1.登校一番
朝の新鮮な空気を胸いっぱいに吸い込みながら、俺は黙々と学校を目指す。
私立憐明高校。
都市部に隣接する進学校であり、その偏差値の高さからこの学校を志す者も少なくない。全国でもその名を轟かせているというのは、ここに通う学生の密かな自慢になっている。「アルバイト禁止」という校則が設けられている通り、徹底的に勉学に力を入れている。部活動も当然行っているが、大部分の生徒は早くから卒業後の大学進学を視野に入れているのが現実だ。
俺はこの高校の二年に所属している。部活動は無駄だと思ってやっていない。大学進学に使える実績を作るくらいなら、テストの点を伸ばす方が効率的だからだ。
電車を降りた後、五分程度の道のりを越えて校門に到達した。
時刻は午前七時五分。予定通りだ。
素早く靴箱で上靴に履き替え、職員室を目指す。
「失礼しまーす」
職員室のドアを開けつつ、顔にはしっかりと笑顔を用意した。
「……む、朝霧か。相変わらず早起きだな」
俺がやって来たことに気づき、一人の女性が話しかけてきた。
如月刹那。俺のクラスの担任である。端正な顔立ち。それとは対照的な鋭い双眸。肩まで伸ばした髪。スーツの上からでも分かる魅力的なプロポーション。学生たちから絶大な畏怖と信頼を得ている女性教師である。
先生はマグカップを右手に携えながら、俺の方へと近づいてきた。
「毎日の積み重ねが大事ですからね。一日も欠かさず精進するつもりです」
「感心だな。いつもいつも思うが、君はロボットか何かではないのか?」
如月先生はこの学園内において、俺の本性を知っている数少ない人間の一人だ。通常そんなヤツは全力で排除しなければならないが、この人についてはギブアンドテイクの関係を結ぶことで事なきを得ている。
「ハハハ。先生に言われたくないですよ。知ってます? 生徒たちの間では『如月先生は熊を素手で倒せる』という噂が立っているんですよ? 僕から言わせれば、先生の方がよっぽどだと思います」
如月先生は武芸を嗜むらしく、その実力は相当なものらしい。俺の学年の風紀指導を行っているが、その絶対的な恐怖感から誰も逆らおうとしない。俺も含めて。
「フン。根も葉もない噂だ。人間は両手を器用に使えるのが他の生物にはない最大の利点だ。素手ではそれを捨てることになる。故にその間違った噂は癇に障るな。私は戦うならば、最大効率を目指す。拳銃やナイフあたりをその噂には追加しておけ」
倒すという前提は認めるのか。やはり考え方が常人のそれを越えている。もしや盛り上がっている胸部は全て筋肉なのではないだろうか。だとすると多くの男子が夢を打ち壊され、涙を流し、また一歩成長することになるだろう。
「分かりました。……とりあえず、今日も空き教室の方を使わせてもらいますよ?」
「ああ、構わんよ。鍵はいつもの所に隠してある。くれぐれも誰かに見つかるな? 仕事がただでさえ多いのに、増やされては面倒だ」
「そんなヘマをするほど無能じゃないですから。先生、それは杞憂ですよ」
熊女――もとい如月先生は少しだけムッとした表情になり、すぐ横のデスクに置いてあった書類を俺に手渡す。
「……これは?」
「校内のアンケート調査。君のお仕事だ。クラス全員に配布しておいてくれ。その後集めて、私に提出。三日以内に頼む」
それを見て、俺は辟易として気持ちになった。正直面倒だ。しかしながら断るわけにはいかなかった。
なぜならこれは契約なのだから。
「……はいはい了解です。他に何かあります」
「いや、取り立てて何もない。……お前から見て、クラスや学年に何か変な動きやトラブルの兆候はないか?」
マグカップに口をつけながら、如月先生は話を続ける。
「別段なにもありませんよ。平和そのもの。退屈なくらいですね」
「……そうか何もないか。なら良い、早く行きたまえ」
用が済んだのか先生はデスクに腰かけ、途中だった仕事に戻った。
俺もこれ以上ここに居る必要はないな。
俺は職員室を出て、無人の廊下へと戻る。そして腕時計を確認した。
時刻は午前七時十五分。
「……よし。完璧なスケジューリングだな」
俺は胸ポケットにしまっていた黒い手帳を取り出す。その中にはびっしりと今日の予定が分単位で書き込まれている。名付けて『死海文書日記』。別にこのネーミングに意味はない。何となくカッコいいと思ったから付けただけだ。
手帳へと視線を落とし、次の予定を確認する。書かれている次の行動は『空き教室での学習』だった。
「……はあ、行くか」
思わず大きな溜息が出てしまう。別にこの予定に不満はない。問題なのはそこに現れるはずの人間だ。だがくよくよしても仕方がない。あの女のせいで、俺の完璧な予定を崩されてたまるか。
覚悟を決めて、俺は再び静かな廊下を歩きだした。