Ⅱ
あくる日。伊織は憂鬱な気分で登校にした。無論普段から毎日学校に行くことなど憂鬱で仕方ないのだが、今日はより一層である。
昨日、転校生のエクソシストに襲われたのだ。エクソシストなんて初めて遭遇したし、突然襲撃させるなんて思いもよらなかった。彼女の様子からして吸血鬼並びすべての人外は悪だと思っている節があった。優子に相談するも学校は行けと問答無用で追い出され、伊織は心底滅入っていた。いつにも増してのろのろと自転車を漕いで始業時間ギリギリに教室へ入った。するとどうだろう、彼女は欠席となっていた。
意気消沈したまま、昼休みとなった。
購買でいくつかパンを見繕って、伊織は階段を上がっていく。
普段、伊織は屋上で昼食をとっている。素性柄、小さい頃からあまり人間と深く関わることはしなかった。クラスに口を利く相手はいるが、その人の知っている情報は名前だけだというのが多い。
たぶん、これからもそうやって生きているのだろう。
屋上の入り口は物置状態で机と椅子がたくさん積まれている。伊織はそれをすり抜け、中等部の頃に壊した鍵を外して、重たいドアを開けた。
空気が押し出され、伊織の前髪を揺らす。梅雨明けも間近の空は青々と輝き、まさに雲一つ無い空であった。
伊織は高い空を見上げて頬を緩めた。
――落ち着く。
はっと息を吐き、ドア際の日陰に腰を下ろした。買ってきたクリームパンの包装を開けようとしたとき。
「一人なの。寂しいわね、ヴァンパイア」
声に驚き、振り仰いだ。太陽が視界に入って目を細めた先、梯子を上った先にある給水塔。その手前で足を組んで座っている。
影だけで誰かわかった伊織は瞳が零れるくらい目を見開き、クリームパンを落とした。
「う、わ……」
エメラルド色の瞳がこちらを見下ろしている。
ブロンドの髪が揺らし、シルビィ・ユーグネーは昨日と変わらない冷徹な表情をしていた。
「あなた、酷い顔してるわ」
「……だ、だだっ、誰のせいだと、思ってんだよっ」
彼女は小さく首を曲げて呑気に言う。
震える唇を無理やり動かして、舌足らずに叫ぶとシルビィは立ち上がった。ふわりとスカートが翻って、健康的な白い太腿とその奥のピンク色の布が目に入った。
首を真横に逸らし、伊織は気持ちを落ち着かせる。そして今はそんなことに構っている暇はないと言い聞かせた。相手は払魔師と称し、魔族の類を嫌う人間なのだ。警鐘のように鳴り響く心臓を落ち着かせるため、深呼吸をした。
「お、俺に何か用なのか?」
顔を明後日の方向に向けたまま訊く。するとシルビィは顔を強張らせ、ゆっくりと目を伏せた。白く小さな手が胸元にぶら下がる銀のロザリオに触れた。
「ええ、そうね」
肯定にごくりと息を飲む。
伊織は慌てて、手汗のひどい手を屋上のドアに掛けようと伸ばした。
「この学校には魔族の人もいる」
「は?」
頭上から降った呟きに足が止まる。シルビィは悔しそうに顔をしかめて、こちらに飛び降りた。
純粋な疑問が先についた伊織は呆然と、すとんと軽やかに降り立つシルビィは見つめていた。厳しく細められた瞳とぶつかった。
「……」
シルビィは一瞥をくれたまま動かない。だけど彼女の突き刺すような視線に伊織は目を逸らした。シルビィは唇を噛み、拳をぐっと握った。
「あなたをやればいろいろと問題が出るって……さっきひどく叱られた」
「はい?」
伊織は首を捻る。誰に叱られたのかと一瞬考えたがそれは置いておき、学校内に伊織のような存在がいることに驚いた。
「おれみたいなのが、他にもいるってこと?」
「そうでなければあなたはこの学校にいないわ」
吐き捨てるように言い、あたりを見渡す。
「ずっと感じるもの、肌を刺すような不快な感覚……」
「そうか……」
誰だろうか? 教師だろうか、生徒だろうか、もしかしたらクラスメイトかもしれない。いや、よく考えると目の前にいる女子生徒も不思議な存在だ。
それはさておき、シルビィは問題があると言った。つまりそれは伊織と事を構えられないと捉えていいだろう。
伊織はほっとして、そして呆れたように肩をすくめた。
「そりゃ、そうだろうな。おれはただの高校生だし……殺したらダメだよな」
「おまえは魔族だ」
間髪容れずにシルビィは返してきた。鋭い視線に伊織はたじろぐ。
「人に害をもたらす魔族や、意思疎通のできない魔族を滅することがエクソシストの職務なのか? それだけが私の任務なのか? ……そんなの、間違ってる。魔族なんかこの世に必要ない、すべて死滅させるべきだ」
「いやっ、おかしいだろ」
暴言を吐き捨てる彼女に伊織は口を挟んだ。
「おれは吸血鬼だけど、魔族のことよくわかんねーけど……、みんなこの世に存在して生きてるんだし、認められてる。差別なんてするもんじゃ――うッ!?」
そのときまばゆい光が視界を覆い、銀光が頬を掠めた。
たたらを踏んだ伊織は腰を抜かし、頬から流れる血をなぞった。
「貴様が……魔族が言うことかッ」
見上げるとシルビィが銀色に輝く剣を手に、声を震わせていた。
翡翠色の瞳が烈火のような激情を露にし、端正な顔を歪めている。
それは昨日と同じ表情だった。
憤怒、憎悪、怨嗟……さまざまな負の感情が入り混じるそれ。彼女はどうしてそんな顔をするのだろうか。
「なんで、」
理由もなく、理不尽に殺されるなんてごめんだ。伊織は己と知らずに口をついた。
「……そんなに嫌いなんだ?」
「っ……」
その質問にシルビィは驚いたように目を見開き、やがて唇を噛みしめて踵を返した。
「貴様に教える義理はないッ。魔族め」
そう言い捨てて、シルビィは立ち去った。
伊織はしばし、ぼんやりとドアを見つめていたが、脱力したようにずるずると腰を下ろす。両手を地面につけて、青い空を仰いだ。
「はあ、助かった……」
深々と安堵の息を吐く。
とりあえずひとまずは安心していいはずだ。彼女の言動には注意しないといけないと思うが。命のやり取りなど人生で経験したくもなかった。これからはこんなことにならないように願いたい。絶対に関わりを持たないようにしなければ。
「おれは、ただの高校生だったつの……」
そう、自分はただのニンゲンなのだから。
* * *
無事に何事もなく放課後を迎えた。ちなみに昼休みからシルビィの姿は見られなかった。
伊織はそそくさと学校を後にする。今日は優子も早く帰ってくると連絡があったので、夕飯の用意をしなければならない。
伊織は家事の大概を負担している。優子が家事に疎いと言う理由もあるが、居候させてもらっている身としてはこれぐらいのことはやらないと思うわけである。
「――あっ、伊織、おかえりー」
時刻は六時前。この季節になればこの時間帯でもまだ明るかった。スーパーに寄った帰り、駅前を通ったところで優子とばったり出会った。伊織は自転車を止める。
「優子さん。今日は……早いですね」
ひらひらと手を振る彼女に伊織はため息交じりに言う。
「いやー、残業めんどくさいから後輩くんに頼んじゃった♪」
「あんたって人は……」
今、口説いている男性だろう。その人も不憫である。優子にとって、その人はただの食料なのに。
「そんなことしてたら後々大変なんじゃないですか?」
鞄を持てと命じてくる彼女に渋々手を差し出しつつ、伊織は呆れて言う。しかし優子はあっけらんとして、妖しく微笑む。
「私が下手を打つと思う? 今回は長く続きそうなのよね、味見したら美味しかったし。それに伊織が高校卒業したら違うとこ務めるから。大学生なったら出てってね」
「それはもちろん」
「うんうん。伊織は良い子良い子」
頷くと優子はくすりと笑った。
子供のような笑顔に伊織は固まる。昔から顔かたちも体つきもまったく変わらない優子は本当に実年齢が不明である。今のような可愛らしい一面もあれば、クールな大人の女性の一面も垣間見られる。もともと吸血鬼は人間よりも長寿らしいが、優子以外の吸血鬼をあまり知らない伊織にはよくわからなかった。父親とは年に数回しか会わないし。
「伊織ー、ごはん早くー」
「あ、待ってください」
軽やかにヒールを鳴らす優子を追いかける。からからと自転車を押して、隣に並ぶと優子は何か考えるように顎に指先を当て始め、きょろきょろとあたりを見渡した。
「どうかしたんですか?」
「ちょっと、ね……」
「え?」
駅前の人ごみの中、優子は立ち止まる。思わず伊織も足を止めた。道を妨げる二人に通行人が不愉快そうに顔をしかめているが、優子は気にしていなかった。彼女はたくさんの人が流れる道の、ある一点を見つめ続けている。
伊織は慌てて優子に言った。
「あの、通行の邪魔だから端っこにいきましょ」
「ねぇ、伊織、」
「だから話するなら歩くか端に寄るかして……」
「しっ」
優子は人差し指を伊織の唇に押し当てて黙らせた。びっくりして目を瞬くと、優子は漆黒の瞳を一瞬だけ鮮やかな血の色に変えて、伊織に告げた。
「尾行けられてるわ」
「はい?」
突拍子もない言葉に伊織は声を上げる。
「つけられるって、尾行されてるんですか? 誰に?」
「それはわかんない。でもさっきまで感じなかったから、尾行けられてるのはあんただと思う」
「おれ? なんで……」
考えてふと答えに辿り着く。はっとして優子を見ると、彼女も思いついた様子でこちらを見つめていた。
「伊織、エクソシストに会ったって言ったわね?」
「はい。そいつ、かなり魔族とかが嫌いみたいで」
「まったく厄介なことね……」
「すいません、連れてきちゃって」
謝ると優子は肩をすくめた。
「別にいいわよ。こんなの慣れっこだし……あっ、あんたは初めてか」
それに苦笑いを浮かべると優子は歩き出した。伊織もすぐに踵を返し、小声で優子に訊いた。
「ほっとくんですか?」
「ええ。いきなり襲ってきたりしないだろうし、」
「それは……どうなんだ……?」
伊織は昨日のことを思い出して首を捻ると、優子は嘆息した。
「馬鹿なの。こんなところで争う勇気がある人なの? もしかしてかなりの手練れ?」
「おれと同い年ですけど……そういうのはわかんないです」
「まぁ、いいわ。捕まえるから」
「えっ?」
住宅街に入った。優子は人通りの少ない道を歩き、自宅へ向かう。
「どうせなら家で尋問してもいいわね」
「……家の中で何するつもりですか」
忠告するが優子は笑みをおさめなかった。
「そう言えば、女の子って言ったわよね?」
「そうですけど」
「なら捕まえるべきね」
ニヤニヤと含み笑いを浮かべる彼女を不快に思うが反論できなかった。優子は振り返り、橙色と藍色に混ざる空を見上げる。
「もう陽も暮れるし、ちょっとぐらい暴れてもいいかしらね」
「は? 優子さん何言って……」
「そろそろ出てきたらどう? ストーカーさん」
厳しく目を細める優子は路地の角を見つめて言った。伊織もじっと角を見つめるが、何も感じない。身の危険を感じたときは肌を刺すようなピリッとした感覚を覚えるが今はそれすら無い。優子と自分は何が違うのか。やっぱり年紀だろうか。
「伊織、覚えてなさい。あとで一滴残らず搾り取ってあげるから」
「はぁ!? なんで!?」
ジトリとこちらを睨む優子に戦慄する。怯える伊織をそっちのけで優子は眉間にしわを刻み、道路を睨み続ける。
「……おまえもヴァンパイアなのね」
ややあって現れる人は、やはり予想通りの少女だった。制服姿のシルビィ・ユーグネーは氷のように冷たい表情で優子を睨んだ。すると優子は感心したように伊織に一瞥をくれた。
「本当に女の子なんだ……珍しい」
伊織が答える前に優子は視線をシルビィに戻し、口元だけに笑みを作った。
「お名前は何て言うのかしら?」
「魔族に名乗る名は持ち合わせていない」
シルビィはそう切り捨て、胸元に光るロザリオを握り締めた。その動きに優子は呆れたように笑った。
「何かするつもりでしょうけど、やめなさい。ここがどこかわかってる?」
人影は一つもないが、ここは住宅街の真ん中である。優子は携帯電話を取り出してふらふらと揺らして見せる。
「電話したら警察も来るのよ。私は暴漢に襲われたか弱き美女。魔族? エクソシスト? 警察からしてみれば何それって感じかしら」
「……」
「それに聖職者なんだから、物騒なことはしないほうがいいんじゃないの?」
「黙れ魔族」
シルビィはロザリオを心臓に近いところに持つ。暗く濁った、翡翠色の瞳は無情の色を示す。目にわかるように殺気立つ彼女に伊織はたじろいだ。
「私の責務は魔族を葬ること」
ロザリオは輝き、光の粒子となる。それは収束し、伸長し、鋭く尖り、徐々に形を形成していき、具現する。ロザリオはあっという間に銀色に輝く刺突剣に変わった。
突然現れた刃物に伊織は目を剥く。昨日と今日の昼に怪我をさせられた相手はあれだろう。
今度こそ殺される。そう直感するもどうすればいいかわからず、優子に視線をやると彼女は心底呆れた様子だった。優子は肩にかかる髪を乱暴に払って、ぼやいた。
「だから、危ないって」
呟きは風に変わった。
カッ、とヒールがアスファルトを叩いた音が聞こえたが、伊織の目には何も映っていなかった。側で起こった突風に目を細める中、伊織は次の光景に目を見張った。
「――はい、捕まえた」
「へっ?」
可愛らしい悲鳴を上げるのはシルビィだった。彼女の背後にはいつの間にか優子がいて、彼女の腕を取っていた。レイピアが乾いた音を立てて地面に落ちる。優子は表情を変えないまま、シルビィを見下ろした。
「物騒なこと、しないほうがいいでしょ?」
「くっ、離せ! 化け物!」
「ちょっと黙ってなさい」
声を荒らげる優子はシルビィをブロック塀に押しつけた。背中を打つシルビィは顔をしかめ、しかし力強く優子を睨み続けた。
その視線に優子はため息を吐く。
「私も伊織も悪いことしてないわよ。ごく普通に平凡に生きてるだけなんだけど。あなたみたいな人と関わったこともないわ」
「魔族は悪だ! 駆除して何が悪い?」
シルビィは怒鳴り散らし、拘束を逃れようとするが優子がそれを許さない。そして優子の表情が険しくなった。
「おまえたちなんかこの世にいらない! どうしておまえたちみたいなのがこの世に居るんだ……取るに足らない、どうでもいい存在なのにっ」
「――”血よ。私に従いなさい”」
「優子さん!!」
その宣言は危険なものだった。伊織が止めに入る暇も無く、優子は自分の人差し指の腹を浅く噛み、血を流す。途端に優子の血液は意思を持ったようにうねり、瞬く間に鋭利な紅い結晶体を形成させた。
優子は襟元を掴んで、紅く細い棒状のものをシルビィの喉元にあてがう。
「ッ……!」
これには押し黙るシルビィに、優子は冷徹な視線を投げかける。その瞳の色彩が徐々に真紅の色に変化していった。
「何度言わせる気? 私は聖職者相手でも関係ないから……。こっちは甥っ子が怪我させられてんの。下手に出てるからって舐めてもらっちゃ困るのよ。それになに? 吸血鬼が絶対悪みたいな言い方。ふざけてるよね? それ」
「ちょっ、優子さんっ、これ以上は駄目ですよ!」
慌てて間に入ると優子はこちらに視線を投げかけ、やがて深くため息を吐いてシルビィから手を離した。それでも腑に落ちない顔つきをする彼女に伊織は叱責する。
「落ち着いてください。大事になったらどうするんですかっ!」
「わかった、わかったから。落ち着いたわよ……」
「もう……」
適当にあしらう優子に落胆の息を吐いて、伊織は地面に座り込んで咳き込む彼女を見つめた。
「で、その子名前なんて言うの?」
「確か、シルビィ・ユーグネーだったはず」
横から冷たい質問を受けて答える。優子はふむと考え込み、すぐに諦めた。
「ユーグネーなんて知らない名前だわ。まぁ、欧州の教会なんてまったく知らないけど」
優子は棒状の紅い結晶を霧散させてから、シルビィに向かいあった。
「あなたのこと、少し教えてほしいわね……」
見上げるシルビィは苦しそうに、そして怯えたように端正な顔を曇らせている。だが、口を開く様子はなかった。黙りこくる彼女に埒が明かないと思ったか、優子は髪を掻き上げながら、伊織に言った。
「ねえ、今日のごはんはなに?」
「は? ……え、えっと、ブタ肉が安かったんで、しょうが焼きにしよっかなって……」
突然の質問に驚いたが、優子の無言の圧力と威圧的な視線に訊き返す勇気も無く、尻すぼみに答えた。すると優子は気の抜けた笑顔を浮かべた。
「お腹空いたし帰りましょ。もちろんこの子も連れて帰るから」
「……この子に何する気ですか」
「だからもう怒ってないって言ってるでしょ。何よ、疑り深いわね……そりゃあ腹立たしいけど」
確かにシルビィの言動には腹の立つことばかりだが、警察沙汰なんてもっと面倒くさいのだ。伊織は何度目かわからないため息を吐いて、腕時計を見やる。
「でも、今から作ると夕飯遅くなりますよ」
「いいわよ別に。今日は、伊織のごはんが食べたいわ」
「そ、そうですか」
綺麗な笑顔でそんなことを言わないでほしい。なぜかどぎまぎする自分を叱りつつ、優子から目を逸らした。そんな優子はすぐに笑顔を消して、シルビィに手を伸ばして立ち上がらせる。
「ウチに連行。話はそれからね。あと、伊織を怪我させたのと、私を罵倒したことを謝ってほしいわ」
「私が従うとでも」
「あなたを、味見しても良いのよ?」
ペロリと舌なめずりする優子にぞくりと背筋が凍った。
「それに伊織のごはん美味しいから」
「……飯で釣るんですかっ?」
「連れて行くわよちゃんと」
冗談に聞こえない台詞を吐いて優子はシルビィの手を握って無理やり立ち上がらせた。それからシルビィに笑う。
「仲良くしましょうね、聖職者さん」
妖しく黒い笑顔だったが。