27.最終決戦
桐生をストーキングしていた犯人が逮捕された事に加え、アルバイト禁止の校則が改定されたことによって、校内はお祝いムードになっていた。如月先生と桐生のことを純粋に喜ぶも者が目立ったが、ただ単に校長に一泡吹かすことが出来たと満足した者もいるようだ。
おまけに明日から学校は通常営業に戻るらしい。犯人が捕まったことで、放課後の集団下校はなくなり、部活動も無事に再開されるようだ。どの部活も大事な時期なだけに、雄介のような部活生たちにとってこれは朗報だった。事実、終礼が終わった途端、一言残して雄介と三枝は部室へとダッシュで向かった。
錦織会長は生徒投票の後処理にせっせと取り組んでいるようだ。俺も手伝おうと思ったが、『これは生徒会の仕事だから、その必要はないわ。どうしてもやりたいなら、生徒会に入りなさい!』と言うのだから、大人しく任せることにした。……若干不服そうではあったが。
そして俺はというと空き教室の窓際最後尾の席で、のんびりと外の風景を眺めていた。ここ最近は忙しかっただけに睡眠があまり取れておらず、ついさっきまで机でうたた寝をしていた。勉学も最近は疎かになっていたため、本来であればそれを取り戻さなければならないのだろう。
しかし、俺は校長室で如月先生に言われた事が気になっていた。話があると言っていたが……一体何の用なのだろうか? もしかしてお礼が言いたいのだろうか? まあ、今回の俺の活躍を考えればそれも至極当然だろう。
だが、まあ貸し借りなしという所だろうか。
俺はあらかじめ先生に『今日の昼休み、校則の撤廃を申請します。だから教員達の理解を得られるように働きかけて下さい』とメールしておいたのだ。……まさか、ああも簡単にやってのけるとは思わなかったが。いやー、連絡先を交換しておいて良かった。
そんなことを考えていると、扉を開く音が聞こえてきた。
「……どうした? 電気も付けずに……寝ていたのか? 悪かったな、遅くなって」
現れたのは如月先生だった。時計を見ると、放課後になってからかなりの時間が経っていた。減給処分だけでなく、面倒事まで全て押し付けられたのだから、それで何かと手間取っていたのだろう。
「いえ、それはかまいませんけど……俺に話って何ですか?」
俺はゆったりとした姿勢を正し、如月先生に向き直る。
「……ああ、まあそれもあるんだが、……一旦置いておこう」
先生は視線を明後日の方へと向けて話し始めた。
「…………ところで朝霧。今回の件で、私に何か言いたいことはないか?」
黒板の方をぼんやりと見ながら、俺に問いかける。……一体何が言いたいのだろうか?
俺は質問の意図を計り兼ねた。
「……はあ。……別に、先生に言うことなんて、何もないですけど……」
不可解な態度の先生に対し、俺は内心苛立ちを抱きながらも、首をかしげて返答した。その言葉に対し、先生は振り返ることなく沈黙で返した。……何だ? ……何かおかしい。明らかに先生の様子はいつもとは違っている。
俺が警戒心を強めていると、如月先生はゆったりとした動作でこちらを振り向いた。
「……本当か? 本当に……私に何も言うことはないのか?」
感情の籠っていない声で先生は再び俺に問いかける。その姿からは何を考えているのか全く推し量ることが出来ない。だが、俺を見るまなざしだけ真剣なものだった。
何なんだ、この女。……言動の意味がまるで分からない。
「……ですから、……先生に言うことなんて、何もないですよ! ……一体何なんですか!? ハッキリして下さい!」
俺は立ち上がり、意図せず声を荒げてしまっていた。自分でも分からないが、俺は得体のしれない恐怖を肌で感じていた。
動揺を飲み込み、俺は挑むよう態度で先生を睨み付ける。
「……そうか……。なら、私から言おうか……」
諦めたような素振りの先生は、そう言って静かに瞼を閉じた。
物音ひとつない教室はピンと張りつめた空気に支配されており、逃げ出したい気持ちを抑えるのに俺は必死だった。
……落ち着け、何をそんなに恐れている? この女が何を言っても、俺は大丈夫だ。
俺は……誰にも負けるはずがないのだから。
長い静寂の後、先生はゆっくりと目を開く。
「――お前だな。学校に脅迫状を送りつけたのは――」
その言葉に、全身が凍りついた。
「……は? ……一体、何を……言っているんですか?」
我に返った俺は、固まった表情のまま如月先生の方を見る。
「――ッ!?」
視界に映り込んだその姿は、普段とは別もの。日の光が差し込まない暗い室内で、如月刹那は確かな存在感を放っていた。影にその隠れた相貌からは何も推し量ることは出来ないが、対照的にその眼光は雄弁に語っていた。
俺に向けられた――明確な敵意を。
「一体何を……か。もう一度言おう。私は君が脅迫犯だと言ったんだ」
淡々とした、しかし威圧的な物言いで先生は答える。
「ハハ……何を馬鹿なことを!? 意味が分かりませんよ!? 俺が何で、そんなことをしなければならないんですか!?」
俺は有らん限りの力で反論の意を示した。
「意味なら分かるだろう? 脅迫状が送り付けられることで、君は随分と上手く、この一連の出来事を収めたじゃないか。桐生彩……あの子に向けられた校内における負の感情をリセットし、同情を集めるのに一役買った……」
その声はどこか嘲笑を含んでいるようだった。いつもなら殺意が湧きかねない……それぐらいの言動。だというのに、俺は体の震えを抑える事だけで精一杯だった。
「いや……それだけじゃないな。誰もが、お前たちを襲った男と脅迫犯……この二つの存在を同一人物だと思った。君がそう仕向けたのだ。……自分を広告塔にして、そうすることによって信憑性も上げた。……君はわざわざ、自分に送られた本物まで用意して、生徒達に見せたそうじゃないか?」
先生の追及は、俺の意図を確実に見透かしていた。この女の言う通り、生徒の批判の目を逸らすために生徒達を扇動したのは事実だ。
「……確かに俺は、彼らの目が桐生から他に向くように仕向けました。……それだけは事実です。校長にも……一部その役を担ってもらいました」
生徒達は自分達の活動を制限しようとする校長に、前々から反感を抱いていた。それを防いでいた如月先生を処罰すること。そして俺に口止め厳命したこと。あの状況で、これらを利用しない手はなかった。
「ですが、俺がやったのはそれだけです。あとは先生の憶測ですよ。……俺はあった物の中から、使えそうなものを使っただけです。……確かに心証は悪いですが、それも知恵と言えるでしょう。……まさか、脅迫状を送りつけるなんていう犯罪を、俺が犯すと本当に思っているんですか?」
俺は先生が把握しているであろうことのみを肯定した。これらの事は伸也や会長も多少は知っているし、仕方がないと理解してくれている。だから認めても問題ない。
俺は得意げな表情を作り、先生を見返す。
「……脅迫状を送りつけただけではないだろう?」
「――ッ!?」
対して目の前の化け物は、口角を吊り上げて俺の言葉に応答した。
「警察署で桐生に話を聞いたとき、尋ねたんだ。『いつから朝霧鏡夜は、君の問題に気づいたのか』……とね」
この女!? まさか、そのことにまで勘付いたのか!?
「君があの子の問題に気づいた時期と、学校への誹謗中傷が増えた時期……これが見事に重なるんだよ」
俺は表に出そうになった悲鳴を、無理やりねじ伏せた。
「それが……何ですか? 知っていますよ。以前からその類の連絡をして来る輩がたびたび居ると。時期のことを言うのなら、『俺が桐生と行動するようになってから』とも言える。……ストーカーが腹いせに送り付けたモノだと俺は思いますけど?」
こんな程度で俺だと断定できるはずがない。大丈夫だ。焦るな。この女は当てずっぽうで言っているに違いない。
「そうだな。以前からそういう事は時々あった。しかしだな、前は電子メールや固定電話から寄越されたものばかりだった。……それがここ最近のものは、郵送された文書によるものが一番多かったんだよ。電話からも増えたが、決まって掛かってくるのは『学校が始まる前の早朝か、終礼後の放課後になってから』だった。……なあ、何故だろうな?」
俺を見る先生の目は、弱者をいたぶる強者のそれだった。
「……なるほど。そして校長はそれを盾にして生徒達の活動を規制する……そうなるように俺が仕向けたと。……そう言いたいんですね?」
「ああそうだ。だが、君の目論見とは違う部分もある。君がどう思っているのかは知らないが、あの人は賢い。部活動に口を出したのは、そんなモノを送り付ける危険人物から生徒を守るためだ。……まあ、君のような人間には到底信じられないだろうが」
「……ハハハ、身に覚えのないことで、そこまで言われるとは……」
俺は笑って誤魔化した。法がなければ、今すぐこの女を殺してやりたい。
「……ですがちょっと待って下さい。これはストーカーが俺達の前に現れて、さらに逃亡していることが前提になっている。これはおかしいでしょう? 俺にはあの男がどうするかなど、知りようがないし、手出し出来るわけでもない。さすがに運に任せ過ぎですよ」
先生は俺の言葉に目を瞑り、そして再び口を開いた。
「そうだ。だがお前にはこうする必要があった。お前が桐生の問題を全て知った時、辿り着くべき条件は二つあった」
右手を前に差し出し、先生は人差し指と中指を立てた。
「一つ目は先ほど言った『校則の改定を行い、桐生彩が今まで通り、学校生活とアルバイトを行えるようにすること』。もう一つは『ストーカーを完全に排除すること』。この二つを完遂するために、君は博打ったんだ」
「……」
俺は隙を見せないよう沈黙を守ることにした。
「君はストーカーが姿を現すように、出来得る限りの時間を桐生と過ごし、相手を挑発し続けた。これは君にとっても、百%の保証は持てなかっただろう」
当然だ。それだけしても、ストーカー野郎が襲ってくると決まるわけではない。
「だが途中で君は、この策が成功すると確信した。……自分の家に脅迫状が届いたことでな。十分にヤツが自分達の行動を監視し、怒り狂っていると認識したのだ」
「……はは、それで?」
「そして君は彼女とあの日、まるで恋人であるかのように振る舞った。ヤツに対する武器をしっかり用意した状態で……」
拳銃型の催涙スプレーのことか。やはり警察から話を聞いていた以上、そのことについても知られていたようだ。
「もしかしたら、襲われるような事態になるかもしれない……そう思ったから用意したんですよ。実際、俺の心配は当たったというだけのことです」
俺は両手を振って、弁明した。
「……そしてその帰り道、犯人と遭遇し、君は見事彼女を守ったというわけだ。学校に脅迫状を送り付けた犯人だと誤認させるために――わざと逃がすという形でな」
如月先生はハッキリとそう言ってのけた。
俺はその言葉に大笑いしてしまった。
「ハハハハハ! 先生、それはおかしいですよ! 俺の目的は桐生を助ける事でしょう? 犯人を逃がしてしまったら、それこそ彼女は見えない脅威に怯え続けることになる。俺が狙われる可能性だってあるし、もしかしたら最終的に捕まらないことだってあるかもしれない。今回はたまたま、すぐに捕まりましたけどね!」
この女の考えは破綻している。俺は彼女を守るために、助けるために行動しているのだ。一番の脅威を運任せにするなんて、有り得ない。
「いや、あくまで野放しにするのは校則を変えるための投票が終わるまでだ。それが今日終わったから、君はヤツを速やかに排除したんだ」
「……はあ!? 先生、俺は警察じゃないし、ましてやそれを凌ぐような力も無いんですよ? 俺はストーカーの顔は見ましたけど、どこの誰だかは知らない。大体、最終的に見つけたのは警察で、俺は関係ないでしょう?」
俺は憮然とした態度で否定した。俺は超能力者でも、スーパーマンでもない。普通の人間だ。そんな超人じみたこと出来るわけがない。
だというのに目の前の女は、それを出来たと言うのだ。
「そもそも今日という日に、こんなタイミング良く逮捕されるなんて……おかしくないか? あまりにも出来過ぎている。そう思って、さきほど警察に問い合わせたんだ」
先生は俺を直視し続け、俺もそれに真っ向から見返す。
「今日の早朝、匿名で警察に電話があったらしいぞ。どこに住む誰が、この事件のストーカーに違いない……という内容でな」
「へえ、まあ自然じゃないですかね? そいつを知る人間が、怪しいと思ったんでしょうね。どうせ日頃からおかしい奴だったんだ」
「そうだな。話はまだあってな。警察官が訪問した時、その男はひどくやつれていて、観念しきった様子だったそうだ」
心底可笑しいと言わんばかりの口調に、俺は苛立ちが募った。
「そのストーカーはな、間抜けな話なんだが財布を落としたそうなんだよ。お前たちの前に現れた日から、見つからない……とな。だから、すぐに逮捕されると思って、家に閉じこもってガタガタと震えていたらしい」
俺はそこまで聞いて、呆れたような思いに駆られた。警察というのは無能だな。そんなことをこの女にペラペラ話したのか。
「失くしたとしたのなら……もう分かるな? 君と桐生に襲い掛かったあの時だよ、ヤツが財布を紛失したのは。……いや、盗まれたの間違いかな?」
「……」
俺は無言のまま、先生を睨み続けた。
「君があの日、電車を乗り継いだ先にあるショッピングモールに行ったのは、ヤツが確実に財布を……金銭を使う場面を用意するためだ。そもそも、ストーカーはあの子がバイトをしているのを知っていた。そして君は、ヤツがそこまで交通機関を使って移動していると確信していた。だから君は催涙スプレーで動きを封じ、その隙に財布を奪い……男の身分証を手に入れたんだ」
「……そして俺は、投票が終わった今日この日に、警察に電話をしてストーカーが逮捕されるようにした。……筋は通りますね」
俺は感心したような口ぶりで、先生の推理を評した。
「そして今この瞬間において、全てが上手く行き、あたかもハッピーエンドを迎えたかのように演出したんだ。皆が努力し、全員が納得のいくような最後を得られたのだと。善意と優しさが問題を解決し、あの子を救ったのだと。――関わった全ての人々を騙してな」
俺は最後の言葉に失笑しそうになった。
……善意と優しさ? 何を言っているんだこの女は? そんなモノを信じているから、何も出来ないんだ。俺はやってのけたのだ。何もできない他の屑とは違う。
俺は満面の笑みを浮かべて、先生の方を向いた。
「すごいですよ先生! そこまで考えられるなんて! ……でも、言っている事は全て可能性の話です。俺が脅迫状を送りつけたのも、以前から学校を誹謗中傷していたことも、ストーカーの財布を奪ったことも……すべて証拠がない」
そんなヘマをするほど、俺は無能ではない。財布はとっくに処分したし、送り付けた文書の類は他県にまで赴き用意し、投函する場所も入念に調べてから実行した。警察へのタレこみも公衆電話から行ったのだ。……俺に死角は無い。
こんな荒唐無稽な論理で、俺を糾弾するなど無意味だ。今言ったことは全てあくまでも可能性の話でしかない。ここまで気づいたのは驚くべきことだが、そこまでだ。
俺はこのままタネを明し、この女を嘲笑するのもいいかもしれないと考えた。……いや、この女の事だ。もしかしたら携帯か何かでこの会話を録音している可能性もある。余計なことをするべきではない。最後まで徹底すべきだ。
俺は気を抜かず、目の前の敵を注意深く観察した。
「……まるで反省の色が見えないな」
先生は相も変わらず、凄まじい眼光でこちらを睨みつけている。だがそんなもので、俺を威圧できると思ったら大間違いだ。こんなもの、俺からしたら何ともない。
以前、俺が味わった恐怖は……こんなものではなかったのだから。
わざとらしく溜息をついた先生は、そのまま驚くべきことを言い放った。
「なら仕方がないな。この事を皆に話す事にしよう」
「――な!?」
俺は今度こそ、完全にこの女の思考が理解できなかった。
「君がやったことを校内の全ての人間に話す。そうすれば、君は終わりだ」
俺は目の前に居る人間の意図が見えず、思わず怒鳴ってしまう。
「……バカかアンタ!? 誰も信じるわけないだろうが!? そんな事を話せば、アンタだって、ただでは済まなくなる!」
教師が証拠もなしに、自分の生徒を犯罪者呼ばわりする。そんなことをすれば、教師どころか人間として終わるに決まっている。
「だろうな。だが、君を見る目も変わるだろう。少なくとも、校内の人間を扇動したのは本当のことであるわけだし、もしかしたら私の話す事全てを信じる者も出てくるかもしれない」
「――ッ!?」
何なんだこの女!? 意味が分からない。そんなことをして、何のメリットがある!? 自分を犠牲にして、俺を破局させたいのか!?
いや――そんなことはどうでも良い。問題なのは、その後だ。
もし、俺が何をやったのか知られれば、校則の改定だって危うくなるかもしれない。校内の人間が、桐生に向けている同情の目も変わるかもしれない。
「さあ、どうするのかな? 朝霧鏡夜」
俺の理解を越えた化け物が一歩ずつ迫ってくる。
「……ぐ!?」
俺は自分の立つ床が抜け落ちたような感覚に襲われた。
……負けるのか? この俺が? そんなことになれば、桐生は――
――ごめんなさい、朝霧君――
俺は倒れそうな両足に全力の力を籠めて、何とかその場に留まった。
これを桐生が知ったら……一体どうなる? きっと、誰よりも悲しむはずだ。自分がこんなことをさせてしまったと。自分が無理をさせてしまったと。
きっと全て……自分のせいだと。
――あなたみたいに、上手くやれる人じゃなかったみたい――
折れかけた心が、鋼のように強くなっていくのを感じた。
「――まだそんな目をするのか」
先生はいつの間にか、俺の目の前にまでやって来ていた。
俺の事は別にどうなっても良いんだ。俺はどうしようもない屑野郎で、もう人の善意を信じられないし、優しさも偽物だと思っている。そんな最低人間なんだ。
でも……桐生は違う。
アイツは馬鹿みたいに優しかった父親が今でも好きで、自分を支えてくれる母親を馬鹿みたいに大切にしていた。
そして、俺みたいな屑にも、優しい――そんな素敵な女の子なんだ。
そんな人間を、見捨てる事なんて俺には絶対に出来ない。これは自己犠牲でも何でもない。俺のただ一つの願い。弱かった俺が、ここまで辿り着くことが出来た……強くなることが出来た……ただ一つの思いなのだから。
いつの間にか体の震えはなくなり、全身には力が宿っていた。
俺はただ真っ直ぐに、先生を真正面から見据える。
対する先生の目も、こちらをひたすらに真っ直ぐ向いていた。
「先生、俺は……どうしようもない、屑野郎です……」
この人は俺よりも全てが上を行っている。まともに考えれば、勝てるわけがない。
「……でも、ここで退くわけにはいかない」
だからどうしたと言うのか? 俺は負けるわけにはいかないんだ。
「……あなたにも、絶対に負けない」
俺はハッキリと、そう言ってのけた。
如月先生はその言葉に眉を動かすことなく、無表情のままだった。
「……そうか、なら仕方ないな」
先生は右手を大きく振りかぶった。
……殴られるのか? まあ別にどうでもいいや。今更そんなもの、俺には痛くも痒くもないのだから――
「――え」
反射的に目を瞑った俺は、温かい抱擁に包まれた。
「……は? ……あの……?」
理解不能。完全に処理できる限界を超えていた。良く分からないが、俺は如月先生によって抱きしめられていた。
「……本当に愚か者だよ君は。……全く、少しは弱みを見せてくれると思ったんだがな……」
俺の耳元で先生はそう呟く。
「……私が……君に、そんなことするわけないだろうが! 君達のためなら、私は何だってする。この命だって、惜しくはない! それぐらい、君達は私の大事な生徒なんだ!」
その声は慈愛に満ちていて、何と言うか、本当に同一人物なのか錯覚するほどだった。
「それに、君が本当は誰よりも優しいことだって……知っている……」
その言葉を聞き、心臓が飛び跳ねた。
「……な、何を……!?」
「君はたった一人――」
それ以上先は、聞きたくない。思い出したくない。消し去りたい……なのに!
「――いじめに遭っていた同級生を助けようとしたんだ――」
「――ッ」
声にならない悲鳴が零れた。
中学三年の時、俺はクラスメイトがいじめの被害に遭っている事を知った。
俺はそれを助けようと、先生達に協力を求め、同級生を必死に説得しようとした。
でも何も変わらなかった。
先生達は形の上でしか行動せず、同級生たちは俺の言葉を無視した。
俺が無力感に打ちひしがれていると、遂にいじめに遭っていた生徒は学校に来なくなってしまった。
そして今度は当然、俺の番だった。
「……だから、君は強くならなければならなかったんだ。自分を守るため、誰にも負けないような強い自分になるため……」
先生の優しい言葉に、俺は固まることしか出来ない。
「でも……何より、もう失敗しないように。次は絶対に助けられるように。……その一心で、君は今の自分を作ったんだ」
「……」
本当に助けたい奴が現れた時、俺は誰よりも力になりたかった。だれも信じず、誰も頼りにしないで、それでも何とかしようと必死だった。
「全く……捻くれているくせに、根は優しい。君はその最たる例だな。……いや、あの子もそうだな。君たち二人は似た者同士だ。……お似合いだぞ」
何を言っているのか、この人は。俺はそんな恋心みたいなもんを、アイツには抱いていない。それはまた別の話なのだ。
「ぐ……もう、離してください!」
俺は腕をブンブン振って、先生の温もりから逃れた。
「何だ? もう良いのか? これでも割と自信があったんだが」
残念そうな表情の先生は、わざとらしくその大きな胸を張る。
「いい迷惑ですよ! ……俺、年上は嫌いなんで!」
俺は恥ずかしさから、そっぽを向いた。
「なんだ、そうなのか。……もう大丈夫そうだな」
先生は何かに満足したのか、背を向けて教室の扉へと向かう。
結局何しに来たのあの人? 俺を散々罵倒して、苛めて、最後には抱きしめる。やっぱり理解不能だよ。
「ああ、そうそう、大事な事を言い忘れていた」
そう言って先生は振り返り、俺に笑顔を見せてくれた。
「明日、桐生を迎えに行きなさい。安心しろ、もうすでに彼女の母親には連絡してある。他の用件は私がやっておくから、君はちゃんとあの子を学校に連れて来なさい」
その言葉に俺は驚いた。
「はあ? 何で俺が? 先生が行けばいいじゃないですか!?」
俺はとりあえず、納得がいかないので反旗を翻すことにした。
「なーに、気にするな! これは今回、望んでいなかったが、君に助けられたお礼だ。だが、忠告しておくぞ。君が何もしなくても、私は何とかできた。私を甘くみるなよ」
「いえ甘くなんて見てません。むしろ甘くしたいぐらい。……というか、お礼って……どこがお礼なんですか!?」
俺の抗議の声も聞かず、先生は扉に手を掛ける。
「おいおい酷いな。これは君に、間近で自分の頑張った結果を見てもらいたいという気配りだ。そのためのレクチャーもしたはずだ」
「はあ? 一体何を――」
先生は俺の静止も聞かず、扉の向こうに消えて行った。
最後に一言言い残して。
「じゃあ頑張れ。理由がなければ迎えに行けない……そんな捻くれ者の君への、私からの最大限の手助けだよ」




