤んだ瞳に涙をいっぱい溜めた。
伊織が持っているのは銀のロザリオ。シルビィが大切にしているロザリオ。父の形見だ。
「……」
「さっき拾っておいた。大切なもんだろ」
「ワタヌキっ、ありがとう……」
シルビィは受け取り、胸元でロザリオを抱いた。伊織は頬を緩める。
「ユーグネーは、がんばったって」
「え?」
「だからさ、もうやめよ。一生懸命ここまで来たんだから。無理に敵討たなくても、たぶんみんな見てると思う。ユーグネーのがんばってるところ」
「ガンバッた……」
知らない言葉のようにシルビィは呟き、エメラルド色の瞳をキラキラと潤ませ、目尻に溜めた涙はついに溢れた。
「私、がんばった?」
「うん」
止めどなく流れる涙。鼻声になってシルビィは思いを吐き出すように続ける。
「私はずっと父さんのために……。だけど間違ってるんじゃないかって」
「うん」
「でも魔族は嫌いだ、絶対に許せないっ。だから、だから……っ」
「うん」
「ワタヌキ、」
シルビィは涙でくしゃくしゃになった顔を上げて、伊織を見つめた。
「私は誇らしい? がんばった?」
「うん。ユーグネーはすごいよ」
伊織は笑うと、ユーグネーは伊織の胸に飛び込んで声を上げて泣いた。びっくり仰天する伊織だが、諦めたように腰を下ろして、ぽんぽんと彼女の背中を優しく撫でてやった。