プロローグ
「私、あなたのこと嫌いよ」
静かな教室内で、少女の言葉が容赦なく、この俺――朝霧鏡夜に突き刺さる。
目の前に立つその姿は、まさに威風堂々。何者すらも寄せ付けない程のプレッシャーがあった。腰まで下りた、夜のように黒く美しい髪。宝石のように輝く瞳。すらっと伸びた手足。人々を一瞬で魅了するであろう、白く透き通った艶かしいまでに美しい顔立ち。
普通の男なら、会話できただけでさぞ幸せな気分に浸ることが出来ただろう。彼女はそれほどまでに神秘的なのかもしれない。
――だから何なのか?
まったく、腹正しいことこの上ない。そんなことだから、世の女どもが調子に乗るのだと常々思う。俺ならば男女平等の下に容赦なく圧倒的なまでの罵倒によって、相手の自尊心を粉々に破壊する。その上で丸坊主にして出家させ、残りの人生全てをかけて悔い改めさせる。
……まあ、そんなこと口が裂けても言えないが。
しかしながら、この一方的なまでの嫌悪の表明は、俺の冷静な頭脳と温和な心を持ってしても到底受け流せる事じゃない。
何がこれ程までに俺の怒りを呼び起こすのか。
それはこの俺が、その他有象無象と同じ括りにされたということ。本来俺のことを知っているならば、大抵の相手は下手に出ることになる。俺という人間に畏怖の念を抱くのが正しい形だ。であるのにも関わらず、常軌を逸しているこの暴言。これはもう万死に値すると言っても過言ではない。
そもそも俺こと朝霧鏡夜は、その辺の高校生とは一線を画す。
頭脳明晰。
品行方正。
容姿端麗。
スポーツ万能。
およそ人間としての弱点など存在しない完璧超人。それが朝霧鏡夜という唯一無二の人間なのだから。
だというのに、眼前の敵対者は俺に対して侮蔑の意を唱えている。
桐生彩。それがこの女の名前だ。
「あなたとの会話には不快という言葉が似合うわ。私のような日陰者に関わらず、どうぞ無視して生きて行ってくれる? それが私にとって最良の選択だから。……ああ、この時間も本当に無駄だわ。――訴えても良いかしら?」
桐生は興味なさげにこちらを見ている。両腕を組んだその尊大な態度は、なおさら俺の神経を逆撫でにする。顔面にワンパンいれてやろうかと、俺は一瞬だけ悩んだ。
まずはどうしてこんなことになったのか。それを考えなければならない。
俺こと朝霧鏡夜という人間は、周囲から優等生として認識されている。クラスメイトや同級生だけでなく、教師達も含めたありとあらゆる存在からだ。誰からでもそういう風に見えるように仕向けている。分かりやすいくらいに優等生。分かりやすいくらいに好青年。その役を演じている。
俺には持論がある。優秀な人間というのはその優れた能力を持ってして、周りの低能に合わせた適切な振る舞いが出来なければならない、というものだ。何もかも完璧にこなせ、人当たりが良く、善意と好意を振りまくアイドルのようなキャラクター。そして一方で、ドジな一面すらも敢えて演技し演出し、共感と親近感を持たせる。これくらいは容易くこなせなければならない。
そしてそれだけでは不十分と言える。
問題なのは、その行為の代価をどれだけ自分に還元できるか、ということなのだ。
使える人間を見極め、信頼を勝ち得て、人脈の構築を行う。自分だけでなく他人を正しく評価し、カテゴライズし、有用性を確認する。他人を如何にしてうまく使い、利用するかを考え続ける。最終的に周りを味方につけ、最大限己の利益を追求する。
それこそが最も賢く、効率的な生き方だ。
以上から、俺は優等生という分厚い皮を被って日々を邁進している。
「き、桐生さん。いくらなんでも酷いよー。……俺、そんな嫌われることしちゃったのかな? だったら、頑張って改めるよ! せっかく話す機会があったんだから……、ぜひ桐生さんと仲良くやっていきたいと思ったんだ、俺!」
声のトーンに気を遣い、不快にならないよう細心の注意を払う。そして笑顔を浮かべつつも、罪悪感を相手が感じるように、やや目線を下げ、しこりが残るような言い回しにする。
なぜ俺がこれ程まで、この女に配慮した行動を取るのか。
その答えは単純明快。この女が死ぬほどモテるからである。
桐生の見た目は、俺ですら認めざるを得ない程に突出した美貌を誇っている。すれ違えば、その姿を目で追ってしまう。口を開けば、その場の空気を変えてしまう。同性や教師すら、その存在に惚れ惚れするほどである。
学業に秀でているという点も、認めなければならないだろう。俺は高校入学以来、一度として学年一位を譲ったことはない。そしてこの女は俺の後続を一度として離れたことがない。毎回一位と二位は俺と桐生で占領している。テストの点だけで判断するのは早計だが、この女は知能も優れていると判断できるだろう。
これほど異彩を放つ存在をわざわざ敵に回す程、俺は愚かではない。以前から自身のネットワークにこの女を引き込もうと画策していた。
そういう理由で、俺は嫌々ながらも桐生彩という人間に心優しくも話しかけたのだが……
「……ごめんなさい。あなたから向けられる気持ちは、好意であろうと敵意であろうと必要ないの。いえ、むしろ敵意の方が好感を持てる程よ。もしかして、私に気があるのかしら?」
この女……よくそんな口が利けるな。口から飛び出すワードに悪意しか感じられない。だが冷静さを欠いてしまうようでは、それが無能の証明となってしまう。
拳が飛びそうになるのを抑え、俺は言葉を紡ぐ。
「……いや、好意というか。ただ、仲良くなりたいだけなんだけどな……。ほら、お互いによきライバルっていうか、競い合う間柄というか。前々からどんな人なのか気になっていたから……」
「なるほど、敵として認識していたということね。良かったわ。もし私に恋愛感情を抱いていたのだとしたら、今夜眠れなくなるところだったわ。……ああ、もちろん悪い意味でね。ごめんなさい、勘違いさせてしまって」
初めて出た謝罪の言葉が、このように使われるとは驚きだった。俺の中でコイツの評価が現在進行形でどんどん飛び抜けたモノになっている。無論、悪い意味で。
「……時間を無意味に浪費したわ。それじゃあ朝霧君、私の事は気にしないで、自由気ままに人生を謳歌してね。――私とあなたは違うから」
桐生はそう言って俺から背を向ける。そして一度も振り返ることなく、教室を後にした。
そして俺だけがその場に取り残される運びとなった。
「……」
窓ガラスからは夕日が差し込み、何となく幻想的な雰囲気が教室を覆い尽くしている。
「――あのクソ女……!!」
思わず感情が出てしまい、机にその鬱憤をぶつけてしまった。……右手が痛い。
ガラスに映った自分の姿を見ると、その顔は怒りと悔しさで染まっている。
「……この俺をコケにしやがって……」
目の前にあった机に突っ伏す形で上体を載せ、尚も悪態をついてしまう。冷静さを取り戻すため、しばらく目を閉じてジッとし続けた。
そうしている内に段々、違う感情で自分が満たされているのを感じた。
「……ククク……今に見ていろ……」
楽しさが込み上げてきた。これから自分が何をやるかを期待して、つい微笑んでしまう。
バビロニアのハンムラビ法典の中に、俺が信条とする言葉がある。
――目には目を、歯には歯を。
素晴らしい考え方だと思う。俺の解釈では、好意には好意を、善意には善意を、――そして悪意には悪意で返す。そう考えている。まあ極論で言えば、やられたらやり返すのだ。
だが別に俺はあの女を叩きのめすつもりはない。やはり最終目的は桐生彩を俺にとって有用な存在にすることだ。
そのためには手段を選ぶつもりはない。全身全霊を持って桐生彩を攻略する。
「……最後に笑うのは俺に決まっている」
俺の辞書には敗北という文字などない。
――この闘争は必ずこちらの勝利で終わる。
俺のプライドにかけて、それだけは絶対だ。