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あの日、俺の世界は塗り潰された

作者: 唯乃
掲載日:2026/02/25

「争いは好ましくありません」に出てくる王子レオンハルト視点の物語です。

 晩餐会まで、あと一時間。


 レオンハルト・ヴァルツェは廊下を歩きながら、頭の中でもう一度、今夜の段取りを確認していた。


 証人は三名。席はそれぞれ、ミレイユから見える位置に配置してある。


 罪状は五項目。読み上げる順番も決めた。

 最後にセシリアが涙ながらに証言し、場が揺れる——そういう構成だ。


 完璧だった。


 レオンハルトは自他ともに認める完璧主義者だった。

 婚約破棄という行為ですら、演出として仕上げる。


 それが彼のやり方だった。


 相手に逃げ場を与えず、言い訳の余地もなく、衆人環視の中で罪を暴く。

 ミレイユ・アステルという女が、どれだけ取り繕おうとも——今夜ですべてが終わる。


「殿下」


 廊下の角で、侍従のクラウスが一礼した。


「晩餐の準備は整っております。給仕の者も所定の位置に」


「わかった」


 頷いて、通り過ぎる。


 その時、ふと気になった。


 クラウスの顔が、やけに穏やかだった。


 別に変なことではない。彼はいつも落ち着いている。

 だが今夜は、もう少し張り詰めた顔をしているべきではないか。

 今夜が何の夜か、彼も知っているはずだ。

 王太子が婚約者を断罪する、歴史的な夜だ。


(……緊張感が足りない)


 レオンハルトは小さく眉を寄せた。


 厨房の前を通ると、料理人たちの笑い声が聞こえた。

 賑やかすぎる。

 もっと粛々と動くべきだろう。


 謁見の間の手前では、騎士が二人、壁にもたれて何かを話していた。

 雑談だ。

 非番ではあるが、今夜は控えるべきだろう。


 父王のいる執務室の前を通った時、扉の隙間から明かりが漏れていた。

 声はしない。


 最近は口数が少ない、と側近から聞いていた。

 体調が悪いのだろうか。それとも今夜のことを知って気が重いのか——どちらでもいい。

 今夜は自分が主役だ。


(みな、浮ついている)


 レオンハルトは一度深く息を吸った。

 今夜は歴史的な夜だというのに——なぜ、誰も緊張していないのだろう。


 その疑問は、しかしすぐに頭の隅へ追いやられた。 段取りの確認の方が大事だ。


 証人の名前を、もう一度頭の中で並べる。ガルヴァン、リーゼ、トール。順番は——


「殿下、お時間でございます」


 別の侍従が、大広間の扉の前で待っていた。


「うむ」


 レオンハルトは顎を引いて、扉へ向かった。


 その背後で、廊下に笑い声が響いた。騎士たちの声だ。


 彼は振り返らなかった。




 大広間は、いつもより明るかった。


 燭台の数を増やすよう指示したのはレオンハルト自身だ。

 暗い場所では人の表情が読めない。

 今夜は、ミレイユの顔をはっきりと見届ける必要があった。

 彼女が青ざめる瞬間を、震える瞬間を、言い訳を探して目を泳がせる瞬間を——全部、見る。


 席についた貴族たちは、思い思いに会話を楽しんでいた。

 グラスが鳴る。

 楽団が軽やかな曲を奏でている。

 料理の香りが漂っている。


 レオンハルトは上座から、ゆっくりと広間を見渡した。


 証人のガルヴァンは左側の席だ。確認する。いる。リーゼは中央寄り。いる。トールは右の柱の近く。いる。


 セシリアは、ミレイユの二席隣に座っていた。

 目が合う。

 彼女はわずかに頷いた。

 準備はできている、という合図だ。


 最後に、ミレイユを見た。


 ミレイユ・アステルは、スープを飲んでいた。


 銀色の髪が、燭台の光を受けて静かに揺れている。伏せた目は穏やかで、口元は柔らかく結ばれている。 何も知らない顔だ。あるいは、知っていて知らないふりをしているのか。


 どちらでもいい。

 今夜で終わりだ。


 レオンハルトは椅子を引いて、立ち上がった。


 周囲が気づく——はずだった。


 しかし会話は続いた。

 グラスの音が続いた。

 楽団は一小節も乱れなかった。


(タイミングが早かったか)


 給仕の一人がワインを注いでいる。

 その音が、やけに大きく聞こえた。


 レオンハルトは軽く咳払いをした。


 変わらない。


 声を出した。


「——ミレイユ・アステル」


 誰も、止まらなかった。


 隣のテーブルで、老貴族が笑い声を上げた。

 何かの冗談に反応したらしい。

 楽団は次の曲へ移っていた。給仕たちは淡々と皿を運んでいた。


 おかしい。


(声が、届いていないのか?)


 いや、そんなはずはない。

 自分の声は出ている。

 手応えがある。

 だが——誰も振り向かない。誰も動かない。


 レオンハルトは声量を上げた。


「ミレイユ・アステル!」


 変わらない。


 ナイフがケーキを切る音。

 誰かがスープを啜る音。

 楽団の弦の音。

 全部が、何事もないように続いている。


 彼の頭に、初めて「演出ミス」という言葉が浮かんだ。

 タイミングを間違えた。

 合図が伝わっていない。

 そういうことだ。

 もう一度、もっと大きく——


「聞いているのか!」


 声が広間に響いた。


 それでも、誰も止まらなかった。


 ミレイユはスープのスプーンをゆっくりと口に運んでいた。

 視線が上がる気配もない。

 まるでレオンハルトの声が、最初から存在しなかったかのように。


(何が起きている)


 冷や汗が背筋を伝った。


 その時、ふと視界の端で動くものがあった。


 セシリアだ。


 彼女だけが、顔を強張らせていた。唇が微かに震えている。

 目が泳いでいる。

 明らかに動揺している——だが、席を立つ気配はなかった。

 ただそこに座って、細い指でテーブルクロスの端を握りしめていた。


(セシリア……?)


 レオンハルトは一瞬、彼女と目が合った。

 彼女はすぐに視線を逸らした。


 テーブルの上の、どこでもない場所を見つめながら、ゆっくりとワインのグラスを持ち上げた。

 口をつける。飲む。

 まるで何も起きていないかのように。


 レオンハルトは、広間に立ったまま、次の言葉を見失っていた。


「ガルヴァン! 前へ!」


 レオンハルトは証人の名を呼んだ。

 

 ガルヴァン・ロッシュは、四十代の騎士だ。

 王家に仕えて二十年。

 実直で、寡黙で、嘘をつかない男。

 だから証人に選んだ。


 そのガルヴァンは今、鴨肉を口に運んでいた。

 ゆっくりと咀嚼している。

 グラスに手を伸ばす。

 ワインを飲む。

 皿に目を落とす。


 視線が、動かない。

 返事が、ない。


「ガルヴァン! 聞こえているのか、前へ来い!」


 もう一度呼んだ。


 その時——ガルヴァンの目が、一瞬だけ動いた。

 確かに動いた。

 レオンハルトの方を、ちらりと見た。視線が合った、と思った。


 しかし次の瞬間、彼の目は皿へ戻った。


 何事もなかったように、またナイフを手に取った。


(聞こえている)


 聞こえていないのではない。届いていないのではない。聞こえて——いるのだ。

 それでも、応じない。

 応じることが、できない。あるいは——応じる必要を、感じていない。


 壁に向かって叫んでいるのとは、違う。

 壁なら、最初から反応しない。


 ガルヴァンは見た。確かに見た。そして——戻った。


(俺の声は、この場の文法に合っていない)


 その感覚が、じわりと広がった。


 怒鳴ることが、ここでは意味をなさない。

 命じることが、ここでは機能しない。

 断罪という行為が、この空間では——まるで別の言語で話しかけているように、誰にも届かない。


 リーゼを呼んだ。返事はなかった。


 トールを呼んだ。彼は談笑を続けた。


 父王の側近に視線を向けた。

 彼は穏やかな顔で、隣の貴族と何かを話していた。


 広間全体を見渡した。


 誰も、こちらを見ていなかった。


 百人近い人間が、同じ空間にいる。

 燭台の明かりがある。

 楽団の音楽がある。

 料理の香りがある。

 会話がある。

 笑い声がある。


 その全ての中心に、レオンハルトは立っていた。


 立っていた——のに。


(俺が、場の中心ではない)


 その認識が、足元から這い上がってくるような感覚だった。


 王太子として生まれて二十四年、ただの一度も感じたことのない感覚だった。

 部屋に入れば視線が集まる。

 声を出せば人が動く。

 命じれば従う。

 それが当たり前だった。

 それ以外の世界を、知らなかった。


 なのに今、自分は——透明だった。


「……っ」


 レオンハルトは奥歯を噛んだ。


 膝が、わずかに震えた。

 それを悟られないよう、テーブルに手をついた。

 冷たい白いクロスの感触だけが、妙にはっきりしていた。


 楽団が、新しい曲を始めた。

 軽やかな、舞踏会向きの曲だった。


 その音楽の中で、レオンハルトはただ立っていた。

 次の言葉を探しながら、喉の奥に声を詰まらせながら、広間の誰にも気づかれないまま。





 ミレイユが、顔を上げた。


 きょとんとした表情だった。

 首を少し傾けて、広間のどこかを見るような目をして——それからレオンハルトの方へ視線を向けた。


 不思議そうに、ただ不思議そうに。


「あの……」


 声は小さかった。

 騒がしい広間には似つかわしくないほど、静かな声だった。


「殿下が、何かお話しされていますよ?」


 その瞬間だった。


 フォークが、止まった。


 一本だけではない。

 広間にある全てのフォークが、同じ瞬間に止まった。

 楽団が止まった。

 グラスを持ち上げかけていた手が、止まった。

 会話が、止まった。

 笑い声が、止まった。

 給仕の足が、止まった。

 静寂が、落ちた。


 それは静寂というより——世界が息を呑んだ、という感じだった。


 百人近い人間が、全員、同時に、ゆっくりとレオンハルトへ顔を向けた。


 レオンハルトの心臓が、恐怖で縮こまる。

 しかし、その恐怖を無理やり抑え込み、声に力を込めた。


「ミレイユ・アステル! 貴様はセシリア・ヴェルムを虐げ、その立場を利用し、王家の名誉を——」


「争いは……好ましくありません」


 静かな声が、遮った。


 ガルヴァンだった。


 穏やかな顔で、ただそれだけを言った。

 肯定も否定もしない。

 罪状への反論もない。

 ただ——その一言だけ。


 レオンハルトは一瞬、言葉に詰まった。


「証言せよと言っている! 貴様は見ただろう、ミレイユが——」


「争いは、好ましくありません」


 同じ言葉だった。

 声色も、表情も、全く同じだった。

 まるで同じ文章を二度読み上げたかのように。


 リーゼも、トールも、同じ顔をしていた。


 微笑んでいた。穏やかに、静かに、温かく——微笑んでいた。


 レオンハルトは視線をセシリアへ向けた。


「セシリア! お前は見ただろう! ミレイユにされたことを、ここで——」


 セシリアが、ゆっくりと首を振った。


「殿下……」


 表情は穏やかで、目の奥には温かみすら滲んでいた。


「争いは……好ましくありません」


「セシリア……?」


 彼女は微笑んだ。

 レオンハルトは、その笑顔を知らなかった。


 レオンハルトは、後退った。


 一歩。また一歩。


 背中がテーブルの角に当たった。痛みを感じたが、声は出なかった。


「……何をした」


 声が、かすれた。


 広間の全員が、こちらを見ていた。

 ただ、見ていた。

 穏やかに。静かに。温かく。


 それが——一番、怖かった。


 敵意があれば戦える。

 怒号があれば怒鳴り返せる。

 拒絶があれば押し返せる。


 だがこれは違う。これは何だ。攻撃ではない。無視でもない。


 ただ、穏やかな視線。

 まるで心配しているかのような、その目。


「……っ」


 レオンハルトは踵を返した。


 走った。


 広間の扉を力任せに開けて、廊下へ飛び出した。

 足音が石畳に響く。

 松明の明かりが流れていく。

 息が上がる。


 それでも走った。


 曲がり角を二つ越えたところで、壁に手をついた。 肩で息をしながら、後ろを振り返る。


 誰も追ってきていなかった。

 当たり前だ——と思う。

 あの広間の人間が、足音を立てて追いかけてくるような真似をするはずがない。そんな「争い」を、あの人たちはしない。


 その想像が、余計に怖かった。


「……衛兵」


 廊下の先に、二人の衛兵が立っていた。


 レオンハルトは歩み寄った。

 声に力を込めた。王太子として、命令する声で。


「大広間へ行け。ミレイユ・アステルという女がいる。その女を捕らえて——」


「争いは、よくありません」


 衛兵の一人が、穏やかに微笑んだ。

 動かなかった。槍を構えるでもなく、頷くでもなく、ただそこに立ったまま、微笑んでいた。


 もう一人も、同じ顔をしていた。


 レオンハルトは、二人の顔を交互に見た。


 見知った顔だった。毎朝廊下で顔を合わせる衛兵だった。名前も知っている。忠実な男たちだった。


 ついさっきまで——ついさっきまで、確かにそうだったはずだ。


「命令だ。聞こえているか」


「争いは、よくありません」


 同じ言葉。同じ声色。同じ微笑み。


 レオンハルトは、それ以上言葉が出なかった。


 城は、終わった。


 頭のどこかで、そう理解した。


 自分以外の全員が——もうここにはいない。体はある。声もある。笑顔もある。

 だが、自分の知っていた彼らは——もういない。


 足が、動いた。


 どこへ向かうのかもわからないまま、ただ歩いた。廊下を。階段を。また廊下を。


 松明の明かりが、一本ずつ後ろへ流れていった。


 どこへ行けばいい。

 誰かいないのか。

 誰か一人でも——自分の言葉に、応じてくれる人間が。


 廊下の突き当たりに、城門への扉があった。

 レオンハルトは、その扉を開けた。

 夜風が、顔に当たった。

 冷たかった。

 それだけが、今夜初めて——普通の感触だった。





 城門の前は、静かだった。

 レオンハルトは石畳の上に座り込んだ。

 片膝をついて、荒い息を整えようとして、うまくいかなかった。


 肩が震えていた。


(落ち着け。落ち着け、落ち着け——)


 頭の中で繰り返す。

 だが何に落ち着けばいいのか、自分でもわからなかった。

 怒ればいいのか。叫べばいいのか。泣けばいいのか。


 何をすればいい。


「殿下は、怒っているのですね」


 声がした。


 レオンハルトは顔を上げた。


 ミレイユが、そこにいた。


 いつの間に——という疑問が浮かんで、消えた。

 追いかけてきた足音はなかった。

 扉が開く音もなかった。

 ただ、気づいたらそこにいた。

 城門のわきに、静かに立っていた。


 燭台の明かりもない場所なのに、彼女の銀色の髪だけが、星明かりを受けてぼんやりと光っていた。


「……来るな」


 レオンハルトは立ち上がろうとした。膝に力が入らなかった。


「怒っているのですよね」


 ミレイユは動かなかった。

 近づいてもこなかった。

 ただ、そこに立ったまま、また同じことを言った。


 責めているのではない。

 確認しているのでもない。

 ただ——言葉にしてみた、というような言い方だった。


 怒鳴ろうとした。

 そうだ、怒っている。当たり前だ。城を乗っ取られて、証人を奪われて、セシリアまで——


 だが。


 怒りに手を伸ばそうとしたら、その手が空を切った。


 感情がそこにある気はする。

 だがうまく掴めない。

 さっきまであんなにはっきりしていたはずの怒りが、今は遠く、靄の向こうにあるような感じがした。


(おかしい)


 レオンハルトは額に手を当てた。


「俺は……お前に……」


 言葉が続かない。


 何が言いたかったのか。

 何をしようとしていたのか。

 セシリアのことが好きだったのか? 本当に?

 ミレイユのことが憎かったのか? なぜ?

 婚約破棄がしたかったのか? それで——その後は?


 一つ一つ取り出そうとするたびに、靄がかかる。

 輪郭が滲む。確かなものが、何もない。


「俺は……何をしたかった」


 声が、小さかった。

 王太子の声ではなかった。

 命令する声でも、断罪する声でもなかった。


 ただの——迷子の声だった。


 ミレイユは少し首を傾けた。


「わかりません」


 正直な答えだった。慰めでも、揶揄でもない。本当にわからないから、そう言っている——そういう声だった。


「でも」


 彼女は続けた。


「怒っていると、疲れませんか?」


 レオンハルトは、その言葉を聞いた。


 馬鹿にしているのか、と思った。

 思おうとした。

 だが——怒りが、また掴めなかった。


 疲れているのか、と自分に問いかけた。

 疲れていた。

 今夜だけではない。

 もっと前から、ずっと——疲れていた気がした。


 完璧な演出を考えながら、証人を配置しながら、段取りを確認しながら、ずっとずっと——何かに追われるように動き続けていた。


 それは何のためだったのか。


「……俺は」


 声が出た。


「俺は、ただ……」


 何だ。

 何がしたかった。


 レオンハルトは城を振り返った。

 明かりが灯っている。楽団の音が、かすかに聞こえる。誰かの笑い声がする。


「誰も……いないのか」


 呟きだった。独り言だった。


 味方が、いない。

 敵もいない。

 敵がいないから、戦えない。

 味方がいないから、頼れない。

 怒鳴っても届かない。

 命じても動かない。

 自分の言葉が、この夜のどこにも——引っかからない。


 完全な孤独だった。

 これまでの人生で、孤独を感じたことはあった。

 父王とうまく話せない夜。

 側近たちの本音が見えない朝。

 だがそれは、人がいる中での孤独だった。


 今夜のこれは、違う。


 人はいる。声も聞こえる。明かりもある。なのに——誰もいない。


 その種類の孤独を、レオンハルトは知らなかった。

知らなかったから、どう扱えばいいのかもわからなかった。


 ミレイユが、一歩近づいた。


 石畳を踏む、小さな足音がした。


 レオンハルトは顔を上げなかった。

 上げられなかった。

 今の自分の顔を、見られたくなかった。

 王太子の顔ではないことが、自分でわかっていた。


 ミレイユは彼の前で止まった。

 しゃがんだ。

 目線を合わせるように。


「殿下」


「……来るなと言った」


「はい」


 来なかった。しゃがんだまま、そこにいた。


 沈黙。


「なぜ」


 レオンハルトは言った。


「なぜ、追いかけてきた」


「心配だったので」


「……俺を、心配するのか」


「はい」


 迷いがなかった。即答だった。


 レオンハルトはようやく顔を上げた。


 ミレイユの目が、すぐそこにあった。星明かりの中で、静かに、まっすぐに、こちらを見ていた。


 敵意がなかった。

 哀れみもなかった。

 ただ——心配していた。本当に、ただそれだけの目だった。


「お前は」


声がかすれた。


「俺が、今夜何をしようとしていたか、知っているだろう」


「はい」


「それでも、心配するのか」


「はい」


「……なぜだ」


 ミレイユは少し考えた。

 本当に考えているようだった。

 すぐに答えが出てこなくて、星を見上げて、それからまたレオンハルトを見た。


「怒っている人を見ると、悲しくなるので」


「……悲しい?」


「はい。怒っている人は、たいてい、何かが足りないのだと思います。だから怒るのだと。……違いますか?」


 レオンハルトは答えられなかった。


 違うと言いたかった。

 違う、俺は正義のために怒っていた、断罪するべき悪があったから——

 だが靄がかかる。動機が滲む。確かなものが、何もない。


 何が足りなかったのか。

 ずっと何かを探していた気がする。

 完璧な演出も、断罪劇も、全部——何かの代わりだったような気がする。


 何の代わりだったのか。


「……わからない」


 絞り出すように言った。


「俺には、わからない」


 ミレイユは頷いた。


「わからなくても、いいと思います」


 それから、ゆっくりと手を差し出した。


 小さな手だった。細い指だった。星明かりの中で、静かに、ただそこにあった。


「争わなくても、いいんですよ?」


 レオンハルトは、その手を見た。

 拒む理由を、探した。

 あるはずだった。

 さっきまであんなにたくさんあったはずだった。セシリアのこと、婚約破棄のこと、今夜の演出のこと、王太子としての誇りのこと——


 何も、出てこなかった。

 靄の向こうに、全部沈んでいた。


 残っているのは——疲労と、孤独と、目の前の小さな手だけだった。


「……そうだな」


 レオンハルトは、その手を取った。

 小さかった。温かかった。


 城の方から、楽団の音が聞こえた。穏やかな、舞踏会向きの曲だった。


 婚約破棄は、なかったことになった。

 いつの間に、という話ではなかった。

 翌朝には既に、そういうことになっていた。

 誰も異議を唱えなかった。

 そもそも昨夜何かがあったことを、騒ぎ立てる者がいなかった。


 王国は穏やかだった。

 春になっても、夏になっても。


 戦争は起きなかった。

 隣国との諍いは、気づけば立ち消えていた。

 議会で激しく対立していた派閥が、いつからか穏やかに話し合うようになっていた。

 街の酒場の喧嘩も、減ったと衛兵が言っていた。


 誰も、おかしいとは言わなかった。

 おかしいと思う者が、いなかった。


 レオンハルトは、今日も窓の外を見ていた。

 中庭で、庭師が花壇を手入れしている。

 穏やかな顔をしている。

 侍女が二人、何かを話しながら通り過ぎる。笑っている。

 遠くから、子どもの声がする。


 平和だった。


 本当に、平和だった。


「殿下」


 ミレイユが、隣に来た。

 彼女も窓の外を見た。


「いい天気ですね」


「そうだな」


 レオンハルトは微笑んだ。

 自然に、笑えた。


 争う必要がない。怒鳴る必要がない。断罪する必要がない。

 ただ、この穏やかな景色を眺めて、隣にいる人と、いい天気ですね、と言えばいい。


 それだけでよかった。

 それだけで——満たされていた。


 窓から差し込む光の中で、ミレイユの銀色の髪が揺れた。


 レオンハルトはそれを見て、また微笑んだ。


 幸せだった。

 実際、幸せだった。——ただ、時折、自分が何を叫ぼうとしていたのか思い出そうとすると、頭の奥で誰かが優しく囁くのだ。『争いは、よくありませんよ』と。



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