エルフと私
次回の更新は8/4です。
その夜私は一睡もせずに太陽の光を迎えて大あくびがでる。仮眠して寝返りでもうったら赤子が潰れてしまうかもしれないので徹夜だ。まあ、前世じゃ徹夜なんてざらだったので全然平気だが。
「手伝いの人まだかな? 早く仮眠したい…」
眠気覚ましの独り言をつぶやきながら、私は赤子を抱えて、膝立ちをする。ひさしのように突き出た板の隙間から耳をすませると、耳に「ビィービィー」というかん高い虫の鳴き声が聞こえてハッとした。
「あー確かあの虫って…。不吉のきざしだからって誰も外出しなくなるやつだっけ…」
鳴き声はローンというコオロギに似た虫が発するモノで、エルフ達はその音を不吉のきざしとして外出を控える。
きざしとはエルフが未来を正しく判断するための自然から発せられる手がかりだ。エルフはきざしをみつけるとその手がかりから未来に備えようとする。例えるなら前世の地球における燕は低く飛ぶと雨が降るから洗濯物を取り入れようするのと同じ様なモノだった。
しるしは森という大きいモノから木や動物、小さいモノへとヒエラルキー的に波及すると考えている。だから小さいモノから逆算して森のこれからを知る手掛かりになりうるとされる。虫の鳴き声一つが森の異変を察知するためのしるしなりうる。その解釈は様々で、エルフの中には獣と会話して森を知ると豪語する者も居る。とにかく先の鳴き声はローンが不吉の予兆を見つけた時に知らせるモノでエルフは一切外出を控えてしまうのだ。それを破ると、不吉は個人だけではなく、連鎖的に広がって公共の森にまで拡大すると考える者もいる。
「これじゃ皆家から出てこない…。えーまさか今日も徹夜…?」私はブーたれ声を出して頭を抱える。こういう時の為に肉果の中のミルクを母乳の代替品として用意はしてもらっているが、困ってしまった。
ていうかエルフもある程度科学的な素養があるんだからそういう迷信には眼を瞑ってくれてもいいのになぁ。…まあでも現代人も近代まで血液型占いとか霊障とか信じてたし、そういうものなのかもなぁ。
そんな考えを巡らせていると私の耳に小屋の扉を外す音が届いた。扉を見ると「ルリコ? 入るよ?」と言ってはめ込んだ扉を外してフランとエマがせき込みながら入ってきた。
「エマさん? 一人で出歩いて大丈夫なんですか?」
「この部屋あっつ! お早う~大変だねぇ」とエマは私の問いに答えずズカズカと部屋に入って座る。
産後のエマは疲労も感じさせず、気さくに話した。
「いやー流石にフランと一緒に来たよ。でもその子の出産は楽だったし多少はね?」
エマは悪戯小僧の様に口元から舌をペロリと出してウィンクした。フランはエマの後ろから表われ申し訳なさそうに眉尻を下げて近づいてくる。
「あ、フランさん。お疲れ様です。さっきの虫のしるし、聞こえましたでしょうか?」と私は声を潜めて問う。フランは部屋にしなりと座って言った。
「何で急に卑屈な言い方するの…? しるしは聞こえたけど、母さんが今ならむしろ人目がないから自由に出歩けるって聞かなくて…」
エマは全く悪びれもせず、ご機嫌そうに笑っていた。夢のおぼろげな記憶から、フランに気を使った方が良い気がしたのだ。すると突然の騒がしさに驚いたのか赤子が火が付いたように泣き始めた。私は赤ちゃんを抱いたり揺すってあやしたりしてみたが、全く泣き止まない。
「うんち? おしっこ?」と木綿のおしめを触るが変化はない。
私は赤子の顔を見て要求を察しようと試みるが泣いてるだけで何が言いたいかはわからない。いや、まあ…当たり前だけど。
「見ているだけじゃどうにもならないよ、きっとお乳が欲しいのさ」とエマは笑った。
「でもさっき、肉瓜のミルクを与えたんですけどね…」
エマは私から赤子を受け取ると胸をはだけて慣れた手つきで授乳を始めた。私はそれを横目で見ていたが、エマの授乳によって赤ちゃんは大人しくなった。
エマという人は一言でいうなら大雑把だが機転が利く美人だ。エマは少しズボラなところがあるが持ち前の気さくさと美貌でお目こぼしをもらうことが多い。その人当たりの良さと人たらしのお陰か齢三百歳にして議会の八柱に選ばれた。幼少の頃に私がフラウの家にお邪魔した時にエマはちょろまかしたザクロの実を「秘密だから」と半分ずつ分け合ったことがある。私はエマは収穫の一部を家族に秘密にした上に子供を共犯に巻き込む手管に「こんなエルフも居るんだと」と驚いた記憶がある。
思い出にふけっていた私は唐突にあくびが出てしまい、口を手で覆った。それに気づいたフランは私を心配そうに見る。
「眠い? 今仮眠しておく?」
私が目をこすりながらも「ちょっと眼が冴えちゃって…。もう少ししたら寝るよ」と呟いた。その声が耳に届いたのか、エマは私に向き直ると赤子に乳を与えながら膝立ちでソロソロと近づいてくる。その柔和な笑みが何か企んでいそうな気がした。
「この子、甘えん坊な性格っぽい。これは夜泣きするね。今のうちに寝かせておきな? 赤ちゃんはね、生まれたばかりで上手く眠ることができないの。明日からは眠る前に必ずすることを決めておきなさい。例えば歌とかね」
私は赤ちゃんの為の歌ってどんなのがあるのかなとボンヤリと考えていると、エマは私をじっと見ながら言った。
「ルリコは凄いねぇ」
「急にどうしたんですか? 褒めても何も出ませんけど」
大阪のおばちゃん並みの畳み込みに、いよいよ本題かと私は警戒する。
「いや、実は私ね。昨日の君の啖呵を聞いていたんだよ」
エマは私の顔色を伺いながらニヤニヤする。
マジか…あれ聞かれてたのか…。
「こんな時にからかうのは止めてくださいよ」
私は照れ隠しで口先をすぼめるが、エマは私の顔で手を仰いで言った。
「照れるな照れるな。めっちゃ感動したんだって…。皆がね。凄くね。感化されてたね。アレは」
「聞かれてたんですか…あれ…皆に」
あんな真剣十代みたいな啖呵を皆に聞かれたのか…。
「そりゃあ、皆子供は好きだからねぇ。そんな中でアンタの大声の啖呵を聞いた上でウチの娘のマジ泣きのお涙頂戴劇だからさぁ。全エルフが感動するよ、アレは」
「母さん?」
フランのたしなめる声にエマはわざとらしく身体を震わせる。
「だけど薬が効き過ぎたのかねぇ。命が大事か、集落の存続、或いは文化かで集落は大荒れなんだよね。ホラ、ウチの人たちってさぁ。見栄っぱりだかんね」
エマさんはそう言うとポケットから私に何かを差し出した。その手には石ころ程の大きさの皮の袋があった。
「というわけで、この種を貴方に贈与します。この種は私達が代々始祖様から受け継いできた凄い物なの、開けてみて」後ろでフランが「母さん…っ!」と小さくたしなめるような声を上げる。エマはフランのその態度を抑える様に子供を渡す。
「何がという訳なんですか?」
突然のことでぽかんとする私にエマは満面の笑みを作って見せて言った。
「君はもう私の家族みたいなもんなんだからさ。君への選別だよ。聞けば君は外の世界に興味があるらしいじゃないか」
「お子さんを連れて逃げろってことですか?」
「いやぁ政治的な駆け引きだよ。私も黙って見てるだけじゃ恰好がつかないからね。この種は始祖様の故郷の種で沢山の実がつく魔法の種らしいからつり合いとしては十分なワケ」
「いや、よくわからないですけど。とにかくそんな大切なもの受け取れませんよ」
「勿論タダじゃない。その代わりに、その種の相続権はその子にお願いしたいの。それがあればその子は飢えずに生きていけるでしょう?」
要するにエマさんは私に種を上げる代わりに赤ちゃんの将来をよろしく頼むということらしい。私は手の平を広げて皮の袋を開けてもらって中を覗いた。中には金色の小粒が詰まっていた。確かに畑を作って種を恒久的に実らせれば狩りができなくてもいきていけるかもしれない。でも農業ってそんな簡単なものだっけ? 私は頭の中で算盤をはじいてみたが、暗算ではよくわからなかった。しかし概算でもなんとなく厳しい感じがする。
「農業ってそんな簡単なものじゃないと思うんですけど。どうでしょうね」
薪の破片を使って土間の地面で計算してみた。
農地で暮らす場合、収穫できる麦から作る食品で畑の一周期を乗り切れれば大丈夫なはず。例えば麦からパンを作るとして単純に考えてみよう。
前世で私がダイエットをしていた時のレストランのカロリー表示を思い出した。だけどメニューのパンにはバターや砂糖が使われていただろうし、その分を差し引いて計算しやすくパン一斤200gで500kカロリーと仮定した。
エルフは小食なので一日に必要なカロリーを1500kカロリーとすると
そのパン一斤を焼くのに必要な小麦粉が250g。
エルフ一日の食事に必要なパン三斤を焼くのに必要な小麦粉の量は750gになる。
単純計算で集落のエルフ四十名が750gの小麦粉を消費したとして一日に三万gの小麦粉を作れる農地を作れれば良いことになる。
その農地が1ヘクタールあれば小麦粉を一トン収穫できると仮定すると。
一日に三万gの小麦粉が失われると1ヘクタール千万kの小麦は約一年持つ。
つまり東京ドームのグラウンド程開墾して半月毎の収穫ならエルフ四十人分の約一年弱程の食料となる。
しかしこれは机上の空論だ。言うは易しってやつだよね。
仮に農地を作るにしても1ヘクタールも開墾する方法やエネルギーが無い。手伝いでエルフを呼んでも華奢すぎてできるかどうか怪しい…。
それに農業は狩猟に比べて穀物しか摂取しないため栄養バランスが悪く、畑の世話で身体を壊しやすい点もあった。農業を始めて人口を増やしてしまえば減らすことは容易ではないし、そこまで規模が拡大すれば狩猟の生活を伴わせるのは難しい。
というかそもそもパンを作り方なんてしらないし…。やっぱり難しそう。
「やっぱりエルフの肉体だと畑をやるのは困難ですよ。虚弱どころか普通のエルフにも無理だと思います」
エマはキョトンとして「本当…? その種が沢山実を付けるものでも…?」とぎこちなく笑った。
「本当です。それに畑を作ったら、それを虫とか天災、飢えた害獣や外敵から守る必要があります。畑を奪われたら生きていけませんからね。採取だったら採れなくなったり外敵があらわれたら移動すれば済みますが、畑はそうもいきませんからね」
エマは私の言葉を聞くと宙を見ながら少し考えていた。暫くしてエマはフッと「そっか、じゃあやっぱやめとこ」とお手上げといった風に両手をあげて仰向けになって笑った。フランは赤ちゃんを抱きながら「母さん行儀!」と小声で叱る。エマはフランの言葉にスッと居住まいを正して大げさにうなだれた。
私はエマの顔色を伺いつつ、聞いた。
「エマさんはどうしてこんなことを?」エマはキョトンとしながらも宙を仰いで答えた。
「うーん、私個人としては…この子にはどんな形でも生きて欲しかったんだよね。でも生きる資格だの、幸せだの周りにとやかく言われるくらいなら…いっそ、ルリコと一緒に畑を作るとかの方が面白い人生じゃない?」エマは顔の横に片手を構えて悪びれもせずそう答えた。そしてエマは言葉を続けた。
「何より私はお気楽に生きたいの。なのに子供が虚弱だのなんだの言われるなんて気が気じゃないでしょ? だから他に楽に生きていける道があるならそれを選べばいい。でもその為に私が頑張るのは嫌。だから貴方に託す。それが私にとってあるべき美なの」
エマの言い分はとても怠惰に聞こえた。でも私の脳裏には仕事から帰って疲れて寝るだけだった会社員の自分が想起されていた。豊かな人生の為の仕事が…いつの間にか仕事の為の人生になっている。当時の私はそんな欺瞞にさいなまれて悲しくもないのに涙が止まらない。『一体何の為に生きているんだろう…?』何度そう考えたかわからない。でもそんな本音を隠している人もいる。怠惰、無責任と後ろ指を指されないように。なのにこの人は…
それを満面の笑みで言えるって…なんか…羨ましいな…。
「そういうことなら…例えば報酬を払って誰か代わりの人に土地を管理してもらうって手もアリだとは思いますけど」
「あら結構前向きなのね。じゃあ、お願いしてもいいのかな?」
ああ、そうか誰か代わりの人って私ってことなのか…。
私はエマを半眼で見据える。背後のフランもエマを責める様に見ている。
「おいおい、そんな怖い顔するなよ。サボる為にはそれなりの努力が必要なんだぜ? 私だって全投げはしないよ。全く何もしないのも美しさに欠けるだろ?」
この人どんだけ省エネで生きているんだ…。
呆れていると、本格的に眠気が襲って来た。
「はあ…もういいです。そういうのはコトが一段落してから考えましょう。一旦、仮眠しますね」
私はフランに種を足して横になる。今にして思えば倉庫にあろうが私の懐にあろうが土の中にあろうが。この人にとっては種が何処にあるかを把握できていればそれで充分なのだ。
敷物に寝転んだ私を見てエマ達は側から離れて部屋の隅で子供の世話をし始めた。私はエマが赤子を甲斐甲斐しく世話をする様を見て少しホッとした。そしてそのまま眠気に身をゆだねて目を瞑った。
そんな日々が数週間過ぎた。二日か三日に一回は長老や手伝いの老エルフと私が交代制で赤子の世話をした。当初、私は赤子の夜泣きをして寝不足気味だったが、赤子の方は体重も少しずつ増えてすくすくと育った。私も段々育児や夜泣きに慣れて来て、うとうととした浅い眠りでなら仮眠を取れるようになった。
小屋の外にも三姉妹が来て割ってくれた薪や日干し煉瓦の予備が大量に積んであった。二週間ぐらいして、私もルーティーンのおかげで余裕ができた。私は小屋の藁のベッドの上に座ってイチジクの様な実を頬ばる。果汁が子供の頭に垂れて慌てて拭きとる。
大分良い感じになってきたんじゃない?
そんなことを考えてニヤついていると突然赤子がぐずり出し泣き始めた。
「ちょっとまってね」
私は手慣れた動作で腰袋から肉売りのミルク入り皮袋の吸い付き口を当てた。赤子がぐずったらとりあえず何か口に含めておけば時間が稼げる。そのまま満腹にさせればおねむになって仮眠が取れる。育児はリズムだ。毎日赤ちゃんを同じ様に起きてご飯を与え眠らせれば身体はそのリズムを繰り返す。
育児のループを維持すれば安定する。あとはこのままこの子が育ち切って安定すれば、手伝いの人に育児を任せられるようになって自由の時間ができる。
後はニコラスと長老が議会を説得してくれればいいんだけど、進捗が難しいようだった。二人から議会は時間稼ぎをしているかもしれないと言われた。
こんな狭い集落で争っても仕方がないのにな…。
そんなことを考えながら半月、何の音沙汰もないまま育児は順調に進んで行った。
その間も集落の議論はまだ続いているようだった。まだかまだかと首を長くして待っていると、ある日フランからエスメラルダが産気づいたことが知らされた。フランは必要品だけ持って来て報告する。
「女性陣総出で助産することになって…。男集も手が離せないの…だからごめん! 今日一日だけ頑張って!」
私はフランの焦った形相に冷や汗をかく。前日に私は「今日は手伝いが来る」と思ってよなべしてモーフの毛をコマで糸にしていたからだ。でも「寝てないのに」と言える状況でもなかった。
まあ、一日徹夜ぐらいどうとでもなる。いざとなれば浅い眠りで仮眠もとれるし。
するとフランは私の表情を見て何かを感じ取ったのか言った。
「…そんな顔をしないで。ルリコが責任を感じる必要はないよ…! 最初に言い出したのは…悪いのは私なんだから」
突然の言葉に私はキョトンとしてしまうが、フランは思いつめたように俯いて言う。
「私は…ルリコにどこかに行って欲しくなかったから…だからその子を…貴方に…」
私は彼女の言わんとしていることを何となく察した。だけど胸の赤ちゃんの前でそんな話をするべきじゃないと思って何とか話題を逸らそうとした。
「そういえば、フランと最初に友達になろうって言われた時。嫌だったな…」
「何で!?」フランは焦って顔を上げる。その様に笑いながら言った。
「凄くキレイだからさ。私にはまぶしすぎるぐらいに…エルフの見本って言うか…。とにかく隣に私が居ていいのかわからなかった。そんな自分が嫌だった。エルフになりきれない自分が」
それを聞いたフランは雷に打たれた様に呆然として俯いた。
「そうだったんだ…」私はフランが早とちりしないように矢継ぎ早に言葉を口にする。
「でも今はそうじゃない。今、私達って一緒じゃない?」
今度はフランがキョトンとした顔で首をかしげる。
「私達、今、本音で話せてる」
フランは突然中腰になって顔を俯かせる。だけどその顔はニヤけている気がする。暫くして姿勢を正すと無表情のまま言った。
「他人の言うことなんて聞かなくていいんだよ。ルリコには夢があるんでしょ?」
私は頷いて言った。
「うん、だけどこれは私と貴方の約束じゃん? エルフは友達との約束を守るべきでしょ?」
フランはまた不意を突かれた様な顔をしてから唇をとがらせた。
「なんかルリちゃんばっかりズルいね。私は貴方を頼ったのに…友達なら…対等なんだから頼るべきじゃない?」
また私は頷いて言った。
「そう、だから借りは返さないと」
私の言葉を聞いてフランは口を開けて人差し指を前に出して言った。
「そうだよ。借りは返さないと」
私は腕を胸にあてて紳士の様に頭を下げる。
「計画的なご返却をいつまでもお待ちしております」
フランは私の言葉を聞いて満面の笑みを浮かべる。
「約束ね。絶対返すから。だから、待ってて」
私は相槌をする。
「じゃあ、ちょっと行ってくる」
思い出したかのように言うとフランはきびすを返して集落の広場の方に走って行った。エルフに転生して、私はずっとシンドかった。あまりに奇麗すぎて洗練された神話の様な世界。その中でずっとその世界が滅びれば良いと願っていた自分。それな自分の様が嫌だった。でもこの赤ちゃんの命を助ければ。友達との約束を守れれば…少しはそこに近づけるかもしれない。今はそんな風に思っている。
でも、ずっと滅びろなんて思って生きてきたバチがあったのだろうか。その夜、私は地獄を見た。
蝋燭が燃え尽きた真っ暗な小屋の中で私は抱いた赤子の鳴き声に包まれて座っていた。いつもの通り私は赤ちゃんに体内リズム通りの世話をしたのに。今日に限って泣き止まないし寝つきが悪い。眠い目をこすりながら何とかしようとするがなんともならない。それでも健康な状態なら耐えられたかもしれないが。不眠と長期の不摂生がたたり、謎の無気力になってしまった。
私はそれがウツに近い症状だと理解していた。前世の会社勤めの経験でそれぐらいはわかる。だが、知っていたからと言って『頭でわかっていても身体が動かない』という状態をどうにかできるわけもなかった。
もちろん食事や排せつなどの必要なことはできる。赤ちゃんの世話も必要な手立ては全部尽くした。その上で泣き止まないのだ。だったらもうできることはない。ただひたすら泣きつかれて眠るのを待つしかない。ただ耐えるしかない。嵐が過ぎ去るのを待つように。
暗闇の中でただ開いてるだけの眼から涙が頬を伝うが悲しさを全く感じない。むしろ涙は自分が生きていることを実感させてくれる。涙を流せるならまだ正常だ。そんな気がした。私は身体が打ち捨てられたガラクタの様に感じた。
私は赤子の泣き声のキンキンとした反響音で頭がぼんやりとした。その声に合わせて「アハハハハ」と笑ってみた。その笑いが頭の中だけなのか自分の口から出ているのかわからないが楽しかった。ふと身体に生暖かい感じがして身体から液体が溢れ流れ落ちた。あかちゃんのおしっこだ。暖かくて気持ちがいい、海水に浸っている様だ。
もう一緒にどこかへ消えちゃおうか。
人が壊れるという言葉があるが、人は壊れない。壊れと言うのは万物への寛容。拡張行為。全てを受け入れられるんだ。それは宇宙なんだ、生きているんだ、友達なんだ。
バカな考えを止める為に私は息を止めた。泣き声を感じながらも身体が酸素を求めてどんどんと強く脈打ち始めた。涙が止まらない息が苦しい。
涙を流しながら自分で息を止めているバカ女。本当に惨めで笑える。
そうだ、人はどんな状態でも死の間際に立てばそれに抗おうとする。私が会社のストレスに耐える為に生み出した方法だ。悲しさも怒りも死を目の前にすれば脳はそれを捨てて対処する。そうだ、脳は感じる為じゃなくて、計算する為にある。心を殺せ。
私の中の感情も苦しみも不快感も強い引き潮の波に浚われていくように洗われて消え去った。その波は静かに私を覆い涙も肉付きも美しさをもはぎ取る。私は目を瞑り、前世の自分の残骸がむき出しになって朽ちることに安堵した。
やっと…休める…。
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星々が瞬く暗い空の下、私は岸壁の上の教会に向けて杖を頼りに登っていた。潮臭いしけった空気の中岩肌を一歩一歩と踏みしめる。私は何か大事なものを失ったかのような焦燥感に駆られてなんとかそれを取り戻そうと登る。その夜は満点の星空で急こう配の岩肌のむこうに広がる海面に星々が私達を照らしていた。岩肌を登り切ると崖の頂上には厳粛な雰囲気の教会が建っていた。教会に近づいて大扉を開こうとすると鍵が掛かっている。私はどこか開いてる扉はないかと教会をぐるりと一回りするが、他にどこにも入口はない。窓でも割って入ろうかともう一回りするが窓もない。右往左往しながらふと、教会は自宅でポケットに鍵があったハズだと思い出した。私はポケットに手を入れてまさぐると中には古風な鍵が入っていた。私は大扉の鍵を開けると扉はきしむ様な音を立てて開いた。
「ただいまー」と私は大扉から教会内に入ると、教会の燭台に火がともったままで中はぼんやりと明るかった。教会の突き当りの祭壇に聖櫃が見えた。聖櫃に近づいて、蓋をズラして中を覗くと底にまで見えない闇がたまっていた。
「やばい、掃除をサボったから底が見えなくなってる。怖い」そう言って私は蓋を閉める。
掃除道具を探して祭壇の脇にある小部屋に入る。中はこじんまりとした部屋でベッドとサイドチェストの上に枯れた花が飾られた花瓶が置いてあるだけだった。壁に埋め込まれた燭台の灯が花の影をおぼろげに映し哀愁を漂わせていた。
「早く何とかしないと」
独り言が出るのは焦っている証拠だ、落ち着かないと。
私はベッドに腰掛けるとベッドの足元の床にキノコが生えているのに気付く。私は床のキノコを採ると指で割いてベッドの下からガスコンロを取り出す。それを膝の上に載せるとキノコを直火で炙って口に入れた。口の中でそしゃくしながら私はサイドチェストから金属の香炉を取り出すと、それをコンロの火にかけて炙った。すると火にかけられた香炉から紫の煙が立ち昇った。火を消したコンロをサイドチェストに置く。またベッドの下から火箸を取り出すとやけどしないように香炉の穴に差し込んで両手でかかげるように持ち上げるとそのまま聖櫃のある部屋へと運んだ。蓋を足で開け香炉を中に差し入れるとモクモクと煙が下に落ち始めた。聖櫃の中を覗こうと近づいたら香炉は火箸から滑り落ちて闇の底に消えた。
「音が聞こえな。こんなに闇が増えるなんて時間がかかるぞ。急いでいる時に限って…」と私はその場で座り込んだ。
ぼんやりしていると、ふと教会の大扉を締め忘れていたことに気付いた。大扉を見ると少しだけ開いた隙間がある。その隙間からお化けが顔を覗かせるかもしれない。そう思うと怖くなって大扉に走り寄って鍵を閉めた。振り返ると聖櫃から香炉の煙が溢れ出て祭壇を埋め尽くしていた。
「そろそろいいかな?」と私は聖櫃の中に手を突っ込むとお風呂のように暖かかったので蓋を全部ズラして聖櫃の縁から足から順に体を滑り込ませて全身を浸からせた。暫くして身体が温まってきたのでぷかぷかと浮いていると壊れた天井の屋根から夜空の星が見えた。見ていると天体が早送りの様に目まぐるしく変わり、流れ星が流星群の様に空を駆け巡り、そのいくつかが聖櫃に迫って来たのでそれを避ける為に私は闇に潜った。降り注いだ流れ星の作った水流に私はもみくちゃにされ、ぐるぐると身体が回転した。流れ星が底の闇を打つ衝撃で聖櫃がバランスを崩す。その後ガタガタと音が鳴って聖櫃の箱がバランスを崩す音を水中で聞いた。次の瞬間、私の身体がふわりとした無重力感を感じて、直後に何かに叩きつけられる衝撃を感じた。その衝撃と共に私の体は聖櫃の底に叩きこまれた。底には水中で火花を散らして燃え盛る高炉と星の黒い焼き跡があった。聖櫃から出ようとしたが底の沈殿した闇に私の下半身がはまってしまい出られなくなる。闇は底なし沼のように身体を呑み込んでいくので、抜け出そうと地面に頭を当ててでんぐり返しの様に転がると身体は何とか闇から抜け出せた。私は自由になった身体を水面に浮上させた。
中から顔を覗かせると聖櫃の箱は教会の崖から海原に落ちて水面を漂っていた。陸はとっくに遠くなって戻ることはできない。そうわかると凄く悲しくなった。振り返ると目の前の海原の水平線の向こうに月と星々が海面を照らしてくれていた。私はどのみち落とし物を探すまでは帰れないと気持ちを奮い立たせて水平線へ向かうことにした。聖櫃の中からオールを取り出すと、迫りくる波に逆らうように月に向かって漕ぎ続ける。聖櫃は波に揺られて上に下にとオールを振らないといけない。すると海面から人魚が顔出して抗議した。
「さっきからパチャパチャとうるさいよ、今何時だと思っているの?」私は人魚に謝った。人魚は「いいよ、早く行きなさい。上手ね貴方。航海の才能あるんじゃない?」と見送りながら笑った。
聖櫃が月に近づくほど巨大になり月光がまぶしくなってきたせいか疲れを感じたので休んだ。
「おなかすいた」と私は聖櫃の中に食べる者がないか潜ると「ダメダメ。早くしないと。月が昇るよ」と外から人魚のじれったそうな声が聞こえたので顔を覗かせると、人魚は聖櫃を押して泳ぎ始めた。人魚に押されて海原を滑るように海の果てにたどり着くとその果ての先の暗い宇宙空間に押し出される。私は宇宙と海の境界から見送ってくれた人魚に手を振り返した。宇宙空間を漂った聖櫃は月の脇を通り過ぎて何もない宇宙の海原に差しかかった。見ると広大な宇宙空間で一人ポツンと聖櫃は漂っていた。
私は聖櫃の中に潜るとそこは潜水艇のコクピットの様になっていて、壁のレンズの窓を通して宇宙空間が見えた。レンズは宝石が加工されたもので、銀河の星を映して分析し、記録していた。聖櫃の中で壁付け電話のベルが鳴り響くが何度か鳴ると切れた。私はポケットのスマホを取り出して着信履歴を見ると知らない番号からだった。暫くしてもう一度電話が鳴り留守番電話に繋がったので私は耳をすました。その電話の相手はNASAのガガーリンだった。
ガガーリンは留守番電話を通して私に言った。ガガーリンの声は無線の様な古めかしい音声で怖く感じた。
「聖櫃を追って地球から宇宙船を発射する。そちらは宝石を映した銀河の座標を通信で送れ」
私は冷蔵庫からパイを取り出して電子レンジに入れた。その間に壁の銀河の座標を記したレンズを外してまな板に並べるとハンマーでつぶし、温めたパイに振りかけて食べた。私はパイを食べながら窓の外を見るとレンズに映し出していた銀河が消えていることを確認した。
「相手の宇宙船は銀河が消えた百光年の間にいるぞ!」とガガーリンの通信が聞こえた。私は部屋のテレビをつけた。
テレビ画面の中でガガーリンが宇宙船に乗り込む姿をテレビが報じている。NASAの管制室では職員が慌ただしく右往左往している。管制室の職員が発射を待ってくれと手の合図を送っている。それを司令塔は俯瞰していた。
「敵は指令室に居るぞ!」という職員の声が響くと「行け! 指令室を占領するんだ!」と声を掛け合いながら職員達はデスクの下からライフルを取り外した。全ての職員がライフルを装備するとゾロゾロと指令室の階段を昇っていく。
テレビで反旗を知った私は参内するために王族の正装に着替えた。着付けの手伝いを連れ立つと私は大広間を速足でかけて王座の前にかしずいて面を上げた。王座の老いた王はルリコを落ちくぼんだまなざしで静かに見つめた。王座の傍らに中性的な僧侶が無表情の顔を向けていた。その王の静謐のまなざしと共に椅子へ天上から差す光が活力として王座に注がれた。ルリコは王に近づく。すると王はルリコの手を握ってもう一方の手も握ると、両手が合一して一つの肉の繋がりになった。王とルリコは静謐さと活力をお互いに循環させる。それと共に王は若返る。ルリコは王と額を合わせ抱き合うようにお互いの体に腕と身体を同化させたいった。お互いの瞳の中の宇宙に聖櫃と銀河が宿されている。瞳と瞳の銀河が鏡合わせになり、一つになる。一つなった瞬間、銀河がぶつかり合うとエネルギーは収束して新しい宇宙が爆発と共に誕生した。
宇宙が膨張する特異点に包まれた時、聖櫃の中の私は若返った王と自分の未来を予見した。この後、城の外で輿に乗った王とルリコは凶弾に倒れて死ぬ。私はテレビのモニターを通じて玉座の脇の僧侶に「王は死ぬの?」と動揺を隠せない声で聞いた。しかしその声は私の口から背後の外延へと弾かれ流れて行った。王の横の中性的な男が歪んだパノラマのように映し出されて壊れたテレビが映すシンボルのような映像に変じて言った。
「全ての命は夢の合わせ鏡にて死す。この宇宙」
それを聞いた私は「これは夢だ」と考えた。そして私はルリコと眼が合った。突如その夢を見てそこにいた私は銀河の特異点誕生の濁流にはじき出され押し出されていった。遠のいていくルリコに私は言葉を届けようとするが聖櫃はすでに音速を超えていて届かなかった。だが、ルリコの意識は光速を超えて私に伝わった。私は特異点から波及した宇宙の外延の過去領域に押し出されたことを察知した。ルリコは私に「確定した宇宙の誕生から宇宙誕生前の過去へと押し流す。それは貴方にとってはまだ夢」という意識を伝えてきた。わかっていることはルリコにとってこれは今であり未来だったが私にとっては過去であり夢だった。宇宙の果てのビックバンが地球にとっては遠い過去の出来事の様に。でもやがて宇宙の膨張は収縮する。収縮した宇宙はやがて特異点に戻る。その特異点こそが夢。
聖櫃の中が墜落寸前の飛行機のコクピットみたいに赤く染まり契機がアラームを鳴らす。
「本艦はこれより宇宙の果ての先の空間に突入します」
そう言われて私は隣の席を見る。隣の席には誰も座っていない。逆も見てみるとその席はチャイルドシートだった。私は「宇宙船にチャイルドシートとかあるの?」と思った。そして次の瞬間
「あれ? 子供は!?」と叫んだ。
一体何時の間に!? 私はパニックになる。いつから落としたんだろう? どこで? そうだ…私は子供を探して…。
「子供は何処!?」
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夢から覚めた私は悪夢の焦燥感を抱いたまま寝床の中で「何だこの意味わからん夢」と深くため息をついて息を整えた。
まあ…でも夢って意味わからないもんだしな…。
手に頭を添えながら「この夢を書き留めておかないと多分忘れる。これは”きざし”だ」と考え胸の赤子を手で探ったが胸に居るはずの赤子が居ないことに気付いてゾッとする。
子供が消えた!? 一人でどっかに行って…。
私の頭の中で動かなくなった子供の姿が想像される。「人殺し!」と責める長老。「嘘つき!」と糾弾するフラン。ニコラスに髪を掴まれ水桶の水鏡に自分の顔を見せられる。「ほら、本当はこんなにも醜い」そこに映っていたのは前世の自分の老いて疲れた皺だらけの顔。
怖くなって必死に「違う! 違う!」といやいやをするように顔を隠して髪を振り乱す。呂律が回わらなくなる。ぼやけた視界の中で声が聞こえる。
「ルリコ、起きたの?」とフランの声と共に私の額にひんやりとした気持ちの良い手が当てられた。見ると目の前にフランの顔があり眉を曇らせて心配そうにのぞき込んでいた。私はフランの膝枕で起きてから寝ぼけていたようだ。
小屋はいつの間にか日差しが差し込んでいて明るかった。小屋の中を見渡すと隅ではエマが赤子をあやしていた。
寝てしまった…。
フランの「約束ね」という声が自分の中で聞こえる。
生き様で再現するとか言ってて、これはない…。
私が顔を手で覆っているとニコラスは私の傍らに座って心配そうに小声で言った。
「すみませんルリコ、今エマさんに赤子のお世話を引き継いでもらった所です。まさかルリコがここまで追い込まれてるとは想像がつかなくて…確認不足でした、すみません」とニコラスは頭を下げた。私も顔の手をどかして言った。
「こっちこそごめん、やっぱ私駄目だわ」私は頬を両手で撫でながら申し訳なさにもだえた。
フランは私を覗き込むように身を乗り出して言った。
「大丈夫。私もルリコに無理させちゃってごめんね」と首を傾げた。
「大丈夫じゃないよ」と私はフランの手を握った。フランは「なになに、どうしたの?」と困惑した顔を見せた。
私はこの子の世話をちゃんとすると誓った先から眠ってしまった。私にとって責任感とはこの程度だったのだろう。
「フランとの約束破って眠っちゃってたからさ。責任を取るとか言っておいて、約束を守れないなんて…。やっぱ私ってエルフに向いてないわ」そういうと私はガックシうなだれる。
フランは少し呆気にとられたような顔の後にフッと笑った。
「なにそれ。ねえ、ルリコ。あなたどうかしてるんじゃない?」
今度は私は「うう…」と情けない声しかあげられない。
「ルリコは大丈夫だよ。あのね、ルリコ。エルフはね森が好きって訳じゃないの。だって森での暮らしは厳しいでしょ」だからさ、とフラウは続ける。
「だから私達が種を使って森の外で農作をする話は良いアイデアだと思うの。それで外の世界には人間がいるでしょ? 外の農地を人間に耕してもらえばいいのよ。それを私達は森から見てればいい。そうすれば私達は森から離れなくても畑の恵みを得られるでしょう?」
私は暫くぼうぜんとしてから小さく笑った。
「え、それって良いの? てっきりズルイって言われると思ってたんだけど…」
「そう、エルフってズルいのよ。森をよすがにしているエルフは、森から離れたら力を失ってしまう。だから外の世界を醜いって言う森に隠れる種族がエルフなんだよ。ズルイよね。外の厳しい世界じゃ美しさだけじゃ生きていけないのに」とフラウは微笑む。
私はそれを見ながら
「でも、それでいいのかなぁ…?」と私はぼやく。
「良いんだよ。だって私がそうなんだもん。私はね、貴方がこの子を見捨てないって解ってて頼んだの。そうすれば貴方が助けてくれるって思ってたから。私はね。貴方とその子の命を利用しようという打算があった。だけど私は貴方の追放なんて許すつもりはなかった」とフランは少し硬い声で言う。
「フラン…貴方それは…」とニコラスがフランに声をかけようと手を伸ばすが、それを引っ込めた。フランもそれに構わず言う。
「エルフってそんな高尚なモノじゃないんだよ、そう見えるように振る舞ってるだけなの。まるで水鳥が水面下では必死に足掻いているように」
「そっかぁ」と私は土間に横たわるとフランの顔を見てフッと笑った。
「じゃあ私はどうすればいいんだろう…」
フランは私から目線を離すと遠い所を見て言った。
「ルリコ。貴方と友達になった時。正直退屈しのぎだったの。貴方ってエルフらしくないから。正直貴方は普通のエルフとは大分違う」
『貴方と普通のエルフは違う』。フランにそう言われて私の心は彼女から遠く離れて行くような孤独感がした。私の手がフランから離れる。私は自分の死の瞬間を思い出す。その冷たくなった私の頭にフランが顔を近づけて額と額を合わせる。私の額が彼女の熱でじわりじわりと温められていく。
「だったら私達が貴方に近づけばいい。少なくとも私はそう思う。そして貴方も私達と一緒になればいい」
フランは私の手を握る。なんだか死の臨終みたいだなと場違いな笑いが浮かんでしまう。
「貴方は私をエルフみたいだって言ってたよね。じゃあ私が貴方みたいになれば同じことじゃない? 向こう見ずでおっちょこちょいで…寂しそうで、空っぽな私達は一緒になっちゃえばいい」
寂しいという言葉に私の感情が動かされる。
寂しい。オカアサンに会いたい。ヒトリは嫌。ヒトリのご飯はおいしくない。ヒトリのテレビはつまらない。サビシイ。サビシイ。
「貴方が遠くに行ってしまうと寂しい。だから追いかけて一緒に行く。それが友達でしょ」
「そっか…」
私は頷いた。一緒に居たい。誰かに求められている、必要とされている。私は心の底から「此処に居てもいいんだ」と頷いた。そう思って私はついポロリと言ってしまった。
『アリガトウ』
フランは私から顔を話して困惑した表情を見せた。私がエルフ語じゃなくて日本語を話したから驚いたのだ。
「アリガトウ? どういう意味?」
「感謝を伝えたんだよ」
私の言葉を聞いてフランは眉をしかめながら言った。
「そんなの伝わらないから。ちゃんした言葉で言って」
「ありがとう」
私は笑おうとしたがまぶたがケイレンして悲しくない涙ばかり溢れて来て笑ってしまう。はたから見ると泣きながら笑ってるヤバイ女らしく、フランとニコラスは心配そうに見つめる。そのむこうでエマさんだけはニコニコしながら私を見ていた。
そう言えばさっき大事なことを覚えようとしてたけど…最早悪夢でガガーリンが居たということぐらいしか思い出せないなぁ…。
ニコラスは私を遠目から覗き込むようにしながら言った。
「ルリコ。貴方とエルフが遠く離れているという認識は正しくありません。議会は口減らしの風習を廃止しました。それは議会にエルフが殺到したのが原因です。そのエルフ全てが貴方の決意表明を聞いて考えを同じくしたからです。貴方の考えがズレているならそのような共感は起こり得ません」
ニコラスは眉をひそめる。
「むしろ、ズレていたのは私達です。私達は疫病から生き残る為に作った口減らしという慣習によって理想から遠のいてしまったのです。私達はもっと命を大事にする一族だったハズです。むしろ私達は貴方の中にエルフの美を見出して一体化しようとした。あの時の貴方は皆にとっての”エルフのあるべき姿”になっていたんですよ」
私の声がエルフのあるべき姿になっていた。それは私を育ててくれた日本が褒められているみたいで何だか嬉しかった。
私は仰向けになりながら余韻に浸っていると頭上にシャボン玉が漂ってきた。私が目を向けると小屋の入口でエマが赤子をシャボン玉を作ってあやしていた。木漏れ日の中で赤子はシャボン玉に一心に嬉しそうに手を振っていた。
「もう大丈夫だ」とエマが言って抱く。
お母さんにあやしてもらってよかったね…。
子供をあやしているエマたちの風景に心の声が重なる。私は指で涙を拭った。私の感情が幸福感で満たされていく。
この幸福感を十段階評価したら…受験に受かったあの日と同じ。八ぐらいかな…。
「大丈夫?」フランが心配そうに顔を覗き込む声が聞こえたので「大丈夫…十分仮眠も取れたからね」と答える。
私は何とか記憶を引き出そうと身体を無理やり起こそうとした。だがそれをフランの手で柔らかく制された。
「ちょっと、ルリコ。しばらく家で寝てきたら? この子は私達が引き継ぐからさ」その言葉に急に私は人恋しい気分になり「や」と言ってフランの膝に顔をうずめた。
「ルリコ! 言うこと聞いて! 家に一旦帰って身を清めてきて!」とフランは悲鳴を上げた。
私はフランの言葉にゴロゴロと猫の様に喉を鳴らして反抗した。その様子を見ていたのかエマさんが大きく笑って言った。
「あははーでっかいあかちゃんだねー」
今日はフランに甘えても良い日な気がする。フランが鼻声で「あーもう。服に臭いが付くからやめてぇ」と嘆いた。それでも止めなかった。フランだったら私のわがままをゆるしてくれる。その確信を新たにしたかったのだ。
暫くして落ち着いた私をニコラスが小屋から家まで背負って送ってくれることになった。
しかし、それで私はこれからどうすればいいのだろう。これで王子様を探しに出て行ったら空気が読めないどころの話しじゃないし…。
私は森を出て行く気が薄れてきていたが、口にした夢を中途半端にしたくない気持ちも強かった。
ニコラスは私が出て行くと言った時にどう思っていたのだろう? 多分、ニコラスは私を引き留めてくれていたように思う。だからこれは私がどう思うか、なのだろう。
私はこの里でエルフとして上手くやっていける自信がなかった。その後で口減らしの事実が明らかになって失望してしまった。だけどニコラスは私が集落に気分よく居てくれるように、努力してくれた。それは誰にもできることじゃない、それだけ真剣だったってことだ。正直嬉しい。
ニコラスは私が森に残ったら責任を取ってくれるのかな…? っていきなり責任とか重すぎ…。前世で夫が私と別れたのも多分こういうところだよね。
私の若い肉体はニコラスに背負われて、激しい鼓動を鳴り響かせて心臓が壊れてしまいそうだ。この胸の鼓動がおんぶしている背中越しにニコラスに悟られたら、と思うと頬が熱くなる。
ニコラスが私を好きな確立は100%を最大にしたら40~60%くらいかなぁ? だけど私から彼には未知数なんだよなぁ。私の思春期ボディは男なら誰でもホイホイ付いていきそうな感じがするし…。異世界だから年収とか資産とかそういうスペックがないから理性的な判断もつかない。だったら性格の相性とか趣味の一致とか…? でも幼馴染にご趣味はなんですか? も何もないよねぇ…。
「はぁ~」と私はクソでかため息をついてしまう。ニコラスは私のため息にフッと笑う。私は息を止める。
そういえば私、歯を磨いてなかったんだった。口臭かったかな…?
ニコラスは私を背負いながら少し顔を向ける。
「何か心配事ですか?」
私はニコラスの後頭部をねめつけながらとっさに答える。
「い、いや。私、今回のことで一人じゃなにもできないんだなって思ってさ」ニコラスは俯いて少し逡巡してから答えた。
「そうでしょうか? 貴方は一人である程度のことはできて現実を変えてしまう。そのせいで長老や集落の皆に警戒されていたと言えます」
自分のことだけど、いざ言葉にされると確かにそんな人が会社居たら嫌だな。
「だから私は貴方の考えを知りたいとお伝えしました。貴方の考えを多くの人々に考えを共有してリスクを検証して協力して実現できれば武器になります。実際、貴方はそれを反映させていた。素晴らしい改善だと思います」
なんか学校の通信簿を聞かされているような気分でハズイな…。
「なので残る要素は…まずは私ですね」
ニコラスは言葉を続ける。
「私はルリコに考えを聞かせて欲しいと良い、それを議会に伝えることを目的としていましたが…。そこで私は満足してしまいました。しかし貴方の啖呵を聞いて思ったのです。私のココロの声は何と言っているのか?」
「…」
「貴方の言う通り私は母に依存している様です。私は…母に褒めて欲しい。母が望む姿が私のあるべき姿になっているのです。だから母が弱ってしまうと…もう何が正しいのかもわからない」
暫くニコラスは沈黙した後に言った。
「だから貴方の中にソレを見出そうとした。貴方の望む姿が私のあるべき姿になってしまっていた…だったらどうするべきか?」
暫く黙ってまたニコラスは言った。
「答えはわかりませんでした。貴方には夢がありますが、私にはありません。そこで私は考えました。もっと多くの他者の理想を知れば、自分の理想がわかるかもしれません。だから…私は貴方の夢の手伝いしながら人と多く出会って学びたいと思います。その期間で私は必ず答えを導きます。その時にその答えを貴方に聞いていただきたいのです」
カチリと私の頭の中で算盤を弾く音がした。
ニコラスが私の夢に協力してくれる。それは私にとって好都合だ。その猶予で私も色々と整理をつけられる。
私は集落で生きるべきか? それとも人の世界で生きるべきか? それを決めるには外の世界を見てからでも遅くない。見たらガッカリしてやっぱり森が良いとなる可能性もあるんだから。むしろそれで外の世界の未練を断ち切れれば好都合。
それに私の中で気がかりなこともあった。何故、私は転生したのか? 転生系の小説では世界の滅亡とか産業革命とか運命の出会い的なモノの為に転生していた。このまま安穏と森で暮らしたら外のフラグが進んでゲームオーバーなんてのは嫌だ。
私が転生した理由。この世界には魔法とか神の力、奇跡みたいな力があるかもしれない。この世界の文献や見聞にはまだそういった力は発見されていないようだったけど…。もしその力を発見すれば、エルフ達の集落の利益にもなるだろう。
「良いよ。わかった。私としてはニコラスが付いてきてくれれば心強いし」
暫くニコラスは黙ってから答えた。
「私の母と長老も若い頃に人間の世界に見識を広める為に外に出たことがあるようです。今度そこら辺の話を聞いてみましょう」
私は「うーん」とぼんやりした意識のままで答えてから、そう言えばと思い出して聞いた。
「そういえばエスメラルダスのお産は順調だったの?」
「はい、母子ともに良好だったそうですよ…」
「そっか…はあ~駄目だ…。あくび止まらない」
眠気に耐えながら私はニコラスに背中で感謝した。ニコラスは疎い人じゃない。これは多分、私が外の世界に興味があると聞いたから配慮してくれたんだろう。いや、それはお互い様か…。これは私達の時間。私達の猶予期間だ。
なんだか嬉しい反面、残りはがっかりするような気持ちもあった。
どうせなら一緒に逃げようってぐらい強引でも良かったのに。そう言われたら…どうしてたかなぁ…。
私はニコラスの背中に身を委ねて密着させた。ニコラスの身体が緊張するような感じがしたが構うものかと目を瞑った。この胸の鼓動は誰のせいか? わかるまで私は腕の力を緩めないでやる。
ニコラスに小屋に送られたら私は水浴びもせず、泥の様に眠った。それから数日、私は食事や排せつなどの必要なことだけをして眠る生活を送った。動けるようになってから母と共に水浴びをして外の椅子に座ってお互いの髪を乾かしてとかす。そこにニコラスが訪れて一枚の羊皮紙の書簡を取り出した。
その書簡はフクロウの様な動物の封蝋印で封がしてあった。その一つ目のフクロウの瞳は渦を巻いたような螺旋で象られていた。
「人の話しをすれば人が現れると言うべきでしょうか…人の世界の君主が差出人の様です」
運命のいたずらと言うべきか、はたまたただの偶然か。或いは物語の始まり(フラグ)か。
「人間の君主が私達との会見を望んでいます」