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石中の恋歌  作者: モノノベワークス
初恋の異性と結婚する確率はX%
23/35

放浪の民とエルフ 上

25/06/09

 翌日、私達は道の険しい陸路ではなく、荘園の渓谷を流れる河川の水路を舟で君主の領まで行くことになった。君主の領地は荘園に対して標高が高いから移動が大変かと思ったが、運搬用の水路があるらしい。


 それを教えてくれたのはケペンのハニト…美しい娘達だ。


 娘たちは商人のケペンの背後で頭を下げながら一列に並んでいた。そうしながら娘たちはエルフの視線が誰に注がれているか、誰が気に入られるかを観察していた。


 その中でも男エルフの目に止まったのは清純で理性的なタイプのヘネシーだった。褐色肌と厚ぼったい唇の色気に対して、長いまつ毛に切れ長の眼が誠実で賢さを感じるからだろう。だが、男たちが最も注目したのはヘネシーの艶やかな黒髪だった。彼女もそれを承知したのか、颯爽さっそうと前に出て、礼をすると言った。


「初めましてエルフの方々。わたくしの名前はヘネシーと申します」


 それを見た男たちは一斉にスンッ…と無関心を装って一様に「あ、どうも…」と頭を下げた。男性陣の中でもヘネシーの対応を買って出たのはタブラ爺だった。


「よろしくお嬢ちゃん。すまんなぁわし等のわがままでこんなに大仰にしてもらって」


「とんでもございません。わたくしも鳥車の移動は苦手でして…。慣れないころはツボを抱えながら書類とにらめっこしてましたわ」


「ほう? お主はどんな仕事をしているのかね?」


 タブラ爺とヘネシーは挨拶からあるある話を経て、即座に本題へと移った。


「私は父の商業を手伝っております。得意は卑しくも金勘定でございます」


 会話の間に彼女は頻繁に黒い髪をかき上げたり、わざと垂らしたりして男たちにアピールをしていた。


「ふーん。では、この水路はおぬし等の輸送ルートなのかえ?」


 タブラ爺はヘネシーに目の前を流れる川の推移を眺めながら言った。


「その通りです。我が商会は税のかからない水路開拓の為にダムを使った水の昇降機を共済によって実現しました。これをすることで複数の水の木桶の上を舟が滑りながら標高を上がっていくのです」


 ヘネシーは美貌だけでなく、父親の商業に関する知識にも明るい商人タイプだった。エルフの男たちもヘネシーの頭脳がその美貌に釣り合っているのかを知りたがっていた。


「それじゃあ工事費かかって結局税払ってるのと同じじゃあないのか?」


「その分は我々以外の商会が水路を使う際に税をかけて回収しています」


「水路の独占というわけじゃな。やるなぁ、お前」


「フッ…」


 ロゼッタ爺はヘネシーが妥当な返答をしたことを褒めているのだ。爺は普通の問題に普通に答える者を評価する傾向がある。ズレた答えをする変わり者は苦手なのだ。ヘネシーはタブラ爺の褒めを受け流しつつも、その視線は彼女の言葉を訳しているニコラスに注がれていた。


「失礼ですが貴方のお言葉は少し訛りがありますが…最近覚えたのですか?」


「そうですね、まだ始めて一か月ぐらいです」


 彼女はニコラスの言葉に笑って言った。


「いますよね、暗記科目だけ得意って人。そう言う人は応用問題でひっかかるんですよ」


 ヘネシーから異世界の中世版、学歴マウントみたいな言動が飛び出すが、男のプライドをくすぐる彼女なりの戦略なのだろう。


「そうですね、ルリコの謁見に間に合わせるためのやっつけの暗記だから仕方ないですね」


 ヘネシーはニコラスの口から女の名前が出た途端に苦虫を噛み潰したような顔をした。そして少し悲しそうな顔をしたのが私的にはポイントが高かった。


 因みにケペンのハニトラに一番引っ掛かったのは女性陣だった。ヘネシーの後に私達に近づいて来た娘は扇で顔を隠しながら手の爪を見せびらかした。シーブは彼女の爪を見て言った。


「キレイな爪ですね…」


 彼女は自慢そうに手を近づけて言った。


「これは使用人たちにヤスリで削ってもらってるの」


 シーブはそれに首ったけになりながら頷いた。


「噛んで短くしないなら書類仕事も楽になるかもしれません」


 それを聞いて女性は真っ白な歯を出して笑う。


「おばあちゃん、爪を噛んで短くするとか…オモシロ~ウケる。私、サマンサ、ねえオバちゃんの名前は?」


「オバちゃんだって」スカイさんはシーブをからかう様に言う。


「お、オバちゃんなんて年じゃありません。もうお婆ちゃんですよ」


「うっそ。全然見えない。めっちゃ肌綺麗だし、全然若いって! 美オバ! 美オバ!」


 シーブはサマンサのヨイショにも素直に受け取ったのか、照れた様に笑った。サマンサと名乗る少女はフレンドリーで気を置かない雰囲気が強みのようだ。彼女はウェーブがかった金髪で眼は少し眠そうな垂れ目。頬は薄く桃色に染まり大きな口はおっとりとした笑みを浮かべていた。その天然な雰囲気が皆の緊張を緩和していた。悪く言えば礼儀知らずで不遜だけど、ちょっと頭の足りないブロンディっぽさで他人の懐に入るのが彼女の戦略なのだろう。


 笑ったサマンサの歯の白さを見てスカイも会話に参加する。


「貴方の歯…随分キレイなのね…」


「これはシーツでいつも汚れをふき取ってるわ」


「そこは普通なんかーい」


 スカイの突っ込みにサマンサが笑うと皆も笑う。スカイさんは狩人達を締める体育会系だからこういうイジリみたいな笑いが好きな傾向がある。


 その中で私が最も関心を払ったのは髪の美しさだろう。サマンサは私の視線を感じ取って髪をかき上げる。


「この髪いいでしょう? でもシャンプーだけじゃダメ。日の光を反射させるには染料で染めないとダメなの」


 シーブは自分の髪をいじりながら頷く。


「確かにそうでしょうね。私の髪も何だか白っぽい黄色になってますから…」


 私は彼女の言動から髪の洗髪や染料の技術は普通にあるらしいと悟った。だとしたら私の美容品戦略も少し暗雲が立ち込めてくる。私はそれとなく市場のリサーチの一環で聞いてみた。


「シャンプーって皆使ってて当たり前なんでしょうか? だったら…」


「うーん、お金持ち以外は自分でやっちゃうと思う。ていうか頭くっさいから洗ってないと思う」


 私はそれを聞いて肩を落とす。


「実は私、美容品を社交界で売って儲けようと思ってたんですよね」


「えー、それよくないですか? 最悪、中身同じでも、パッケージを高級にして売ればいけますよ。そうすれば社交界でウケると思う。わたしもサロンで一緒に仕事したい~」


 そうサマンサの言うとケペンが近づいて来て言う。


「こらこら、サマンサ。ルリコさんを困らせてはいけないよ? 今回は彼女たちは商談が目的じゃないんだから。また今度にして下がりなさい」


「はいはい。パパうるさ過ぎ。ルリコさん私本気だから。また今度ゆっくり話そうねー」


 サマンサは不満そうに不貞腐れているが、ケペンの笑顔がここまで規定路線なんだろうなという感じがした。ケペンの背後には箱を持ったアダットが申し訳なさそうに苦笑しながら軽く会釈をした。


 時間になったのか美女一行とサマンサは手を振りながら階段へと消えて行く。私はそれに手を振り返した。異世界に来て、私はハニトラ営業の恐ろしさを再認識した。でもサマンサの美容品知識が欲しいので塩対応はできない。


 ケペンは私の考えを見透かしているのか嫌味の無いしたり顔で笑った。私も脱帽の意味を込めて苦笑で返した。ケペンは頷くと後ろのアダットに箱を開けさせた。その箱の中には彫刻が彫られた木の割符が彫られていた。その割符は白の塗料で塗られており、何かの彫刻が設えてあった。ケペンは箱を指して言った。


「ルリコ殿、城壁の船着場から広場に沿う道を進むと我々の工場があります、そこの関係者にこの割符を見せていただければわかると思います。もし、困ったことがありましたらその工場をお尋ねください」


「ありがとうございます…助かります」


 頭を下げてケペンの顔色を伺うが、流石に商人である彼の顔には快活そうな笑みしか浮かんでいなかった。しかし前世で一見善良そうな営業がどれだけ残酷になれるかを見てきたので警戒を緩めまいと肝に銘じた。


 私はケペンとアダットに礼をして、その場を後にした。舟に近づくと長老たちが兵士達に介助されながら乗船している最中だった。


 前回と同じく私達は二手に分かれて舟に乗ることになった。舟は胴長のカヌーの様な木造りの白い舟で船首と船尾に革の鎧を着た若い男達が立っていた。男達は上半身や腰に防具と短い刀を帯刀している。下半身は膝下までの丈のズボンで舟のヘリにかけた足には足袋のような靴をはいていた。思うにこれは舟の取り回しを軽快にするための装備なのだろう。


 私達の舟に近づくとの船首の男は頭を下げて言った。


「ご挨拶が遅れて申し訳ありません。私の名はネイス、後ろの黒髪がルトです。今日は皆さんを安全に舟で送り届けさせていただきます」


 挨拶と同時に二人は頭を下げる。ネイスと名乗った金髪のセミロングは細面の神経質そうな印象だ。ネイスは舟が転覆しないように体重で船のバランスをとっていた。船尾の黒髪短髪のルトは褐色肌で顎ががっちりとした強面だった。私は舟に乗り込む前にリュックを手渡すとルトは舟のヘリに足をかけてそれを受け取った。その時に私はルトのヒザに火傷のような痕があるのが目に留まった。視線を上げて私とルトの目が合った瞬間に彼は動揺したように目を伏せた。


 私達が舟に乗ると男たちは棒のようなオールで舟を岸から離して流れに沿ってゆっくりと下って行った。私は前世の大学時代にやったラフティングを思い出していた。と言っても日本の河川の様に激流ではなく、少し波打つぐらいだった。舟が揺れても前の長老達は「昨日に比べれば…」「河川の清涼感が良い」と安堵していた。河川の流れの音の中、船首のセミロングの男ネイスは私達の会話が聞こえているのだろうが、会話には入ってこようとはしなかった。私は何となく仲間外れにしているような気持ちになってしまったので話を振ってみることにした。


「お二人は普段はどんなお仕事をしているんですか?」


 セミロングの男は私を振り返ると少し微笑んでうやうやしく頭を下げながら言った。


「私達は荘園の教会で修道士をしています」


「修道士って司祭の様なもんじゃろ? 護衛もできるのか?」


 爺の言葉に船頭の男はフフフと肩を揺らして笑う。


「確かに修道士ですが、元々は諸侯の一族でして幼少の頃から鍛えられています。七歳頃になって洗礼を受けてから各地の諸侯の家から教会領に送られる訳です」


「そんな幼少から親御さんと離されるとは。寂しかったんじゃないか?」


「そうですね、最初は涙も流しました…が、ある意味幸運だったかもしれません。諸侯の息子と言っても三男四男となりますと相続も満足にできません。教会では読み書き数字を教えてもらえますし、そのまま教会で働くこともできますから」


「そうか…因みに教会を出る場合はどうなるんじゃ?」


「そうですね、故郷に帰っても穀潰ごくつぶしですし…なので諸侯として一旗上げるために戦争に参加したり、冒険してどこかの諸侯の貴婦人に見染められれば成功者といったところでしょうか」


 爺は納得したように頷く。シーブは船頭の男に「励みなさい」と声をかけていた。頃合いを見て私は気になってることを聞いた。


「成程、では後ろの方の火傷はもしかして戦争のものですか?」


 一瞬の静寂が舟を包むが、船首の男ネイスが船尾の男のルトの方を向いて言った。


「君の来歴をお尋ねになられているぞ。答えなさい」


 男は無骨に「承知致しました」と言うと語った。


「彼と違って俺は諸侯の息子でもなんでもございません。俺は農村の農家で生まれました。ですが、農家の頃の記憶はハッキリしません。というのも、幼少の頃に俺の家はシハナカと呼ばれる蛮族に追われたからです。火傷はその時の傷だと思います。その当時は他にも農地を奪われた農民と一緒に追い立てられるように今の教会まで逃げのびたのです。そして俺は修道院で保護され今に至ります」


「シハナカというのは地名ですか?」


「いえ、略奪をする流浪の民の総称で、肌が浅黒いことが特徴ですが、北西の地を統治する王家と同じ起源を持っているとも言われています。当時、シハナカは王族や商人になった者と盗賊と海賊になった者で分裂しました。シハナカが放浪している商人なのか盗賊なのか。それを見極めるのは困難です」


「肌が浅黒いって。お前もそうじゃないか。シハナカは同族も襲うのか?」


 ルトは河川の流れを眺めながら言った。


「彼らにとっても我らにとっても重要なのは信じる神です。例え同じ人種でも信じる神が違えば敵です」


「物騒な奴らじゃのう」


 ロン毛のネイスは失笑して言った。


「物騒なのはシハナカだけではありません。放浪する者たちは時と場合によって商人にも盗賊にもなり得ます。人目さえなけれあ奴らは無人の教会の聖具すら盗みます。神をも恐れぬ野蛮な奴らです」


 私は二人の話を聞いて先行きが不安になってため息をついた。


 途中、話に聞いていた水の昇降機に到着した。昇降機は石で作られたダムに水をためて水位を上げて次のダムへと移るというパナマ運河式のものだった。パナマ運河と違うところはセキの扉を手動で開いて水位を一定にするというごり押しスタイルだったため、舟が結構揺れた。セキのハンドルを動かしているのはシャツにベストにズボンといった農夫風の人たちだった。どうやらセキの詰め所みたいなところに男たちは駐留しているらしい。


 昇降機を三つ越えると、遠く離れた河川に船着き場が見えた。そこには船が雑然と並んでいて、そこまでの道を行く人々の群れを舟で追い越したざまに見た。くつわを紐で繋がれた牛如きモーフの群れと、それに付き添うように歩く一行がいた。服の隙間から見える褐色の肌の色からシハナカの民とわかった。男たちは頭に革の頭巾の様なもので肩まで覆っていて、背中には投げ槍の様なものを背負っていた。その後ろには同じく頭巾から尻尾の様な黒髪の太い三つ編みを腰まで垂らし、下半身にアラビアパンツを履いた女性達が後に続いていた。舟で一行を追い抜く時に見たシハナカの男たちの頭巾のツバ下の厳つい黒い目がこちらを伺っていた。


 あの背負いの槍ってエミールさんの装備に似てるけどまさかなぁ…。


 立ちはだかるレンガの建築物を右手に船着き場に付いた舟はさん橋の上に降り立った。兵士達が舟をさん橋に括りつけている間、私はさん橋に停泊している舟の中に動く影を見た。舟を見ると藁ぶきのテントが張ってあって、その陰に子供を抱えた座った浅黒い女性が居た。女性の足元には船底に穿たれたカマドや小物が周りに置いてあった。女性も子供もポカンとした表情で私達を見ていた。


 この人たち、舟の上で生活しているんだ。そういえば前世の東京でも水上生活者が居たって授業でならったことあるな…。

 

 異世界とは言え、人の家を覗くのはどうかと、私は陸地に目を向けた。さん橋のたもとでは上半身裸にアラビアパンツを履いた水夫達が荷を抱えて倉庫に入れていた。さらにその向こう側の通りには市場があった。市場は人混みで乱雑していて、活気の情熱にのぼせてしまいそうだった。その人ごみの中に静寂な雰囲気をまとう一行が居た。一行は喪服の様な黒服に身を包んだ一行で黒いロングコートの様な外套と頭にモフモフのシルクハットの様な帽子をかぶっていた。喪服の一行は銀髪の長いヒゲと髪が特徴的だった。その男たちの側に立つ女性の黒づくめのドレス姿がとても神秘的に映った。ふとその一段の女性と目が合ったが銀色のまつ毛に縁取られた瞳は黒で、その瞳の中に銀に光り輝く星々の輝きがあった。一瞬その常軌を逸した美しさに息を飲んだ。彼女も私を凝視していた。見つめ合う時間は彼女が俯いたことで終わりを迎えた。そのまま彼女は私の視線から逃れるように背を向けてその場を後にした。彼女と共に黒服の一行も人ごみの中に消えた。


 なんかめっちゃ綺麗な目の人がいた…。目の綺麗さだけならエルフ以上だったな…。


 私がキツネに化かされた様な気持ちでいると、ネイスが私達に近付いて来て言った。


「ここから修道院までお送りします。はぐれないように付いてきてください」


 私達は一団となって桟橋のたもまで進むと、短髪のルトは「道を開けよ!」と大きな声で人ごみを散らせながら歩いた。ルトの振る舞いで人ごみの目線を一点にあびた私は日本人マインドを発揮して申し訳ない気持ちのまま市場を抜けた。


 市場を抜けた先の街はずれの丘を登る道があった。道なりに登っていると左手の石造り塔の上から鐘楼の音が鳴り響いた。塔の向こうには木の柵に囲まれた石造りの教会が立っていた。教会の周辺は荘園よりこじんまりとした農地と果樹園らしきもので囲まれ、その横を川が流れていた。道を進んで教会の前につくと扉のない入口から修道女が表われこちらにお辞儀をした。その修道女は白い修道服と頭巾に黒いフェイスベールをつけていた。髪はすべて上げていたが、飛び出すほつれ髪が疲労を感じさせた。年は目元と手を見るに若そうと感じた。短髪の兵が女性に近づいて言った。


「御客人をお連れした、怖がらせたり、失礼のないように」とネイスが高らかに宣言すると女性はおどおどした感じで「しょ、承知致しました」と答えた。


 私達の側に控えていたネイスは私達に向き直って言った。


「それでは我々はここまでです。後は彼女に引き継がせてもらいます。ここから先は城まで危ういことはないでしょう。何か不足があればここの者に申しつけてください」


 私はネイスに言った。


「ありがとうございます、ところでここって修道院なんですか?」


「どちらかと言うと施療院です。近所の不具者や孤児等が集められて施療を受けています。まあ、施療と言ってもベッドに寝かせるぐらいですがね…」


「病院みたいなものですか…」


「病院と言っても不安になることはありません。こちらには流行りのグール病の患者は居ませんので」


「グール病?」


「はい、その病にかかると口元がむくんで狼の様に突き出されます。その病は人づてに広がると噂され恐れられています」


 そう言うとロン毛の兵は「失礼」と言って、私の耳元で囁いた。


「あそこの修道長もかつてソレでしたが、もう癒されています。なので怖がらずに接してあげてください…。あの人は運が悪いだけなんですよ。とにかくご安心下さい」


「あ、はい」


 私はネイスの耳打ちに軽く相槌を打った。耳元から顔を離すとネイスは嘲笑の様な笑みを浮かべていた。戻ってきたルトにネイスは「では戻ろう」と声をかけると頭を下げて去って行った。私はそれを視線で見送った。


 私が振り帰ると既に皆は修道院の奥の建物へ向かって歩いていた。建物の側にいる杖をついた大男に修道長は言った。


「カーン、この方たちを家にご案内しなさい」


「承知致しました」


 私は修道長が先ほどとは一転して大男に臆することなく毅然きぜんとした態度で指示していたことに驚いた。


 ネイスさんにはオドオドしてたのに、このカーンって人には毅然きぜんと振舞うんだなぁ。


 大男は私達に向き直ると言った。


「それではご案内します」


 そう言うと杖の大男は私達を先導し始めた。大男は舗装されてない道を杖を巧みに突きながら進んだ。その後ろ姿を私は大変そうだなぁと思いながら付いて行った。道中、異様な臭気が私の鼻について、見回すと庭に規則的に並べられた石達が目に入った。石は四角く削られ、二十ぐらいの数が等間隔に置かれ、中央に渦の様なしるしが彫られていた。その石の群れの奥に大きな石碑が鎮座していた。私はその石と石碑はお墓なんだろうなと直感した。その異様な臭気は墓が足りなくなって石碑の下を共同墓地に切り替えたせいなのだろう。私の様子を察したのか修道長が言った。


「大丈夫ですか? ご不快な思いをさせたあら申し訳ありません」


 修道長はカーンへの毅然な態度と取って代わってまた不安そうな態度に変わっていた。


「いえ、別に…。こちらにはたくさんの方が眠りについてるみたいですね」


「はい、でも彼らは最後の日には神によってすくわれると信じています」


 最後の日というのは恐らく終末論のアルマゲドンみたいなもののことだろう。最後の審判の日に神があらわれて死者を立ち上がらせるという予言だったハズ。そんなことを考えながら私は一行を追いかける。追いついた私は修道長を振り返って話しかけた。


 私は杖をついている大男を視線で指して言った。


「彼は戦争か何かで?」


「いいえ、病気ですね。以前は健康だったのに…突然、原因不明のマヒで不具者になってしまう方というのは多いのです」


 マヒの原因は想像がつかないけど、この時代で脳溢血の後の副作用なんてわかるわけもないか。


 そんなことを考えながら、石造りの箱型の居住区が見えてきた。入ると、中は薄暗い静寂で、お線香の様な臭いが充満していた。壁に掘られた穴の中には蝋燭の灯りがあり、床は土間に雑に敷き詰められた石畳があった。あまりの静けさに私は修道長に聞いた。


「今は皆、外で作業ですか?」


「そうですね、私達は出来ないなりにやれることをすると決めているので菜園や果樹園、それらの恵みを使ってワインなどを作っています。…それに此処には動けない女の子一人が居るので男性の方には外で作業してもらっているんです」


 私は女の子と聞いて、少し気になった。


「動けないというのは全身マヒというか…もう全く動けない感じなんですか…?」


「はい…自分で用をたすことも、口を利くこともできない感じでして…」


「でも、食事や呼吸ができてトイレも出るんですよね…お医者さんはなんて言ってるんですか?」


 修道長は遠慮するかのように胸の前で手を小さく振った。


「お医者様なんてとんでもない…。我々には勿体ないことです。それにあれは彼女にとっては試練です」


 顎を撫でながら私は考えた。全身まひで食事ってできるのかな? まあ、私は医者じゃないからわからないけど…。


「その娘は視線で何かを訴えたりしますか?」


 そう聞くと修道長は「はい」と頷く。素人知識だけど、食事が喉を通って便も出るなら何とかなるんじゃないかな?


「あの…」


 何かを考え込んでいた修道長は私の顔を見て言った。


「もし良かったら彼女に言葉をかけていただけないでしょうか…」


「私?」


 その問いに修道長は潤んだ瞳で肯定した。その瞳があまりにも綺麗だったし、私は子供が可哀そうだったので会うだけでもすることにした。


「あ~…私は医術に付いては全然だから本当に見るだけだけど…」


「はい、あの娘も貴方に会えば何かを悟るかもしれません」


 よくわからないが見るだけならタダ、だろうと思って快諾することにした。


「わかりました、じゃあ案内してください」


「ありがとうございます、では少々お待ちください」


 そう答えると修道長は奥の部屋から修道服と頭巾を持ってきて私に差し出した。


「えっと…これはどういう…」


「はい、貴方様の服が汚れるといけませんので…」


「あ、はい…」


 修道者の個室を借りた私は調理場に案内された。


「どうした?」


 私と修道長が調理場に入ると、入り口から師匠が顔を覗かせた。


「あ、ちょっと動けない子がいるんでみます」


「みる?」


 そう言うと師匠は修道長をギロリと睨んだ。修道長はその視線を受けても臆することなく。


「どうかお慈悲を…」と頭を下げた。


「チッ」と師匠は修道長にお構いなしに舌打ちをすると頷いた。


「師匠、トンカチ持ってきてくださいよ」


 そう言うと師匠は私に言う。


「弟子が師匠を使おうとしてんじゃねぇ! ったく。ニコラス呼ぶから、ここで待ってろ」


 そう言うと師匠はどこかへと消えた。私が服の上から修道着を重ね着をして部屋で待って居ると、部屋にニコラスが来た。


「ルリコ、何かするときは皆に相談してください」


 ニコラスは私をたしなめるように言うが、怒った感じを出そうとちょっと無理したのがおかしくて笑ってしまった。


「ふふ、ゴメン。でも見舞うだけだから大丈夫だよ」


「さっきヒゲから話は聞きました。案内お願いします」


「承知いたしました」


 私たち修道長に連れられて狭い通路を一列になって歩きながら話した。


「全身マヒと聞きましたが…母達の足の病気と同じでしょうか?」


「うーんわからない。ていうか四肢がマヒしてるだけで臓器が動いてるからなぁ…背骨の神経ならお手上げだけど…まあ、難しいことはわからないや」


「私はそれを難しいと判断することすら出来てませんよ」


 気のせいかニコラスは若干拗ねているようだ。ニコラスに案内されて部屋に着くと、そこはドアのない狭いビジホ程の大きさの一室で、壁に大きな窓の向こうに庭が見えていた。少女は窓の下のベッドに寝かされている。ベッドはさっき着替えた部屋と一緒なら硬い木の箱に麻のシーツの様な物を何枚も重ねただけのモノだろう。少女の枕元に近づくと彼女の頭巾の下は坊主頭で目ヤニだらけの目で私の姿を追っていた。私は少女の緊張を和らげるようと笑って話しかけた。


「こんにちわ、私はルリコ。貴方の容態を見に来たんだけど…ちょっと見てもいいかな?」


 そう言うと彼女はわかったと言うように目をパチクリさせた。


 利発そうな女の子だね。


 修道長とニコラスは部屋の外の通路から覗いていた。するとその脇から師匠がハンマーを手に持って現れた。


「おい、ルリコ持ってきたぞ」


 その手にはこぶし大程の鉄の塊が付いたハンマーが握られていた。それを見た修道長の顔が青ざめていた。


「トンカチって言ったのにこれじゃあハンマーじゃないですか。こんなの子供が見たら怯えるでしょ。えっと…痛いことはしないから大丈夫だよ? じゃあ修道長さん、その娘をベッドの上に腰掛けさせてください」

 

「わ、わかりました」


 部屋に入った修道長はベッドの上で膝立ちすると娘を介助するように抱き起こした。そして足をベッドから垂らさせた。私はその娘の膝をハンマーで軽く叩くと動いた。まあ、見様見真似でやっただけなのでこれがどういう意味をあらわすのかはよくわかっていないのだが。


 …成程、動いたということは半身不随ではないってことかな…? 多分神経は繋がってるんだよね? だったらどうするべきなんだろう? 整骨院の電気みたいな…刺激を加える…マッサージとか? 前世で旦那の為にマッサージを勉強したことがあったし…できなくもないか…。


 ただのマッサージなら外科手術と違って取り返しのつかないことにはならないだろうと思った私はそれを試してみようと思った。


「えっと…、油を人肌ぐらいに温めて…壺に入れて持ってきてくれますか? この子は服をぬがしておいて下さい」


 修道長は私の言葉を聞くと眉をひそめて言った。


「…あのそこまでしてもらわなくても十分かと存じます…」


「え? どうしてですか? 治して欲しかったんじゃないんですか?」


 修道長は困った様に眉をひそめて言った。


「貴方様の親切には感謝してます。しかし、これ以上は結構です」


 私は修道長の発言に戸惑った。


「えっと…もう長いことこの状態のままなんですよね? このままだと弱って死んでしまいますよ?」


 修道長はまゆをひそめながら首を振った。


「だとしてもこれは彼女の試練です。誰も手を出すべきではありません。私たちにできることは祈ることだけです」


「こんなに弱ってたら試練に抗うなんて無理です。治療自体は私がやりますから何も難しいことはありません。どうしてもと言うなら彼女が健康になったら誰かが引き継いで介助しながら試練を受けさせればいい。そもそも彼女は十分な世話を受けてない気がします…どうしてなんですか?」


 少女の髪が切り落されているのは、虫がつかないようにするためだろうし、目ヤニなどの不潔な状態は身を清めてないことの証に見えるけど…。修道長は悪い人に見えないのにどうして世話を放棄しているんだろう?


 修道長は私の言葉に観念したのか口を開いた。


「それは…我々が不幸という試練の受難者だからです。神は私に不幸という試練をお与えになった。その試練は当事者の祈りによって救済されなくてはなりません」


 私は首を捻って言った。


「病院なのだから、不幸が多いのは自然なことだと思うんですが…。…そもそも、何故貴方と彼女が神の試練を受けていると…そう思うんですか?」


「私もその子も似たような生い立ちがあるからです。そもそも私は…生家を蛮族に襲われ、教会に引き取られ、そこで病にかかったからです。その時私は教会でヨブ記を知りました。ヨブも私と同じように全てを奪われ、病にかかりました。ヨブと同じく我々の不幸と受難は神がお与えになった試練なんです」


 私は頭をかきむしりながら言った。


「なるほど、続けてください」


「最初は私も自信がありませんでした。ヨブのもとに神は現れましたが、私には神のお声がかからなかったので…。しかし途方に暮れていた私の所に賢者を名乗る者が現れて言ったのです。神の存在を証明する方法がある…と。賢者はサイコロを出して言いました。『貴方がサイコロを振って外れの出目を出し続けたなら、それは神が貴方に不幸の試練を授けたことの証明となる』と。その時私は賢者を疑いましたが…ヨブの三人の友人と同じ展開だったので…もしや…とサイコロを振りました。するとサイコロはハズレの六の出目を何度も出し続けました…。サイコロが何度もハズレの目をだす。私のサイコロの出目が悪いのは不幸の証であり、神の試練の証だと思いました」


 ヨブって誰だっけ? 使途の一人だっけ…?


 そんなことを考えながら私は頬を撫でて言った。


「…確かにサイコロに偏りがある場合は何か原因と理由があると考えるのは自然です。その場合神の仕業か或いは…サイコロに仕掛けがあるか、ですね」


 修道長は弁明するかのように必死に訴えた。


「私だってバカではありません。その後ずっと不運とサイコロの考えを疑ってきました。しいかし此処に来て私が見舞った二十人の患者がことごとく死にました。おかしくないですか? それは例えるなら…二十人のサイコロを持った者が卓に集まって一斉にサイコロを振って…全員悪い出目が出るようなものです。その場合一人二人は当たりがでてもおかしくない。現に私はグール病にかかっても祈りによって病を克服しました。祈りこそ救済。私ことがその証明です」


「この院には神の試練を受けている者たちが集っている。だから私は当人が試練に打ち勝てるように祈ることにしました」


 修道長の言い分だと幼少から不幸が続いてその原因があると思ったのだろう。教会でヨブ記を読んだ彼女はこれを神の試練かもしれないと思った。その証拠としてサイコロの出目がことごとくハズレだったからということらしい。でも彼女は祈りによって病気が治ってしまった。彼女はヨブのように試練を祈りによって克服すれば病が治ると思ったのだろう。


 まあ、多分サイコロはイカサマなんだろうな…。そして此処にきて沢山患者が死んでその考えが強まったんだろう…。


「うーんでも…それで世話を放棄したらますます分が悪くなりませんか?」


「ここにいる者たちはヨブの様な受難を受けてる不幸な人ばかり。その者たちが患者の世話なんてしたらに患者に不幸が訪れます。だから当事者達がひたすら受難の中で祈り、ヨブの様に自力で救済される他ありません」


「うーん…。そもそもですね。私はその神の証明はイカサマを疑っています。だからこの院で人が死んだのはあなたの不幸のせいじゃなくてたまたま運が悪かっただけなのでは?」


 修道長は不意を突かれた様に硬直した。


「いえ、しかし・・・現実に沢山人が死んで…」


「いや、おかしくないですよ。修道院には病状が悪化して運び込まれてくる方が多いわけですから、不幸な結果に収束するのはむしろ自然ではないでしょうか? いわゆる寿命というものです」


 まだ修道長は納得がいってないらしく、首を振る。


「それはおかしくありませんか? 仮に不幸な人が沢山集まっても一人ぐらいはアタリを引く人がいてもおかしくありません。当初は私も世話をしていましたがこの院では誰も彼もが死んでしまいました」


「サイコロの確率は各々の確率の積であって全体じゃありません。あくまで個人のダイス結果が確率を決めます。つまり貴方が何人看取ろうとも、それは院全体の確率ではなく当人のサイコロの結果にすぎません。他人の出目の悪さは他人のものであって院のものじゃないです」


「同じことではないですか? その理屈では…私たちの世話や祈りは…何の意味も他人の命運に寄与しません。当人がサイコロを振ってハズレがでたら死ぬだけです」


「確かに私達の行為が院の人たちに影響を与えることはありますが…でもサイコロという観点だとそうなりますね」


「サイコロという観点?」


「ハッキリ言ってしまえば、その通りです。たかがちっぽけな人間の一人が世界に影響を与えるわけがありません。治療ならともかく、貴方の祈りや世話が重篤の患者を癒すことはないと思います」


「じゃあ救済は…」


「そもそも貴方は彼女達を本気で不幸だと思いますか?」


 その問いかけに修道長は放心したように黙った。


「それは…」


 そう言ってから修道長は窓の外に目を見張った。いつの間にか少女の部屋の窓や入口には院の少年と少女たちが集まって来ていた。その子達からは修道長を心配そうに見つめていた。


「そのベッドの娘は本当に不幸なんでしょうか?」


 ベッドの娘も修道長を心配そうに見つめている。


「わかりません…私は…必ずしも不幸とは言えないと思います。いえ、言いたくありません。だっての子たちは善良ですから…」


「私もそう思います。この子たちの眼には貴方への恨みや憎しみなんて一切ありませんから」


 むしろ少女たちの眼には修道長への尊敬の念が込められていた。


「でも…私たちは世間では不幸と言われます。世間は神に私たちを救済せよと祈ります。私たちに信仰せよと言います。野には救われない人たちが大勢います。一体どうすればいいのでしょう?」


 そう言いつつ、修道長はのみ込めてない様子でふらふらとした足取りで部屋から出ると放心した様子で言った。


「…油を用意して来ます」


 私は少女を寝かせたまま、修道長の後を追いかけようと部屋を出た。その時ついでにニコラスに指示を出した。


「ちょっと心配だから見てくる。悪いけどシーブ長老を呼んで来て」


 ニコラスと私は部屋を離れる中、部屋に師匠だけを残すのは心配だったが、さすがに何もするわけがないだろうと思った。


 私が修道長を探していると、調理場で油を煮ているのを見つけた。修道長の顔の表情は読めなかったが、落ち着いた雰囲気だった。私が修道長の背中を見ていると彼女は言った。


「今にしてみれば…私が自分を不幸と思い込んでしまったのは、人に不幸な女と言われてから『そうなのかもしれない』と思い込んでしまったのが原因だと思います。実のところ言われるまで私は自分を不幸だなんて夢にも見ていませんでした」


「そうなんですね」


 私は修道長の話を聞くに徹した。


「でもだからこそ…何故失われる命とそうでない命があるのかわかりません。もし、それがダイスの出目次第なら。運次第なら。それが各々の結果の積ならば…祈る人はそれを変えることはできないのでしょうか? 我々の信仰も善行も奉仕も他者の運命になんら影響を及ぼさないのなら。それはすごく…虚しくないですか?」


「人生を確率として見るならそうなりますが…。でも人間関係はそう単純でもありません。貴方の行動が誰かをポジティブにすることもあります」


「でもそれでは結局私は世話をしている患者の手を取ってダイスを握らせて死ぬまで振らせている死神のようなものじゃないですか。結局最後は同じ。だったらそれに一体なんの意味があるのでしょうか?」


 私は修道長が参ってる感じがしたので、何とか元気づける為にはっぱをかけてみることにした。


「確率とはある主張がどのくらい確かなのか数字で表す方法です。本当に貴方がその努力を無意味と主張したいなら…もっと試行回数を重ねて平均の値を求める必要があります。二十ぐらいでは足りません。百…いえ、千回ぐらい看取ってから治療や祈りは無意味だと主張してください」


 すると、彼女は油をかき回してた菜箸を調理台に置いて言った。


「なんですかそれ…そんなの、命をバカにしてますよ…」


「何でそう思うんですか…?」


「だって…!」


 振り返った彼女は言葉に詰まった。そして何かを悟ったのか肩を落として温めた壺の方に向き直った。修道長は菜箸を持ち直して油の温度を測りながら静かに言った。


「皆は『ありがとう』と満足して逝きました。最後までがんばってました。それを無意味なんて言えるわけがありません。だから、私はまた…きっと会えるって信じています」


 彼女は服の裾で目を拭うとポツリと呟いた。


「本当にそう信じています」


 私は修道長の背中無をで見つめた。その時部屋にニコラスがやって来た。


「ルリコ、貴方のリュックごと持ってきました。長老も彼女の服を脱がして薄着にしたみたいなので、そろそろ始めましょう」


 私は修道長を見ると振り返った彼女も頷いた。彼女の表情にはオドオドした迷いは消えていた。


「私も手伝います。行きましょう」


 修道長は温めた油を持ち、ニコラスは私のリュックを持って再び部屋の前に戻った。少女の部屋の前には若い男女が心配そうに部屋を覗き込んで少女に声をかけていた。


「来たよ!」


 沸き立つ若者たちを師匠は追いやり部屋の前の道を開けさせた。部屋の中ではシーブ長老が困った顔を向けてきた。見ると窓の外にも何人もの修道院の不具者が集まって覗き込んでいた。それを杖の大男が下がらせた。その背後では矢玉を担いだスカイが弓を手に立っていた。


「貴方また余計なことに首を突っ込んで…」


 長老の小言に私は頭をかいて言った。


「いやぁ…つい、放っておけなくて…」


 私達が部屋に入ると少女はうつ伏せに上掛け布をかぶされたまま、ベッドに寝かされていた。頭の部分は窒息しないようにか丸めた布で押し上げられていた。私がベッドに上がると修道長が油が入った壺を差し出した。私は油に持っていたハッカの臭いのする香草を全部入れた。


「じゃあ…始めます」


 そう言うと私は少女の裸体を隠していた布を背中からお尻の尾てい骨ぐらいまで下げてマッサージを始めた。古くなった油とハッカの臭いで胸焼けがしてきた。ベッドの子はハッカの臭いにむせる様な小さな咳した。咳と共に身体がケイレンの様に動いた。


 暫くマッサージを続けると体のコリがほぐれてきた。一旦、施術を止めて布でくるむと、少女をベッドに仰向けに寝かせた。少女は身体を動かそうとしているのか腕が固まったままゆっくりと動いた。それを見て私は外からだけではなく中から温めてみることにした。


「修道長さん、お水の白湯を用意してくれませんか? 後…飲ませるための匙を…」


 道具を用意しに行った修道長が戻ってくると白湯の入ったコップを渡された。少女をベッドに座らせると白湯の中にハチミツと芳香油を適量混ぜて匙で飲ませ続けた。二、三杯飲むと手が小刻みに震えながら座っている膝上まで上がった。少女の目はハチミツの入った白湯をせがむ様に見つめていた。


 私は温めるのが正解なのだと確信して、お風呂に湧かすように指示した。修道院の子達が庭に洗濯用のでかい木のたらいを運んで置くと、お湯の入った壺を桶に入れた。修道長が手で湯船の温度調節を終えると、私は麻の着物を着た少女を抱っこしてお風呂まで運んでつからせた。少女をお湯につけながら四肢を動かすと、四肢が少しずつ自在に動かせるようになった。同時に匙でハチミツの白湯を与えるとむせることなく飲めた。気が付くと少女は手を拳を握り締めて必死に動かそうと歯を食いしばっていた。


「ああ、もうじれったい!」


 私の背後でシーブの声が聞こえると、手の匙をひったくった。


「私が支えて飲ませます! 貴方は身体のほぐしに集中しなさい!」


 シーブは服が濡れるのも構わず桶の少女を抱くとかいがいしく匙を口に運びながら言った。


「頑張りなさい! 貴方、生きたいんでしょう!」


 少女がぎこちなく頷くと長老は更に言った。


「じゃあ頑張りなさい! 大丈夫! 私がついてますから!」


 長老の熱い行動に感化されたのかお湯を組んでくるしもべの女性達も少女に声をかけた。中には涙を流してる子もいた。


「アガサ、頑張って!」「がんば、がんばー」「お腹空いたぁ」


 アガサは震えながらも腕を動かし、膝も上がってきた。私的にはもう大丈夫そうだと思うのだが、徐々にヒートアップするシーブ長老に中断を言い出しにくかった。


「あの、長老。もう大丈夫だと思います。のぼせる前に出して上げましょう」


「わかりました、この子を包む布を持ってきなさい!」


 すっかり熱くなって仕切り始めた長老は、彼女を抱き上げようとして「腰を痛めるからやめろ」とスカイ達に止められていた。そんな中で少女はタライから四つん這いで出てきたのを見て、長老は少女をえらいと撫でていた。私と修道長もアガサに近づくと、側に来た修道長は私に膝まづいて言った。


「本当にありがとうございます。たった今、私は奇跡を目の当たりにしました」


 そして修道長は膝まづいた姿勢のまま手を広げて少女に近づくと抱きしめて言った。


「ごめんなさい…私は…貴方を見捨てるところでした。修道長失格です…」


 少女は修道長を見ながら何かを言おうとしていた。


「…」


 修道長はアガサの眼を見て言った。


「約束します、私はもう恐れたりはしません。だから…どうか私の為に祈ってください」


 アガサは修道長の言葉にぎこちなく笑って頷いた。


 それを取り囲んでいた少女たちも修道長に抱きついて言った。


「私達も祈ります。だから、辞めないでください修道長」


 修道長は少女たちを抱きしめた。黒髪三つ編みの年長者と金髪の中学生くらいの子は修道長に甘えるように顔を埋めた。一番年下の子は輪から外れてアガサが飲んでたハチミツの壺をぺろぺろと舐めていた。


「おい、その娘…気絶してるぞ」


 スカイの視線を追うと、アガサは修道長の腕でぐったりとした。


「ベッドに運びましょう」


 私達は彼女を抱いてベッドに運んだ。後ろでは手伝っていた修道院の子達は集められてスカイと大男に教会の方に連れられて行った。ベッドに寝かせたアガサの寝顔は血色がよくなっていた。それを見た私と長老は顔を見合わせ頷くと、部屋の修道長に言った。


「えっと多分もう大丈夫だと思います。ここから先は豆スープとかの栄養あるものを食べさせれば回復すると思います。ハチミツも残していきます。もし何かあったら…」


 シーブは修道長の前に一歩出て言った。


「その時はその時は私に連絡しなさい、私にとってこの娘は縁深き者になったわけですから。私がなんとかします」


 その言葉を聞いて修道長はシーブに頭を下げる。


「わかりました、そうさせてもらいます」


「まあ、しかし…あのですね…。もし、この娘さえよければ私が…」


 師匠が修道長に何か言おうとすると、窓から師匠が入ってきてシーブに言った。


「おい。お前、杖を何処に置いてきたんだよ」


「あら?」


 そこでシーブは自分がどこかに杖を置いてきたことに気付いたらしい。「えーと…?」とそんなことを言いながら彼女は部屋から出て行った。師匠はシーブの後ろ姿を見送りながらため息をついた。


 シーブが出て行った後、部屋の温度が下がった気がした。私は修道院長と眼が合うと、彼女は意を決したように口を開いた。


「あの…失礼とは思いますが…貴方に聞いて欲しいことがあるのです…」


 私は修道長が何となく話したそうにしていたと思っていたのでそれに応えた。


「あ、ハイ。どうぞ」


「できれば二人きりで…」


「あ、わかりま…」


 私が頷こうとした瞬間、師匠がそれを止めた。


「駄目だ。今ここで言え」


「別に話を聞くぐらいなら…」


 師匠は修道長を見ながらエルフ語で言った。


『あのな。いいかげんにしろ? 最悪お前が誘拐されるルートだってありえるんだぞ?』


『誘拐って、誰にですか?』


『あの短髪の兵隊が、何で市場で騒ぎを起こしたかわかるか? 俺たちが重要人物だってあの場の誰かに知らせるためだ。金を掴まされた教会の誰かが手引きしないとも限らん』


『そんなの…何とでも言えるでしょう』


『だとしても最悪を想定して保険賭けろって教えたろうが、お前とコイツを二人きりにして浚われた場合のケアができないって言ってんだよ』


 修道長は私達の会話はわからないようだった。でも何となく態度から揉めていると悟ったのか師匠に向かって頭を下げた。


「どうかお願いします。どうかこの通り…」


 それを見た師匠は目つきが変わって拳を固めた。これは師匠がヤキを入れる時の前段階だ。


「お前を…」


 私は師匠がヤバいことを言う前に小さく手を挙げて言った。


「はい! 提案。目の届く範囲で話を聞くのはどうです? 少し離れれば声は聞こえないでしょう?」


「それでお願いします」


「よし、じゃあそうしましょう!」


 さっさと話を決めて、私は師匠に有無を言わせないようにした。師匠は舌打ちすると、ベッドの向こうのはめ込み式の窓から外に出て行った。暫く離れたところで私は師匠に声をかけた。


『師匠ー…鼻毛出てますよー! …よし、聞こえてないみたいだね…』


 そう言うと修道長は膝まづいてセキをきったように話し始めた。


「申し遅れました、わたくしはサラベラと申します。もし、よろしければ貴方様のお名前をお聞かせください」


「いえ、様なんて大したものではないですが…ルリコと申します、もしよかったら呼び捨てでお願いします。」


 修道長は恐縮した様子で手を振った。


「いいえ、とんでもございません、むしろ私は…」


 私に対して修道長は切なそうな申し訳なさそうな感じで話しかけてきた。


「私は…貴方を聖人かもしれないと思っています。これは間違った考えでしょうか?」


 私は小さく片手を上げて言った。


「えっと…あの。私は聖人ではありません。何故なら貴方達の宗教を知らないし、入信すらしていないからです。なのでその評価は不適切なんじゃないかな…とか」


 修道長はまぶたを閉じたまま、小さく頷いて言った。


「しかし私は奇跡を目の当たりにしました。その力は私が伝説に聞く聖人様の奇跡と同じです。だから貴方様はまだご自身を聖人だと気づいてないのではと思ったのです」


 修道長が言うには私の力が聖人と似ているから聖人じゃないかと思っているらしい。


「えっと…その聖人という人は何をした人なのですか?」


 修道長は目を閉じると暗唱した。


「聖人マルヌスは治癒士として教会に仕え、その際に不具の者を癒したことで名声を馳せました。その後に各地から集まった救いを求める市民の懇願を受け大司教へとなったお方です。しかし聖人は世に数あれど、死者の蘇生に成功した方はあの方だけです。その奇跡によって宮廷に召し抱えられやがて初代教皇になったのです」


「そうなんですね。でも今まで私は死者を生き返らせたことなどないのでやはり不適当です。そもそも今回のは奇跡ではなく医術に属すると思います。医術は技術であって誰でも再現できますが、奇跡は再現性がありません。だから私を聖人とするのは違うと思うんですね」


 修道長は軽く肩を落として言った。


「承知致しました…。では、もう一つお聞きします。貴方は何の為に城に行かれるのでしょう? …私は…貴方と共に在りたい。しかし一緒に行くことは出来ません。だったら旅の成功を祈ることで、貴方と共に在りたいのです」


 流石の私もここで「王子様と結婚する為」とは言えないので、エルフの目的を告げることにした。


「私達エルフは森に住んでいました。私たちは君主に謁見するために来ました。私たちは君主に森にずっと住み続けられるか聞こうと思っています。だから祈るならエルフの命運の為に祈って下さい」


「承知致しました」


 サラベラさんは膝まづくと祈りの姿勢を取った。これでサラベラさんともう会うこともないかもしれない。そう思うと、どうしても一つ確認しておきたいことがあった。


「…あの、私からもいいですか?」


「はい、なんなりとどうぞ」


「もし、嫌でなければ…貴方のお顔を拝見させてもらえませんか?」


「…それは…私の顔が貴方をご不快に…いえ…貴方がお求めになるなら…私は従います」


 サラベラは私を神の様に思っていそうで不安だった。だから私なりに補足を付け加えることにした。


「あの…別に良いんですよ? 貴方の好きなようにして」


「私達は不幸だと思うかと貴方はお尋ねになられました。私たちは不幸だと思います。世間は不幸な私たちの為に祈ります。そんな世界で不幸ではないと言うことは苦しいことです。その世界で私たちが不幸にならない為には私たちを不幸と思わない認識にすがるしかありません」


 やっぱりサラベラは真面目過ぎる。


「えっとですね…そういうのじゃなくて…。好きに考えていいんです。例えば、ダイスの出目の良し悪しと言いましたが、それを決めるのは誰だと思います?」


 サラベラはキョトンとした顔で首を捻った。


「それは…神ではないのですか?」


「神ではなく貴方です。神はサイコロを振らないという言葉があります。それは神の御業には蓋然性がないからです。だから貴方が決めていいんです。六の数字がアタリでもいいじゃないですか。不幸と言われても幸福と言えばいいじゃないですか。そもそも、確率とは貴方が正しいと思うことを数字で表したものにすぎないんですから。もし貴方が間違っていたら世界は応えてくれます。だからまずやってみてその結果を検証して反省して進めば貴方の道を行けるでしょう?」


 サラベラは放心したように頷いた。


「私の道…」


 そして震える手でゆっくりと顔のベールを取った。彼女の顔が露わになるとその口元は口裂け女の様に切れ長になっていた。しかし顔の形はそんなに崩れていなかった。私は内心胸をなでおろして言った。


「ああ、重大な症状じゃなくて良かったです。むしろ思ったよりキレイですね」


 キレイという言葉を聞いた途端、彼女の眼が潤んで一筋の涙が流れた。そして目を伏せると涙をとめどなく流した。私には彼女の壮絶な人生に対してどんな言葉が慰めになるのか想像もつかなかった。だから私はその場で膝まづいて彼女を抱きしめるしかなかった。それに応えるかのように修道院長は強く抱き返してきた。

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