2話
全二話の予定でしたが思った以上に長くなるので複数に分けます。
原作のラシュエルと今目の前にいるラシュエルは同じ人間なのに、何かが決定的に違う。涙を流し無実を訴えるリナリアの言葉を信じず、伸ばされた手を振り払ったラシュエル。ヘヴンズゲート侯爵やイデリーナに騙されている馬鹿な皇太子と憤ったが本当にそうなのだろうか。皇太子妃になって側にいてほしいと告げるラシュエルならば、万病を癒す黄金の花を咲かせたリナリアの言葉を信じるのではないか。
「ん、んんっ」
皇太子妃になるとも、ならないとも言えないまま、お互い見つめ合っていると不意にラシュエルが動いた。身を硬くしたリナリアの頬に手を添え、指先でゆっくりと撫でられる。少しのくすぐったさを感じて顔を逸らそうとしてもラシュエルの手に阻まれ動かせず。聞くだけで蕩けてしまう甘い声色に呼ばれて吃驚したのも束の間、視界が急に暗くなり丸い黄金が間近に迫った。唇に当たる温かく柔らかいものがなにか理解するのに時間が掛かった。
頬に当てていた手が上へ伸ばされ頭を撫で、もう片方の手は背中に回って強く引き寄せた。キスをされていると理解した途端、声を上げようと口を開いたのが間違いだった。すぐに入れられた舌が好き勝手口内を動き、逃げるリナリアの舌を絡め吸い付かれた。腰が抜けて座り込みそうになっても、背中に回っているラシュエルの手が支えている為そのままで。寧ろ、抱き締められる力が強まった。
胸を押して退かしたくてもビクともしない。瞼を強く閉じて口付けが終わるのを待った。
――終わった頃には自力では立てなくなったリナリアを客室に運んだラシュエル。誰とも会わなくて良かった。ベッドに座らされると横に彼が座った。多分危機感を抱かないとならないのだろうが長く激しいキスをされ続けたせいで頭が上手く回らない。あんなキスをする人だっただろうか、原作ではイデリーナに対してもこうも激しい人じゃなかった。リナリアの涙の訴えを退けた時は冷酷な人間に見えたものの、その他で彼が激しく感情を露にする場面は無かった筈。ひょっとすると未読の番外編にヒントがあるのか。ただ、リナリアのその後なのでラシュエルが登場する可能性は低い。聖域に籠って祈りの花に祈りを捧げていたなら、聖域の管理者であるユナンの許へ行ったに違いない。
ユナンの名前は無かったものの、聖域には管理者がいたとあった。
「リナリア」
聞くだけで腰が抜けてしまう蕩けるような甘い声は今のリナリアには刺激が強く、聞いているだけで赤い顔に更に体温が集中してしまう。
「ヘヴンズゲート侯爵やイデリーナには、相応の罰を下す。皇太子妃になるのは君だ。誰にも文句は言わせない」
「陛下は……皇帝陛下は……お認めになりませんよ」
「認めさせる。侯爵達が嘘を言っていると知りながら、イデリーナを婚約者にしたんだ。嘘に塗れた聖女をそのままにするのは帝国も大教会も得をしない」
「どう、するのですか」
「後日の話し合いの時に知れるよ」
額にキスを落とされてラシュエルを見上げた。声色と同じくらい瞳にも甘さが多分に含まれていて。目を逸らしたらいけない気がしたリナリアは真っ赤な顔のままラシュエルを見つめた。
「殿下は……」
「うん?」
「殿下は……私に手紙を、送って下さったのですよね」
「ああ」
「私は、殿下の手紙を一度も受け取ってなくて」
「だろうね」
病に罹った当初は移るといけないからとラシュエルへのお見舞いは禁じられ、ラシュエルも体に走る黒い文様を見られたくなくてリナリアが来ていてもきっと追い返していた。せめて手紙のやり取りだけでもしたいと痛む体を動かし、人を使って送っていた手紙には一度も返事は来なかった。聖域に行く前からもラシュエルの手紙は届いていない。
「きっと、父や誰かが殿下の手紙を握り潰していたのでしょう。私を皇太子妃にしたいと言いながらも、結局イデリーナを皇太子妃にしたかったのです」
「前侯爵夫人の生家とは会っていないの?」
公式の夜会や行事では顔を合わせるが接触を恐れている父がリナリアの側にイデリーナや後妻を置くので、顔を合わせても挨拶くらいしか出来なかった。
「手紙を送る事もままなりません。向こうから送られても誰かが握り潰すでしょうから」
「もしも、前侯爵夫人の生家の養子になれって言われたら、リナリアは受け入れてくれる?」
「それって……」
話し合いが終わり、イデリーナや父の嘘を明らかにしてもリナリアがヘヴンズゲート侯爵令嬢なのは変わらない。皇太子妃を輩出したい父の願いを砕き、良い思い出がないヘヴンズゲート侯爵家の令嬢としてではなく、母方実家の侯爵家の養女になって婚約者になればリナリアの憂いは晴れる。イデリーナや後妻とも無関係となる。
リナリアにとっては嬉しい話でも母方実家がどう思うかだ。
「まともに話した事もない私が受け入れられるでしょうか」
「問題はない筈さ。確か、侯爵が再婚する時君を引き取ろうとしてくれたのだろう?」
「あの時は、私が子供だったから」
「今でもきっと大丈夫。この後私が話を付けに行く」
「殿下が? その様な事殿下自らがしなくても」
「私がしたいんだ」
抱き締められ、頭を撫でられるリナリアはそうする事でリナリアの信頼を得られるのなら本望だと語られ言葉を詰まらせた。つくづく、今此処にいるラシュエルと原作のラシュエルの違いに驚くばかり。転生してしまったが故にキャラ設定に歪みが生じてしまったのだろうかと思う程。
「リナリアが皇太子妃になるより、聖女の力に目覚めたイデリーナが良いと言うのなら、私は皇太子の地位を降りる」
「なっ」
顔や態度には出さなくてもラシュエルが長い間皇太子になる為にどれだけ努力をしてきたかリナリアは知っている。原作を読んでいるのもあるが現実に彼を見て、彼の努力を知った。簡単に皇太子を降りると口にしたのが信じられない。
「聖女の力を持っているからイデリーナを皇太子妃にするなんて私はごめんだ」
「もしも……イデリーナが今と真逆の人間だとしても、ですか?」
聖女の手本のような人間であるなら、好きになったのか? 受け入れたのか? そう訊ねたら否定された。
「違うよ。リナリアがいいんだ」
包み隠さず好意を向けられて嬉しくない筈がないのに、何時からここまで好きになられていたのかが不思議だ。常に一定の距離を保っての交流、適度な額の贈り物、婚約者候補として適切な内容の手紙のやり取り。淡い関係であった筈。
「殿下は」
「名前」
「え」
「あの神官の事は名前で呼んでいたのに、私は名前で呼べない?」
個人的に声を発してラシュエルと呼んでいない。公式の場では皇太子殿下、何気ない時は殿下としか呼ばなかった。
「ユナンには神官様は嫌だと言われて」
「ラシュエルと呼んで、リナリア」
急に名前で呼べと言われても心の準備が全く出来ておらず、何時か呼ぶと回避したくてもラシュエルは今だと譲らない。気のせいか体を後ろに倒されそうだと予感し、自分が思う以上に危ないと判断したリナリアは腹を括った。相手の名前を呼ぶだけなのに恥ずかしがる理由はないとラシュエルを呼んだ。
強い緊張と恥ずかしさのせいで若干声が上擦ったのは気付かないでいてほしい。
「……」
名前を呼んだラシュエルは一瞬呆けるも、すぐに欣然としてリナリアを抱き締めた。
――名前を呼んだだけでこうも喜ばれるの……?
ラシュエルの嬉しさのポイントがイマイチ分からない。
読んでいただきありがとうございます。