ぬかるみ
昼間は多少暖かくなったとはいっても朝はまだ幾分涼しく、上着をはおらなければ縮み上がってしまう。
空気が澄んでいて、縦に割れるような小鳥の鳴き声が聞こえる。
少し伸びをして、固まった筋肉をほぐす。
力仕事は疲れが溜り安く、ストレッチを怠れば腰痛や筋肉痛に悩まされることは経験から分かっている。
仕事道具を一式積めた鞄を肩にかけた。
扉を開けていつものように出かけようとした。
足元には黒く泥が沈殿したぬかるみが広がっていた。
躊躇いがちに一歩下がる。
昨日新調したばかりの新しい白いスニーカーを汚すのは気が引けた。
とはいっても、家には裏口などはなく玄関から出る以外にでかける術はない。
覚悟を決めて一歩を踏み出す、しかしぬかるみは思ったよりも深い。
足首がズブズブと沈みはじめて、膝から腿までいとも簡単に飲み込んでしまう。
さらにたちが悪いことに、突っ込んだ右足を引っこ抜こうと踏ん張った左足もぬかるみに沈み始めている。
ぬかるみは、ひんやりと冷たい。靴どころかズボンも泥だらけになった。
冷静になろうとするほど焦ってしまい、もがけばもがくほど深く沈む。
家の前の道は舗装されておらず、したがって水溜まりぐらいならできても不思議ではない。
しかし、このぬかるみはそういうレベルのものではなかった。
人を一人飲み込んでしまいそうな位に深い、沼といっていい。
扉を開けた時には気付かなかったが、深さだけでなく大きさも相当異常なものだ。
家の前から、舗装されたコンクリートの道までの3メートルぐらいが一晩でぬかるみと化していたのだ。
ようやく両足が膝まで浸った辺りで、それ以上沈まなくなる。
身動きは捕れず、足を進めようとすれば鉛を纏ったように重い。
とりあえず前には進めそうなものの、時間がかかるだろう。
それ以上、両足が沈まないと分かると少しほっとした。
状況は決して良い訳ではないが、これ以上悪くはならないと分かると人は安心する。
足元からは冷ややかな冷気が伝わってくる。
このぬかるみから抜け出すには、あの舗装された道路まで頑張ってたどり着くしかなさそうだ。
それに、もう時間もなかった。
どんな理由があるにしても、遅刻なんてしようものなら親方に酷い目にあわされる。
動かない右足を、力一杯前に進める。頼りないながらも10センチぐらい前に進める。
同じように左足も前に進めたとき、あることに気付いた。
右足がさっきよりも深く沈んでいるではないか。
そして、左足も…。
なんとぬかるみは、前に行くほど深さを増しているようだ。
それならば、足が沈んでしまわぬ内にできるだけ前に進んでしまおう。
必死になって、初めて歩き始めた子供みたいに右足と左足を交互に前にだす。
その間にも、腿は完全に沈み、とうとう半分まできた辺りで腰までぬかるみにハマってしまった。
どれだけ右足を前に出そうとしても、空中に浮いた自転車のように無意味に泥を掻くだけだった。
そして、今までは前に進んでいたから沈むスピードも遅かった。
体が止まってからは、もう下にしか体は沈まないのである。
腰までだったぬかるみは、腹を飲み込んだ。
ここにきて、本当に身動きがとれなくなった。
道路まではまだ1メートル前後の間隔が空いている。
救いようのないこの状況で確なことは、遅刻は免れないということだった。
今となっては遅刻よりも、ここから抜け出したいという想いだけだった。
いったいオレが何をしたというのだろうか、真面目に汗を流して働いて節操のある暮らしてきたオレが、どんな罰を受けることがあろうか。
怒りは嘆きに変わり、ぬかるみの冷たさが心地好く思える。
突然、頭の上の方から誰かの声がした。
初めは神か悪魔の声かと思ったが、よくよく聞いてみると知ってる声だった。
この時ばかりは、村一番の悪戯好きの少年すら神の使いに思えた。
「お〜い。カイン!!」
カインに向かって大きな声で叫ぶ。
「なんだい、そんな所で何を遊んでいるのさ。親方がカンカンだよ。」
ある程度、予想していたがこの状況を見ればいくら親方でも許してくれるだろう。
「出られないんだ。助けてくれよ。」
こっちに向かって来たカインに言う。
「分かった。助けてやるから、財布から10ドル投げて寄越してくれよ。」
状況をまるで楽しむようなカインに少し腹が立ったが、ある程度予想していたので10ドル投げてやる。
「ありがとよ、でもオイラの力じゃどうにもならない。仲間を呼んでやるから財布を投げてくれよ、一人10ドルで手伝わせるよ。」
助けてやるといって、どうにもならないなんて…
仕方なく、財布をコンクリートの道に投げた。
カインはそれを拾うと、仲間を呼びに行った。
しかし、待てど暮らせどカインは戻ってこず。もちろん助けもこなかった。
昼になると、すきっかり太陽が登り、身体中の泥が乾いてきた。
腹まで泥の中に埋まったまま日光はサンサンと体力を奪った。
水などはもちろんないまま、ついには干からびて意識も無くなりそうだ…。