鳥籠の公爵夫人
エルヴィーネ・イゾルデ・フォン・オルデンブルクは誰からも羨ましがられる人生を送っていると言えるだろう。
エルヴィーネの生家はガーメニー王国内でもかなり裕福なカレンベルク侯爵家。家族に恵まれ、何一つ不自由なく過ごしていた。
波打つようなブロンドの髪に、アズライトのような青い目。エルヴィーネは容姿にも恵まれている。
優秀な家庭教師のお陰で色々なことを学べ、淑女の鑑と言われたエルヴィーネ。
そんな彼女はガーメニー王国筆頭公爵家であるオルデンブルク家に嫁ぐことが決まった。
エルヴィーネの夫になる人物は非の打ち所がない。
オルデンブルク公爵家の家族とも良好な関係を築け、後継ぎとなる息子の他に男児を二人、計三人の子を生んだエルヴィーネ。今年八歳になる長男ゲーアハルトは少しだけ不器用ながらも領地経営などをしっかり学んでおり、将来は優秀な当主となるだろう。次男と三男も、幼いながら将来有望だと言われている。
しかしエルヴィーネは自分の人生に嫌気が差していた。
(贅沢なのは承知だけれど……こんなの私の人生ではないわ)
エルヴィーネはサンルームで紅茶を飲みながらため息をついた。
暖かな日差しとは裏腹に、エルヴィーネの心は沈んでいる。
確かにエルヴィーネは恵まれた立場にある。しかし、それはエルヴィーネが選んだことではなかった。
親が選んだドレスやアクセサリーを身に着け、親が選んだ家庭教師からマナーなどを学び、親や周囲が望むように振る舞い、親が選んだ男性と結婚する。そこにエルヴィーネの意思は入っていなかった。
(……貴族として生まれたからには、仕方がない部分はあるけれど)
エルヴィーネは再びため息をつく。
エルヴィーネの周囲には、自分の人生を決められた道を歩くだけだと嘆く者もいる。
しかし、彼女はそれすらも羨ましいと思っていた。
(決められた道と言うけれど、自分の足で歩けるだけまだ良いじゃない! 私は、鳥籠の中よ! 誰かが選んだ鳥籠の中で、誰かが運んで来たものに囲まれてしか生きられないのよ! そんなの、息が苦しいわ!)
そう叫び出したかったが、エルヴィーネはグッと堪えた。
そして、誰もが見惚れるような美しく品のある笑みを浮かべるのであった。
誰もが羨む人生を送るエルヴィーネ。しかし、エルヴィーネ自身はその人生が酷くつまらなくて、まるで自分の人生ではないかのような悍ましさを感じていたのである。
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そんなある日、エルヴィーネはガーメニー王国の王都ネルビルの公園を散歩していた。
爽やかな風が青々とした木々を揺らしている。新緑の香りが公園全体を包み込み、その空気はとても清々しい。地面に咲く花々も色鮮やかで、公園に来る者達を楽しませている。
しかし、エルヴィーネのアズライトの目には覇気がない。アズライトの目に映る全てが色褪せて見えたし、吸い込む空気もどんよりしているように感じたのだ。
(このつまらない人生はいつ終わるのかしら……?)
エルヴィーネは憂いを帯びた表情だった。
その時、少し離れた場所でトラブルが起こる。
若い女性と、壮年の男性が揉めていた。女性はエルヴィーネよりも少し若いように見える。
若い女性はキャンバスを男性から死守しているように見える。
「やめてください!」
「は? 何でだよ? 俺は正しいことを言ったまでだ。女が画家を目指すなんておかしいに決まってる!」
「私の人生を見ず知らずの貴方に決められる筋合いはないです」
「女の癖に生意気だ!」
男はムッとし、キャンバスが乗せられたイーゼルを蹴り飛ばした。
イーゼルは倒れ、キャンバスは地面に落ちる。
男はそれで満足したのか、謝ることもせずその場を立ち去った。
女性は無言のまま倒れたイーゼルを立て直す。落ちたキャンバスを再びイーゼルに乗せ、絵を描き始めた。
「私は、絶対に負けない……! 画家になって見せる……!」
女性のジェードのような緑の目からは力強さを感じた。
エルヴィーネはその女性に目を奪われていた。
少し傷んでいる長い赤毛、真っ直ぐ力強いジェードのような緑の目。
そして何より女性が描く絵からは魂の叫びのようなものを感じた。
気付けばエルヴィーネはその女性に近付いていた。
当然、女性もエルヴィーネの存在に気が付く。
女性はエルヴィーネを見てギョッとしていた。
「あの……どうかしたのですか……? どうして泣いているのですか……?」
女性のジェードの目は、困惑したように見えた。
「え……?」
エルヴィーネはきょとんとアズライトの目を丸くする。その時、頬が濡れていることに気付いた。
アズライトの目からは、一筋の涙が零れ落ちていた。
「あ……私は……その……」
何かを言いたいのだが、上手く言葉に出来ないエルヴィーネ。こんなことは初めてだった。
その時、急に空模様が変わり、勢い良く雨が降り出した。
ガーメニー王国の天気は気まぐれで変わりやすい。先程まで晴れていたと思いきや、このように急に雨が降り出すことも多々ある。
「うわ! 早く片付けないと!」
女性は急いでイーゼルやキャンバスなど、絵画に必要な道具をしまう。
エルヴィーネは呆然と立ち尽くし、あっという間にドレスがびしょ濡れになってしまった。
「あの……大丈夫ですか? 素敵なドレスが濡れていますけど……。そのままだと風邪引きますし、私の家で雨宿りします?」
女性は立ち尽くすエルヴィーネを放っておけなかったようだ。
エルヴィーネはその言葉にただ頷くことしか出来なかった。
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エルヴィーネは女性の家に入り、出された椅子にちょこんと座っていた。
ドレスは濡れてしまったので、女性の服を貸してもらっている。
「あの……ご迷惑をおかけして申し訳ございません」
エルヴィーネは俯き気味だ。
「いえ、その、驚きましたけど、放っておけませんでしたし。全然気にしないでください」
女性は明るく笑う。
「ありがとうございます。……私は、エルヴィーネ・イゾルデ・フォン・オルデンブルクと申します」
「オルデンブルク……!? 筆頭公爵家の……! やっぱりお貴族様でしたか」
エルヴィーネが名乗ると、女性は思わず尻込みしてしまう。彼女はあまり貴族と関わったことがないようだが、筆頭公爵家であるオルデンブルク家のことは知っていたそうだ。
「えっと、私はレオナ・テーリヒェンと言います」
「レオナ様と仰るのですね……」
エルヴィーネはまじまじとその女性――レオナを見つめる。
「そんな、私は様と呼ばれる立場ではないですよ」
レオナは肩をすくめた。
エルヴィーネはレオナの部屋を見渡す。
油絵が描かれた複数のキャンバス、通常の紙に描かれた数々の絵、レオナの部屋は絵や絵画道具で広がっていた。
エルヴィーネが普段過ごす部屋よりも遥かに狭い。しかし、エルヴィーネはこの部屋がまるで自由に羽ばたける大空のように感じた。
「レオナ様は、画家なのですね」
エルヴィーネは表情を綻ばせなら呟く。
「画家を目指しています。まだ画家と呼ばれる立場ではないですが。実力もまだまだですし」
レオナは苦笑した。
レオナはごく普通の平民の家に生まれたが、画家として生計を立てたいと思っているのだ。
「それに、まだこの国では女が画家になることは難しいみたいです」
軽くため息をつき、レオナは肩をすくめた。
それでも、レオナのジェードの目は力強かった。
「確かに……その風潮はございますわ」
エルヴィーネのアズライトの目は、少しだけ憂いを帯びていた。
ガーメニー王国では、女性の立場がまだ弱いのである。
再びレオナが描いた絵に目を向けるエルヴィーネ。
「でも……私は、レオナ様の絵が……好きですわ。一目で気に入ってしまいましたの」
公園でレオナと彼女の絵を見た時、エルヴィーネの胸の中に熱い何かが生まれたのである。
初めての感情だったので、エルヴィーネは最初はそれが何か上手く表現できなかった。しかし、今ようやくレオナに伝えることが出来た。
「レオナ様、私に貴女を応援させてください。私は、貴女のパトロネスになりたい」
エルヴィーネはアズライトの目を真っ直ぐレオナに向けていた。
品の良い淑女の見本のような表情だが、アズライトの目は情熱的だった。
レオナは最初かなり戸惑ったが、エルヴィーネは筆頭公爵夫人という立場で支援が得られたら画家への道が開かれると判断した。よって、エルヴィーネからの申し出を受けることにした。
「ありがとうございます、エルヴィーネ様。よろしくお願いします」
「こちらこそですわ、レオナ様」
エルヴィーネとレオナは互いに微笑み合った。
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エルヴィーネはレオナと交流を始めてから、表情が明るくなった。
時々レオナが借りて住んである部屋に遊びに行き、彼女の絵を見せてもらったり話をしたりした。
エルヴィーネとレオナは友人のような関係になっていたのだ。
レオナと過ごしている時のエルヴィーネは生き生きとした表情だった。アズライトの目も美しく輝いている。
「いよいよですわね」
エルヴィーネは楽しそうな表情だ。
「はい。エルヴィーネ様のお陰でここまでやって来られたのですが、やっぱり緊張します」
レオナも嬉しそうに笑うが、少し肩をすくめた。
数日後、エルヴィーネが開くサロンでレオナの絵をお披露目するのだ。実質の画家デビューである。
夢への第一歩を踏み出すレオナの表情は少し硬いが、ジェードの目は真っ直ぐ力強く未来を見据えている。そして傷んでいた赤毛もどことなく艶々としていた。
そして迎えたレオナのお披露目当日。
エルヴィーネのサロンは大盛況……とまではいかなかったが、一部の者達はレオナの絵を気に入ったようだ。
レオナの画家としてのスタートはそこまで好調ではないが、大失敗な程ではなかった。
「エルヴィーネ様のお陰でここまで来ることが出来ました。ありがとうございます。でも、実力不足ですみません」
レオナは自分の実力を痛感し、苦笑した。
「いいえ。万人受けすることが、必ず良いとは限りませんわ。それに、お礼を言うのは私の方です」
エルヴィーネは柔らかな笑みを浮かべた。
「私はレオナ様と出会い、貴女を応援することで、ようやく自分の人生を好きになれましたの」
アズライトの目からは涙が溢れ出す。
「エルヴィーネ様、泣いているお顔も美しいですが、貴女は笑顔の方が素敵です」
レオナはエルヴィーネにハンカチを渡した。
エルヴィーネは「ありがとうございます」と、それを受け取り涙を拭う。
「私、今まで何もかも選べずに生きていましたの。でも、レオナ様に出会い、貴女を応援することを選んで初めて息が出来た感覚になりましたわ。これからも貴女を応援させてください」
エルヴィーネはアズライトの目をキラキラと輝かせ、真っ直ぐレオナを見つめている。
するとレオナは照れくさそうに表情を綻ばせる。
「ありがとうございます。私も、エルヴィーネ様のお陰で夢への第一歩を踏み出せました。まだ未熟な私ですが、これからもよろしくお願いします」
エルヴィーネとレオナは手を握り合った。
「そうだ、今度エルヴィーネ様の絵を描かせてください」
「私の絵を?」
「はい。人物画にも挑戦したくて。綺麗に描きますから」
「それなら綺麗に描かなくて良いわ。私を……自由に描いてちょうだい」
「自由に……分かりました。ありがとうございます」
エルヴィーネとレオナは楽しそうに笑っていた。
鳥籠の中の公爵夫人は、ようやく自由を手に入れたような感覚になったのだ。
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ちなみに、本作品に登場したエルヴィーネはシリーズ過去作『つかぬことをお伺いいたしますが、私はお飾りの妻ですよね?』に登場するコミュ障ポンコツヘタレヒーロー・ルートヴィヒの祖母です。