未熟児とルリコ
23/7/28 修正
霧雨が振る朝、私は広場へ向かって走っていた。曇り空の太陽は雲に隠れて、朝もやが立ち込める森の中。私の呼吸音と後ろのニコラスの足音しか耳に響かない。
嫌な静かだな。
早朝、私の家にニコラスが訪ねて来た。私はニコラスからフランの母であるエマの出産について報告を受けた。エマの子が早産で危ないと言われた。
それで何故私に声がかかるのか。
疑問はあるが、どうやら長老とフランが私を呼んでいるらしい。上司だけでなく友人にまで来てくれと言われれば否が応もない。母も兎に角行け、と雨よけの外套とフードを被って取るもとりあえず出て来た。
雨のせいで道がぬかるみ、履いたサンダルが泥水を噛んで何だか気持ち悪い。
広場に付くと、長屋の松明に照らされる二人の人影を見つけて駆け寄った。
広場の長屋の長いひさしの下には濡れネズミになったフランとその背後に青い顔をして立っている長老が居た。私は二人に近づくと息を切らしながら被ったフードを上げる。フランは私を見ると彷徨うように手と口を震わせて近づいてくる。私はフランの手を迎えるように支えた。フランの手と身体は泥で汚れていて、驚くほど冷たかった。
「ルリコ、私の弟を…助けて…お願い」フランは私の肩に手をかけると滑り落ちるようにゆっくりと床に座り込む。
助けて…って言われても…一体どうすれば…。
暗闇の森はシトシトと音を立て、私の頬を生暖かい水滴が伝う。恐らく弟とはフランの母が妊娠していた赤ちゃんのことだろう。早産なのでもしやと思って居たが、フラウの弟は未熟児なのだろう。
「母さんの子が、とても小さくて弱々しいの。長老が弟はこのままでは長く生きていけないって」フランのすがる様な目に私は首を振る。
私は前世ではただのOLで医療の技術はない。せいぜい医療ドラマで知ったデータぐらいしかしらない。それによると前世の世界の後進国の乳児死亡率は60%らしい。しかもこの異世界の集落の生活水準は前世の後進国以下だ。その上、未熟児となるとかなり厳しいハズだ。
数字は嘘をつかない。もし、そうでないなら…私はどうしていいのかわからない。
「ごめん…私には無理だよ…」私は言葉を選びながら首を振る。
「お願い。ルリコじゃなきゃダメなの…」
私の中の自分はそれを遠く離れたところから見ていた。
私の目がへたり込むフランと合った。フランは悲劇のヒロインの様に水が滴っていた。私の中にフランの感情が入り込んで渦を巻く。ふと、私は自分が子供の頃に壊してしまったぬいぐるみのことを思い出した。それをお母さんが縫って直してくれた。なんだかボロボロになってがっかりしたぬいぐるみ。やっぱり新しい方が良い。あのどこへいったかわからない思い出のぬいぐるみ。
遠くから眺めていた自分が言う。
もし助からなくても最善を尽くせばフランも諦めがつくだろう。
「わかった…。できるだけはやってみるけど…結果は期待しないでね」
それを聞いてフランは眉尻をひそめて悲しそうな表情で笑った。私は彼女の表情を見て胸が痛んだ。私はフランに手をさし伸ばそうとするが、それに割り込む様に長老が立ち塞がった。
「ルリコ、結果を期待しないでねとはどういうことですか?」
「あ…それは言葉のあやと言うか…」
言葉を口にしてから私は最初から匙を投げるような考えだったことに気付いた。しかしそれを誤魔化すように言葉を続けた。
「だって、このまま何もしないより、やるだけやった方がいいですよ。やらなきゃ可能性はゼロですよね?」
その言葉を聞いてシーブの額のしわが怒りで大きくゆがんだ。
「いいえ、ルリコ。時には我々は何もしない判断が必要なのです。諦めきれない命に希望を持たせて奪う。それをされた親御がどれ程の苦痛と悲しみを被るか想像できていますか?」
私にはわからない。人は死ぬ。お母さんもお父さんも。そして私も。
「…人事をつくせば親御さんも救われるんじゃないですか」
長老は広場の床に杖を打ち付けて言った。
「どうしてもやるというなら…。その覚悟を示してください。もし、赤子を助けられなかった場合、貴方が集落から追放されるとしたら? そしてもし生き延びたとして、その後の子供の人生に責任を持てますか?」
それを言われて私は頭が真っ白になった。
そんなの責任取れるわけないじゃん。
「長老! それはあまりに厳しすぎます。」とニコラスは声を上げる。
「いえ、ルリコが赤子の命を救うと言うつもりであれば、その命と人生に責任を負わなければなりません」
長老が憮然と腕を組んで言う。私はそれに少しイラっとするが、長老の手の泥の汚れに目がいって何を言えばいいのかよくわからなくなって目を伏せる。
私は視線をゆっくりフランに向ける。フランは長老の方に顔を向けてから再び私を見つめる。
「…」フランは私を見ながら何かを言おうと口を動かすが言葉にならないまま、顔を横に振ると、俯いた。
それで私は何も言えなくなってしまった。
「少し、考える時間をください」
と何とか言葉にしたが…。私にはどうすることもできないのは明白だった。だって、もし集落から叩きだされたら、私は数日を持たずして餓死するだろうという未来しか思い浮かばなかったからだ。
私はフラフラと歩いて広場の泉の水辺に付くとへたり込んだ。座ったお尻と下着に水がしみ込んで最悪な気分だったがそんなこと言ってる場合じゃなかった。霧雨が降り注ぐ泉を私は覗き込んで考えた。どうして長老は私にあんなことを言ったんだろう? 長老が厳しいのは知っていた。でも理不尽ではなかった。やっぱり長老は私が嫌いなんだろうか?
背後にニコラスの足音が近づいて来てスッと隣に座る。霧雨の音が響く中、私の耳にニコラスの声が響く。
「ルリコ、先ほど長老が厳しいことを言ったのには理由があるのです。時々、集落で産まれてくる未熟児は短命で、一年を待たずに死んでしまったり、生き延びても虚弱で働けない子がいます。それらは口減らしとして…捨てられてしまうのです」
––え?
「捨てられる?」思わず私はニコラスの方を振り返って目を見張る。
「私達の集落では虚弱の子や老人は家の食い扶持を圧迫してしまうのが現状なのです。そういった者を舟で故郷の海に渡すと称して口減らしするのです。だからルリコが赤子を救えばその生涯に付きまとう負担となる。そのことを覚悟すべしと言っているのです」
「なにそれ…」
私は話の内容以前にその真偽が信じられなかった。エルフという種族が口減らしをするとは到底思えなかった。でも、それは私が彼らに勝手にファンタジーのエルフの理想像を重ねていただけなのかもしれない。だとしてもだ。
美しい種族とか言いながら、やってること最悪じゃん。
ニコラスは私の顔を見るとうつむいて言った。
「私は母が動けなくなって、その風習をシーブ長老に聞かされました。その時は正直失望しました。しかし長老はいずれ私も長老としてその風習を担わなくてならないと言ったのです。しかし私は母に生きることを望みました。でも母は私がどんなに元気付けても食を細くしていきました」ニコラスは口元を引き締める。
昔に長屋でニコラスの母、スカイがハチミツを受け取って時に流した涙。アレは優しさへの感動だけじゃなく、生きて欲しいという願いに応えられない老人達の涙だったのかもしれない。でもそれは若いエルフを生かす為の尊い犠牲だと思っているのだろう。
今の生活を維持するために年寄りのエルフが何人犠牲になってきたんだろう? 私達の今がその犠牲の上に成り立っていると考えると居てもたってもいられない気分になる。でもそれを大人はあえて教えず隠してきたのだろう。そしてある年齢で現実を知って失望する。だけどその負の連鎖は今までの犠牲と食い扶持の現状があるので断ち切りにくい。これも全ては現状の生活水準が豊かではないせい、ということになるのだろう。
暫く口元で手を合わせていたニコラスが私に視線を向けてゆっくり言葉を紡ぐ。
「ルリコ、私に考えがあります。ルリコの石鹸と肉の保存の技術を議会に譲渡してもらえませんか?」私はニコラスの顔を真っ直ぐ見つめた。
「私達からは養蜂の仕事を議会に譲渡します。この手柄をもって議会に赤子を救う手立てを研究させてもらうのです。私も赤子がどちらにしろ結果的に死んでしまうのであれば治療を施して次に繋げた方が良いと思います」ニコラスはゆっくりと話を進める。
私はニコラスの話をそしゃくして、理解した後に怒りで頭がカッとなってしまった。
「それってあの子の命を実験に使うってこと? それって貴方のお母さんを見捨てた集落と同じことを言ってるって気付いてる?」
そう言ってから、私はついさっき自分が同じことを言っていたことに気づく。『命が助からなくても誠意をつくせば心は楽になる』まるで自分の醜い姿を鏡で見せられたかのような戸惑い。何故こんなにブスなのか? 「最悪だ」そう気づくと自分が情けなくなって涙が出てくる。だけどその涙を心の中で冷ややかに分析している自分が言う。
だって、仕方ないじゃん。
「ごめん…。最悪だ。そもそも私自身、子供を助けられないって決めつけてたのに…。ちょっと頭冷やしてくる」
自分を落ち着かせようと立ち上がると、泉から離れた深い森へと水たまりを踏むのも構わず進んだ。
自分の中に自己嫌悪が渦巻いてパニくりそう。
人を間違って殺したら罪になる。でも医者が最善を尽くして死なせてしまったら…それは多分罪にならない。私は多分前者だ。でも、人が倒れていて、死にそうになっていたとして。それを間違って殺したくないからと見捨てるのも罪になる気がする。やっぱわからない。頭が悪い。
霧雨の届かない深い森の中に入ると、木々に乗り上げるように鎮座する船の残骸が表れた。船のむき出しの骨組み材は巨像の獣骨の様に朽ち果てていた。漆黒にかたどられた残骸の並びが孤独の恐怖感を呼び起こした。
私は振り返ると困った様な顔をしたニコラスが付いて来ていた。私はニコラスの姿を見て心の中で胸を撫でおろす。
私が近寄るとニコラスが頭を下げる。
「ルリコ、先ほどの提案は失言でした…。確かに私の姿勢は失望した議会と変わらない…。しかし今回の件はあまりに分の悪い賭けです…」
「私もさっきは感情的になってごめん。私は子供を助けようとすればフランをなだめられるって思ってた…今思うと赤ちゃんの命に失礼だよね…」
私はニコラスのマントの左を摘む。ニコラスの顔を覗くといつもの微笑みで応じてくれる。
「ルリコ、ゼロから赤子を救う方法を検討しましょう。私達は考えすぎています」ニコラスは私にそう言うと左手を背中に手を回すようにして歩みを促す。
「うん、そうだね」
私はニコラスに連れ添って歩む。しかしいくら頭を働かせても未熟児の脆弱な命を繋げる方法なんて思いつかなかった。聴診器どころか薬もない。せめて保育器とか…いや電気がない。ファンタジーの様なヒールもない。雨ごいの様に天に拝むぐらいしか思いつかない。すると考え込んでいたニコラスが聞いた。
「一つ聞きたいのですが、貴方が赤子を救うのは難しいとする根拠はなんですか? あなたの考えを知りたいのですが…」
何故だろう? やっぱり後進国だと栄養が足りてないとか…? わからない。
「わからないけど…とにかく産まれた赤ちゃんが生きられる確率は四十%ぐらいしかないらしいんだ」
「四十%もあるのですか?」ニコラスの意外そうな言葉に私はハッとする。
よくよく考えてみれば、この世界の住人にとって四十%は高い数字なのかもしれない。そしてそれは多分私にとってもそうだ。仮に今の世界の出生率がどんな値でも、滅びてない以上ゼロではない。ゼロじゃないならやる価値はあるのでは? 少なくとも宝くじを買うより高い数字だ。
「四十%もある…か。そうポジティブに考えれば可能性はなくはないのかも?」私は顎に手を当てて考えた。ニコラスは私の顔を覗き込む。
「さっき、この集落に生き延びられなかった子供が昔に居たって言ってたよね? だったら未熟児の赤ちゃんが生き延びた事例はあるんじゃない?」
そう私が問うと、ニコラスは一瞬沈黙した後「そうですね」と呟く。
「ニコラス、さっきの技術譲渡だけど…育児のノウハウを要求するのはどうかな?」私はニコラスに顔を向ける。
ニコラスは首を傾げて
「どうでしょう、似たり寄ったりで…。その方法も運だよりな気がするんですが…」と心配げに眉をひそめる。
「大丈夫きっと上手くいくよ」
確かに四十%は不安の残る数字だが、未熟児を育てたことがある人が付いているならマシなハズだ。それに結局はやらなきゃ零なのだ。私達は元来た道を戻り広場の木の長屋に戻ることにした。
歩いていると、長屋で松明の灯が振りかざされていた。
「何かあったんでしょうか?」
私達が長屋に近づくと、その松明を振っていた人物の顔がスカイさんだと判別できた。スカイは不自由な足のまま、表に出て松明を持って合図を送っていたのだった。
「母さん!? 風邪を引くから中に居てください!」
ニコラスは声を潜ませるように言うが、スカイは気にすることなく言った。
「私は頑丈だから気にするな。それより状況はどうなっている? やっぱりエマの子は難しいのか?」
私達はスカイを長屋に運び込みながら、エマの子供の状況と長老が課した難題について話した。スカイは為すがままにされながらそれを聞いて唸ると言った。
「そんなことを言われて辛かっただろう。だが、シーブのことを憎むのは止めろ。アイツは若い頃に子供を亡くしていてな。子供に対してピリピリしているんだ」
スカイの告白に私は驚いた。シーブに子供がいたという話は初耳だったからだ。
「若い頃シーブは人間の連邦で男と恋に落ちて子供を身ごもった。だが連邦は滅び、男は行方不明のままアイツは子供を産んだ。奴の子供は未熟児だったが…育てると言って頑として聞かなかった。その子供はアナンという名で学者の父親に似て聡明な奴だった。だが奴は虚弱で病気がちで狩りもできなかった」
スカイは目を瞑ると言った。
「そんな中、エルフと人間の戦争が起きた。その戦争にアナンは参戦した。親を守りたい、仲間を守りたいという一心だった。そしてその戦火の中で命を落とした。人間は命を奪うだけで飽き足らず、その死を晒しものにして侮辱した」
私はその話を聞いて、嫌な気分が胸の中にとぐろを巻いていた。
「エルフはその憎しみを人間にぶつけ、滅ぼした。だけど終わりじゃなかった。戦争によって減った人口がかえって出産の気運を生み出した。だけど沢山産まれた分、生きる強さを持たない子も多かった」
スカイは手を固く握ると言った。
「そんな子供を生まれた時、シーブは呼ばれるんだ。アイツは…アイツはこの数百年…。親が子供を喪う哀しみを味合わないように、その苦しみを肩代わりして…。沢山の子供を手にかけてきた…。多分アナンが死んでからとっくにおかしくなっているんだ。だが恨まないでやってくれ、憎まないでやってくれ。アイツがやらなければ…誰かがやるしかなかったんだ…」
私はスカイの涙を見ながら、困惑していた。そんなの絶対間違っていると。どうして誰も止めなかったのか? どうして誰も変えようとしなかったのか? こんなことはもう…やめるべきだ…。
でもどうやって? わからない。誰かがやるしかない。
「私がやるしかない」シーブ長老の声が自分の中に響く。
哀しみ、怒り、義務。息詰まる決意、泣き叫ぶ産声。子殺し、聖餐、犠牲。涙。絶望、虚無。
私はシーブ長老のしてきたことを想像し、その覚悟に慄いていた。もし自分がそんな役目を押しつけられたら発狂するかもしれない。
なんでこんなに…いたるところに死が在るんだろう…。いや、そうじゃない…。見えてなかったんだ…。前世では死は隠されていたんだ…。
なんとかしなくちゃ…。やらないと…。何かしないと…。
「スカイさん教えてください。長老は未熟児をどうやって育てたんですか?」
スカイは眉尻を下げて言った。
「特別な方法はない。普通の子と同じで抱いて乳をやったら運を天に任せるしかない。私が思うに体重が重い子供が生存しやすい気がする…ぐらいだな」
私はスカイさんの教えを聞いて頭をかきむしった。何か有効な民間療法でもあるかと期待してたけど難しいようだ。もし、私が小説の主人公なら何か思いついていたんだろうけど…。
でも私の中で仕事に抱くやりがいのようなものはカンカンに高まってくる。
前世でテレビで流れる戦争や事件の死亡者の数字。その羅列を何となく無感動に眺めるだけの人生。それに比べてこの世界は死がそこにあって皆が生きようと協力し合っている。助けを求められている、必要とされている。だからこそ燃える様な気持ちが湧いてくる。
いつの間にかスカイは同部屋のエルフに着替えさせられ、暖かくして眠っていた。私達はお邪魔にならないように静かに部屋から出た。部屋を出てから私は長屋の階段に座ってずっと考えていた。考えていることはやるかやらないか、それだけだった。さっきから自分の中から声がささやく。
やろう。 やるしかない。 やらなくちゃ。
私はその声に従って立ち上がると背後にいたニコラスが言った。
「どうするつもりなんですか!?」
私はニコラスの言葉を聞いて振り返ると、正直に答えた。
「ごめん、まだ何も考えてない」
「…ルリコ…一つ聞きたいのですか。何故貴方はそこまでして未熟児を救いたいのですか?」
私はニコラスに振り返って言う。
「え…? 赤子を救うことは当たり前でしょ?」
「いえ、当たり前ではありません。そもそも口減らしはエルフの集落が移動に付いて来れない人を置いて行く為のものなんです。見捨てなければ集落自体が危険にさらされるからです。生かすには理由が必要なのです」
ニコラスには母が必要だった。集落にとってもスカイは議長という立場があった。だけど彼には赤ちゃんの命には何もない。理由なき命だ。私はそれを惨いことの様に感じた。生きることに理由なんて必要なんだろうか?
「先日私は守ると誓いました。全てのエルフの魂を、肉体を。でも私にも命の優先順位はわかります。私達には命の優先順位がある。だから生きるには皆が納得できる理由が必要です。もし、それがないなら。例え恨まれることになっても貴方の無謀を止めるつもりです」
赤子を助ける理由…? 前世では当たり前だったから考えたことがなかった。まあ順当に行くなら子供が生まれないと滅びるから…とか…? でもそれだと弱い命は進化論的な淘汰に逆らえないことになる…。ただ、単純に嫌だから? でもそれは理由としては成立しない気がする。私はまるで無垢な子供に「人を何故殺してはいけないのか?」と聞かれた親の様に困惑した。
「子供を助ける理由はわからないよ…。方法も。ただ、なんていうか私の心がそう言ってるんだよ」
「ココロ…ですか…?」
「とりあえずフランと長老のところに行こう」
長屋の老人達が言うには、フラン達は小屋で赤子をどうするか決めに行ったらしい。私は歩きながら色々考えたが、結局は何も思いつかなかった。でも心は静かだった。ニコラスは私の先ほどの言葉に困惑している様だった。
途中、私達が小屋に付く前に、ニコラスは道をそれて森に私を引き込んだ。ニコラスは森の茂みをなぎ倒しながら進んで行った。小屋の灯りが見えるとニコラスは私を手で留まるようにと制した。私はニコラスに何か考えがあるのかと長屋と彼を交互に見ていた。
長屋の前ではどうやらフランは赤子と別れの時を過ごして居た。フランは胸の赤子を惜しむ様に抱いていた。私は赤子の大きさがココナッツめいた肉瓜より一回り小さいことに愕然とした。フランの胸に抱かれた赤子は元気に動いていた。私は腕から顔を覗かせたその瞳に釘付けになった。
生きている。そう思った。
そう思うと愛おしさが込み上げて来た。前世でも子供を見た時に感じる庇護欲があふれ出した。
私の中で誰かがささやく「お姉ちゃんなんだから、守ってあげなきゃダメでしょ」
子供の頃の私の声が問い返す。「何で? どうして?」
お母さんの声が言う。「何でも。どうしても」「わかった」暖かい手を握る。笑顔、夕焼けの帰り道。
その時私は気付いた。「やらなくちゃだめ」という心の声はお母さんだった。他にも先生だったり、友達だったり。みんなだった。
「ニコラス、わかった。理由なんていらないんだよ。そんなのなくてもそうするんだよ。だってそういうものだから」
道で人が倒れていたらどうする? 助ける。そこに理由なんてない。
たとえどんなに遠く離れても、何回生まれ変わっても。この風景がある限り、私が私で居る限り、何回だって私はそうする。理由なんてそれで十分だ。他に理由なんていらない。
だがもし強いて理由をあげるとするならば、その根拠こそ”私”だ。
私も皆もこの声が根拠なんだ。お互いがこの声に支えられているんだ。
そんなことを考えながら赤子の様子を見ていた。見ていると私はフランが抱きしめていると子供が活発になっていることに気づいた。
もしかしてフランの体温のせいだろうか? 私の中でスカイの声が囁く。
『特別な方法はない。普通の子と同じで抱いて乳をやったら…』
その時私は前世で人口の少ない国では乳児死亡率が低いというデータを思い出した。何故生活水準が低い国でそんなデータがあるのだろうか? 何か理由があるとしたら…もしかしたらそれは出生率が低いが故に一人一人の赤子への手厚い育児があったからではないだろうか?
「抱いて乳を…? 抱いて…温める?」
その時、私は雪山で冷えた身体を温めるというストーリーを思い出し。そしてカンガルーケアという素肌によって温める育児方法も思い出した。
「温めるだけでも人間は元気になるんだ」
その時私の眼に豆腐建築の小屋が目に入った。
なんか相変わらず箱みたいな…。箱…入れる…?
私の眼が小屋の外のカマドと朝もやの煙を捉える。
温める…? 箱…。そうだ…アレを保育器に見立てれば…。
保育器に必要なのは温度、湿度、清潔…肌で温めて…。それで石鹸でキレイにして…。湿度はカマドの蒸気で補える。これらを使って保育器の機能に見立て育成する!
しかし小屋の中でずっと蒸し焼きみたいになる様な気もする。そうならない為に中に一緒に入って温度を調整する人が必要だ。小屋は蒸気で痛むから建材も補充しながら…赤ちゃんの世話する…できるか?
いや、やるしかない。
そう思って小屋を見ると私はフランとちょうど目が合った。フランは赤子を抱きながらギョッとしたように私を見ていた。私は頷く。最初フランは顔を俯かせるが、再び顔を上げると微笑んで頷いた。
「ニコラス、もしかして。あの子の人生に責任を持つって、私はあの子の保護者になるの?」
ニコラスは鎮痛そうな面持ちでゆっくりと頷く。
多分あの子が私に預かることになったら、フランとあの子はもう二度と家族には戻れない。人生に責任を持つとはそういうことなはずだ。それでもフランは私にあの子の命を託したいと言っていたのだ。
だから私はちゃんと受け取らなきゃいけない。
私は茂みから出て近づく。長老は私が茂みから出て来て驚いた様な顔をする。私は暫く二人を見つめた。長老は私の眼をまっすぐ見据える。その揺るぎない眼光につい気後れしそうになるが、そんな自分を奮い立たせるようにやけくそ気味に言った。
「その子には生きる資格があります! その子だけじゃない。今、そしてこれから。どんな子供であっても老人であっても、誰であっても! 人には生きる資格があります!」
長老は私に地に響くような声色で言う。
「何故? 何を根拠に?」
私は自分の胸を叩いて言う。
「私が根拠です。証明します! 例え追放されても、何回失敗しても! 私は絶対に諦めません! 例え奪い取ってでも、迷惑がられても! わたしは生命を諦めない!」
長老は首を傾げながら眉をひそめて言う。
「それは…根性論ですか?」
「いいえ、それは私にとって命の形です。生き様です。だからもし、この世界が子供の命を大事にしないなら…私はそんな世界に耐えられません。例え、生き永らえたとしてもそれは…私にとって死んでいる様なものだからです。だから変えます、それが私の夢です!」
私の啖呵が森にこだまする。そのこだまが落ち着いてから長老はフッと笑って言った。
「成程、生き様。なんの根拠にならないようでいて、貴方の命ある限り、その理想が約束されているわけですね…つまり貴方は生命の救済の象徴…ということになりますか」
生き様と言われるとガンジーやダイアナ妃が思い浮かぶけど…。その一貫性のある在り方こそが偉大だから信用が生じるのかもしれない…。そして象徴と言われると私のエルフの母のライラの姿が思い浮かぶ。
私はフランに顔を向けた。フランは涙は流していても、唇を噛んで泣き声を上げまいと必死にこらえながら見つめていた。
「フラン、この子の命、私に預らせて」
私の言葉を聞き終えたフランは何かを言おうとするが、こらえていた涙が堰を切って、口からでたのは嗚咽だけだった。フランは自ら手放す縁を抱擁して頬ずりした後、森に悲しい慟哭が響いた。