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その血は甘く、切なく  作者: ハクトウワシのモモちゃん
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 夏ほど、忌々しい存在は無いと思っている。

 日中の気温は日に日に高くなっていき、ときおり吹く風も湿っぽく、生温い。暑さのおかげかアスファルトに陽炎まで見える。セミも耳障りだ。そしてなにより……。

 四月朔日(わたぬき)伊織(いおり)は雲一つない空を仰いだ。

 照りつける太陽。燦々と輝くそいつは見上げるこちらを嘲笑うかのように光線を放っている。

 伊織は額に手をかざして、目つきを厳しくした。

「今日は……確実に死ぬ……」

 深々とため息をき、カーテンを閉めた。リビングにあるテレビではちょうど天気予報をしており、今日は一段と気温が高いらしい。熱中症に注意しましょう、と天気予報士のお姉さんが言っている。

 それを耳に入れつつ、伊織はテーブルに腰を下ろし朝食を摂る。

 きつね色に焼けた食パンを齧って、再びため息。

「朝から辛気臭い顔しないの」

 すると声とともにリビングのドアが開いた。入ってきたのは、パンツスーツをかっちりと着た二十代の茶髪の女性。彼女を見て、伊織は眉をひそめた。

優子(ゆうこ)さんは辛くないんですか」

 同居人の四月朔日優子は伊織の叔母にあたる。このマンションの一室は彼女のもので、現在伊織は居候の身であった。

 優子はこちらを見下ろしたままにっこりと笑った。

「まあ日本は昔から暑いし、確かに最近は異様だけど」

「やっぱり長生きすると耐性がつい――ッテ!」

 伊織の言葉は優子の鉄拳により遮られた。

「女性の前で年齢の話するもんじゃないわよ?」

 握り拳をつくる彼女は笑ったままだった。……正直怖い。伊織は慌てて弁明した。

「今のは流れでそうなるでしょ。俺まだ十七で、優子さん――痛ッ!」

「蘇生ってヤツを体験してみる?」

 瞬間、彼女の瞳が漆黒からルビー色に染まり、ぷっくりとした唇から尖った犬歯がちろりと覗いた。

 ぞくっと背筋が凍った。

「結構ですすみませんもう言いません誓います」

 にへらと愛想笑いを浮かべ、早口で言う。すると優子は不機嫌そうに鼻を鳴らした。

「まったく、そういうところほんと兄さんにそっくりだわ。……かなりムカつく」

「親子だから仕方ないと思うけど、あんな親と一緒にされたくない……」

 ぶつくさ文句を言いながら、朝食のパンを口に放りこんだ。

 父親はプロの写真家だ。今は世界を旅しているため実家にはいない。母親は伊織の幼い時に亡くなったため、だから伊織は優子の住まいにいる。ここからなら学校も近いという理由もあるが。

 息子を置いて仕事半分観光半分の父親に、伊織はともかく優子はいい迷惑だろう。

 まだ眉をひそめる優子は胡乱な目つきで伊織を見ていたが、何か思いついたようで伊織に顔を近づけた。

 耳元で甘く囁く。

「ちょっと、補給させなさいよ」

「は? いや、ちょっ……何言って」

 発言に驚いた伊織は思わず椅子から腰を浮かした。しかし優子は両肩に手を置いて伊織を拘束し、蠱惑的に笑む。再び目の光彩が妖しく光り出し、瞳は真っ赤に染まる。

「いつも吸わせてるでしょ? 私だって渇くのよ」

 ふっと耳元で息を吹きかけられ、理性が飛ぶかと思った。が、伊織は誘惑に負けないように唇を強く噛み、優子を落ち着かせようとする。

「まだ朝だし、優子さん会社……」

「空腹が時間を選ぶと思ってるの? ……まだ時間もあるし、往生際が悪いわよ伊織っ」

「うわ……ッ」

 ガタンと椅子が倒れてテーブルの端にあった食器も床に落ちる。伊織はそのまま床に背中を打ち、痛みに顔をしかめたとき胸元が重くなった。

 伊織に跨る優子は恍惚とした表情を浮かべて、しなやかな指先で口元を撫でた。

「ふふっ。ぞくぞくするっ」

 ここまでくると、もう止めることはできない。優子は愉快そうに舌なめずりして、顔を近づけて伊織の耳朶をぺろりと舐める。

「っ……」

「いただきます♪」

 首筋に突き立てられる犬歯。肌に穴が開いてじわりと血が溢れ出す。流血と痛みを感じるのは一瞬だけ。すぐさま押し寄せるのは不思議な浮遊感と安らぎ。ぞわぞわと肌が粟立ち、ふわふわと思考がおぼろげになる。この感覚は何度か経験しているが一向に慣れなかった。

「んっ……は……っ」

 優子の熱い吐息が当たり身じろぐが、優子は離してくれない。流れる鮮血を一滴残さず飲み干した。

「……はぁ、ごちそうさま」

 満足したのか、優子は傷口をぺろりと舐めてやっと顔を上げた。

 伊織はハッと荒い息をく。

「ゆっ、優子さん……。ひどい、です……」

 霞んだ視界で見上げると優子は立ち上がってスーツを整え始めた。

「なに乙女みたいな顔してんのよ。別に減るもんじゃないでしょ」

「そういう問題じゃあ……、いきなりなんて……っ」

「だからあんたは乙女か。まぁ、伊織の血は美味しいからね」

「……血に美味いとか不味いとかあるんですか」

 ずきずきと痛む頭を押さえながらあぐらをかいて呻く。

「そうねえ……。異性の血は甘いって感じるわ。若いとなおさら」

 ニヤリと口の端を上げる彼女はまさに捕食者であった。

「伊織は私の血、美味しいと思わないわけ?」

「そんなこと思って飲んだことない」

 すると優子は呆れたように肩をすくめた。

「そんなんだから童貞なのよ」

「なっ……!」

 暴言に目を剥くが優子は気にも止めない。

「私たちはニンゲンの血を飲んでナンボのものよ。私たちのは応急措置のようなもの。同族同士で血は求めないものなの」

 今のは非常時と言っていいのだろうか? くちばしを入れると厄介だと思い黙っていた。

「だからさっさとヤっちゃいなさい。ヒトとね」

 優子はピシッと伊織の鼻先に指を差して言う。いつの間にか瞳の色は元に戻っていた。

吸血鬼わたしたちって、そういうものよ」

「……」

「あっ、そろそろ行かなくちゃ。ちゃんと学校行くのよ。あと、戸締りもよろしくね」

 一方的に告げる優子を見送り、伊織は嘆息した。


 世の中には“人ならざる者”が存在する。

 魔族や妖怪、それらの血族たちは太古の昔から連綿と血を繋ぎ、現在も人間社会に溶け込んでひっそりと生きている。

 四月朔日一族もそのひとつ。吸血鬼の血族である。

 日本には四百年ほど前から吸血鬼の存在が確認されたと言われている。たくさんの神や妖怪がいる日本にとって、白い髪に紅い瞳を持つ人外が加わったところで何ら影響はなかった。現在も、吸血鬼の中には堂々と人間世界に生きている者はいる。優子もそれに該当する。

 しかし吸血鬼は不死身ではない。欠落した四肢は戻らないし、心臓を貫いたら死ぬ。首を刎ねたら確実だ。寿命もしっかりとある。ただ、怪我の治りは異様に早い。相当の深手でない限り、血はすぐに止まり、肉は再生し、骨は接着する。気味の悪い体質だが、日常で重傷を負うこともないから伊織自身も気にしていない。

 まあ、ごく普通の現代人である伊織には関係のないことであり、正体を隠さずに生きるなんてできない。

 優子を見送ったあと、伊織は洗面所に向かった。

 鏡に映るのは平凡な黒髪の少年が映っている。だが、その瞳は血のようにあかく染まっている。伊織は洗面台に手をついて毒づく。

「くそ。こんな日に学校なんて死ねって言ってるもんだろ」

 十七歳の伊織は当たり前のように高校生である。

 吸血鬼は太陽の光に弱い。物語のように光線で灰になるとか大袈裟なことではないが、日光に弱いのは事実だ。ちなみに十字架やニンニクは効かない。だから吸血鬼にとって、夏という季節は大敵である。多分これは、吸血鬼全般に言えることなので自分だけではないと思いたい。

 だけど成績は良くないし、なにより出席回数がヤバい。

 ため息をきつつ、コンタクトレンズを手に取って両眼につけた。すると彼の瞳は黒く塗りつぶされた。

 正体を隠す理由は特にないが幼い頃からの習慣だった。だから伊織を吸血鬼だと知っているのはごく一部だけだ。

 伊織は浅く息をいた。

「今日も頑張りますか」

 まだ、朝の八時前なのに太陽は燦燦と輝いている。ぐぬぬと唇を噛み締めて、自転車にまたがった。学校まで自転車で二十分弱。いつものようにのろのろと自転車をこいでいく。河川敷沿いに走りながら生温い風を受けて、呻いた。

「うー、暑い……」

 本当に、夏というものは忌々しい。


 伊織の通う学校は幼稚園から大学まである大きな私立(わたくしりつ)だった。高等部からは留学制度なども充実しているがどのみち伊織には興味のないので関係ない。それなりにやっていれば内部進学できるのだから。

 伊織は登校時間ギリギリで通用門を抜けて自転車を止めに行く。そしたら駐輪場には人影があった。この時間帯に人がいるのは珍しい。その影は何も持たないで駐輪場を行ったり来たりしていた。

 伊織が不思議に思いながらも自転車を押していく。

 それは女子生徒だった。長袖の白シャツに、チェックのプリーツスカート。伊織の学校の制服だ。そしてなにより伊織が目を奪われたのはその横顔だ。

 櫛目の通った綺麗なブロンドの髪。二重でぱっちりとしたエメラルド色の瞳。出るところは出て、引っ込むところは引っ込んだスタイル。色白で日本人ではない容姿に、伊織は硬直した。

 そのとき、彼女が伊織を振り返った。

「あっ……」

 漏れる吐息。凝視していたのがバレたのか、彼女はやや吊り上がった目を細めた。

「やっ……そ、その」

 視線にたじろいで顔を逸らしたとき、少女が硬い表情のままおもむろにこちらへ歩を進めてきた。

「やっ! 見てたのは悪かったっ! やましいことは無いって言えないけど……!」

「そんなこと、どうでもいい」

 彼女は伊織の弁解を躊躇なく切り捨てる。意外にも達者な日本語に伊織は驚いて首を戻した。

「……」

 じっと見上げてくる碧い瞳。

 伊織はこくりと喉を鳴らして、少女の端麗な顔立ちを見つめていた。

「……やっぱり」

 少女は小さく呟き、艶のある小さな口を開き、ますます表情を厳しくして言い放った。

「あなた、ヴァンパイアね」

「…………はっ?」

 とんでもない言葉に伊織は目を瞬かせ、

「な、なに言ってんだよ……」

 そして焦った。

 伊織の正体を知る人間はほとんどいない。なのに目の前の美少女は初対面にも関わらず、言い当てたのだ。

 どこかであったのだろうか? いやそれでも自ら吸血鬼だと名乗ることは決してあり得ない。

 伊織は内心焦りながらも、笑って否定した。

「ヴァンパイアって血を吸うヤツ? そんなのいるわけないでしょ」

「いや、存在する。私にはわかる」

「あんた、頭おかしいだろ。病院でも行ったら?」

 断言する彼女に伊織は苛立ちを募らせ、自転車を押して彼女を退かせようとした。

「認めないの?」

 冷淡な瞳が伊織を射抜く。伊織は無視を決め込んで、自転車のスタンドを音を立たせて下ろした。

「付き合ってられない。つーか遅刻しそうだし……そういうのはまた今度な」

 早口に言うと伊織は逃げるように昇降口へ向かった。

「そう……。なら、また今度ね」

 それを少女は追わない。澄んだ青色の瞳を伊織の背中を向けるだけだった。ややあって、彼女は伊織が乗っていた自転車を目に留めた。前輪の泥除けには彼のフルネームが書かれている。しかし彼女は眉根を寄せて、首を捻った。

「シガツ? ……Avril(アリブール)? 意味がわからない……」

 胸元のロザリオを握り締めて。


 ***


 伊織は開いた口が塞がらなかった。

「――シルビィ・ユーグネーと言う。日本語は普通にできるから……よろしく」

 朝のSHR(ショートホームルーム)。教師が連れてきたのは金髪碧眼の美少女。それは間違いなく、さきほど駐輪場で会った彼女であった。

「ウチは海外の学校と提携して留学をしているだろ。この時期には珍しいがユーグネーさんは留学生という形だ」

「しばらくは、日本にいます」

「というわけだ、仲良くしろよ。えっと、席は……あぁ、ワタヌキの隣が空いてるな」

 唖然としていると担任が話をまとめてしまった。向かってくるシルビィ・ユーグネーに慌てた。凛とした綺麗な表情を崩さず彼女は伊織に訊ねる。

「よろしく。あなたは」

「あ、えっ……四月朔日」

「ワタ……?」

「四月の朔日って書いて全部で『わたぬき』って読むんだ……」

「そう、ワタヌキ……。不思議な名前ね」

 シルビィは神妙な顔つきをしたあと、くすりと笑った。まるで今朝の会話など記憶にないように自然と言葉を交わす彼女。

 伊織は意味がわからなかったが、シルビィの笑顔に見惚れてしまったのは言うまでもない。


 それから、シルビィ・ユーグネーと名乗った少女は何も言ってこなかった。おかげで伊織はどぎまぎして彼女の一挙手一投足を意識してしまい、変質者のようだった。それでも彼女は気にしていない様子。隣の席のため、読めない漢字やわからない日本語をよく聞いてきた。だけど伊織は警戒しながらも教えてあげた。

 だって。

 女の子――外国人でしかも美人――に笑顔を向けられて不機嫌になる男などいない。

 そんな緊張を強いられて焦っているうちに放課後になってしまった。

 クラスメイトに手早く挨拶を済ませて、伊織は早足で帰宅の途につく。逃げるように校舎を出て駐輪場へ向かった。

 急いで自転車の鍵を外したとき、声を掛けられた。

「もう帰るの、ヴァンパイアさん」

「ッ!」

 ばっと振り返るとそこには美しい微笑みをたたえたシルビィ・ユーグネーが立っていた。その死神のように佇む姿に伊織は顔面蒼白となった。

「やっ、やっぱり、朝のこと覚えてたんだなっ!?」

「覚えてるも何も、別に私は記憶を改ざんしてないわ。ただ、あなたを観察していただけ。あと、話は今度……って、言ったのはあなたでしょ」

「あんなの、買い言葉に決まってんだろ」

「あなたがヴァンパイアなのは確定した。だったら私はあなたを滅するのみ」

「だからっ、違うって言ってんだろ!」

「黙れ」

 シルビィは伊織の言い分をぴしゃりとはねのけ、胸元にある銀のロザリオを握り締めた。

「正体を現せ、魔族よ」

「だから何のこと……ッ!?」

 口を開いた瞬間、銀光が頬を掠めた。伊織は足を滑らせて、地面に尻餅をつく。目を見開くこちらにシルビィはヒュンッと自分の手の内にあるものを振った。

 彼女は両刃の細剣を携えていた。部類で言えばレイピアだろうか。どこからそんなものを取り出したのかわからないが、彼女の手にあるものはまさしく真剣である。伊織は瞬時に、殺されると思った。

「ちょっと、待て……話し合おう」

「魔族と話し合う義務は無い。私の責務はあなたのようなヒトを滅すること」

「何言ってっかわかんねーよ! おまえ何者だよ!?」

 絶叫するこちらにシルビィはレイピアを構えながら片眉を上げた。

「知らない? どこまで世間知らずな魔族ね」

 シルビィは馬鹿にしたように笑って、剣先を下ろした。

「私はシルビィ・ユーグネー。神に仕える者」

「カミって……神様のこと?」

「東洋人は宗教に関心がなくて呆れるわ……。私はエクソシスト、日本語で言うところの悪魔祓いね」

「悪魔祓い……」

Oui(ウイ)、私の責務は人ならざる者を祓うこと。――ここまで言ったら、わかるわよね?」

 低い声音とともに、伊織の鼻先にレイピアの切っ先が落ちてきた。シルビィは射殺すような眼差しでこちらを見下ろす。

「ニッポンは魔族の類も、神も無駄に多い。つまり、魔族狩りの訓練ができる……こんなにも我々にとって良好な土地はないわ。魔族は人の世に災厄をもたらす、故に処分しなければならない。だから消えて」

「なっ……、ふざけんなよっ」

 高圧的な態度に伊織はとうとう口を開いた。漆黒の瞳がカラーコンタクトレンズの奥から真紅の色に染まり始める。

「吸血鬼がそんなに悪いのかよ。……俺は高校生で普通のニンゲンだ。何も悪さなんかしてない!」

 シルビィが翡翠色の瞳を厳しく細める。白刃の切っ先が小刻みに揺れて、彼女は感情を抑えるように低い声で言った。

「普通? ニンゲン? 何を勘違いしているの。あなたはヴァンパイア……人間の血を求めるモンスターよ」

「だからって罪もないヒト殺していいのか。エクソシストだかなんだか知らねーけど……そんなこと、あんたのカミサマは赦してくれるのかよ」

「なに」

 不快そうに眉を動かすシルビィ。

「自分はカミサマに護られてるから、なんでもしていいのか? 都合の良いカミサマもいるんだな」

「黙れ……ヴァンパイア」

「聖職者も欲まみれ……最低だな」

「黙れッ!!」

 シルビィはぶんとレイピアを横に薙ぎ払った。息を吐く暇もなく、突風が伊織を襲う。その細い剣身から放たれたとは思えない強風に、砂埃が舞い、数台の自転車が倒れて、トタンの屋根が音を立てて唸った。

 側にいた伊織も無事ではなかった。大気を斬り裂いた斬撃は、彼の左腕をぱっくりと割るように切れた。

「いってぇぇぇえええ!!」

 ごぽっと溢れる鮮血。伊織は絶叫してのたうち回る。吸血鬼の体質上、いくら怪我の治りが早くても、怪我をしたときの痛覚は人間と同じだ。

 伊織は真っ青な顔をして忙しなく呼吸をしているとき、シルビィは悲痛に顔を歪めて外国語で叫んだ。

「魔族は敵だ!! 私は絶対におまえたちを許さないッ!!」

「なに……言って……っ」

 激痛の中、血が止まり始めた。しかし伊織の意識は朦朧としており脂汗が止まらなかった。

 霞んだ視界の中で、彼女は泣いているように見えた。

「覚えていろ、私はいつでも見ているからな! 貴様は所詮魔族だ! いつ化けの皮が剥がれるか……血肉を食らう悪鬼がっ!」

 そのとき吸血鬼の聴覚が遠くから人の声を捉えた。さっきの突風に気づいて向かってくるようだ。血塗れの姿を見られるわけにはいかない。伊織はゆっくりと腰を上げてだらりと左腕を垂らした。

 シルビィも気づいたようでぐっと唇を噛んで駐輪場を離れていった。

「ッ……、いてて……勘弁してくれよ……」

 よろよろと立ち上がって伊織は自分の自転車を掴んだ。とぼとぼと退散する中、ハンドルを握る右手に目を向けると、血に汚れている。

 ふと伊織は、ぺろりと自分の血液を口に含んだ。

 たちまち、顔を渋る。

「やっぱ、不味いわ」


 * * *


『続いてはあの事件についてです。一人目の犠牲者が出て早く一ヶ月。現在も犯行は続いており、犯行の類似点から同一犯の可能性が高いと警察からの発表がありましたが――』

「ひどい目にあった……」

 伊織は這這の体で自宅へ逃げおおせ、適当に治療をした。優子の家には相応に医療道具がある。吸血鬼と人間は根本的なところが異なるのだから吸血鬼が人間の病院に行っても意味はなく、現在では吸血鬼専門の医者もいる。

 リビングのソファに寝っ転がる伊織。点けたテレビからは夕方のワイドショーが流れている。最近問題になっている連続殺人事件の話みたいだが、すべて耳をすり抜けていく。伊織は天井を見上げたまま、ぽけっと口を開けていた。

「……なんだったんだか」

 ややあって伊織は呟いた。

 彼女は自らをエクソシストと言った。伊織はエクソシストことを名前でしか聞いたことから何にも知らない。悪魔祓いなど物語の中だけだと思っていた。

 だけど……。

 ――貴様は魔族だ、……血肉を食らう悪鬼が!

「傷つくよなぁ……」

 腕を額に乗せてぼやく。

 あのとき、シルビィが発した言葉は理解できなかったが、罵倒されたことはわかった。

 吸血鬼と人間の違いなんてほとんどない。今まで正体を見破られたこともないし、普通に人間と接してきた。だから面と向かって、それを突きつけられるのは初めての体験であった。

「…………」

 そして、彼女の表情を思い出す。くしゃくしゃに歪んだそれはさまざまな感情が乗っていた。

「怒って……いや、泣いてたよな」

 ぽつりと呟いた。



「こら伊織、起きなさい」

「ん……ぁ……」

 瞼を上げて目に入ってきたのは、柳眉をひそめた優子の顔だった。いつの間にかリビングで眠ってしまったようで、窓の外は真っ暗だった。

 涎の垂れた口元を拭って上体を起こすと、優子が怒った口調で言う。

「あんたテレビぐらい消して寝なさいよ……もったいない」

「あっ……。てか、優子さんが帰ってるって……今何時……?」

「八時。今日は早く帰れたの」

「あー、そうなんですか」

 あくびを噛み殺しながら相槌を打つ。すると優子がキッチンへと向かっていた。

「伊織ー、ごはんはー?」

「作ってませんよ」

「はぁー? ふざけてんの?」

「いや、だって。優子さん、今日遅いって言ってたし俺ひとりならなんでもいいなって……」

 キッチンからこちらを睨む優子に竦んでしまう。伊織は目を逸らしながら答えた。

「メールしたでしょうが」

「ね、寝てた」

「あ、だから返信なかったの?」

「すみません……」

 うなだれると優子はため息交じりに口を開いた。

「ま、出前か何か取るか……。それより、どうしたのその腕」

「あ、これは……」

 優子が左腕の現状に気づいて焦った。伊織は負傷した左腕を擦りつつ背中に隠して、優子から目を逸らした。

「ちょっと……いろいろあって」

「何があったの?」

 声が低くなった。身内が怪我をして帰ってきたのだからそれは優子でも気になるのだろう。

 しかし伊織は言い澱んだ。

 理由が滑稽過ぎる。伊織は吸血鬼だが、ごく普通の現代人。一般のニンゲンとして平穏に生きている。無論これからもそうだ。だから、エクソシストなんていう荒唐無稽な存在に振り回されたくなかった。

「伊織」

 すると優子の顔がぐっと落ちてくる。自然と、伊織は逃げるようにソファに転がるが優子はますますこちらに体重を掛けた。彼女の両手が顔の側面につき、檻のように伊織を拘束する。さらりと優子の髪が頬に触れ、香水の香りが鼻孔を刺激する。

 優子の瞳が妖しく光った。

「ちょ、待って……っ」

「だったらさっさと言いなさいよ」

 心臓がバクバクと破裂しそうな勢いで高鳴り出す。伊織は優子から目を逸らすことができなかった。これは吸血鬼が持つ相手を魅了する力だ。十代の伊織が優子に勝てるわけがない。普通の人間ならとっくの昔に落ちているだろう。

「あのね。別にあんたのこと責めてるんじゃないでしょ? もう子供じゃないんだから答えなさい」

 顔をしかめる伊織は小さく言った。

「笑わないですか?」

「なんて顔してるの、ほら言いなさい」

「……エクソシストに、会いました」

 途端に優子はぱちくりと目を瞬かせ、「あー」と小さく呻き、かくんと首を傾げる。

「それだけ?」

「はい」

「なーんだ、そんなこと」

「へ?」

 優子はつまらなそうに呟き、体を起こした。

「は? え? 優子さん……?」

 興ざめした様子の彼女に伊織は慌てる。

「驚かないんですか」

「何に驚けって言うのよ」

 優子はソファに座ってぞんざいに返した。

「だって、エクソシストですよ? あり得なくないですか」

「そんなこと言ったら私たちもあり得ない存在よ」

「そ、そうだけど……」

「魔族も無害なヤツばかりじゃないから。日本にも陰陽師って胡散臭い奴いるでしょ?」

「そ、そうですけど……。襲いますか普通」

 なおも食い下がる伊織に優子は呆れた様子で訊く。

「どんな人だった?」

「同い年ぐらいで外国人で……あと女の子でした」

「本場の人間なら当然ね。悪魔とか大っ嫌いだし、自分たちが善だと思ってるから。女の子は珍しいけど」

 そして眉をひそめる。

「だけど、実家からエクソシストが来るなんて連絡無かったわ。……四月朔日うちが知らないわけないわ」

 四月朔日家は日本にある吸血鬼のコミュニティを束ねる中枢にあり、日本政府上層部とも懇意の間柄である。吸血鬼に関する情報は、良くても悪くてもすぐに届くのだ。特にエクソシストは要注意である。吸血鬼などの魔族を毛嫌いする人間が多いから連絡が必ず来るはずだが。

 優子はふむ、と顎に手を当てて考えていたが、すぐにやめてしまった。

「ま、今はどうでもいっか。お腹空いたし。伊織何がいい? なんでもいいわよね?」

「どうでもいいって……また襲われたらどうしろって言うんですか。次は優子さんかもしれないのに」

「逆に襲ったらどう?」

「…………はぁっ!?」

 あっけらかんと言う優子。最初何を言われたかわからなかった伊織だったが、瞬時に目を剥いた。

「これはチャンスよ、実力行使するのよ。吸血鬼の本気をその子に見せて落としなさい。ついでセック……」

「それ以上言うな色欲魔!!」

「ヘタレめ」

「普通ですっ」

 ふいっと顔を背けると優子は続ける。

「まぁ、関わらないことに越したことはないわ。私も実家に訊いてみるから。危ないと思ったらすぐに電話すること。怪我なんて見てらんないから、わかった?」

「わかりました」

 いつも通り優子は淡々としていたが、最後の方はどこか優しさがあった。





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