善良な外交官
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工房から出ると開拓地の門の前に黒と赤を基調とした旗を掲げた馬車がこちらに向かってくるのが見えた。先頭の馬車には鎧を付けた御者とその両脇を歩く重甲の歩兵がガチャつかせた足音を響かせている。御者の操る黒毛の二頭は首を低く構え、石畳を踏み締めるたびに鈍い音を響かせた。肩の筋肉がゆっくりと盛り上がり、吐き出された白い息が冷たい空に溶けていく。
おお…! 異世界で初めて見た。馬だ!
『ねえ、ルリコ? これって大丈夫?』
後ろに立っていたフランが不安そうに呟く。
『だってこれ…』
軍靴が石を打ち、乾いた衝撃が腹に響く。その風が髪を揺らしても、彼らは一度もこちらを見ない。馬車の窓が開くとカラリリが開拓地の人々に手を振る。それを見た群衆は悲鳴とも歓声ともつかぬ声が上げた。馬車が私の横で止まる。重甲兵達がアーチの様に旗を掲げ、赤い布を地面に敷いた。次の瞬間馬車の扉が静かに開かれると中から赤と青の衣をひるがえしたカラリリが手を振りながら姿を現した。同時に兵達が石突きを打つ。重い音が、門前に揃って響いた。
なんか前見た時より…明るい?
以前の彼女はどこか落ち込んでいる風だったのに、今は花が咲いたように笑顔を皆に振りまいている。
なんか…会社に居た頃の躁鬱だった先輩を思い出すな…。
そう思った瞬間、カラリリが両手で私の手を取ると門の中に引いて行った。カラリリが私の手を引いて広場に着くと一緒に手を掲げて言った。
「開拓地の民よ。ラヴェルヌ家は、この地に新たな道を拓くことを望んでいる。鉱脈は山に眠り、森には恵みが満ちている。それらが隔てられていることこそ、貧しさの原因だ。我らは道を敷き、富を往来させる。それは奪うためではない。循環させるためだ。これを我々は和平の証とする!」
和平と口にするかしないかの間に、背後の鉄の音がそれを書き消した。後ろに控えていた重甲兵達は一斉に槍の石突をうちならす。広場に集まった開拓地の皆はその音に困惑や驚きの声を上げ身を寄せ合った。
え、ちょっと怖いんだけど…。
そう思ってカラリリを見ると彼女は私を振り返らずにただ、握ったままの私の手を静かに下ろして穏やかに言った。
「これは誇示ではない。守るための保証だ」
いや、こんなに兵隊引き連れて…。どう見ても和平って雰囲気じゃないよ…。
「え、え。どういうことですか? カラリリさん」
彼女は私の声を聞いても微笑んだ顔をこちらに向けるだけで答えようとしない。その目の輝きの下にはぽっかりと空いた黒い穴の様な瞳があるだけだ。
「それは素晴らしき考えねカラリリ嬢」
私の背後からののんびりとした声に振り向くとそこにはエマさんが立っていた。彼女は緑の長衣をまとい、頭には透けた黄金の薄布をまとっていた。その両脇にはオーバーサイズ気味の長衣をまとったノグルスとぶっちょ面の文官レーデルが控えている。
「では――」
口を開いたカラリリをエマさんは手で遮って言った。
「和平と循環の詳細については外交官と調整して頂戴」
それを聞いたカラリリは恭しくスカートのすそをつまむと頭を下げて言った。
「では、正式な窓口をご案内願えますか?」
それを聞いたレーデルは一歩前に出て言った。
「エルフのルリコ様。守護者エマ様は、本日をもって貴方を我が国の外交官として任じられます」
え?
『え?』
「え?」
私の後ろでフランとアキレアが顔を見合わせている。
「外交…官…って何をするんですか?」
するとエマさんはニコリと笑って言う。
「外交官は国と国の仲を取り持つ役職でしょ? あなたは人と上手くやるの得意だし向いてるんじゃないかなって」
ええ…外交官ってそんな簡単な仕事なのかな?
そう思ってアキレアを振り返ると彼女は少し考え込んでから言った。
「…お言葉ですが。守護者エマ様の説明はあまりに簡潔すぎると言わざるを得ないでしょう。確かに外交官は国家間の友誼を維持することも大事です。しかし敵対国。すなわち自分を嫌っている人間を好きにさせる能力も求められます。これは並大抵のことではありません。それに…」
アキレアは少し逡巡した後に私をまっすぐ見て言った。
「外交官は国の顔です。失敗すれば、戦争になりますよ」
それを聞いて私は胃に冷たいものがはしる。
戦争? 私のせいで戦争? 本当に?
すると私の背後からノグルスは朗らかな声をかけてくる。
「大丈夫です。だって私達の後ろ盾には君主シャンがいますから。誰も逆らおうなんて思いませんよ」
それを聞いて私は腕を組んで首を大きく傾げた。
「い、いやぁ…でもなぁ…」
私の様子を見てカラリリは垂れた裾を口元に押し付けて言った。
「ルリ姉には夢がありますよね?」
ノグルスにそう言われて私は胸がドキリとする。
「だったこの提案はルリ姉の夢を叶えるのにかなり効率的ですよ。例えば外交官になればいろいろな国で色々な人に出会えます。その中にいい人かその知り合いのいい人を紹介してもらえます。仕事をすればするほど出会いが増えていく。これ程ルリ姉に向いてる職業はないと思いますが」
た、確かに…。あ…でもダメだこれ。流石にダメだ。男漁りに外交官になるとか…ニコラスに申し訳が立たないし…。
首をひねって断ろうとするのを見たノグルスは矢継ぎ早にまた言った。
「…まあ、そうでなくても私達エルフには人間の婚姻相手が必要です。どこかの身分の低い異性より、身分の高い人格のいい異性を見繕えるというメリットもある。なんなら向こうから勝手にやってくるでしょう。それだけでも結構な利ですよ」
う…まあそれも…。確かにフランや皆をどこの馬の骨とも知らない奴に嫁がせるよりは…。その人となりをその目で見れるこの仕事は割とアリかもしれない。
私は頭を更にひねった。
あーどうしよっかなー。うーん…。
そう思っていると私の真後ろから声がした。
「貴方達の夢とはなんですか?」
「え?」
見るとそこには頭越しにエマとノグルスに話しかけるカラリリの姿があった。私は両者の邪魔にならない様に横に退くと、彼女は更に前に一歩出た。それを見てノグルスはカラリリに垂れた裾を振って答えた。
「ラヴェヌル家当主代行カラリリ殿。ルリコ外交官殿の言う夢とは個人的なものであって我々の総意ではないのですよ」
「個人的なもの? 個人の夢? ということですか? それがなんだというのです?」
「我々は個人の理想や願望を尊重するのですよ」
「何故?」
「一人一人の美の形があり、それを追及し昇華することも美だからなのですよ」
「何故? 各自が勝手に理想を追及したら皆さんはバラバラになっていまいませんか?」
「だから国が要るのです。国は夢や理想を許すが、暴走は許さない」
「そうですか…」
そう言うとカラリリは考え込んだ後、私を向いて言った。
「それでルリコ外交官の夢とは?」
それを聞かれて私は背筋に冷たいものがはしった。
さ、流石に理想の王子様と結婚するなんて恥ずかしくて言えない…。
「えっとそれは…後で個人的に…」
「個人? 当主代行カラリリとではなく?」
「はい、私と貴方で」
「それはどういうことですか?」
「プライベートってことです」
それを聞いたカラリリは暫く息を止めた後、吐き出しながら言った。
「つまり家とは別の私ということでしょうか?」
「そうです。私個人です」
「すみません。それはよくわかりません。私はラヴェルヌ家のカラリリです」
そう言うとカラリリは頭のツインテールを引っ張りながら言った。
「むしろラヴェルヌではない私とはどのような者ですか?」
流石にそこまで言われて私もどう答えていいかわからなかった。
何でこうもわからないんだろう…。貴方は貴方でしょ、と言い返したいのに。でもじゃあ私って何なんだろう? 日本で死んだ女? 森のエルフ? それとも――。
「ルリコ様。貴方は何者ですか?」
そう問うカラリリの黒い瞳は私を一点に見据えていた。それを見て私はフッと笑って言った。
「私は私です。すみません、そうとしか言えません」
それを聞いたカラリリは少し考え込んでから言った。
「僭越ながら申し上げます。ルリコさん。貴方は外交官には向いておられません。貴方は誠実すぎる。外交とは、誠実であってはならない時がある務めです」
そう言うとカラリリ嬢は深く頭を下げた。
「…などと差し出がましいことを申しました。非礼をお許しください。」
カラリリのその言葉を聞いて私は頷いた。
確かにそうだ。私なら国の利害を考えることはできると思う。でも、それを実現するために人を騙したり、本音を隠したりするのは——たぶん無理だ。むしろそれを教えてくれたカラリリさんはいいひとかもしれない。
そう思った瞬間、胸の奥に妙な熱さが込み上げてきた。
この人、変な人だと思ってたけど……。いい人じゃん。外交官に向いてないなんて。身分の高い私に、ちゃんと教えてくれたんだから。
嬉しくなって、思わず頷いた。
「確かにカラリリさんの言う通りですね」
それを聞いたカラリリは口を少し片方の眉を下げて微妙に呆れたような表情を見せた。それが私には可愛らしく見え笑ってしまった。
「そういう訳で守護者エマ。その外交官の辞令。辞退させていただきます」
その言葉を聞いたレーデルは困惑した表情でお互いの顔を見渡す。フランは笑って、隣でアキレアが首を思いっきり横に振っていた。周囲に居たカラリリの部下たちは騒然とお互いの顔を見合わせている。
あ、やべ。そうか今のエマさんの立場は一番偉いから断るとマズいんだった…。
そう思ってエマさんの顔を見ると彼女はニコリと笑って言った。
「そう? わかった。じゃあその代わりにルリコにはラヴェルヌ家との外交を担当してね」
エマさんの言葉に、一瞬思考が止まる。
「…え? だから私は…」
言い切る前にノグルスが割って入ってくる。
「ルリ姉。守護者エマはこうおっしゃってます。外交官じゃなくても外交はできる、と」
「いや…それは…」
屁理屈ですやん…。
「ウォッホン。オホン! オホン!」
そう反論しようとするとレーデルさんがこれ見よがしに咳で咎められた。押し黙った私にノグルスがウィンクしてくる。
は、はめられた…!? いや、はめる意味ないだろこれ!
そう思いながらも私は内心頭を抱えた。
あー…ダメだこれ。やるしかないかぁ…。
そう思って私は渋々と頭を下げた。
「そういうことであれば、謹んでお受けいたします」
途端に周囲から拍手が上がる。すると背後からカラリリが私の横に立って言った。
「おめでとうございます。エルフとラヴェルヌの国交、どうぞよろしくお願いします。ルリコ様の誠実に答えられるように、このカラリリも決して嘘はつかないとお約束しましょう」
カラリリの言葉に首を横に振って答えた。
「いえ、やるからには外交の腕も磨きたいんです。そこで相談なんですがカラリリさん。今回の取引、試しでいいんで私を騙すつもりでやってみてくれませんか?」
もし外交が嘘や騙しが当たり前ならむしろ騙してくれた方が良い勉強になるだろうし…。
そう思って見てみると彼女は口角をヒクつかせながらその身をプルプルと震わせていた。
い、イカン!
「い、いやぁ。なんて冗談ですけどね。ハハハ…」
私の言葉に周りの人達は一斉にため息をついた。フランもアキレアも苦笑いを浮かべている。
私そんな変なこと言ったかな…? やるからには経験があった方が良いと思うんだけど…。
「うぉっほん」
カラリリの背後からベルナール老が咳払いをすると一歩前に出て書簡を差し出した。
「ルリコ様。こちらが納品の目録です」
「あ、お預かりします」
それを受け取ると横でエマさんが軽くあくびをした。するとレーデルさんが一歩前に出てエマさんに頭を下げた。
「守護者エマ様がお戻りになれます」
それを聞いた周囲の人達も頭を下げる。
「では、後は任せます」
そう言うとエマさんはきらびやかな衣装をひるがえして去って行った。その後ろ姿が妙に様になっている。
な、なんか。本当にえらい人に重大な案件を任されたような気分になってくるなぁ…。
そう思いながらエマさんの背中に頭を下げた後に、ベルナール老が話しかけて来る。
「ルリコ様。先ほどの非礼をお詫び申し上げます。今回、我らラヴェルヌ家の外交をお引き受けくださったこと、心より感謝しております。我々は今回の取引が無事に成功することを切に願っております」
頭を下げるベルナール老に両手を小さく振って言った。
「あ、いえ。全然全然。というか頭を上げてください。私もまだ未熟なんで…今回は無礼講でいきましょう」
「はあ…」
眉尻を下げながら頭を上げるベルナール老の後ろからカラリリが半眼で見つめてくる。
やべ。とりあえずちゃんと仕事しないと…。
「えっと…。この目録は鉄製品や鉱物資源が多いんですね。ラヴェルヌさんの所は鉱山が多いのですか?」
「はい。我らの土地は幸いにも鉱山に恵まれております。そこから取れる資源はエルフの皆さまの暮らしや安全をよりよくするでしょう」
そう言われて私も顎に手を当てる。
まあ…確かに私達はまだ鉄製品とか作れないから取引してくれるならありがたいけど…。でもさっき循環がどうとか言ってたから交易したいってことなのかな…? でもウチに鉄に値するような資源ってあったかな?
「…特に鉄製品の加工には材木が欠かせません。お恥ずかしながら我々の周辺では既に材木は刈りつくされ隣国の資源に頼らざるを得ない状況なのです」
私が押し黙ったのを見計らってベルナールさんが補足してくれる。
ああ、そうか。鉄の加工って木が必要なんだっけ。じゃあただの木でも相手は喉から手が出る程に欲しいんだな…。
「わかりました。じゃあそれで」
私はカラリリの馬車に乗っている資源を見ながら相槌をうつ。
…。
私の言葉を聞いて周りの皆は黙ってしまう。
あ、あれ…。私何か変なこと言ったかな。
咳ばらいをしたベルナール老は荷馬車から鉄製と思われる農具を取り出すと差し出した。
「こちらがラヴェルヌ家特性の農具です。ルリコ様はこれを見てどう思われますか?」
その農具を受け取るとまんべんなく見回したり触ってみたり、臭いを嗅がごうとして顔を近づけると後ろからフランに肩を掴まれる。両手でクワをできるだけ身体から離して見てから呟く。
「ほう…これは…」
うん。わからん。ホームセンターの鍬とどう違うんだ?
そう思って周りを見渡すと皆、私の様子を固唾をのんで見守っている。
「良いものですね!」
知らんけど。
その言葉を聞いてベルナール老もラヴェルヌ家の従者の人達も胸を撫でおろす。いつの間にか周りに集まっていた開拓地の民も「おお!」と声を上げる。
おー。やっぱこれが言って欲しかったことなんだな。
「それでいかほどでしょう?」
ベルナール老の言葉に私は首を傾げて言う。
「大したもの…? かと?」
それを聞いて皆一斉に困惑して顔を見渡す。
え? 何? 何?
「これ等は木材何個分の価値があるのでしょう?」
カラリリの言葉を聞いて合点する。
つまり鉄製品一個に対してどんだけの木材を出すかってこと…? いやわからんけど…。
「え~と…十とか…」
そう言いかけて老の顔を盗み見ると、表情を固めたまま青い顔をしている。
「そう見せかけて二十なんて可能性も…」
老の後ろでカラリリが呆れた顔で天を仰ぎ見ている。
「いやー難しいなー。これはどうかなー?」
鍬をいじりながら必死に頭の中で鉄がどれくらいの価値か頭の中で考えを巡らせる。
えっと…。そうか。鉄を加工するにはそもそも木の消費とかあるわけだし。そこから利益を得るなら十や二十は加工費でそっから先は売上みたいなもんだから…。
そう考えを巡らせていると横から「はいはいはい」と群衆の中から手を上げながらマントひるがえした女性が駆け寄って来た。
「こら! 近づくな!」
そう言ってカラリリの護衛が槍をマントの女性に向けると彼女はその切っ先をターンするようにかわすと護衛の肩に肘を乗っけた。
「いや、お邪魔するよ。大分見てらない惨状でね」
そう言って軽くフードを手で上げた下にはエイリスの顔があった。
「えいり…!「あー!」」
名前を呼ぼうとしてエイリスは大声で私の言葉を打ち消す。
「名乗る程のものじゃございませんよ! 私はそう…エルフの影とでも呼んでもらいましょうか」
そういって恭しく頭を下げるエイリス。それ見て本当か? とカラリリ達は私の顔を見つめてきた。
「そ、そうなんですよ! エルフの影さんにはいつも助けられてばっかりで…お久しぶりです」
「いやだなールリコ様。お恥ずかしい。そんなに褒めないないでくださいよ。本当に恥ずかしいからヤメテ」
そういうエイリスは毒を盛られた皿をかみ砕いてるかのような顔をしながら笑った。
「ルリコ様は高貴なお方。遠くの地の鉄製品がどんな価値があるかなんてことは聞かないでください。そんなことはこの小間使いお任せしてくれればいいんです。だってそうでしょ皆さん。こんなきれいな方があっちやこっちを泥にまみれて走り回るなんて見てられないでしょ? 女神に土をいじらせるようなものだ。高貴な方はそんなことしちゃいけない。エルフ様の美しさが私達を守ってくれるんです。だったらそれを穢れから守るのが民の仕事ですよ」
エイリスが芝居がかったスピーチを開拓の民たちにすると「そうだ!」とどこからか声があがる。「エルフの美しさをたたえよ!」「エルフをケガレから守れ!」その声を主を見るとそこにはいつぞやのマルコや赤毛の水兵だった少年が立って周囲を扇動していた。
や、やらせじゃないですか…。
そう思って見たエイリスは私にウィンクをして返すと言った。
「という訳でルリコ様今回の交易はどうかこのエルフの影にお任せください」
そう言うとエイリスは私の足元に下肢づく。それを見ていた開拓の民たちはいっせいに手を叩く。
「い、いいでしょう。エルフの影よ…。お主の力を皆に見せつけるがいい」
エルフの影という名前のせいか私の言葉遣いまでおかしくなっている。私の言葉を聞いたエイリスは口角をヒクつかせながら笑って頭を下げた。
「しょ、承知いたしました」
「で、ではエルフの影殿。交換についてこちらで話しましょう」
老ベルナールにそう呼ばれてエイリスは虚ろな目をしながら「はい…」と肩を落としながらついて行った。
エイリスさん大丈夫かな? これからずっとエルフの影とか言われて辞めたりしないよね?
そう思って彼女の背中を見ていると後ろから「あの」と声がかかった。みると遠くを見ていたカラリリがいつの間にか紙の工房の方を指さしながら言った。
「あれはなんですか?」
「ああ。あれは…私の家って言うか…紙の工房です」
「紙? 紙とは?」
そう振り返る彼女に近づいて言う。
「紙とは羊皮紙の様な動物の毛皮ではなく、植物繊維を固めて作られた筆記用具です。よかったらご覧になりますか?」
「お願いします」
カラリリは私とは目線を合わせないまま、あらぬ方向に頭を下げる。
人と目を合わせるのが苦手なのかな…?
「じゃあ案内しますね」
再び私達が工房の中に入るとポテが不安そうに振り返るので笑って頷く。彼女も少し首を傾げながらも目を伏せて再び紙作りに戻った。見るとグレーテさん達も奇抜な恰好のカラリリを怪訝そうに横目で見てから眼を伏せた。
「えーこちらが紙の工房です。あのようにバナナの幹を分解して水に溶かして紙の形にして乾かすんです。そうしてできたのがこちらです」
そう言ってカラリリに紙を差し出すと彼女は興味深そうに手袋越しに紙を触る。
「今は羽ペンだと少し引っかかりがありますがゆくゆくはもっと滑らかな品質にして書きやすさを上げれば羊皮紙に代わる記録媒体になると思いますよ」
それを聞いたカラリリはおもむろに紙を紙台の上に放りだした。
「あ…拾いますよ」
それを見て紙の位置を拾おうと手を伸ばすと、誰かが私の前に立ちはだかった。
「え?」
顔を上げると目の前にはアキレアの背中があった。何が起きたかわからずに見ていると肩越しに私の方を見るカラリリの顔が見えた。カラリリの眼は大きく見開かれ私を睨みつけて居た。さっきまで紙台を向いていた身体はいつの間にか右手側の半身が私に向けられていた。その右手は何かを掴もうとしていたかのように私の方に伸ばされたままアキレアの前で固まっている。
え? 私に何かされかけた?
そう思ってアキレアの方を見ると同時に、カラリリは猫背になってアキレアをうらめしそうな目つきで睨んだ。その目はアキレアを責め立てる様に微動だにしない。何か不穏な空気を感じ取ったのか奥様方も不安そうにこちらを振り返っている。
なんか…カラリリさん怒ってる?
見るといつの間にか隣のフランもカラリリを睨みつけていた。
え? 一体何があった? 何か私…彼女を怒らせるようなこと言った?
どれくらい時が経っただろう。静寂の中でアキレアが固唾を飲む音が響くと言った。
「この人は…大丈夫です。たとえそうでも私がさせない」
その言葉を聞いてもカラリリの目はアキレアを食い入るように見つめている。
「それでも足りないなら。貴方も見ていればいい。この人を。ずっと側で。そうすれば…」
アキレアがそこまで言いかけるとカラリリは目線を下に落として背中を丸める程に曲げてから上体を起こした。そこにはさっきまでのカラリリの怖い表情は無くなっていた。彼女は落とした紙を再び片手で拾い上げ、もう片方の手で前髪をかき上げると無言でバリバリと何度もかきむしながら天井を見上げた。
「私も一枚噛ませてください」
そう言うとカラリリは紙を見つめながらニコリと笑った。
「え…?」
私が震える声で言うと彼女はツインテールの毛先を指で巻きながら言った。
「この紙と鉄を交換しましょう」
「あ、はい。一と十ですか?」
そう言うとカラリリは笑って言った。
「一対一が相場でしょう」
それを聞いて私の片手は額の脂汗を撫でる。
「一セット…ですよね?」
「一枚」
それを聞いて私の胃がキリキリと痛む。
ええ…つまりあの鉄の鍬がこんな紙きれ一枚と交換できるってこと? 何で? なんかカラリリさん変になった?
「えっと…何でですか…?」
それを聞いたカラリリさんはいきなり身体をくの字に曲げて震わせた。見ると彼女はこみあげる笑いを必死にこらえていた。




