さえずる鳥に冷えたアクアパッツァ 三つの箱とハント・クス
次回は7/6です。
私たちは来た方とは真反対の波止場を目指すことになった。十五時までに帰ってエルフに大工が協力してくれるか確かめなくてはならない。早く師匠に案内してもらわないと。
「おい、帰り道わかってるんだろうな?」
帰り道を催促しようと私が師匠を見ていたらそんなことを言い出した。
「ええ? 師匠が酒場行くとか言い出したんでしょ。それにこの酒場には来たことあるんじゃないですか?」
「俺はここに来たら、いつもさっきの波止場に戻って帰るだけだ。この先の道なんて知るか。お前らがごちゃごちゃ訳の分からんことしたんだからお前らがなんとかしろ」
私はジルタをそっと見ると、彼女はポーチをまさぐって巻物の羊皮紙を取り出してみていた。彼女は数分地図と道を見比べてから私たちをおずおずと見上げて言った。
「申し訳ねっす、ご主人さま……この地図、だいぶ古いもんでして、道がすっかり変わってまったみてぇで…」
「はあっ!? んだとぉっ!?」
ジルタの言葉に師匠がブチ切れる。
あーいけません。これ旅行先でお父さんがイライラして怒り出すパターン。
「師匠! お酒奢るんで! ここは抑えて! 抑えてください!」
私は師匠の怒りをお酒で鎮めることにした。師匠は私の提案を頭の中で天秤ではかって言った。
「いいだろう。ただし、その酒を飲みきるまでが刻限だ。それまでにまだ帰り道が見つからなければ…奥方の騎士十人相手に乱取り」
師匠は私にそう言ってニヤリと笑った。
無茶言うな!
「べ、別に大丈夫ですよ」
「ルリコ様ぁ、ほんに申し訳ねぇごどでございます」
「いやいや、大丈夫。見て。この地図。道は変わっていても、波止場の場所は変わるとは思えない。だから方位は変わってないハズ。だからこっち方面に進めばちゃんと着くはずだよ」
「いやぁ、たいしたもんだごど…ルリコ様は、やっぱすげぇですなぁ」
「いいから早くしろ」
いつの間にか師匠は酒の革袋をあおって飲んでいた。どうやらマントの下に隠していた上等な酒のストックを奢らせることにしたらしい。
い、急ごう。師匠が飲みきったら大変な目にあいそうだ。
私は咄嗟に波止場がある方位の道を見比べる。道は二つある。
右の道は綺麗な道だった石畳は丁寧に舗装されていて、清潔。ドレスと紳士服を来た人たちが歩いていて、よく見ると鉄の装備を付けた衛兵っぽい人が巡回をしている。何より特筆するべきは銀細工の街灯が並んでいることだ。
左道は石畳がボコボコで穴が空いている。その中は雨水が溜まってぬかるんでいる。道の端には木箱がうずたかく積み上げられていて死角が多い。よく見ると酒瓶が転がっている。壁には黒いくっさい臭いのする骸骨の印。ドクロは頭骨の形だ。
「ルリコさま、これ見でけろっしゃ。壁んとこさ、黒い手形ついでらっしゃ。たぶん、これ付けだの、その男の手形だべな」
ジルタに言われて私は手形を見てみる。手は大きくごついので男性の左手の手形のようだ。
…ん? ちょっとまって? この手の筋なんだろう?
手形の掌には一本の筋のような何かがついている。
んーよくわからないけど。右がアタリっぽい。左はなんか途中で荒くれ者にエンカウントする系の道っぽく感じる。
「右です。ここは上流階級の遊び場なんだから貴族たちも右を抜けて向こうの波止場に行くはず」
そう言って私は皆と一緒に上流階級の往来が激しい右を進んだ。
「……そん通りでございます。けんど、なしてだべか、ご通行の方々の目つきが、どこかこう…不審げに見えるような、気ぃいたします」
そう言われると、通りがかりの貴族が私たちを見る目がいぶかしんだ様な目つきな気がする。私が人々見回すと子連れの貴族は子供を身をていして隠したり、私たちと鉢合わせにならないように来た道を戻るカップルまで居る。
「立ち去りなさい、ここ貴方たちの居場所ではない」
ヒゲが胸元まで伸びた中年のおじさんが柔和にそう言葉を投げかけてくる。男の胸には勲章のようなものがつけられている。師匠はその男にガンを飛ばしている。私たちはそそくさと逃げるように先を急ぐ。
っていうか師匠のせいで浮いてるんじゃないかなぁ!?
現に通り過ぎる人の中には私を振り返って「うっわ、めっちゃマブいじゃん彼女」(意訳)みたいなことを言う人も居る。暫く歩いていると看板があった。看板は黒の鉄枠と支柱でできていて、その枠に文字が烙印された木板がはめ込まれる仕組みになっていた。支柱の土台は石で固められていた。看板にはこう書かれていた。
『この通りは上級階層の通行区域です。家印あるいは紋章入り通行証の携帯を確認できない者の立ち入りを禁ず』
私は首を傾げる。
私って貴族になったけど紋章とか通行証って貰ったっけ…?
私の頭の中にサル顔のロウレスの言葉が思い浮かぶ。
『いずれ叙勲の儀式を…』
「アッ! あたしたちまだ貴族の叙勲まだだからここに居ちゃだめだ!」
どうしようと振り返ると私たちが進んできた道から鎧を付けて槍を持った二人の衛兵が駆けつけてきていた。
「そこの者止まれぇ!」
うわああああああああ!
「罰金百マナ」
衛兵に止められた私たちはまだ貴族でないことを確認された後、罰金を申し付けられた。
「もう二度とするなよ」
「本当に申し訳ありません…」
私が頭を下げるともう一人の衛兵が言った。
「おい、わざとやったわけじゃないんだからそこまでキツく言うことないだろ。お嬢さん。こういうこともあるよ。次からは気をつけてね」
「…ありがとうございますぅ。もうしません…」
何となくもう一人の衛兵はエルフの美貌に影響されているらしい。私は精一杯、可哀そうな美女を演じた。するともう一人の衛兵も肩をすくめて言った。
「まあ、いちいち戻るのも確かに可哀そうか…。ではそこの細い通りを抜けなさい。そうすれば平民用の波止場への道に戻れるから」
私はこの二人にこの先の道順も聞こうかと迷ったが、徐々に騒ぎを聞きつけた野次馬が集まり始めたので早々にこの場を立ち去ることにした。
「わかりました!」
そう言って私たちは人がカニ歩きで通れるぐらいの細い道を通り抜ける羽目になった。
いや、私のこと美人だと思ってたらこの道を勧めるかな? おかしいなぁ?
よくわからないが、もし母のライラがあの道に迷い込んだら誰かが保証人を申し出るなどがあって何の問題もなく通れるだろうなという確信しかなかった。
色々あって私たちは抜け道を使ってさっき二つあった道のもう一方の道に戻ってきた。
「何とか軌道修正できた…」
私とジルタは疲労困憊だ。師匠は私にこれ見よがしに酒の革袋を振る。
音的にあと半分ぐらいか…? 急がないと…。
私が道に目を戻すとまた二つの分かれ道があった。
右の道はさっきと同じ石畳が荒れていて、ぬかるんでいる。そしてまた黒くて臭い印。どろくの片目に二つの点が記してある。地面には割れた瓶と壊れた木箱が散乱している。よく臭いをかぎ分けてみると焚火っぽい臭いと酸っぱいがする…。手で少しすくうとべっとりくっついて指紋の中に汚れが入る。
「ルリコさま、その匂い……松脂だっきゃ。船の防水んときに使うやづだよ。バッチくてベタベタすっから、あんま触んねほうがいよ〜」
「ふーん…でもこの酸っぱい臭い…どっかで嗅いだような…」
師匠も近づいて来て、臭いを嗅ぐと言った。
「ワインだろこれ」
「あ、そうかワインか。でもなんでワイン?」
左の道はひび割れているが、平らな石畳と木箱が脇に積み上げられている。通りの住宅の扉は開け放たれている。
「ルリコお嬢様! 見てけろっしゃ、ここ……人の足跡があります。こりゃ、ついさっき通ったばりの跡です!」
よし! 左の道が正解だ…! 何故なら道が綺麗だし、往来の痕跡があるから…って思うじゃん?
「左の道は安全そうだけど、今度は右の道だと思う。見て、右の道の石畳ボロボロでしょ? 多分荷車が通ったからこうなっているんだよ。それにね…この印の松脂って船の防水に使うんでしょ? だからこれって港関係者が迷わないようにする印じゃない?」
私は臭いドクロの印を指さす。
「つまりこの先が正解なんじゃない?」
私はさっき綺麗な道が正しいと思った。だけど実際正しい道はハズレだった。正解は悪路で印がある道だった。綺麗な道はそれだけ維持費がかかっているから徴収されるのかもしれない。それに最近工事で道が変わったのなら、悪路の道は昔からあったハズだ。だから正解の確立が高い…ハズ。
「流石です、ルリコ様……それと、ようよう考えてみたら、右側の道の開けっぱなしの戸口、あれ、おかしいです。通りが多い道で、あんなふうに無防備だったら、泥棒でも入ってしまいそうですもん。むしろあっちは、知らね人が通りづらい道なんでねぇべか、て思いました」
私はジルタの言い分を聞いて「そうかも」と思った。
足跡を見つけられる目ざといジルタも賛成してくれてるし、今度こそ右が正解だ! ファイナルアンサー!
ワンワンワン! ワンワンワン!
私の鼻に混合の腐敗臭が差し込む。地面に空いた大きな穴の中にはたくさんのごみがあって、その穴の向こうには犬が狂ったように吠えている。その目はあらぬ方向を見ていて、体には病気みたいな赤い腫瘍が浮かんでいる。
「お前らどかっら湧いて出た!」
ゴミの穴の側の小屋からおじいさんが出てきてがなり声をあげる。私は鼻声で聞いた。
「あのー! 波止場ってこっちですかー!?」
「あー!? ここはゴミ捨て場だ!」
「えっと、どくろの印についてなんか知ってます?」
「女が男共の仕事にかかずるな! こっちは通行禁止だ!!」
「お邪魔しましたー!」
私は来た道を戻ると左の道を進んでから屈んで膝に手をついて中腰のまま休んだ。
どうしてこうなった…? 私はそんなにおかしい道の選び方はしてないのに…。
私は自分の頭の中でどうして失敗したかを再度考えた。
さっき私は正解だったどくろの印に着目した。印は正しい道への印。つまり港に関係があると。でもどくろの道はハズレだから印は港関係のものじゃない…。
私が考えていると、師匠が目の前で酒袋を振る。もう残り一口、二口しかない…! 飲みきったら地獄の組手が始まってしまう。いや、それだけじゃない。
「ルリコ様ぁ。これ以上迷うと、日も暮れて危ねぇです。……どこかで宿ばお取りになった方が、よろしんでねぇべかと思いまして」
そう、だんだんと陽が落ちて石の建物に囲まれたここは薄暗くなりつつある。流石に暗くなった町を迷うのは危険な気がする。わたしの脳裏にどくろの不吉なマークが浮かぶ。
あのドクロが港関係じゃないなら犯罪に関係があると見た方がいいだろう。時間はまだある。最後のチャンスに賭けて外れたら宿を探そう。私は外套の下の短剣を手で触りながら頷いた。
そう言って私は目の前の三つの道に目を向ける。
右の道は整った石畳で二人の商人風の男が荷車を押している。二人の表情は硬く、一言も言葉を交わさない。男の帽子には勲章がついている。
真ん中の道は石畳が崩れた通路。通路にはチョークで描かれた子供のらくがき。道に近づくと壁の扉の前に小さいドクロのマークと隣に五つの黒い点がチョンチョンと記されている。扉の下の階段の横には空のくすんだ瓶が無造作に置かれている。上の窓からは洗濯ロープがわたされ洗濯物が干されている。その窓からは弦楽器と共に歌う歌声が聞こえる。
家の扉の近くに印…? そういえば前世で営業の人が言ってたな。確か、訪問した家の人の反応で上客か、そうでないかみたいなのを記して次の営業の人に伝える印みたいなの…。営業符丁だっけ? なんかあれに似ている気がする。
左の道は石畳は整っているが、壁にある木の扉は全て閉ざされている。落ち葉が壁際に集められている。
「ルリコお嬢様、お待ちくだせぇ!」
そう言うと、ジルタは各道に鼻をヒクつかせる。
「…右の道は香草の匂いがします。真ん中は、鉄さび臭いような…左の道は、なんの匂いもしねぇです。もしかしたら川の匂いすっと思ったんですが…」
師匠は鼻を鳴らして言った。
「左の道はハズレだな。見ろ。看板がある。同じだろ?」
師匠の指す看板を見ると『右側通行』と書かれていた。私が看板を見ていると、道を風がふわりと吹きぬけた。するとジルタが飛び上がって言う。
「ルリコ様ぁ! 右の道から、川の匂いがしましたっ! おら、こういうのだけは得意なんです。ちっちぇ頃から、川で遊んでばっかでしたから! だからわがります。絶対に右です! あの商人の人たち、船のひとです!」
私は色々踏まえた結果、答えを出した。
「いえ、答えは左の道ですよ」
「え…! でも…!」
ジルタは不安そうにするが、私は彼女の手を引く。
「いいからいいから」
そう言って左の道を進むと波止場に出た。
「何故だ…?」
「え……おかしいです。だって、右の道からは確かに川の匂いがしたはずなのに……」
私は振り返って二人に言った。
「正確には真ん中と右の道も正しい。見て」
私が指し示す方向は右の道の出口に向かう貴族と商人達の姿があった。そしてその道の入り口には看板に「この道は通行の紋章がないと通れません」と書かれていた。
「なるほどなぁ……通れっけど、貴族さまの通り道だばって、ハズレってこったべなぁ」
「じゃあ真ん中の道は?」
「まあ、真ん中の道も通れたんでしょうけど勘ですね…」
私たちが真ん中の道を見ていると空瓶を空き箱に詰めた荷車を押す黒いターバンを付けた薄汚れた船乗り風の男が現れる。そのターバン船乗りの腰にはカトラスがぶら下がっている。
「左の道の看板を覚えていますか? 『右側通行』。これって倉庫とかで動線を守るためによくある規則の一つ。つまりあの通路は運搬通路だったんですよ」
師匠は種明かしを聞いて眉をひそめると言った。
「たまたまだろ」
「違いますよこれは有力な仮説を軌道修正して当たりを引くベイズ推定なんですよ」
「何だか知らんが一発で当たりを引けなきゃ意味ないだろ」
「だから、師匠。これは当たりを推定する方法なんですよ」
「?」
「最初私たちは貴族の居る道が安全で正しい道だと思ってましたよね? これが事前確率です。まあ、結局はどちらも正解だったんですけど。ですが貴族の道は限られた権利だと学びました。貴族の多い道はハズレの確立が高い。これが事後確率です。そして次にどくろの印が船関係の印だと思ったけど違った…。ここで私は気づいたんです。そもそもの私たちが道のどちらかから正解を選ぶという思い込み自体が間違いだと。道自体はどの道を通っても港につけたんですよ」
「でも途中のごみ処理場はハズレだったじゃねぇか」
「…多分ですけどあの先は通れたはずですよ」
「そんなのなんとでも言えるだろ」
「違いますよ推定ですよ。あのドクロのマークはどれも通れる道を通さない様にするための印なんですよ。ドクロのマークを見せてあの道はヤバイと思わせる為の思い込みの罠。事前確率の操作だったんですよ」
ジルタは不安そうに眉をひそめる。
「何なんでそんなごど、したんだべ?」
「…それは…見せたくない何かがあるから…ってことになるね。だから最後は真ん中の道を通らなかったんだよ」
「ほだば……」
「まあ、そうやって考えた仮説を証拠によって否定しながら、当たりを引く確率を上げていくのがベイズ推定。前に会ったハズレばかり引く修道長がどうやったら当たりに近づくかという確率論の延長なんです」
「そんなことは知らん」
私と師匠がそんな問答をしていると港の方がガヤガヤと騒がしくなる。
「おい! 誰だ! これをここに置いた奴は!」
その声の方に私は目を向ける。そこには木の厚板の上の箱を見て頭を抱える水夫の姿があった。
「ああ、なんか他の船の奴がごちゃごちゃやってたな。どうした?」
他の船の水夫が水夫に声をかけるが、騒いでる水夫は頭をかきむしる。
「どうしたもこうしたもねぇよ! ここには貴族用のワインの箱を一箱置いておいたんだ! わからなくならないように! なのにいつの間にか箱が三つ置かれてやがる! これじゃわからねぇ! 誰だ! やりやがったのは!?」
「もう置いた奴はとっくに出ちまったんじゃねぇか? ていうかどんな箱か本当にわからないのか?」
「箱なんてたくさん扱ってるんだからいちいち見てねぇよ!」
怒ってる水夫を一方の男は嗜めながら言う。
「開けて確かめればいいじゃねぇか」
「そんなことしたら何か盛ったかくすねたかって疑われちまう! 無理だ! 中は開けられねえ!」
「じゃあ…箱を見て確かめるしかないな」
遠目で私が見るとそこには確かに三つの箱があった。箱は水夫の胸ほどの高さのある木箱で、一つの箱はボロっぽい箱で周りがささくれ立って、乾いてくたびれていた。見るとボロ箱には紋章が焼き入れしてある。紋章は盾の輪郭の中央には竜の首を象った船の影が見える。船首は風を切るように前方を向き、その周囲には交差する斧の痕跡がうっすらと残っていた。でも紋章がかすれていてそれ以上はよく見えなかった。
あのボロ箱って貴族の紋章ついてるし本物じゃないのかな?
「それが本物だ!」
突然野次馬の群れから小汚い黒いターバンの船乗りがカトラスをガチャつかせながら出てきた。さっき空瓶を乗せた荷車を引いていた男だ。ひげ面で薄汚れた汗染みのシャツと茶のアラジンパンツに黒く汚れた靴。男は黒いマニキュアを塗った指をボロッちい箱に向けた。
「貴族の紋章があるからな!」
「まあ、確かにそうだな…」喧噪していた水夫はボロい箱を検分するように覗き込む。
「君たち落ち着き給え。貴族用のワインの箱ならそれだよ」
そう言って人の輪から出てきたのはやせ型紳士服に帽子にステッキを持った男だった。男の白髭は鼻の下をアザラシの様に垂れ下がっていて、大きい目をぎょろりとして男たちをねめつけた。男はステッキで私の見ていた箱とは別の箱を指した。その箱は綺麗な箱で貴族の紋章が綺麗にくっきりと刻印されていた。
「でもこちらの箱にも印がありますぜ? 旦那」
水夫が紳士にそう言うが彼は首を振る。
「貴族がこんなボロっちい箱を使うと思うかね? 何より貴族の誉である紋章がかすれた箱を使うなんてことは断じてない」
「成程言われてみれば…」水夫は納得して頷きかける。
「お待ちなさい! 本当の正解の箱は…! その箱ではなくそれです!」
群衆の中からソプラノ声が響くと紫のローブで足先まですっぽり隠れた隠者風の若い男が出てきた。フードの男は目深にかぶった頭巾で顔を隠しながら、紳士は船乗りが指した箱とは別の箱を指し示した。それは何の紋章も印もついてないまっさらな箱だった。
「何も印がねぇだろ! なんでこれが正解なんだよ!」
「視えたんですよ。木の箱の中身が。急に脳裏に浮かんでね。私にはそういうことがよくあるんですよ。それが何故だか私にはよくわからないんですけどね。時々見えるんですよ」
「何をわけのわからなことを…」
そう見通したようなことをいう隠者の男はでフードで顔は見ることはできなかったが。フードから見える口元は自身満々に微笑んでいた。
「いやでもさぁ…。このまっさらな箱よく見ると…。それっぽくないか? だってよくよく考えたら貴族の紋章を付けた箱なんて盗んでくださいって言ってるようなもんだろ?」
「いや、規定で決まってるだろうが! まあ…紋章を付けるのをケチる貴族はよく居るけどな…」
「大体、本当に当てる気なら紋章がついてるこっちかこっちの箱が当たりだろ? それを選ばないでまっさらな箱を選ぶのは…一周回って割とマジっぽくないか?」
「あーマジで一体どれが本当なんだ!? このままだと俺、首になっちまう!」
そう言って、水夫が頭を抱えるとコンコンという音がその場に遠雷の用に響き渡った。見るとさっきの紳士の男性が杖を叩いて注目を集めていた。
「静粛に! 皆、私の言葉をよく聞きなさい。よろしい。ならば…この箱が何故正しいかを証明して見せよう! 私は学者だ! そしてこれは…三つの箱問題という命題でもある! これら三つの中に当たりが入ってることは明確だ! そしてこの貴族の紋章が入っているボロの箱と綺麗な箱…どちらかがハズレなのは明白だ! つまりこのどちらかは偽なのだ! そして明らかに嘘とわかるのはボロで偽の箱だ! だとしたらこの箱二つに当たりがある確率は二分の三だ! そして貴族の印があるのは残りのこの箱のみ! これは数学的必然なのだよ!」
私は内心驚く。
おお、それってあの有名なモンティーホール問題? 確か三つの扉の中に当たりがあって、最初に扉を選ぶと司会者がハズレの扉を教えてくれる。そこから最初の扉から別の扉に選び直すと何故か当たる確率が二分の三になるってやつだったはず。でもそれって司会者が居ないと成立しないんじゃなかったっけ…? ていうかそれだとまっさらな箱を選び直さないとダメなんじゃ…?
私がそう首をひねっていると「違う!」と叫ぶ大声が響いた。
見ると小汚い船乗りの男が綺麗な紋章の箱に屈んで指さした。
「おい、汚い手で触るな! 手形がつくだろう!」
小汚い水夫に紳士はステッキを振り上げるが、水夫は「違うんだ! 違うんだ!」と言った。
「見ろ! この紋章の盾の縁に文字が刻まれているだろ? これはな? 訳すと愚か者って意味なんだ。本当は『星に導かれし者よ、正しき道を征け』なのに『星に惑わされし愚か者よ、奪われる道を征け』になっているんだ! だから本当はそっちなんだ!」
そう言うと男は黒く薄汚れた指でボロい箱を指し示した。それを聞いた紳士は顔を真っ赤にしてステッキを横に持つと折れんばかりに力を入れた。
「貴様ぁ! 貴様は一体何だ! 何故お前のような薄汚い水夫に北海の凍土の古代文字が読めるというのか!? ふざけたことをぬかすな!」
「お、俺は船でよくこの印を見かけたんだ! ずっと航海の暇な間もずっとな! だから覚えてるんだ! 形でな! 意味は後で詳しい奴に教えてもらったんだ! これは嘘じゃねぇ!」
小汚い船乗りの言い分に二人の水夫は肩をすくめる。
「んなこと言っても俺たち古代文字なんて読めっこないからなぁ…。俺には学者様の言い分が正しいように思えるぜ」
学者の男は水夫の言葉にひげをいじりながら胸をそらして言う。
「そう。それでいい。論理こそ全てなのだよ」
「いや、本当に見えたんですよねぇ…頭の脳裏に…おぼろげながら…ワインの形相が…」
隠者風の男はまっさな箱に手を向けて天を仰ぐ。
「本当だって! 信じてくれぇ!」
水夫たちは船乗りの言葉に取り合わずに、綺麗な箱に手をかける。
「こっちにするよ。あんな小汚い奴の与太にかけられるより、学者様に従うべきだしな。もし間違えて罰金でしもべにでもされたら故郷の家族に会えなくなっちまう」
…。うーん…そうか。あの人が間違えたら家族に会えなくなっちゃうんだ。そういう事情ならやっぱりやることはやらないとダメだよね。少なくともエルフならそうするだろうし…。
色々考えた結果、私はこの場に出ることを決意した。
「あ、どうも…すみませーん」
私は人ごみの中からそそくさと出る。出てきた私を議論の参加者たちは不審な目で見る。
「おいおい、今度は誰だよ? まさか神様とか言うんじゃないだろうな?」
私は名乗ろうとして頭巾を被ったままなのを忘れていてそれを脱いだ。途端に場が息をのむような空気に包まれる。
「すんげぇ美人…」
「おいおい…マジで女神?」
「でも耳長だな」
あー…うー…美人って言われて嬉しい気持ちはあるけど、中の人オバサンって考えると微妙な心境…。
私はつい、褒められるのがむず痒くて照れ隠しで自信がなさそうな話し方になってしまう。
「ど、どうも。エルフです。えっとあの。その三つの箱あるじゃないですか。その箱の中身がわかったっていうか。だから教えよっかなって思って出てきました」
「レディ…貴方の勇気に敬意を表します」
紳士は私に向き直るとお辞儀をしたまま固辞した。そのまま彼は動こうとしない。
うわ、遠回しに帰れって言ってるなこれ。
私はちょっとムッとして答えた。
「私がここに来たのは、あの人の家族が困らないようにする為です」
私は水夫を見やった後に船乗りを指さして言った。
「結論から言ますね。犯人はこの人です」
その場の皆が首をかしげる。
「犯人?」「何の犯人?」「どういうこと?」
学者はやれやれと頭を振って言う。
「レディ。貴方は勘違いをしている。問題文は『三つの箱の中の偽はどれか』だよ。犯人はまた別の話さ。そのでかい耳は飾りかね?」
更に私はムッとしたが深呼吸して冷静に答えた。
「この箱の偽の紋章を造った犯人はこの人だと言ってるんです。そもそもこの推理は貴方が言った『この二つの紋章はどちらかが偽』という言葉で気づいたんですよ」
水夫二人は私に向かって言う。
「すまん、順を追って話してくれないか? 何故こいつが偽造の犯人だとわかるんだ?」
「簡単です。この人は紋章が偽だと知っていたからですよ。それは偽の紋章を造ったのがこの人だからです。字の意味がズレもこの人が作ったからわかるんですよ」
「いやいや、本当に覚えていただけかもしれないだろう? それは証拠にならない」
「確かにまだ状況証拠ですけど…。そもそも最初にボロい箱が当たりだと彼が言ったんです。普通綺麗な箱とボロい箱なら綺麗な箱を真と思うハズです。なのにボロい箱を選んだのは彼が偽物がどれか知っていたからと考えるのが自然です。だって、ボロい方は紋章がかすれて文字の意味なんて読み取れないですから」
言われて水夫の男たちはボロの箱を屈んで検分する。
「た、確かに紋章の文字は見えない…! 字が見えるなら本物かどうかわかるだろうけど…字が見えないで真かどうかは判定できない…!」
「ああ、そうか。文字で判別するなら、字が見えない箱が偽でまっさらな箱が真の可能性もある…ってことか?」
小汚い船乗りは立がって言う。
「いや、だからその学者さんの言ったことの逆だよ! 文字でこっちの綺麗な箱が偽だとわかった。だったら残ったかすれた紋章が真だって思ってもおかしくないだろう? そういうことだよ!」
「いや、そもそもそこの紳士の方の三つの箱問題は成立してません」
「…何?」
「三つの箱問題は答えを知っている第三者が意図的に外れを選び直すチャンスをくれることが前提なんです。そして学者の方はハズレを引きそうになったから、第三者はそれを阻止するためにあえて偽であることを暴露したんですよ」
学者はヒゲをいじりながらうつむく。
「つまりこの船乗り君がワシのミスを防ぐためにあえて偽だと告発したと? 何のために? 黙っていればわからぬものを…」
「それは彼が犯人だからです。貴族の紋章は誉だから偽造をしたとしたら知られたらヤバイと思ったのでしょう。そしてその偽造したワインはとある場所に運ばれる予定だった。どくろと五つの点がある扉の場所にね」
「どくろと五つの点?」
「多分この人はそこで活動している密輸業者か何かです。見てくださいその指の汚れ。これは町のいたるところにある印の汚れと一緒で松脂です。彼は町のいたるところに恐ろし気な印を刻んで人を遠ざけ、同時にそれを犯行に使う為のサインとして利用したんです」
「ふむ、しかし松脂なんて船じゃどこでも使われてるからなぁ」
「確かに。でもワインを使った塗料は滅多に使われてないんじゃないですか?」
「ワインを使った塗料? そんなのがあるのか?」
水夫の二人は首をひねる。私は一呼吸おいて言う。
「はい。そしてその塗料を使った場所に手形がありました。左手の掌に傷がある手形がね。多分その人の手に似た傷があるハズです。とにかく、松脂とワインを混ぜた塗料が証拠です。男の服の塗料とドクロの塗料、箱の塗料が一致すれば、男が犯人だといえますよ」
その言葉と共に皆の視線が小汚い水夫に注がれる。水夫二人が小汚い水夫に近づく。
「おい…。ちょっと左手を見せてみろよ」
「拒否する。そんなことをする必要ない」
船乗りの男は水夫二人から距離をとる。
「それを決めるのは俺たちだ…」
「うるせぇ! 近寄るんじゃねぇ! 近寄ったらこの女を…!」
小汚い水夫の右手がカトラスの柄にかかる。
あ、ヤバ…。
咄嗟に私は外套の下の短剣に手を伸ばす。男が走り寄って来る。
「あ、これ! これ!」
私は男に短剣を鞘のベルトごと差し出して見せる。
「はあ!?」
船乗り私の行動に驚く。私は営業スマイルで言う。
「命ばかりはお助けを」
船乗りに私は短剣を放る。私は男が投げた短剣を目で追ってるのを見ながらレスリングの様に飛び出して男の腰にクリンチをかける。男は剣を抜こうとしても、全力で腕ごと抱きしめて動きを封じる。
「無理無理。こう見えて私…筋力には自信あるんで…!」
師匠によって鍛えられた体幹の筋肉で思いっきり男を締め上げる。男は腕に力を入れて抜け出そうとする。無駄だとわかると男は私に膝蹴りしようと片足を上げようとしたところで、私は柔道の小内狩りの要領で転ばせる。そのまま私は男の腕を持って、腰を男の脇に滑り込ませながら頭を腕で柔道の袈裟固めをした。
本当は護身術で習った肘抑えとかの方が密着しないからやりたかったけど、実際やるとなるとわけわからなくなるな…。やっぱ練習って大事だな…。練習しないと…。いや、しなくていいんだ。師匠のバトル脳に影響されてはダメだ…。
「放せぇ! 女ぁ!」
小汚い水夫は私に空いた左手や体を動かして技を解こうとする。私もそれを必死に抑え込もうとして服は汚れるし、砂をかけられるし、声はうるさいしでぐっちゃぐちゃになっていく。
「はい~大人しくしてねー大丈夫だからねー」
私は心を無にして男を制圧し続けるけど本気で力を込めないと抑えられないから大変だ。でも大丈夫。なり行きを見ていた水夫二人が駆け寄ってくるのが見える。彼らが駆け寄ってまで来るまでなら技の維持は余裕だ。そう思って見ていると船乗りが左手の拳を握ったのが見えた。咄嗟に私は言う。
「もうやめなって。どんなに殴られても絶対技は解かないよ」
それを聞いた男は握った拳を解く。
水夫二人が男を制圧して私はやっと自由になる。私は地面に膝を立てて座ると手が小刻みに震えていた。背後からジルタの「お嬢様ぁー!」と駆け寄ってくる声が聞こえる。私はボロボロだけどスカッとした気分だった。
今まで森で鍛えてきた成果が無駄にならなくてよかったぁ…。
恐れていた私の言葉が男の力でねじ伏せられる事態が防げてよかった。この力があれば最悪、皆の言葉も守れるかもしれない。倒さなくてもいなせるだけでも良い。そう思って私は自分の拳を握りしめて震えを抑えた。
ヒッ…という息をのむ声の方を見ると、先ほどのひげ面の紳士が私を怯えたような目で見ていた。
あ…なんかやばい人見る目つきだなぁ。
近づいてきた水夫二人も「あんたすげぇな…何者だ?」と遠目にいぶかしんだ目つきを向ける。
「ねえ、あの女の人、男の方に乳を押し当ててませんでした?」
「ふん…ふしだらな…本当に女なのかしら?」
噂をするドレスの女性たちの声も私の耳に届く。
―――。
深呼吸していると私の目の前に手がさしだれる。いつの間にか近づいてきた男性が私に手を差し伸べている。
「お手をお貸ししても?」
そこに立っていたのは褐色肌に黒い羽根つき茶色の三角帽子に黒い濡れ髪の青の船長服とブーツを着たあどけなさの残る青年だった。
「あ、どうも…」
私が男の人に手を借りて立ち上がると手を離して一礼した。そして観衆に向かって言った。
「諸君! 我が名はヴァリス・ド・スバンダルです。本日の混乱は我がフヴィートファング船団のワインによってこのような騒ぎになったこと、深くお詫び申し上げます」
私は彼の名を聞いて驚いた。
スバンダルってことは…シャンさんの息子…もしかしてワルスさんが言ってた三男の子…?
ヴァリス君の横顔を見ていると、確かにくっきりした目元のまつ毛とかがワルスさんに似ている気がする。ヴァリス君は続ける。
「けれど、最悪を防いだのは、ある方の冷静な行動でした。皆さまが目にした通り、剣を抜くことなく暴力を鎮めたその姿はまさしく秩序の守り手。
私はその胆力に、心からの敬意を表します。混乱を招いた責任は私に。けれど秩序を守った光は、彼女にあります。どうか皆さま、その勇気に拍手を」
そう言うとヴァリス君は私に向かって礼をした。そして下肢づくと私の手を取って見つめると口づけをした。瞬間、私の手が彼の唇を感じて胸が高鳴った。だけど次に来たのは心配だった。
あ、大丈夫かな? 手を洗ってないけど…。
私の心配をよそにその場の紳士淑女はパチパチと拍手を送る。
私がヴァリス君を心配していると彼は目を上げて私を見た。その黒い目は夜の静寂の様に無音だった。
手の甲へのキスを見たドレスの女性達は悩ましいため息をつく。
「ああ、ヴァリス様…なんて慈悲深い…」
「なんて高貴なのかしら…」
水夫二人は船員を引き立てながら頭を下げた。
「閣下、レディ。お二人とも、ありがとうございました…! さあ行くぞ!」
ヴァリス君が立ち上がると、どこからか弦楽器と太鼓の音が聞こえてきた。そして笛のフィィーという軽快な音と共に群衆の輪から三人が躍り出ながら叫んだ。
さあさあ…ご覧あれ――
見るととんがり帽子をかぶったリュート、太鼓、笛を持った吟遊詩人風の男達と少女が楽器を吹かしながら列をなして出てきて群衆の前を歩いて歌った。
今ここに、新たな伝説が生まれた! 偉大なるスバンダルよ! その秩序の盾となりて混乱を鎮め――そして見よ、この場を守りし乙女。
金毛の髪、穂如くの耳をなびかせて、秩序を貫くその碧き瞳!
いまこそ称えよ―― はい皆さんご一緒に!
「「「金穂の楯! 秩序の守り手!」」」
その場の紳士淑女や船員たちは地面や甲板を足で打ち鳴らして音頭を合わせ始める。なんというか前世の地球のライブ会場みたいな熱気だ。
美しき勇気に、喝采を――! さあ皆の者、声をあげよ!
「「「金穂の楯! 秩序の守り手!」」」
英雄の誕生を祝うのだ!!
最初はいい感じにリズムを刻んでいたが、だんだんヒートアップして怖くなってくる。
「おい、何の騒ぎだ!?」「エライ美人が船の男をのしちまったんだって!」「美人!? 俺にも見せろ!」「押すなって! 船から落ちるだろ!」
近くの船の船員が一斉に騒ぎを聞きつける。
「どこだ!? 私に見せろ!!?」「ご主人様! ゴンドラが傾いて危のうございます!」ゴンドラに乗った紳士淑女も身を乗り出して舟バランスが崩れて転覆する。
「お、お助けー!」紳士と淑女が溺れてそれを水夫たちが飛び込んで助けに入る。
う、うわぁ…とんでもない騒ぎになった。
怖くなった私は、頭巾を被って側に居たジルタの手を取って師匠を呼んだ。
「師匠! ズラかりましょう!」
酔っぱらった師匠が来るのを待って居ると、ヴァリス君が衛兵たちを率いて近づいてきた。
「隊長、この場の混乱、収めてくれるか。…皆、少し熱くなりすぎている」
「承知しました、ヴァリス・スバンダル様! 静まれ! 者ども静まれ!」
衛兵隊長と共に衛兵たちは角笛を吹いて、民衆たちの注意引いた。
「静まれ! 静まれ!」そう言いながら笛を吹く。衛兵たちが興奮する民衆に進んでいく中、ヴァリス君が私の前に来て一礼する。
「申し訳ない。このようなことになるとは僕の手落ちでした。このまま帰るのは危険なので船で送りましょう。金穂の君はどちらまで?」
私は師匠とジルタの顔を見比べてから言った。ジルタは私に頷く。ゴンドラの回収はジルタに頼ってよさそうだ。
「えっと…チーズマンさんの工業区まで…」
結局私は昨日のルートをヴァリス君に送ってもらって別荘に帰ることになった。
どうしてこんなことになったんだっけ…。
私の頭の中にコーラが浮かぶ。でも、今となってそんなに飲みたいという気持ちは失せていた。
コーラはもういいや…。なんか疲れちゃった…。




