あの日、俺の世界は塗り潰された
「争いは好ましくありません」に出てくる王子レオンハルト視点の物語です。
晩餐会まで、あと一時間。
レオンハルト・ヴァルツェは廊下を歩きながら、頭の中でもう一度、今夜の段取りを確認していた。
証人は三名。席はそれぞれ、ミレイユから見える位置に配置してある。
罪状は五項目。読み上げる順番も決めた。
最後にセシリアが涙ながらに証言し、場が揺れる——そういう構成だ。
完璧だった。
レオンハルトは自他ともに認める完璧主義者だった。
婚約破棄という行為ですら、演出として仕上げる。
それが彼のやり方だった。
相手に逃げ場を与えず、言い訳の余地もなく、衆人環視の中で罪を暴く。
ミレイユ・アステルという女が、どれだけ取り繕おうとも——今夜ですべてが終わる。
「殿下」
廊下の角で、侍従のクラウスが一礼した。
「晩餐の準備は整っております。給仕の者も所定の位置に」
「わかった」
頷いて、通り過ぎる。
その時、ふと気になった。
クラウスの顔が、やけに穏やかだった。
別に変なことではない。彼はいつも落ち着いている。
だが今夜は、もう少し張り詰めた顔をしているべきではないか。
今夜が何の夜か、彼も知っているはずだ。
王太子が婚約者を断罪する、歴史的な夜だ。
(……緊張感が足りない)
レオンハルトは小さく眉を寄せた。
厨房の前を通ると、料理人たちの笑い声が聞こえた。
賑やかすぎる。
もっと粛々と動くべきだろう。
謁見の間の手前では、騎士が二人、壁にもたれて何かを話していた。
雑談だ。
非番ではあるが、今夜は控えるべきだろう。
父王のいる執務室の前を通った時、扉の隙間から明かりが漏れていた。
声はしない。
最近は口数が少ない、と側近から聞いていた。
体調が悪いのだろうか。それとも今夜のことを知って気が重いのか——どちらでもいい。
今夜は自分が主役だ。
(みな、浮ついている)
レオンハルトは一度深く息を吸った。
今夜は歴史的な夜だというのに——なぜ、誰も緊張していないのだろう。
その疑問は、しかしすぐに頭の隅へ追いやられた。 段取りの確認の方が大事だ。
証人の名前を、もう一度頭の中で並べる。ガルヴァン、リーゼ、トール。順番は——
「殿下、お時間でございます」
別の侍従が、大広間の扉の前で待っていた。
「うむ」
レオンハルトは顎を引いて、扉へ向かった。
その背後で、廊下に笑い声が響いた。騎士たちの声だ。
彼は振り返らなかった。
◇
大広間は、いつもより明るかった。
燭台の数を増やすよう指示したのはレオンハルト自身だ。
暗い場所では人の表情が読めない。
今夜は、ミレイユの顔をはっきりと見届ける必要があった。
彼女が青ざめる瞬間を、震える瞬間を、言い訳を探して目を泳がせる瞬間を——全部、見る。
席についた貴族たちは、思い思いに会話を楽しんでいた。
グラスが鳴る。
楽団が軽やかな曲を奏でている。
料理の香りが漂っている。
レオンハルトは上座から、ゆっくりと広間を見渡した。
証人のガルヴァンは左側の席だ。確認する。いる。リーゼは中央寄り。いる。トールは右の柱の近く。いる。
セシリアは、ミレイユの二席隣に座っていた。
目が合う。
彼女はわずかに頷いた。
準備はできている、という合図だ。
最後に、ミレイユを見た。
ミレイユ・アステルは、スープを飲んでいた。
銀色の髪が、燭台の光を受けて静かに揺れている。伏せた目は穏やかで、口元は柔らかく結ばれている。 何も知らない顔だ。あるいは、知っていて知らないふりをしているのか。
どちらでもいい。
今夜で終わりだ。
レオンハルトは椅子を引いて、立ち上がった。
周囲が気づく——はずだった。
しかし会話は続いた。
グラスの音が続いた。
楽団は一小節も乱れなかった。
(タイミングが早かったか)
給仕の一人がワインを注いでいる。
その音が、やけに大きく聞こえた。
レオンハルトは軽く咳払いをした。
変わらない。
声を出した。
「——ミレイユ・アステル」
誰も、止まらなかった。
隣のテーブルで、老貴族が笑い声を上げた。
何かの冗談に反応したらしい。
楽団は次の曲へ移っていた。給仕たちは淡々と皿を運んでいた。
おかしい。
(声が、届いていないのか?)
いや、そんなはずはない。
自分の声は出ている。
手応えがある。
だが——誰も振り向かない。誰も動かない。
レオンハルトは声量を上げた。
「ミレイユ・アステル!」
変わらない。
ナイフがケーキを切る音。
誰かがスープを啜る音。
楽団の弦の音。
全部が、何事もないように続いている。
彼の頭に、初めて「演出ミス」という言葉が浮かんだ。
タイミングを間違えた。
合図が伝わっていない。
そういうことだ。
もう一度、もっと大きく——
「聞いているのか!」
声が広間に響いた。
それでも、誰も止まらなかった。
ミレイユはスープのスプーンをゆっくりと口に運んでいた。
視線が上がる気配もない。
まるでレオンハルトの声が、最初から存在しなかったかのように。
(何が起きている)
冷や汗が背筋を伝った。
その時、ふと視界の端で動くものがあった。
セシリアだ。
彼女だけが、顔を強張らせていた。唇が微かに震えている。
目が泳いでいる。
明らかに動揺している——だが、席を立つ気配はなかった。
ただそこに座って、細い指でテーブルクロスの端を握りしめていた。
(セシリア……?)
レオンハルトは一瞬、彼女と目が合った。
彼女はすぐに視線を逸らした。
テーブルの上の、どこでもない場所を見つめながら、ゆっくりとワインのグラスを持ち上げた。
口をつける。飲む。
まるで何も起きていないかのように。
レオンハルトは、広間に立ったまま、次の言葉を見失っていた。
「ガルヴァン! 前へ!」
レオンハルトは証人の名を呼んだ。
ガルヴァン・ロッシュは、四十代の騎士だ。
王家に仕えて二十年。
実直で、寡黙で、嘘をつかない男。
だから証人に選んだ。
そのガルヴァンは今、鴨肉を口に運んでいた。
ゆっくりと咀嚼している。
グラスに手を伸ばす。
ワインを飲む。
皿に目を落とす。
視線が、動かない。
返事が、ない。
「ガルヴァン! 聞こえているのか、前へ来い!」
もう一度呼んだ。
その時——ガルヴァンの目が、一瞬だけ動いた。
確かに動いた。
レオンハルトの方を、ちらりと見た。視線が合った、と思った。
しかし次の瞬間、彼の目は皿へ戻った。
何事もなかったように、またナイフを手に取った。
(聞こえている)
聞こえていないのではない。届いていないのではない。聞こえて——いるのだ。
それでも、応じない。
応じることが、できない。あるいは——応じる必要を、感じていない。
壁に向かって叫んでいるのとは、違う。
壁なら、最初から反応しない。
ガルヴァンは見た。確かに見た。そして——戻った。
(俺の声は、この場の文法に合っていない)
その感覚が、じわりと広がった。
怒鳴ることが、ここでは意味をなさない。
命じることが、ここでは機能しない。
断罪という行為が、この空間では——まるで別の言語で話しかけているように、誰にも届かない。
リーゼを呼んだ。返事はなかった。
トールを呼んだ。彼は談笑を続けた。
父王の側近に視線を向けた。
彼は穏やかな顔で、隣の貴族と何かを話していた。
広間全体を見渡した。
誰も、こちらを見ていなかった。
百人近い人間が、同じ空間にいる。
燭台の明かりがある。
楽団の音楽がある。
料理の香りがある。
会話がある。
笑い声がある。
その全ての中心に、レオンハルトは立っていた。
立っていた——のに。
(俺が、場の中心ではない)
その認識が、足元から這い上がってくるような感覚だった。
王太子として生まれて二十四年、ただの一度も感じたことのない感覚だった。
部屋に入れば視線が集まる。
声を出せば人が動く。
命じれば従う。
それが当たり前だった。
それ以外の世界を、知らなかった。
なのに今、自分は——透明だった。
「……っ」
レオンハルトは奥歯を噛んだ。
膝が、わずかに震えた。
それを悟られないよう、テーブルに手をついた。
冷たい白いクロスの感触だけが、妙にはっきりしていた。
楽団が、新しい曲を始めた。
軽やかな、舞踏会向きの曲だった。
その音楽の中で、レオンハルトはただ立っていた。
次の言葉を探しながら、喉の奥に声を詰まらせながら、広間の誰にも気づかれないまま。
◇
ミレイユが、顔を上げた。
きょとんとした表情だった。
首を少し傾けて、広間のどこかを見るような目をして——それからレオンハルトの方へ視線を向けた。
不思議そうに、ただ不思議そうに。
「あの……」
声は小さかった。
騒がしい広間には似つかわしくないほど、静かな声だった。
「殿下が、何かお話しされていますよ?」
その瞬間だった。
フォークが、止まった。
一本だけではない。
広間にある全てのフォークが、同じ瞬間に止まった。
楽団が止まった。
グラスを持ち上げかけていた手が、止まった。
会話が、止まった。
笑い声が、止まった。
給仕の足が、止まった。
静寂が、落ちた。
それは静寂というより——世界が息を呑んだ、という感じだった。
百人近い人間が、全員、同時に、ゆっくりとレオンハルトへ顔を向けた。
レオンハルトの心臓が、恐怖で縮こまる。
しかし、その恐怖を無理やり抑え込み、声に力を込めた。
「ミレイユ・アステル! 貴様はセシリア・ヴェルムを虐げ、その立場を利用し、王家の名誉を——」
「争いは……好ましくありません」
静かな声が、遮った。
ガルヴァンだった。
穏やかな顔で、ただそれだけを言った。
肯定も否定もしない。
罪状への反論もない。
ただ——その一言だけ。
レオンハルトは一瞬、言葉に詰まった。
「証言せよと言っている! 貴様は見ただろう、ミレイユが——」
「争いは、好ましくありません」
同じ言葉だった。
声色も、表情も、全く同じだった。
まるで同じ文章を二度読み上げたかのように。
リーゼも、トールも、同じ顔をしていた。
微笑んでいた。穏やかに、静かに、温かく——微笑んでいた。
レオンハルトは視線をセシリアへ向けた。
「セシリア! お前は見ただろう! ミレイユにされたことを、ここで——」
セシリアが、ゆっくりと首を振った。
「殿下……」
表情は穏やかで、目の奥には温かみすら滲んでいた。
「争いは……好ましくありません」
「セシリア……?」
彼女は微笑んだ。
レオンハルトは、その笑顔を知らなかった。
レオンハルトは、後退った。
一歩。また一歩。
背中がテーブルの角に当たった。痛みを感じたが、声は出なかった。
「……何をした」
声が、かすれた。
広間の全員が、こちらを見ていた。
ただ、見ていた。
穏やかに。静かに。温かく。
それが——一番、怖かった。
敵意があれば戦える。
怒号があれば怒鳴り返せる。
拒絶があれば押し返せる。
だがこれは違う。これは何だ。攻撃ではない。無視でもない。
ただ、穏やかな視線。
まるで心配しているかのような、その目。
「……っ」
レオンハルトは踵を返した。
走った。
広間の扉を力任せに開けて、廊下へ飛び出した。
足音が石畳に響く。
松明の明かりが流れていく。
息が上がる。
それでも走った。
曲がり角を二つ越えたところで、壁に手をついた。 肩で息をしながら、後ろを振り返る。
誰も追ってきていなかった。
当たり前だ——と思う。
あの広間の人間が、足音を立てて追いかけてくるような真似をするはずがない。そんな「争い」を、あの人たちはしない。
その想像が、余計に怖かった。
「……衛兵」
廊下の先に、二人の衛兵が立っていた。
レオンハルトは歩み寄った。
声に力を込めた。王太子として、命令する声で。
「大広間へ行け。ミレイユ・アステルという女がいる。その女を捕らえて——」
「争いは、よくありません」
衛兵の一人が、穏やかに微笑んだ。
動かなかった。槍を構えるでもなく、頷くでもなく、ただそこに立ったまま、微笑んでいた。
もう一人も、同じ顔をしていた。
レオンハルトは、二人の顔を交互に見た。
見知った顔だった。毎朝廊下で顔を合わせる衛兵だった。名前も知っている。忠実な男たちだった。
ついさっきまで——ついさっきまで、確かにそうだったはずだ。
「命令だ。聞こえているか」
「争いは、よくありません」
同じ言葉。同じ声色。同じ微笑み。
レオンハルトは、それ以上言葉が出なかった。
城は、終わった。
頭のどこかで、そう理解した。
自分以外の全員が——もうここにはいない。体はある。声もある。笑顔もある。
だが、自分の知っていた彼らは——もういない。
足が、動いた。
どこへ向かうのかもわからないまま、ただ歩いた。廊下を。階段を。また廊下を。
松明の明かりが、一本ずつ後ろへ流れていった。
どこへ行けばいい。
誰かいないのか。
誰か一人でも——自分の言葉に、応じてくれる人間が。
廊下の突き当たりに、城門への扉があった。
レオンハルトは、その扉を開けた。
夜風が、顔に当たった。
冷たかった。
それだけが、今夜初めて——普通の感触だった。
◇
城門の前は、静かだった。
レオンハルトは石畳の上に座り込んだ。
片膝をついて、荒い息を整えようとして、うまくいかなかった。
肩が震えていた。
(落ち着け。落ち着け、落ち着け——)
頭の中で繰り返す。
だが何に落ち着けばいいのか、自分でもわからなかった。
怒ればいいのか。叫べばいいのか。泣けばいいのか。
何をすればいい。
「殿下は、怒っているのですね」
声がした。
レオンハルトは顔を上げた。
ミレイユが、そこにいた。
いつの間に——という疑問が浮かんで、消えた。
追いかけてきた足音はなかった。
扉が開く音もなかった。
ただ、気づいたらそこにいた。
城門のわきに、静かに立っていた。
燭台の明かりもない場所なのに、彼女の銀色の髪だけが、星明かりを受けてぼんやりと光っていた。
「……来るな」
レオンハルトは立ち上がろうとした。膝に力が入らなかった。
「怒っているのですよね」
ミレイユは動かなかった。
近づいてもこなかった。
ただ、そこに立ったまま、また同じことを言った。
責めているのではない。
確認しているのでもない。
ただ——言葉にしてみた、というような言い方だった。
怒鳴ろうとした。
そうだ、怒っている。当たり前だ。城を乗っ取られて、証人を奪われて、セシリアまで——
だが。
怒りに手を伸ばそうとしたら、その手が空を切った。
感情がそこにある気はする。
だがうまく掴めない。
さっきまであんなにはっきりしていたはずの怒りが、今は遠く、靄の向こうにあるような感じがした。
(おかしい)
レオンハルトは額に手を当てた。
「俺は……お前に……」
言葉が続かない。
何が言いたかったのか。
何をしようとしていたのか。
セシリアのことが好きだったのか? 本当に?
ミレイユのことが憎かったのか? なぜ?
婚約破棄がしたかったのか? それで——その後は?
一つ一つ取り出そうとするたびに、靄がかかる。
輪郭が滲む。確かなものが、何もない。
「俺は……何をしたかった」
声が、小さかった。
王太子の声ではなかった。
命令する声でも、断罪する声でもなかった。
ただの——迷子の声だった。
ミレイユは少し首を傾けた。
「わかりません」
正直な答えだった。慰めでも、揶揄でもない。本当にわからないから、そう言っている——そういう声だった。
「でも」
彼女は続けた。
「怒っていると、疲れませんか?」
レオンハルトは、その言葉を聞いた。
馬鹿にしているのか、と思った。
思おうとした。
だが——怒りが、また掴めなかった。
疲れているのか、と自分に問いかけた。
疲れていた。
今夜だけではない。
もっと前から、ずっと——疲れていた気がした。
完璧な演出を考えながら、証人を配置しながら、段取りを確認しながら、ずっとずっと——何かに追われるように動き続けていた。
それは何のためだったのか。
「……俺は」
声が出た。
「俺は、ただ……」
何だ。
何がしたかった。
レオンハルトは城を振り返った。
明かりが灯っている。楽団の音が、かすかに聞こえる。誰かの笑い声がする。
「誰も……いないのか」
呟きだった。独り言だった。
味方が、いない。
敵もいない。
敵がいないから、戦えない。
味方がいないから、頼れない。
怒鳴っても届かない。
命じても動かない。
自分の言葉が、この夜のどこにも——引っかからない。
完全な孤独だった。
これまでの人生で、孤独を感じたことはあった。
父王とうまく話せない夜。
側近たちの本音が見えない朝。
だがそれは、人がいる中での孤独だった。
今夜のこれは、違う。
人はいる。声も聞こえる。明かりもある。なのに——誰もいない。
その種類の孤独を、レオンハルトは知らなかった。
知らなかったから、どう扱えばいいのかもわからなかった。
ミレイユが、一歩近づいた。
石畳を踏む、小さな足音がした。
レオンハルトは顔を上げなかった。
上げられなかった。
今の自分の顔を、見られたくなかった。
王太子の顔ではないことが、自分でわかっていた。
ミレイユは彼の前で止まった。
しゃがんだ。
目線を合わせるように。
「殿下」
「……来るなと言った」
「はい」
来なかった。しゃがんだまま、そこにいた。
沈黙。
「なぜ」
レオンハルトは言った。
「なぜ、追いかけてきた」
「心配だったので」
「……俺を、心配するのか」
「はい」
迷いがなかった。即答だった。
レオンハルトはようやく顔を上げた。
ミレイユの目が、すぐそこにあった。星明かりの中で、静かに、まっすぐに、こちらを見ていた。
敵意がなかった。
哀れみもなかった。
ただ——心配していた。本当に、ただそれだけの目だった。
「お前は」
声がかすれた。
「俺が、今夜何をしようとしていたか、知っているだろう」
「はい」
「それでも、心配するのか」
「はい」
「……なぜだ」
ミレイユは少し考えた。
本当に考えているようだった。
すぐに答えが出てこなくて、星を見上げて、それからまたレオンハルトを見た。
「怒っている人を見ると、悲しくなるので」
「……悲しい?」
「はい。怒っている人は、たいてい、何かが足りないのだと思います。だから怒るのだと。……違いますか?」
レオンハルトは答えられなかった。
違うと言いたかった。
違う、俺は正義のために怒っていた、断罪するべき悪があったから——
だが靄がかかる。動機が滲む。確かなものが、何もない。
何が足りなかったのか。
ずっと何かを探していた気がする。
完璧な演出も、断罪劇も、全部——何かの代わりだったような気がする。
何の代わりだったのか。
「……わからない」
絞り出すように言った。
「俺には、わからない」
ミレイユは頷いた。
「わからなくても、いいと思います」
それから、ゆっくりと手を差し出した。
小さな手だった。細い指だった。星明かりの中で、静かに、ただそこにあった。
「争わなくても、いいんですよ?」
レオンハルトは、その手を見た。
拒む理由を、探した。
あるはずだった。
さっきまであんなにたくさんあったはずだった。セシリアのこと、婚約破棄のこと、今夜の演出のこと、王太子としての誇りのこと——
何も、出てこなかった。
靄の向こうに、全部沈んでいた。
残っているのは——疲労と、孤独と、目の前の小さな手だけだった。
「……そうだな」
レオンハルトは、その手を取った。
小さかった。温かかった。
城の方から、楽団の音が聞こえた。穏やかな、舞踏会向きの曲だった。
婚約破棄は、なかったことになった。
いつの間に、という話ではなかった。
翌朝には既に、そういうことになっていた。
誰も異議を唱えなかった。
そもそも昨夜何かがあったことを、騒ぎ立てる者がいなかった。
王国は穏やかだった。
春になっても、夏になっても。
戦争は起きなかった。
隣国との諍いは、気づけば立ち消えていた。
議会で激しく対立していた派閥が、いつからか穏やかに話し合うようになっていた。
街の酒場の喧嘩も、減ったと衛兵が言っていた。
誰も、おかしいとは言わなかった。
おかしいと思う者が、いなかった。
レオンハルトは、今日も窓の外を見ていた。
中庭で、庭師が花壇を手入れしている。
穏やかな顔をしている。
侍女が二人、何かを話しながら通り過ぎる。笑っている。
遠くから、子どもの声がする。
平和だった。
本当に、平和だった。
「殿下」
ミレイユが、隣に来た。
彼女も窓の外を見た。
「いい天気ですね」
「そうだな」
レオンハルトは微笑んだ。
自然に、笑えた。
争う必要がない。怒鳴る必要がない。断罪する必要がない。
ただ、この穏やかな景色を眺めて、隣にいる人と、いい天気ですね、と言えばいい。
それだけでよかった。
それだけで——満たされていた。
窓から差し込む光の中で、ミレイユの銀色の髪が揺れた。
レオンハルトはそれを見て、また微笑んだ。
幸せだった。
実際、幸せだった。——ただ、時折、自分が何を叫ぼうとしていたのか思い出そうとすると、頭の奥で誰かが優しく囁くのだ。『争いは、よくありませんよ』と。




