Ⅲ
「ど、毒とか入ってないだろうな……?」
「入ってるわけないだろ。おれも優子さんも食べるのに」
テーブルに置かれるのは三人分のしょうが焼き。いつも二人しかいないテーブルは一人でも増えるとなんだか暖かく感じた。
メインのしょうが焼きと冷蔵庫に余っていた野菜で炒め物、味噌汁はインスタントだが出来栄えは上々である。
伊織は食器を並べながら訝しい目つきをするシルビィを見た。
「せっかく三人分作ったんだから食べろよな、もったいない」
「むー……」
シルビィは睨むように目の前に並べられたしょうが焼きをじっと見つめる。すると隣に座る優子が上機嫌に箸を持ち上げた。
「伊織は料理上手よ。良いお嫁さんになるわね」
「なんでお嫁さん……まぁ、優子さんよりは上手いって言え……イテッ」
小突かれた。怖いからこれ以上は言わない。頭を撫でながら、まだしょうが焼きとにらめっこしているシルビィは眉根を寄せてぼそぼそと呟いた。
「これを口にしたら絶対に篭絡される」
「まぁ、当たらずとも遠からずってところかもな」
伊織は肩をすくめ、既に夕飯を食べる優子をちらりと見た。伊織の発言にシルビィはがばっと顔を上げて目を丸くしたかと思えば、キッと表情を厳しくした。
「やっぱり、おまえたちは……」
「いいから食べろよ。口に合わなかったら仕方ないけど、腹減ってるだろ」
彼女の扱いに面倒くさくなった伊織はいただきますをして、自分も料理に箸をつく。しかしシルビィは聞き捨てならないと言ったふうに立ち上がった。
「私はおまえたちの施しなど!」
そのときシルビィのお腹が鳴った。
「あ……?」
これには伊織と優子も手を止めてシルビィを見上げた。
「…………」
シルビィの顔はみるみるうちに赤くなっていく。やがて、すとんと力なく椅子に尻を落とした。ぷるぷる震える両肩とうつむかせた頭。流れた金髪の合間から見える耳はゆでだこのようだった。
伊織は笑みが零れた。
「早く食べろよ……。あ、箸使えるのか?」
「馬鹿にするな! それぐらいできるっ!」
シルビィは絶叫し箸を使って、ぱくっと野菜炒めを口に放り込んだ。
「…………お、おいしい」
その不服そうな呟きを伊織は聞き逃さなかった。
***
「――で。説明してもらおうかしら?」
食後、優子がお酒の入ったグラスを片手に言った。
伊織は食器をゆすいで食洗機にセットしながらリビングを覗くと、優子の向かいに座っているシルビィがなぜか椅子に拘束されていた。危うく食器を落としかける中、シルビィの戸惑いの声が耳に届く。
「待って、その前に……こ、これは何……?」
彼女の体に何重にも巻きつくのは細い紅色の糸、恐らく優子の血液を固めた物だ。優子は自分の血液を自由自在に操ることができる。優子に聞けば血液の凝固作用を利用しており、吸血鬼全般の能力かは知らないらしいが四月朔日の人間は可能であるらしい。元々、四月朔日家が武門だからと言う理由もあるらしい。誰かの話によれば幕末の動乱期には大活躍し、一気に明治維新の功労者に数えられたらしい。ちなみに伊織はやったことがないので何とも言えない。だいたいその能力を日常で使う機会が無い。
シルビィは困惑した様子で身じろぎを繰り返す。彼女を苦しめない程度に巻いた糸は胸部が強調されて、伊織としては目のやり場に困った。……前傾になるのはやめてほしい。
「食い逃げ防止よ」
しかし優子はいけしゃあしゃあと言い、グラスを呷った。どこか楽しそうなのは気のせいか。
「食べて、はいさよならなんて通用しないわよ。私はあなたに遠慮する理由がないもの」
口の端を上げてニッコリと微笑む。
「ほら早く言いなさい、伊織を襲った理由。あとちゃんと謝って……ね?」
「う、うう……」
もはや抵抗の意志を示せないシルビィは怯えきってびくびくと震えている。夕飯前のシルビィの言葉は優子の加虐心を煽ったのか、容赦がなかった。伊織は素早く食洗機のスイッチを入れて、リビングに戻った。
「優子さん、あんまり怖がらせちゃあ」
「はぁ? 被害者のあんたがそんなんで良いの? もっと責めてなじって痛めつけて、二度と逆らわないよう服従させる気持ちでやらないと」
「それ冗談ですよね?」
「この子の態度次第ね」
「やめてくださいよほんと……」
頭を抱えながら優子の隣に座り、拘束させたシルビィに話しかけた。
「怪我させられたのは事実だから……。まぁ、その……昼間聞いたことだけどさ」
それについて許したわけではないが、今気になったのは違うことだった。
「魔族とか、そんなに嫌いなのか?」
「……」
質問にシルビィは目を見開いて硬直した。そして顔をうつむかせて、ぽつぽつと話し出した。
「私の家族は魔族に殺された」
鋭く吐き捨てられる言葉に心臓が鷲掴みしたような悪寒を覚えた。隣で優子がわかっていたように小さく息を吐く。
それに気づくことなくシルビィは続ける。
「父も母も姉も、みんな……。一瞬で何もかも無くなった、父や祖父が積み上げてきたユーグネー家の威光も権威もすべて。……絶対に許さない……私はどんな手を使ってでも、家族を食ったアイツを探し出して、この手で殺す」
シルビィは顔を上げた。涙に濡れた瞳が執念に満ち溢れ、爛々と輝いていた。
「……」
伊織はその視線に慄き、生唾を飲み込んだ。
「――復讐なんてやめときなさい」
優子が口を開き、じっとシルビィを見つめる。
「悪魔祓いなら覚悟していたはずよ」
「何……?」
「私が言えることじゃないけど魔族もピンからキリ。いろんな奴がいて、人間を食う化け物もいる。人に化けてね。正直、今もそんな奴がいるほうが驚いたけど……。それでも、あなたのお父さんもエクソシストだったなら、いつかそんな化け物と戦って命を落とす……それぐらいわかっていたはずよ」
いつになく冷静で冷たい表情をした彼女は淡々としていた。その態度が逆鱗に触れたか、シルビィは金切り声で怒鳴った。
「ふざけるなッ、だったら母さんは! お姉ちゃんは!? 家にまで襲撃してきて仕方ないで終わらせるなんてみんな頭がおかしい!! 魔族なんて人を食うことしか考えてない獣だ! 殺して何が悪い!!」
「あのね……」
優子はこめかみを揉みつつ、眉間にしわを寄せた。優子が爆発しないように伊織は声を掛けつつ、憎悪一色のシルビィを目にやる。
彼女の憎悪はかなり根深い。もはや理屈でどうこうできるものではないのだ。彼女はきっとその魔族を殺すまで誰の話も耳を貸さないのだろう。
ふと、伊織は閃いた。
「なぁ、日本に来たのはまさか……」
言い終わる前にシルビィは口元を歪める。
「そうよ。ソイツが今、ニッポンにいるわ」
「マジか……」
そんな危険人物がのさばる世界など考えられないが、あり得ないことはあり得ない。吸血鬼もエクソシストも存在するのだから。
頭を抱える伊織をそっちのけでシルビィは笑いながら言う。
「手掛かりはあるわ。今、殺人事件が起こっているでしょ」
「あ? あー、殺人……?」
「先月からの連続殺人事件ね」
「あー、それっすか……」
今、世間で話題になっているひとつに事件だ。現在で四人が犠牲になっていて性別年齢問わずに犯行を繰り返し、どの遺体も五体欠損が激しくバラバラで見つかっている。その猟奇的な殺害に世間を騒がしている。
優子がお酒を飲んでから続けた。
「確かにイカれた事件だけど、魔族が犯人って確証は?」
「一度事件現場に行って感じたの。魔族の汚らわしい気配を」
シルビィが怖い顔をして自信ありげに答えると、優子は思案顔を見せて頷く。
「エクソシストが言うならそうかもね……」
そして苦々しく呟く。
「だったら、あの男もいるかも」
「あ、竜道寺さんのことですか」
「誰?」
伊織がいち早く反応し、シルビィが小首を捻った。
優子の顔は苦り切っている。たぶん伊織も眉間にしわが寄っているに違いない。そんな二人にしびれを切らしたようにシルビィはガタガタと自分の縛る椅子を揺らしていた。
「……ヨーロッパにあなたみたいな胡散臭い奴らがいるなら、日本にも胡散臭い輩がいるのよ」
しばらくして優子が苦虫を噛み潰したような顔つきで言う。口にするだけでもおぞましいらしい。まぁ、わからないわけでもない。
「私たちと同じ悪魔祓いなの……?」
「陰陽師って知ってるか?」
そんな優子に変わって伊織が変わって訊き返す。
「聞いたことあるわ。ニッポンの悪魔祓い師ねっ」
シルビィの表情が若干明るくなった。縛られた状態でテーブルに乗り出す。……前傾姿勢はやめろ。目立つから。
「その竜道寺さんっていう人の職業はそれで、表向きは警官ってことになってるけど」
「魔族関係ならあいつも顔出してる可能性が高いわ」
竜道寺錬は優子の古い知り合いで伊織とも交流があった。彼は陰陽師の系譜の人間で、四月朔日家の事情も知っており、人ならざる者のことに詳しい。警察官という立場も利用して、かなりの情報通であり妖怪の類に対して容赦のない人物だ。ちなみに優子は相当彼が嫌いのようで、伊織も苦手とする人だった。
「警察官でありオンミョウジでもある……正義を貫く勇ましい人ね」
目を輝かせて言うシルビィに伊織はげんなりする。
「おい、そんなヒーローみたいな人じゃないから。ただの変人だから」
「伊織に同意。あんな奴の血、死んでも飲みたくないわ。絶対に不味いから」
吸血鬼的に考える優子にもげんなりするが、シルビィはそれすら聞いておらずこちらへ話し掛けた。
「あなたたち、その人と知り合いなのね。だったら紹介してほしい」
「嫌よ。なんであんなキモイ奴と顔合わせないといけないわけ?」
即答する優子は機嫌の悪さも増して威圧的に言い捨てる。
「それに言ったわよね私。復讐なんて何にもならないわ。その魔族を殺して親が生き返るわけもないし」
「なんだと?」
ガタッと椅子を鳴らしてシルビィは怒鳴る。
「私の行いは善だ! 悪を討ち果たして、仇を討って何がいけないんだ!」
「そういう、自分は善って考え方がほんと嫌い。馬鹿じゃないの、世界の中心は自分だとでも思ってんの?」
「魔族の分際で偉そうに!」
「ガキの分際で偉そうね?」
罵り合い、バチバチと火花を散らし睨み合う二人。
伊織は呆然と二人を見つめていたが、このままでは話が進まない。とりあえず深呼吸をしてぐっと両手をテーブルにつく。意を決して、伊織は二人の間に入った。
「あ、あのっ、落ち着いて――」
「伊織は黙ってて!」
「おまえは黙ってろ!」
「…………ハイ」
拒絶のハーモニーに、伊織の心は完全に折れた。
やっぱり怖い。女性は恐い。こんな針のむしろのような場所でじっとはしていられない。テレビでも見るか、と逃避をして立ち上がったとき、優子に手首を掴まれた。恐怖に喉の詰まったような声を上げて振り返ると、優子が厳しい目線を向けていた。
「あんただって迷惑でしょ? はっきり言ってやりなさい。ていうか怪我の慰謝料請求しないと」
「……お金の話ですか」
席を外そうとしたお咎めがないことに安堵した。しかし手は離してくれない。何か言わないとあとでひどい目に会わされることは確か。伊織は顔を歪めて、向かいのシルビィを見やった。
「怪我……そうか、私」
すると彼女はしおらしくぼそぼそと呟く。会って初めて、遠慮気味に目を伏せる彼女に伊織は言葉を失い、首筋に手を当てる。
「別に、怪我のことはもういいからさ……」
目を逸らして言う。視界の端でシルビィが顔を上げた。それが気恥ずかしくて口を動かした。
「復讐とかよくわかんないけど……おまえの家族が大事って言うのはわかる気がする」
「……」
「おれも親、いないしさ」
ぱちぱちと目を瞬くシルビィ。呆けた顔つきがなんだか可愛らしかった。すると横から盛大なため息が聞こえた。
「……あんた、父親いるでしょ」
冷静なツッコミをありがたく受け取り、伊織は咳払いを一つしてぼーっとするシルビィに続けた。
「母さんはおれが生まれてすぐ死んだから……母さんがいた記憶は本当にないんだ。父親は放任で放浪癖があって小さい頃から一人でいることが多かったから、一人っていうのが慣れちゃったけどさ」
「まぁ、確かにね……」
すると優子がコトリとグラスを置いた。
「美夏さんは、兄さんの放浪癖を抑えてたってところはあるわ」
物憂げに見える視線はグラスに付着した水滴に注がれていた。そんな優子が珍しく、どんな気持ちなのか聞いてみたくなった。が、伊織は気を取り直してシルビィに目を戻して、微苦笑を浮かべた。
「ひとりぼっちなのは寂しいし辛いし……。ユーグネーはもっとそうだと思うし。上手く言えないけど……だからさ、おれはそういうのはわかる気がするんだ」
「ワタヌキ……」
涙に濡れる瞳がこちらを捉える。綺麗な翡翠色が今にも溢れそうな涙をせき止めていた。頬に一筋の線が伝ったとき、シルビィは我に返ったように頭を振ってうつむかせ、すぐに顔を上げた。
「慰めなんていらないわっ」
さっきの涙目が嘘のように消え、怖い顔に戻っていた。キッと睨む彼女に伊織は怯えて、口を噤んだ。
代わりに口を開くのは優子だった。
「家族のことは今はいいから。ともかく、私たちはあんたに協力しない。面倒事に自分から首突っ込む馬鹿はいないわよ。今回はそれで不問にしてあげる、感謝なさい」
「ぐ……」
シルビィは呻き優子を睨むが、優子はニヤリと口元を歪めて意地悪く笑った。
「それが嫌なら、私の食料になってもらおうかしら」
「なっ……」
「優子さん!?」
目を剥く伊織とシルビィを尻目に優子はますます笑みを深める。彼女の瞳の色彩が変化し始めた。
「私、聖職者の血は飲んだことないの。なんなら伊織の初めての相手をやらしてもいいけど一応同姓だもの、そこらへんは考慮してあげるわ」
その鋭い視線は吸血鬼の能力を使っていた。やはり歴然とした力の差はあるようで、シルビィは視線に拘束され、浅い呼吸を何度も繰り返していた。
「――ほら。選びなさい」
悠然と優子はテーブルに乗り出し、しなやかな指先をシルビィの細い顎に添えた。
耳元で甘く囁く。
「貴女の血はどんな味なのかしら。聖職者だからさぞや高貴な味なのかしらね? すごく、楽しみ……ぞくぞくするわ」
「あああああああああ!!」
結果、シルビィは壊れた。
絶叫した彼女は急にまばゆい光を放ち、身体を拘束していた血の糸を粉々にする。その後の彼女の行動は速かった。ロザリオを伊織と優子にかざして、こちらの視覚が麻痺しているうちに、脱兎の如く逃走した。
玄関のドアがけたたましい音を立てたとき、二人の目はやっと回復しつつあった。
「痛……、何すんだよあいつ……ッ」
椅子にもたれて、伊織は側頭部を押さえながら呻く。
「あぁっ、もう少しで落とせたのに……あの子のプライドが許さなかったみたいね……」
目の前で光を受けた優子は辛そうな顔をしつつも、その台詞は甚だおかしかった。痛みで腹が立っていた伊織は優子にきつく当たる。
「何言ってるんですか! 自分が何したかわかってんですか!?」
「怒鳴らないで、頭に響く……」
「おれだって怒鳴りたくて怒鳴って……痛ッ」
今の光は吸血鬼にとってよくなかったものらしい。目はしょぼしょぼするし、頭は金槌で打ちつけられたように痛む。
「優子さんのせいですからねっ」
「ごめんって~……」
素直に謝るところ、優子も相当効いているらしい。よろよろと這ってソファの肘掛けにもたれて、ぐてっと今にも死にそうな顔をしていた。
「失敗した……今度はっ、もっと上手く落とすから……」
「もう、いいですから……」
力無くそう答え、伊織はフローリングに転がった。
碌なことない。
天井を見上げて思う。
自分は吸血鬼だけど平穏無事に生きたいだけなのに、どうして辛い思いをしなければならないのだ。普通に学校に通って働いて、いつか結婚して歳を取っていく。吸血鬼は普通の人間の人生を歩んではいけないのか?
「そんなの、不公平だ……!」
そう吐き捨て、伊織は意識を手放した。
* * *
今夜は地上を嘲笑うかのような薄い三日月が天に上っている。
解体中のビルの一角。眼下の敷地内には重機がいくつか眠るように鎮座していた。
「――良い夜です」
笑い声が屋内に響く。
夏も差し迫ったこの季節にフロックコートを羽織り、山高帽を被った三十前後の男。彫りの深い顔立ちで上背がある。重ねられた材木に腰を下ろし、真っ赤に染まった白い手袋を外してから鼻先の丸眼鏡を中指で押し上げた。ガラス越しに覗く瞳は気味の悪いほどに、濃い真紅に輝いている。
「日本人は、中々に美味ですね」
目の前にあるのは血の池。
ビルの中は血の臭いで溢れていた。
そこに沈むのは確か若い女性だったはず。年齢は知らない。美味しそうだと思って適当に攫ってきたから。
もごもごと口を動かす男は白く硬い物体を吐き出した。
骨は食べない主義だ。
「男の引き締まった肉とご婦人の甘い肉……。嗚呼、どちらも非常に捨てがたい」
足を組み直して、不気味に笑みを零す。だがすぐに顔を引き締めてため息を一つ。
「しかし、ジャパニーズも飽きましたね」
血溜まりに浮かぶバラバラになった物を見下ろす。
これで五人目。性別年齢問わず食ってきたが飽きはすぐにやってきた。次はどんなニンゲンを食べようか、と膝をとんとんと叩いて考える。そして閃いた。
「ニッポンには吾輩のような存在がたくさんいると言う……」
口の端を吊り上げて、側に立て掛けているステッキを手に立ち上がった。
「次は、同族狩りと行きましょうか。……うん、素晴らしい! 実に素晴らしい! それでいきましょう」
嬉々としてステッキを回して、真新しい白手袋をポケットから取り出した。男は綺麗に磨き上げた革靴を血で汚さないよう、踊るように床を歩いていく。
その足取りは軽やかで、男は紅い眼を愉快そうに細めた。