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浅草夢幻譚 凌雲閣の女

作者: 菊池秀和

浅草夢幻譚 凌雲閣の女

                                    

                                          青山紀一郎


 あなたを買ってから十日になります。でも僕はまだ手を握ることも、抱きしめることも出来ない。声を聴くことも出来ない。いったいどうして、僕達は出会ってしまったのでしょう。こうして一緒にいても、話しかけることすら出来ないあなたに、何故、出会ってしまったのでしょう。

 嘉一郎はそう思いながら、部屋の寝台に仰向けに寝た。

 眠れない夜にも、風が暴れまわる嵐の夜にも、嘉一郎は彼女のことを想っていた。それは絶えず燃え続けるフィラメントのように、心の中でじくじくと疼き、嘉一郎の胸を焼いた。その胸は常に生生とした火傷に喘いでいた。

 火照った顔を、枕に埋める。うつ伏せになり、寝台に敷かれている布団を歪める。

 嘉一郎は寝台の上で、毛布を抱いた。そうして女性を抱く時の感触を試した。

 あなたの体もきっと、この毛布のように柔らかいのでしょうね。

 嘉一郎は囁いた。毛布に鼻を埋め、目を閉じる。冬のように近づいてくる眠気が身体を浸す。嘉一郎はその中にたゆたい、(まぶた)の奥に心地よい眠気が降りるのを感じる。眠りは心の番人だ。心の中に入ってくる原色の感情を整理し、必要の無い物、害をなす物を追い払う。全てをセピア色に変えて、額縁の中に押し込める。だが彼女だけは別だった。眠っても眠っても、その姿は色褪せる事無く、かえって(なまめ)かしくなりながら、嘉一郎の心に住んでいる。大いなる眠りの平和な力も彼女にだけは及ぶことが無かった。錆びた感傷を飲み込み、溶解して心を整える眠りまでも、彼女の前には悲しいほどに無力だった。

 ああ、いっそのこと、出会わなければ良かった!

 嘉一郎は思った。毛布を抱きながら寝台の上で震えていた。


嘉一郎は街に憧れていた。

それは屋敷での倦怠感を吹き飛ばし、鬱勃(うつぼつ)とした孤独感を跳ね返す街だった。胸の中で太陽のように輝き、前に向かって歩くことを考えさせる街だった。

浅草。この言葉は、淀んだ嘉一郎の胸に流れ込んできた。その中に顔を埋め、手で水を(すく)い、その清水の一滴までをも飲み干したかった。

初めて嘉一郎がこの街のことを知ったのは、学校の休み時間、同級生との会話がきっかけだった。

「活動を知らない?そんな奴がいるんだな」

彼はそう言って、さも自慢げに、どこぞの敵討ちだの嫁入りだのの話を、活動の活動弁士を真似ながら、濁った声で、その場面、場面を再現した。

浅草へ、活動を見に行きたい。

それが嘉一郎が浅草へ恋焦がれるきっかけだった。

「活動の他には何があるの?」

するとまたその同級生は得意げに言った。

「浅草には花屋敷がある。仲見世通りがある。大きな池がある。そこに藤棚の美しい池の橋がある」

それぞれの言葉が弾けていった。

そういう言葉を聞くうちに、浅草という言葉は、嘉一郎の中で根付き、根を下ろして、成長していった。六区の賑わいだとか、花屋敷という言葉が、その梢を茂らせ、幹を逞しくし、木陰を黒く大きくしていった。その広い木陰で、池の中洲にかかる藤棚の美しさを、花屋敷の楽しさを、百美人の(あで)やかさを思い描いた。

浅草へ行きたい。嘉一郎は思った。

嘉一郎は山川の運転する車に乗って、学校へゆく。

一日の課題を全て終え、学園の門の前で車に乗ったとき、嘉一郎は山川に行った。

浅草へ行きたい、と。

山川は言った。

「若様、浅草はいけません。浅草は。あれは若様のようなお方の通う街ではありませんよ。この山川、お父様からもよく言われているのです。蛾のような街にこの子を連れて行くなと」

昼の蛾のような街!この一言で、嘉一郎が描いた夢は一蹴された。嘉一郎は言いようの無い怒りを覚えたが、それ以上何を出来るでもなく、ただ山川のハンドルのままに、いつもと同じ道を引き返して、屋敷に帰るだけであった。帰り道に寄り道も無い、観光もない簡素な運転が、嘉一郎を連れ帰った。

こうなったらなんとしても、浅草へ行く。

嘉一郎はそんなふうに思った。

そんな六月のある日、山川は朝から具合が芳しくなかった。心臓が弱い彼は、急遽呼ばれた屋敷つきの主治医から、不整脈、生来の心臓疾患の診断を受け、当分の間、仕事にはつかぬよう言われた。

動揺したのは母の静江であった。山川がいなければ、あの子は学校へ行けない。代わりの運転手も、そう早くは手配できそうにない。

嘉一郎は言った。

僕がこの足で、学校まで通うと。

初めは大反対だった。

「切符も買ったことが無いお前がどうやって学園まで行けるというの?」

「お母様、どうかお許しください。僕は一人で学校へ行って見せます。切符なんて簡単ですよ」

嘉一郎は言った。

最終的には、父の洋助が判断を下した。そうして数枚の一円銀貨が入った財布が、嘉一郎に渡された。

「これも、お前が一人前になる機会かもしれん」

洋助は言った。

初めて歩く街路は、甘い夢だった。髪を結った女性、洋装の紳士、杖に下駄履きの老人などが右往左往し、自動車が、路面電車が、道々に溢れていた。

もちろん嘉一郎は、学園などに行く気はなかった。

目指すは浅草だ。路面電車を待った。

その時嘉一郎は、東京市街の地図を手にしている訳でも、電車の沿線にどのような駅があるかも知らなかった。だからどうしたら浅草へ行けるかと、車掌に訊いた。ひたすら電車を乗り次いだ。降りては待ち、来ては乗り、また降りる、そんなことを繰り返すたびに、街の顔が変わっていった。最後に乗った両国行きの電車の、広小路停留場が、小旅行の最後の駅になった。

浅草へ着いた。これは夢ではない。本物の浅草が、今、彼の目の前で繰り広げられていた。嘉一郎は地面を踏みしめ、浅草の中へと入り込んでいった。

それにしてもなんと音の多い街だろう。下駄の音が、草履の音が、そこらここらに交わされる言葉が、渡り鳥の群れの羽音のように、地上に轟いていた。左手には恐らく三階建てであろう楼閣が、夏の日盛りの下、甍を誇っている。その手前には、西洋風にあしらわれた水色の駐在所が、花の無い花瓶のように空疎に置かれている。正面に見えるのは仲見世だ。入り口には檜の高札が建てられ、途方も無く大きな字で、「開帳」と書かれていた。

 およそあらゆる人種の百科事典とも言える雑多な人々が、仲見世通りを動いている。そこは奇態な色の展示場だった。軍人あり官吏あり、駐在の警察官あり。そして数多くの女たち。あるものは芸者であったり、あるものは仲見世見物へと繰り出した洋装の婦人であったり、あるものは制服の(まぶ)しい女学校の生徒であった。 彼女らは笑いながら、仲見世を歩いている。

仲見世にならぶ商店は何れも堅牢な煉瓦造りで、店先には、二階部分にバルコンを配し、欄干を花で飾り、人形を置いている店あり、一枚の大きな紺色の暖簾に、店の家紋と扱う品々を書いた店ありと、進んでも進んでも、店が続いた。塩、しょうゆ、鰹節、昆布、煎餅、餅菓子、団子の匂いが、一帯を領している。そうして上を見上げると、高い木の木陰に半ば姿を埋めて、浅草寺の赤い山門が、巍巍としてそそり立っていた。その左手には凌雲閣の先端が見えた。

 浅草寺の朱塗りの山門は、鮮やかな丹の色をして凝っている。褪せた瓦を連ねて、凛として佇んでいる。嘉一郎は山門を過ぎた。

 嘉一郎の靴が砂利を踏み、浅草寺の境内へと入ると、まず右手に(そび)え立つ五重塔が眼を惹いた。紅白染めの大道芸人の小屋の向こうに、それは立っている。朱塗りの欄干に青い瓦。浅草寺の主がこの五重塔ならば、浅草六区の主は、間違いなくあの浅草十二階だった。

 浅草寺の境内から見たそれは、境内を取り囲む木立の向こう、夏の青空が地上の埃にまみれて色褪せるその場所に立っている。

 凌雲閣。浅草の天守閣。祭りと祝祭の総元締め。

 嘉一郎はきっと見つめると、そこに向かって歩み始めた。


入り口で四銭を支払った。嘉一郎は自分の紺色の制服が怪しまれはしないかと不安だったが、売り子はそんなことにかまうでもなく、釣銭を渡した。嘉一郎はえもいわれぬ快感を持ってそれを受け取った。

 嘉一郎は屋上を目指して階段を登った。塔内を巡るそれは、一つ階を登るごとに、並んだ窓からの眺めを変えた。二階、三階と上るにつれて、自分の背中に翼が生えたような気持ちがする。先ほどは花屋敷前の通りから見上げていた木立の梢が、手を伸ばせば届く程の距離に見える。さらに四階、五階と上ってゆく。嘉一郎は鳥になっていた。高みを目指して、雲を抜け天を駆ける鳥になっていた。早く屋上へ。はやる気持ちを抑えながら上を目指した。六階、七階、八階を巡る。嘉一郎はまだ止まらない。凌雲閣は嘉一郎にとって、金色に輝く希望だった。その輝きは生命の喜びに満ちている。心の中の暖炉へと、薪を放り込む輝きだ。学校で、屋敷で、彼に付けられた手枷、足枷から全てを解き放つ輝きだ。

 九階まで来た時、楽の音が彼の耳を貫いた。旋律も、歌詞もよく掴めない。色々な曲が一度に鳴らされている。三味線で、ヴァイオリンで、地声で奏でられた音楽の破片が、あたりに散らばっていた。屋上へと続く階段は、今度は塔の中心部に、螺旋階段となって現れた。十階、十一階と指折り数えて階段を登った。嘉一郎の口元から、熱い吐息が立ち昇った。額を流れる汗は、右目の(まつげ)へと滴り、左目の下の頬を流れた。

 ここにはもう天井はない。上へと続く階段もない。十二階だ。嘉一郎は屋上を流れる熱い夏の風にまどろみながら、下界を見下ろした。

 「お兄さん」

 声に振り向くと、一人の少年が、両手に紐のついた双眼鏡を、左手に三つ、右手に四つぶら下げながら立っていた。下駄をつっかけ、黒い半ズボンに、汗で汚れた綿のシャツを着た、年のころは十歳ほどの少年だった。

 「双眼鏡借りないかい?」

 澄んだ瞳をしたその少年がいった。

 「いくらだい?」

 嘉一郎が訊いた。

 「一銭だよ」

 「じゃあ貸しておくれよ」

 嘉一郎は一銭を支払い、双眼鏡を借りた。

 「君、名前は?」

 「鉄二」

 「君はもう働いているの?家族は?」

 「八歳の妹が一人、あとはお父がひとり」

 「君、学校へは行っていないの?」

 嘉一郎が訊いた。

 「おいらが働かないと、しずもお父も飯が食えない。朝と夜は新聞を配って、なんとか飯が食えるんだ」

 双眼鏡を手に呼吸を整え、ハンカチで額の汗を拭った。

 嘉一郎は初め裸眼で、屋上からの眺めを楽しんだ。

 富士を一望出切る景色。眼下には(おびただ)しい瓦屋根が集まっている。嘉一郎は下を眺めながら、屋上を回り始めた。築地の本願寺が彼方に霞んでいる。砂利のような建物の間に横たわるあの川は隅田川だろう。さいころを集めたようなあの場所は銀座に違いない。遠くには恐らくは房州の山々がうっすらと見える。凌雲閣の隣にある大池も見えた。池の水面は、夏の日盛りの日を浴びて、ちらちらと輝いていた。

 嘉一郎は今度は双眼鏡を持って、眼下の眺めを探った。

 一軒の家が見える。二階建てであるその家の二階の窓辺に、一人の女が、煙管(きせる)をふかしながら座っている。女は年のころはおそらく十七。朱色の浴衣を着て、胸元を露にして、外を見ながら涼風に身をさらしている様子。そこへ一人の男が現れた。紺色の浴衣を着たその男は、女を見るなり、いきなり平手を食らわした。打たれた女は、煙管をゆっくりと片付けると、男に向かい、何やら言っていた。数秒の後、男は女に抱きついた。男は女の顔を両腕で掴むと、その頬を、愛おしそうに撫でた。その両手は唇に、首元に、襟元へと、次第に下がっていった。男は乗りかかるように女にうつ伏し、接吻をした。じっとりと濡れた接吻である。両手はすでに肩を超え、腰の辺りにかかっている。男はさらに頭を下げ、両手で掴んだ腰の真ん中へ、顔を埋めた。その間、女の顔は眉一つ動かなかった。眼は虚ろで、男の手の為すがままに任せていた。

 これ以上見てはいけない。そう思いつつも、双眼鏡を握る手に汗が沸く。額から流れた汗が、首へと流れた。心臓の鼓動が鳴った。男は女の腰に当てた手を、ぐっと引き寄せた。窓辺から女が消えた。部屋の奥へと引き摺り下ろされた女の行方は分からなかった。

 これで良かったんだ。

 嘉一郎は思った。

 見えなくなって良かったんだ。言い聞かせるようにこう囁くと、嘉一郎は双眼鏡から眼を離し、大きく息を吸った。

 見ると先ほどの少年が、相変わらず双眼鏡を両手に、屋上にいた。嘉一郎は礼を言いながらそれを返した。

 「また来てね」

 「また来るよ」

 嘉一郎が言った。

 

 八階の休憩室で休んでいる時、嘉一郎は先ほどの少年の身の上を案じていた。

 一回一銭の双眼鏡を日に何台貸せば、食事代になるだろう。

 そう思いながら椅子を離れると、嘉一郎は、今度は自身の身の上を案じた。

 学校へは黙って休んでいる。家族へ連絡が行くに違いない。なんと言って言い訳しようか。

 そう考えながら休憩室を出、嘉一郎は凌雲閣の内側にぐるりと並んでいる商店をひやかした。大げさなものではない。一間ほどの間口の商店が並んでいるに過ぎなかった。

 嘉一郎はそこで、彼女に出会った。

 美術「北門(ほくもん)堂」は神田に店を構える画廊だった。扱う品々は浮世絵、錦絵である。

 主人の西野加助は豊原国周、月岡芳(よし)(とし)、歌川広重三代などの名品を多く蒐集し、その商品名鑑は、さながら一館の美術館の如く、古今の逸品を集めていた。凌雲閣が開業した明治二十三年、加助はそこの八階に支店を出すことにした。

 硝子張りの陳列棚の中に、築地の異人館だとか、ガス灯が灯る銀座通りの町並みを描いた開化絵や錦絵がところ狭しと飾られていた。たおやかな筆遣いは、銀座の煉瓦建築を、鉄道馬車を、その中を行く洋装、和装の人々をとらえ、見るものの眼を惹いた。店の奥には、「定之方中(ていしほうちゅう)」と書かれた掛け軸が掛けられていた。店を任せられたのは、息子の留吉である。

 客足は順調だった。少なくとも商いを始めてから十年は、やれ浅草に一大高層楼が出来たといって毎日店に来る客がいた。流行の洋装に身を固めた彼らは、錦絵を、二円で、三円でと買っていった。それが次の十年では活動が流行りだし、これに客を取られること幾星霜、最後の十年には、八階の売り場は客足が途絶え、手練手管を尽くして仕入れた品々は、誰が買うでもなく、空しく陳列棚に輝いていた。

 六月のある日、その青年はやって来た。

懐かしい。

 初めてその店の陳列棚を眺めた嘉一郎は思った。思い返せば子供の頃、屋敷の納戸の中で、父が蒐集した錦絵を眺めた記憶がある。

その時である。一人の女が、嘉一郎の眼にとまった。

 黒髪を、薄紫色のリボンで一つに束ね、それを頭の後ろから、背中へと垂らしていた。前髪はしんなりと涼しそうな額を覆っている。その間から覗く眼は輝き、けだるそうに萎れた眉が、一抹の悲しさをその眼に与えていた。柔和な輪郭。小さな鼻。ほのかに赤い唇。その顔から伸びる細い首は、藍色に紺の青海波(せいがいは)を象った着物の合わせ目の中に続いていた。胸元は優しく膨らみ、右手が、その上に置かれていた。女の輪郭を描く筆遣いは淡く、夥しい色が氾濫し、滴るような絵姿をなぞっていた。その女の顔を見た時、嘉一郎は、全身の血液が湯立つ思いがした。口元からは熱い吐息が立ち上った。嘉一郎の心臓を、女の手が掴んだ。その眼に、その口元に、言い知れぬ磁力が宿り、嘉一郎の両目を、引きずり込んでいた。少年期の甘い思い出が蘇り、それが女への恋慕とあいまって、一曲の旋律のように奏でられた。

 「名前を」

 嘉一郎は囁いた。

 「名前を、教えて欲しいんです」

 店の主人は、先ほどから一枚の美人画を凝視するこの青年を、半ば不思議そうに眺めていた。

 「名前は、そこに書いてあるでしょう」

 そう言って主人は、天眼鏡を手に陳列棚を開けた。女はいともあっけなく、主人の指でつままれて、棚の上に置かれた。

 「絵は歌川豊(ほう)(らい)。この女の名前は琉奈(るな)。最晩年の作で、恐らく娘のおときの友達を描いたものでしょう」

 そう言って主人は天眼鏡越しに説明した。

 「いくらですか?」

 「三円です。ですがまあ、どうしてもというなら、二円五十銭にいたしましょう」

 嘉一郎は財布を見た。行きの電車で半ば以上使い果たしたとはいえ、まだ財布の中には、鈍く輝く一円銀貨が三枚、入っていた。

 「これを下さい!」

 嘉一郎は言った。この女を手元に置きたい。誰にも触らせたくない。自分だけの、「琉奈」が欲しい。嘉一郎は震える手で、一円銀貨を手渡した。


 もし世界が時計なら、そのねじを巻くのは女だ。その時計は、決して解けきることの無い神秘的な発条(ぜんまい)で、世界の歯車を回し、太陽を持ち上げ、星を動かし、月を昇らせる。秒針は絶えず動き続け、二度とは帰らない青春という思い出を、若い時というかけがえのないひと時を、人間の人生に打ち込んでゆく。

 十四歳の嘉一郎にとって、琉奈との出会いはまさに時計が打ち込んだ楔だった。それは嘉一郎の心に突き刺さり、それまで味わったことのない思いで嘉一郎の胸を満たした。嘉一郎の中にある淀んだ水が、楔に応えて、潮のように飛沫を上げていた。琉奈への想いの最中で、嘉一郎の心は海になった。それは惜しみなく与えられた太陽の光によって熟れたオレンジのようでもあった。

 琉奈さん、僕は幸せです。こうしてあなたとともにいられる事が。でも出来ることなら、僕はあなたと話したい。言葉を交わしたい。手を握り締め、抱きしめたい。天の高みから見下ろすあなたに、一度で良いから口づけをしたい。こんな風に思うのは罪ですか?

 窓の外の景色が琥珀色に滲んでいる。嘉一郎は時計を見た。七時三分だった。

 今日もまた、空しく一日が過ぎていく。部屋に差し込む夕日の只中で、嘉一郎は寝台に横になっていた。

 父も母も黙っている。学園からの知らせは、今度ばかりは来なかったようだ。明日からは学園の帰りに、浅草へ行こう。

 琉奈さん。

 嘉一郎は寝台の上で、一枚の彼女をまざまざと眺めた。琉奈は相変わらず、物憂げな顔で絵の向こうに佇んでいた。


 七月の浅草は、車夫、紳士、老人、芸者が仲見世を行きかう。彼は浅草寺で観音様への参拝を済ませると、凌雲閣へと向かった。

 花屋敷の前の通りを歩く。入り口に二本の日章旗を掲げた入り口は、水色の門があしらわれており、その入り口の横には、花屋敷の塀が続き、赤や黄や桃色の提灯が飾られていた。左手には池を囲む木立が、梢の間から輝く池の水面を覗かせながら、枝を風に揺すっていた。

 凌雲閣の屋上に着いたのは午後四時半。塔の上には特に人影も無く、あの少年が、またやって来た。嘉一郎は一銭を支払い、双眼鏡を借りた。うだる夏の夕暮れ時、嘉一郎は双眼鏡を片手に、塔の上を歩いた。

 「お父さんは元気かい?」

 嘉一郎が訊いた。鉄二は首を振った。

 「胸をやられているみたいなんだ。咳をするたびに、つぶれた苺みたいな痰を吐いてさ」

 「薬代は、君が稼いでいるの?」

 嘉一郎が訊いた。鉄二は頷いた。

 「しずちゃんはどう?」

 「お父の看病さ。でも最近は困っている」

 「君が?なぜ?」

 「殺してくれっていうんだ。台所から出刃包丁を持ってきてさ。一思いに心臓を刺してくれって。おいら、どうしたらいいか」

 そう言って鉄二は、下界を見下ろした。悲しげな瞳が、一瞬輝いた。

 嘉一郎は鉄二を見ながら、なんとかこの少年の心を勇気付ける方法はないかと案じていた。そうだ。

 嘉一郎は鞄を開けると、数枚の紙切れを取り出した。

 「「いせ(たつ)」の千代紙だよ。これで鶴を折ろう。お父さんの病気が良くなるようにさ」

 黒と灰色の葉に蜂蜜色をした椿が描かれたもの、緑地に白のレース編みのように桜草を描いたもの、暖かそうな蜜柑色をした地に、黒の縞模様が描かれているもの、白地に緑のつる草と赤い花を描いたもの、どれも嘉一郎が好んで、収集したものであった。鉄二は初めは目を躍らせ、ぽかんと口を開けて眺めているだけであったが、やがて無垢な笑みを浮かべて、千代紙を手に、千羽鶴を折った。十五分ほど後、五羽の鶴が出来上がった。鉄二は嬉しそうにそれらを眺めた。嘉一郎は初めて、この少年の笑顔を見た。

 「お兄さん、僕、本当にありがたいと思ってるよ。だから今度は僕がお兄さんのお願いを聞いてあげる」

 謎めいた一言に、一瞬嘉一郎は戸惑った。

 「兄さん、恋をしているね」

 その一言は嘉一郎の胸を射抜いた。

 「どうして分かるの?」

 「お兄さん、この浅草十二階、この高さにいるとね、理性は解けて、常識は崩れて、牛乳のように流れているんだ」

 鉄二にそう言われてみると、嘉一郎はその言葉がまんざら嘘ではないと思うようになった。あのけだるい八階の休憩室。人気の無い屋上。明治の開業当初は人が溢れていた凌雲閣も、活動や浅草オペラの興隆とともに次第に客が減り、今では塔は濁った空気が満ちていた。

 「お兄さん、初恋の相手と話したいんだろう?」

 「ああ、話したい。でも無理なんだ。その人は絵だもの。この世に存在しない夢だもの」

 「お兄さん、言っただろう。この高さにいると、下界の常識は音を立てて崩れていくって。手紙を書きなよ。そうしたら僕、それをその人に渡してあげる」

 どこまでが本当なのか。冗談なのか、からかう気なのか、よく分からなかった。しかし鉄二の言葉は、はためいている嘉一郎の心を押さえ、落ち着かせた。

 「君は絵の向こうに行けるのかい?」

 嘉一郎は半ば疑いを持って鉄二に訊いた。

 鉄二は頷いた。

 「じゃあ、僕を連れて行ってくれ。そうしたら僕、自分の口であの人に声をかけようと思う」

 嘉一郎がそう言うと、鉄二は首を振った。

 「僕でないと駄目なんだ。今度の満月の夜、僕は絵の向こうに行ける。それまでに手紙を、書いて欲しいんだ。いいかい、次の満月の夜までだよ」

 そう聞いて嘉一郎は、とにかくこの少年に望みを託してみようという気持ちになった。

 「分かったよ」

 嘉一郎は言った。

 「手紙を書いて、持って来る。だからぜひともそれを届けて欲しい。いいかい?」

 「ああ」

 空を見上げると、解け残った真昼の月がかかっていた。

 次の満月の夜までに。

 嘉一郎は胸が弾んだ。そうしていつものように、眼下に広がる町並みを、双眼鏡で探り始めた。

 

 拝啓

あなたにこうしてお手紙を差し上げることになろうとは誰が考えたでしょう。でも私は今、尋常ならざる興奮に胸を躍らせております。

 琉奈さんにはいくつかの質問があります。

 まず琉奈さんは、どこに住んでいるのですか?どこの出身なのですか?何歳なのですか?それと、これが一番聞きたいことなのですが、僕のことをどう思っているのですか?

 あなたは見たところ、なにか物憂げな、病んだような顔立ちをしていらっしゃる。その理由はなんですか?

 もし僕に出来ることがあれば、お手伝いいたします。あなたの力になります。ですからどうか、その悲しみの理由を教えてください。

                                      敬具

 ここまでを一息に書いてから、嘉一郎は筆を置いた。透かしの入った上等のフールス紙のうえに、万年筆で書き連ねた字が、涼やかに蒼く照り映えていた。

 時は七月の望月の頃、空には毎夜、少しずつ完全な円形になっていく月が輝いていた。

 嘉一郎は便箋を三つ折にすると、春陽堂の印がおされた、南天の実と葉が描かれた絵封筒へとしまった。

 「分かった。引き受けたからね」

 七月のある日、凌雲閣の屋上で、鉄二は言った。彼はその封筒を受け取ると、鳶色の肩掛け鞄へと仕舞った。

「返事は僕が持ってくるから。一晩待っておくれよ」

「明日には返事が来るのかい?」

 鉄二は頷いた。

 それからというもの、嘉一郎は気もそぞろに、屋敷に帰ってからも返事のことが気になり、食事を半分も終えないうちにナイフとフォークを揃え、晩餐を終えた。

 部屋に戻ると嘉一郎は、その絵のためだけに空けた引き出しの中に仕舞ってある琉奈を取り出すと、薄明るい卓上ランプの淡い光で、彼女を見た。何度見ても見飽きない、いや、眺めるたびに新たな輪郭が、筆遣いが浮かび上がり、その美の甍を頑丈にした。彼女の返事が読めるのだ。こう考えると嘉一郎は、えもいわれぬ高揚感を覚えた。その夜、嘉一郎は興奮のためになかなか寝付けなかった。眼の光が失せず、意識も明瞭なまま三時を打つ時計の音を聴き、それから二度、三度と寝相を変え、四時の鐘がなる頃、ようやく眠りの(とばり)が降りた。

 

 翌日、嘉一郎は凌雲閣へと行った。なんと返事があるだろう。僕の字が下手だと思いはしないだろうか。質問も、あまりにも一時に踏み込みすぎたかな。

 あれこれ考えながら十二階へと着いた。鉄二がやって来た。

 「はい、お返事」

 見ると、日に焼けた少年の右手には、白い長封筒があった。

 「もらってもいいのかい?」

「返事があるなら持って来て。また渡しにいくから」

そしていつものように、屋上にいる少ない客に、双眼鏡の貸し出しの呼び声をかけていった。


 嘉一郎は帰宅し、部屋に着いた。中から鍵を掛けた。

 鞄の中から封筒を取り出すと、手に取り、数枚の便箋が入っているであろう事を確かめた。次に切手の有無を調べた。切手は貼っていない。

 「嘉一郎様へ」と鉛筆で書かれた宛名のみである。住所が書かれて無いか調べたが、何も書かれていなかった。

 嘉一郎は机の引き出しからペーパーナイフを取り出すと、封を開けた。

 中には数枚の便箋が、それは質素なわら半紙であったが、入っていた。わら半紙の朱色の罫の上に、丸みを帯びた鉛筆の文字が並んでいる。


 拝啓

 嘉一郎様。お元気ですか。先日はお便りを戴きましてありがとうございます。

 私への質問があるのですね。お答えさせていただきます。

 まずどこに住んでいるか、についてですが、わたくしは白金に住んでおります。番地までは言えませんが、白金です。どこも皆、塀の長いお屋敷ばかりでございます。わたくしの家はといいますと、あのあたりでは中くらいのお屋敷でしょう。

 次にどこの出身なのかとありますが、わたくしは京都の出身です。家は江戸時代から続く呉服屋でした。豊雷先生に描いて頂いた時にわたくしが着ていたのは、母が特別に仕立ててくれたものなのです。

 さらに何歳なのかというご質問ですが、わたくしは十七になります。

 あなたのことをどう思っているかというご質問ですが、わたくしは、北門堂の狭い陳列棚が嫌で嫌で仕方がありませんでした。それに始終人が行き来して、落ち着きません。そんな境遇からわたくしを救ってくださった嘉一郎さまですもの。誰がいやといいましょう。

良くぞわたくしを買ってくださったと感謝いたしております。さらに嘉一郎様の部屋の引き出しは、良い木で造られたしっとりとした落ち着きがあります。ここで好きに眠れることが、今のわたくしにとって大変な喜びです。ですから嘉一郎様、わたくし、あなたを嫌いだとか、うるさいだとか、思っておりませんのよ。全然。どうか自信をもって、私を扱ってくださいまし。

 悲しみの理由ですか。わたくしそんなに暗い顔をしていたでしょうか。いつものように朝起きて、髪を整えて、着物を着て、それで豊雷先生に描いて戴きましたのよ。

 嘉一郎様の思いは杞憂ですわ。

 私はいつでも元気です。だからどうか嘉一郎様、ご安心なさって、学業に精をだしてくださいまし。

 長くなりましたわ。今日はこれまで。それではさようなら。

敬具

嬉しかった。嘉一郎は引き出しを開け、琉奈を見た。

 分かったよ琉奈さん。この引き出しがお気に入りなのですね。ではどうぞゆっくり休んでください。


嘉一郎は朝起きると、まず引き出しを開ける。そうして琉奈におはようを言う。いつも変わらぬ顔の琉奈を見て安心する。それから顔を洗い、歯を磨き、母が作った冷製スープを飲む。

路面電車は合いも変わらず混んでいる。出勤途中のサラリーマンで溢れた車内、嘉一郎は右に左にと揺れる電車に乗っていく。

凌雲閣の屋上で、嘉一郎は鉄二と会った。

嘉一郎は、この少年がどうやって絵の向こう側へ行くのか考えていた。

「ねえ鉄二、君は一体どうやって絵の向こう側へ行くの?」

すると鉄二は優しい顔で、こう言うだけだった。

 「それは秘密だよ」と。

 でも嘉一郎は嬉しかった。こうして琉奈と話が出来るのだ。


浅草十二階の下には迷宮がある。

長い夏の一日が終わり、太陽が瓦屋根の連なる歪んだ稜線の向こうに沈み、軒先にそよ風が漂う頃、女たちは動き出す。

一人の男が街の中に足を踏み入れた。一日の仕事を無事終えて、道具箱片手に帰る板金工である。年のころは四十二三、肩のすわったいかつい身体にハッピを着込み、雪駄を鳴らして道を歩く。軒端に下げられた提灯のか細い光が、街路をまだらに彩っている。

一軒の酒屋の玄関先にある格子窓の向こうから、紫色の浴衣を着た若い娘が、髪を桃割れに結い、まどろんだ瞳を輝かせ、首まで塗った白いおしろいを匂わせながら、男に声をかけた。

「ちょいと、よってらっしゃいな」

男は動じる風も無く、急いでるんでね、とだけ言うと、さっさとその場を離れた。

また別の店先で、男を呼ぶ声がする。

「ちょいと、遊んでおいきよ」

二重の眼が澄んだ、腰まで髪を伸ばした女である。男はまたも動じず、目を背けて通り過ぎた。

こうして歩いている間にも、向こう三軒から、両隣から、無数の声が男を呼んでいた。それは男を仕留めようと躍起になる女たちの戦場だった。家の軒先にある格子窓、その中からは、情念のこもった悲しい瞳が、男たちへと向けられていた。男はその視線に何を思うでもなく、街のはずれへと遠ざかって行った。

「ちっ、逃げられたよ。おい、おゆき、もっと声を膨らませて、咽喉の奥からしっかり出さないといけないじゃないか」

昆布色の留袖を着た一人の老婆が、店先に現れた。御祭燈のほのかな明かりが、執拗に刻まれた皴の多い顔を照らし出した。

「あたし、これでも一生懸命やってるんだよ」

そういわれて一人の少女が、格子窓の向こうから言った。

藤色の浴衣に浅黄の帯、夕顔の花が描かれたうす桃色の団扇を手にしたその少女は、さっと身を起こして格子窓を離れると、店の軒先へとやって来た。切れ長の眼が涼しい、長い黒髪を両肩に垂らした少女である。右目の下には小さな泣き黒子がある。

「おい、勝手に店の前に出るんじゃないよ。あからさまな客引きはならないとのお達しさ、おとなしく引っ込んでな」

老婆が言った。

その時一人の少年が、二人のもとへとやって来た。下駄履きに鳶色の鞄を下げ、白いシャツを着た、年のころは十歳ほどの少年である。

「鉄二じゃないか」

少女が言った。

「この小僧が、仕事中は来ちゃ行けないって言ってあるだろう。それにここはあんたがくるような場所じゃないよ。早いとこお帰り」

老婆が言った。

「ごめんようおつるさん。大事な用なんだ」

「手紙の返事かい?」

少女が訊いた。少年は鞄から鉄砲百合の絵が描かれている絵封筒を取り出した。

「わかったよ鉄二、また返事を書くから」

少女はそういうと、うれしそうに封筒を抱きしめた。

おゆき。本当の名は幸田祥子は、今ではかの吉原にも遜色ない色町となった、「十二階下」の私娼である。

紀州の生まれで、八歳の時に母を亡くし、父と二人暮らしとなった。家は藩の御典医を務めた家柄で、父の甲雲は儒学にも造詣のある医学者であった。その父も十歳の時に世を去り、祥子は父母なき子となった。親戚の一人で、書店を経営する十衛門の下に身を寄せるも、なじめず、十三歳の春、父が残したわずかな漢籍と金を風呂敷に包み、東京へと向かった。行きの汽車の車中、おゆきは父が残した漢籍を読んだ。「大雅、久しく(おこ)らず」「燕々ここに飛ぶ この子ここに嫁ぐ」「秦皇 六合(りくごう)を掃いて 虎視 なんぞ勇なるや」幼い頃に父から聞かされた漢文の詩句が、その胸に満ちていた。

奉公するには年を取りすぎている。自分で仕事を始めるにはまだ若い。大人でも子供でもない、そんな年齢の祥子は、やがて物乞いをするようになった。それが日ごとの食事にも事欠くようになり、やがて十六歳になった彼女は、その身体を売ることになった。

千束の街で、夜、男を引いた。

十六歳にして操を捨てた少女は、かくして十二階下で酒屋を営むおつるのもとへとやって来た。酒屋といっても、申し訳程度に二三の酒瓶がカウンターテーブルに備えられているだけである。そこはこれまでの暮らしに比べれば、幾分快適な場所だった。三度の食事は出る。寝る場所も確保できる。こうして祥子は、「おゆき」という源氏名を持つ私娼となった。


「すぐに返事を書くから、持っていっておくれ」

おゆきが言った。鉄二は頷いた。

「この子ときたら、返事をもらうまで動かないんだからね。仕事の邪魔だよ。あっちへお行き」

「堪忍してよおつるさん。大事な人のためなんだ」

空には月がかかっていた。輪郭の明らかな三日月である。早くも夏の星星が、一面に輝いていた。

 前略

琉奈さん、私にはあなたが人間とは思えなくなりました。あなたにはなにか神秘的な、人知を超えたものを感じる。私が思うに、あなたは天女なのではないかと。羽衣をまとい、淡い青色の着物を着て舞い踊る天女ではないかと。そんな風に思えてなりません。

最近私はよくこんな風に想像します。もし私たちが出会うとしたら、その場所はどこにあるのか。私のほうからあなたのほうへ、絵の向こう側へと行くのか、それともあなたのほうから私のほうへ、絵の中から飛び出してくるのか。またこんなことも考えます。今絵を手にしている私は、自分の側が現実であり、絵の中が虚構だと考えています。でももしかしたら、現実なのはあなたがいる絵の方で、私たちのほうが、虚構なのではないかと。絵を描く画家は、現実と虚構との橋渡しをするのでないかと。

草々


「決めた、あたし、嘉一郎さんに会う!」

八月のある日、おゆきは鉄二に言った。

「そんな、それじゃあいけないや、嘉一郎兄さんはおゆきちゃんの手紙を本物の絵の中の人からのものだと思ってるんだもの」

大池の中洲にかかる橋の上、五月には美しい藤の花がさく藤棚の下にあるベンチで、鉄二とおゆきはラムネを飲んでいた。

「鉄二、嘘はいつかバレるのよ。それならいっそのこと、こっちから会ってあげたほうがいいわ」

そういっておゆきは、緑色のラムネの瓶を手に立ち上がると、池を眺めた。夏の午後。池は濁っていた。橋の上には麩を持った数人の観光客が、その切れ端を池に投じていた。数匹の鯉が、背びれをほのめかしながら動いていた。池の向こうには噴水が、ほとばしる水の音も涼やかに、水面を震えさせていた。

「ねえ鉄二、次の手紙は、八月の中旬、満月の夜だろう?」

鉄二は頷いた。

「じゃああたし、その手紙で、嘉一郎さんに会いますって約束する」


八月の半ば、満月の夜。鉄二は嘉一郎からの手紙をもっておゆきの元へいった。

例の如く、水色地に白で竹の木を描いた絵封筒で、それは届けられた。

「じゃああたし、返事を書くからね。たのんだよ」

午前四時半。かきいれどきは過ぎていた。おゆきは眼の下にうっすらとくまを浮かべながら、様々な男たちと交わった身体を白い浴衣に包んでいた。なだらかな雪山のように柔和な肩の線、かすかに火照った首筋、鼈甲のかんざしでまとめた髪のうなじが見える。奥の座敷へと下がった二人は、電灯の灯る中、卓を囲んだ。おゆきはいつものようにわら半紙を数枚持ってくると、鉛筆を手に、手紙を書き始めた。


前略

 嘉一郎様のおっしゃる通り、わたくしたちが出会うのは、わたくしが絵の中から飛び出して行くか、それとも嘉一郎様がわたくしの世界へ飛び込んでくるのか、それは会ってみなければわかりません。 

 九月一日に、会いましょう。凌雲閣で合いましょう。最上階の十二階で。そこへわたくしも参ります。

 正午に、お会いしましょう。                         

草々

 大正十二年九月一日は朝から良く晴れた日であった。

 前日までの風雨も朝にはおさまり、空には太陽が昇り、東京の街を焼いていた。

 今日ばかりは嘉一郎も、動揺せずにはおれなかった。

 琉奈さんに会えるんだ。そう思いながら嘉一郎は、いつものように引き出しを開け、琉奈におはようを言う。

 琉奈さん、あなたのほうから飛び出してくるのか、私のほうから飛び込んでゆくのか、果たしてどちらになるんでしょうね。

 そうして引き出しの中から琉奈を取り出すと、折れたり曲がったりしないように、大判のノートの間へはさみ、鞄の中へとしまった。

 嘉一郎さん、今日から学校ですよ。予習は済んだの?宿題はやってあるんでしょうね。

 そんな母の言葉も、嘉一郎の耳にははいらない。ただ、いつものように適当に返事をするだけであった。

 朝食を済ませる。南側に面したサンルームに、熱い夏の陽が差し込んでいる。置かれている籐の椅子が、硝子のテーブルが、今にも解けそうな気がする。

 紺色の制服を着る。そして鏡の前で、自分の表情を確かめる。

 寝癖はついていない。目やにもない。いつもどおりの睫の長い眼である。口を開けて、歯を見る。その色は白い。

 

 停留場で市電を待つ。暑さが両腕と首筋に溢れ、湯に浸かっている気がする。額には早くも汗が滲んだ。嘉一郎はハンカチでそれを拭う。列車がやって来た。嘉一郎は目の前に並んでいた三人のサラリーマンの後に続いて、列車に乗った。ベルが鳴り、列車が動き始めた。

 正午までにはまだ時間がある。どこかで暇を潰そう。

 新宿御苑にでも行けば、たっぷり時間を費やせるだろう。渋谷へ行ってもいい。銀座でもかまわない。デパート、庭園、博物館、図書館。これらの施設なら、人目を気にせずにのんびり出来る。

 そう思いながら、嘉一郎は列車の窓から、夏の朝の景色を見る。街路に溢れる人、道を行く車、全てがいつも通りだった。

 その景色に何の疑いも持たず、夏の一日へ漕ぎ出した。


 明け方に眠り初めてから六時間ほど、いつもよりやや早い目覚めにおゆきは半ば戸惑いながら眼を覚ます。昨夜は盛況だった。夜の七時に最初の客を捕まえて以来、八時、九時と三人の客が入った。十一時を回るころ、いったん客足は途絶えたが、日付が変わる頃からまた客がやって来た。明け方までおゆきはその可憐な咽喉を使って喘ぎ、華奢な両手を使って男の肩につかまり、柔和な両足を使って男の身体をはさんだ。ひとたび交わるごとに、全身の筋肉がびくびくと震えた。

 寝巻き姿のままおゆきは、布団の上で上半身を起こす。起きた瞬間、両足に痛みを感じる。震える足で起き上がると、手鏡で顔を見る。

 昼の娼婦の顔ときたら、乾いたそっけなさを孕んでいる。夜の電灯の元では、あれほど輝いていた眼が、頬が、唇が、さっぱりしている。

 おゆきは部屋の時計で、時間を見る。十時を回ったところだ。

 着替えよう。

 おゆきは思った。

 


 温室には、南洋の国々から運ばれた沢山の熱帯樹が、葉振りを存分に茂らせて青い葉を中空に伸ばしていた。夏の温室は虚ろで、疲れた静寂が木陰に宿っていた。嘉一郎は順路に従って、広大な温室内を右に左にと進んでいった。睡蓮を植えた池もあった。青臭さが水面に漂っていた。

 嘉一郎は時計を見た。十時半であった。

 そろそろ浅草へ行こう。嘉一郎はそう思うと、足早に温室を巡り、そこを出た。


 「おはよう、鉄二」

 おゆきが声をかけた。

 「ああおゆき姉ちゃん、おはよう」

 夏の陽を受けて輝く水面が、おゆきの眼を刺した。こんなに明るい日は昨日の風雨からは予想もつかないものだ。おゆきの家の屋根瓦を叩き、戸口を揺すっていた雨風からは考えられない上等の青空が広がっていた。蝉の声があらゆる木陰に沸いている。

 「今日は仕事はいいの?」

 「これから上るところさ」

 「じゃあ一緒に行こう」

 おゆきはそう言って、鉄二の肩を抱いた。女の味を知らない未熟な肩だった。おゆきはシャツの下に収まっている少年の無垢な身体を思った。鉄二の肩に触れたとき、えもいわれぬ幸福感が胸に溢れた。

 目の前を見ると、銀色の懐中時計が落ちていた。おゆきはそれを拾うと、傍らにいる老紳士へと手渡した。

 落としましたよ、と。

 「ああ、これは失礼」

 紳士は笑顔でこれを受け取った。

 おゆきは何気なく時刻を見た。十一時半であった。

 そろそろ上らなきゃ。

 おゆきは思った。


 こんなに熱い夏の日にも、仲見世はいつも通り人で溢れている。嘉一郎は人ごみを掻き分けながら、通りを進んだ。浅草寺の山門へと着いた。嘉一郎は時計をみた。

 十一時四十五分であった。

 琉奈さん、私には分かっていました。あなたはそもそも、この世界に存在してはならない物なのだということを。その微笑が、その首筋が、その目元が、その白い手が、存在してはならない物だということを。

 嘉一郎は時計を見た。十一時五十三分であった。

 私には分かっていました。あなたほど寛容な人間はそもそもこの世に存在しないのだということを。それを存在させてしまった絵師は、罪深き存在です。


 十階へと続く階段を登りながら、おゆきはまだ嘉一郎は着ていないかと気になった。会ったらなんと挨拶しよう。今までの経緯をどう説明しよう。自分の身の上をなんと話そう。そんな風に考えて十二階へと登っていった。十階だ。果てしなく広がる空はもうすぐだ。夏の青空はその面影を、十一階の階段へと滲ませていた。鉄二の手を引いた。まさぐることを知らない無垢な手。おゆきはその手を握り締めた。

 

 この夏の只中に、眠っている静謐を宿している凌雲閣。全ての始まりであった浅草十二階。嘉一郎は今その十階へとやって来ていた。そのまま足を運び、十一階へと進んだ。

 

 「ほら、富士山が見えるよ!」

 おゆきが鉄二に言った。鉄二は感嘆して、しばしの間眺めいっていた。


 午前十一時五十八分。もうすぐ正午です。十二階です。出会ってはならない物に、出会う時がやってきます。


 おゆきは階下から登ってきた青年を見た。嘉一郎もおゆきを見た。瞬間、一頭の静寂が、駿馬の如く駆け巡った。


 琉奈さん?!

 嘉一郎さん?!


 その時、雷のような音が階下から急上昇してきた。空の果てまで轟くような音色である。音は凌雲閣の脊髄を突き抜けると、次の瞬間、猛烈な勢いでその頭を揺さぶった。右が左に、左が右に、その居場所を奪い合っていた。十二階の床が裂けた。その裂け目に現れた煉瓦造りの鋭い歯は嘉一郎を、おゆきを、鉄二を、飲み込んでいった。あらゆる物が揺れていた。あらゆる物が崩れていた。天の高みにまで登った嘉一郎は、おゆきは、鉄二は、翼を崩して落ちていった。全てのものに終末が訪れた。全てのものを炎が覆った。瓦礫と飛礫に紛れて、奈落の底へと落ちてゆく嘉一郎は、その意識の最後のひと時に、こう呟いた。

 

 これが、あなたなのですか。

                                       完


 

 

 

 


 



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