7.不可解な親愛
今日も今日とて俺は朝早くから登校していた。日差しは心地よいぐらいに輝き、空気は澄み切っている。こんな良い天気だと、横断歩道の押しボタンや信号機も文明の集大成のように見えてくるから不思議だ。
桐生との『友達契約』が成立してから三日が経過した。この契約によって何か変化が起こるかと思ったが、実際そんなことはなかった。俺はいつも通り優等生として過ごし、彼女は目立たないように生活していく。だが空き教室で過ごす時間は苦痛ではなくなり、一言二言話す程度に関係は進展した。
何と言うか、互いの領分を守るというスタンスを取ることになったのである。まあ桐生との関係に関してはこれぐらいが丁度いい。俺が損することは無いのだし。
問題なのはこの事態を知っていた人物の事である。
俺は校舎に踏み入り、一目散にある人物の所に向かった。
「失礼しまーす。如月先生いますかー?」
職員室のドアを開き、俺は熊を倒せる人間を探した。
「おお、朝霧じゃないか。いつも通りお早い登場だな」
声の方を見ると、デスクでくつろいでいる先生の姿がそこにはあった。偉そうな態度であるが、これからこの顔が慌てふためくと考えると楽しい気分になる。
「フ……先生、俺は知ってしまったんですよ! あなたの弱みを!」
俺は先生を指でさしながらそう言い放った。
「ほほう。一体どんな弱みかね? もしや、また熊に関連した話か?」
それもあるにはある。最新の噂ではクマを自宅に飼っているとか、クマと話が出来るとか、もはや強さと関係ない噂までちらほら聞くようになった。
「熊ではないです! ……桐生の事ですよ、先生」
その言葉を聞いて、先生の肩がピクリとわずかに反応した。
「フフフ、実はこの前偶然にも桐生が市街地にある喫茶店でバイトをしているのを見てしまったんですよ。話を聞いてみると、先生が関与しているということを聞きました。……これはどういうことですか?」
俺は問い正すように先生へと詰め寄る。それに対して先生は、腕を組んでジッと目を閉じて考え込んでしまった。
ククク……相当悩んでるいるな。
俺はさらに先生を畳み掛けようと口を開こうとした。
「……ハハハ、バレてしまったか! 流石にやるな。まあ他のヤツに知られないように協力してやってくれ!」
だが俺の出鼻を挫くように、先生は大声で笑い始めた。
「――はあ? 何ですかそれ? 意味わかってます? 俺がこの事を校長か誰かにでも言いふらせば、どうなるか分かっているんですか?」
一体何考えてんだ? こんなことが生徒に知られるなんて死活問題だろう。
俺は怪訝な気持ちのまま先生の方を見据える。
「私を脅迫する気か? まあ多少は我儘を聞いてやろう。だがな、やりもしないことで私を脅せるとは思わないことだ」
如月先生は気にも留めていない様子である。どうやら俺が本気だと思っていないようだ。舐められたものである。
「……先生。あなたは俺がどんな人間か分かっていますよね? 俺がこんなおいしいネタを放っておくと、本気でそう思っているんですか?」
俺は態度をより固くして臨むことにした。
すると先生は突然左手を差し出してきた。
「……何ですか? この手は?」
俺は怪しい物でも見るかのようにこの行動の意図を尋ねた。
「何って……握手だよ。あ、く、しゅ! 右手は怪我をしているんだろう? だから左手」
「……」
不可解な行動である。もしかして握力で俺の手を粉砕する気か? 俺も鍛えてはいるが、さすがにこの熊女を相手にできるような規格外の能力までは有していない。
「ほら、早く出さんか。それとも恥ずかしがっているのか?」
「……分かりましたよ。でも危険を感じたら大声を出しますからね?」
俺の言葉に先生は少しだけムッとした表情になった。
言われた通り、俺は左手を恐る恐る差し出した。……クソ、こんなとこで死にたくない!
冷や汗が流れ出していたが、その心配を余所に先生は普通に手を握ってきた。
「……」
俺と先生しかいない早朝の職員室。手を握った状態で互いに黙ったまま数秒が流れた。
何だか……すごく恥ずかしいことをしている気持ちになってきた。
「……あの、これで一体何が……」
手元へ向けていた視線を先生へと戻す。
先生は俺の顔をじっと見ていた。
「……あ、あの……」
余りにも真っ直ぐな眼差しに動揺してしまう。そう言えばこの人美人だったな。クマのことですっかり忘れてた。しかも巨乳だし。
胸元に落ちそうな視線を何とか維持し続ける。
「……うん。大体君が考えていることは分かった」
如月先生はパッと手を放してそう言った。
何言ってんだこの人。エスパーか何かか? つーか分かったって何が? もしや如何わしいことを考えたとでも思われてしまったのだろうか。
「……あの、意味が全然分からないんですけど……」
モヤモヤとした気持ちが残り、俺は思わずそう呟いていた。
「握手すれば、気持ちと気持ちが共有できるのさ。言葉を交わすよりも肌と肌で触れ合い、温もりを感じ、相手の存在を感じ取る方が効果的だ。君は言動と行動で相手の感情を推し量るが、こういうやり方もあるんだよ」
先生は諭すような口ぶりでそう話す。
「俄かには信じられないですね。そんな超能力者みたいな真似、俺にはできませんよ」
俺の返答に対し先生は微笑を浮かべた。
「……今はそうかもしれない。でもな……これには他のことだって出来るんだぞ? 気持ちと気持ちを伝えあい、力をもらったり逆にあげたりできる。――言葉を用いない、世界共通の親愛の証だ」
……親愛か。俺からは最も遠い概念のように感じる。
「握手は『武器を隠し持っていないこと』を示すために使われたって聞いたことがあります。それなら分かりますけど……こんな斬新な利用の仕方、俺には要りませんね」
感情などという形のない物を信用するなんて馬鹿げている。俺にだって自分のことは完全には分からないのに、他人のことなんて分かるはずがない。
先生は俺のその様子を見てため息を吐いた。
「……まあよく覚えておきたまえ。いつかきっと役に立つ」
「本当に相手の感情が読めるようになるなら、ぜひ覚えたいですけどね。……ちなみに、俺が考えていることは分かったんですか?」
俺は答え合わせをしようと考えた。馬鹿馬鹿しいが、どうしても気になったのだ。
先生は顎に手を当てて考え込んだ。
「秘密だ。……だが少なくとも、私は怯える必要はなさそうだ」
……やはり時間の無駄だったな。最初から分かっていたことだ。結局のところ、この人はこの程度の事では倒せないという事なのだろう。
「……もう行きますね? 予定が押しているので」
「ああ、サッサと行きたまえ。こちらも忙しいんだ」
先生はシッシと手で追い払おうとする。
ちくしょう、こんなはずじゃなかったのに。
俺は敗北感に打ちひしがれ、そそくさと部屋から退場しようとした。
「――桐生の事を頼むぞ」
俺は背後からその言葉を聞き、反射的に振り返ってしまった。
「どういうことです?」
意味が分からなかった俺は再び先生に問いかける。
「言葉の通りだよ。友達になったのだろう? ……だからだ」
何考えてるんだこの人? 今日の先生は不可解な行動ばかり取るな。
「さあ邪魔だ邪魔だ! 若者は早く青春して来い!」
急にハイテンションになった先生は俺の背中を押し、職員室から追い出した。
背後でピシャリと扉が閉まる音がした。
「……何なんだよ……」
意味不明なことばかりだったが考えてもしょうがない。
俺は今日の予定を完遂するため歩き出すことにした。