放浪の民とエルフ 下
25/6/9 修正
「ということがあってですね…」
私は修道長を慰めた後、ことの顛末を皆に伝えた。その話を聞いたシーブは杖をさすりながら言った。
「修道長が泣いたのは自身を不幸ではないと思いつつ、容姿が悪いと言われているのを気にしていたからなのでしょうか?」
シーブが私に聞くので私は首をひねって答えた。
「容姿が悪くないという自己認識が、第三者に認めてもらえて安心したからだと思います」
「そうなのか? 私は美人のエルフであり、尊敬していたルリコに認めてもらえたからだと思うぞ」
スカイとシーブはお互い顔を見合わせ、話し込んだ。こういう時でもエルフは美とは何かを考えずにはいられないらしい。シーブは興奮を隠せないかのように手を広げて言った。
「私は、少女の回復と修道長への許しがもっとも美しく感動的でした」
スカイは肩をすくめながら答える。
「少女は修道長に庇護されているんだから許すしかないだろう。憎んで生きていくこともできないんだからな」
「だから私はあの娘の里親を申し出ようかと思うんです。その選択を蹴った上で修道長に仕えることであの娘の許しは完成するのです」
「シーブ…それは余計なことだよ。完成した音楽にアレンジを加える様なモノだ」
スカイはシーブの言葉に首を振った。師匠も鼻で笑って言った。
「無垢なものが美しいのは当たり前だ。汚辱に塗れた中で光るから真に美しいんだろ。俺はあの修道長は気に入った」
シーブとスカイは師匠を睨む。師匠はどこ吹く風で空になったコップを振った。
「それを肴に飲んでた貴方はどうなんですか? 貴方の美を愛でる方法は歪んでいます」
師匠とシーブの批判に肩をすくめる。二人の言い合いをタブラが「あー」とうんざりした声で遮る。
「美しさについてはもう充分じゃ。それより聖人マルヌスの秘蹟。あれはワシも聞いたことがある。確かウチのツレがそんなことを調査していたハズじゃ…。あ~ホレ。シーブとスカイが趣味でやったあのナントカって国に遺体が安置されて…今は教皇領とかになってたハズじゃ」
爺の言葉にシーブとスカイは驚いた様子で顔を見合わせた。
「私達スピネルからはそんなこと一言も…」
「内戦の後に統治したのはシハナカって奴らじゃが、宗教の権威を利用して再建したみたいじゃな。前の国とは別物になったからツレは言わなかったのかもしれん…」
スピネルとはタブラの妻で、ロゼッタの義母でエスメラルダの母に当たる人物だ。スピネルはエルフの集落の歴史の中で大賢人と呼ばれる存在だ。スピネルの主な功績はエルフ達が教育に用いていた九科という渡来した学科がこの地では有効ではないかもしれないと疑ったことにあった。スピネルのその疑惑はエルフの教育に懐疑的な視点を与えたと評価されている。それまでエルフは自分達が間違っているかもなんて夢にも思わなかったのだ。このスピネルの提唱を「九科疑義」と呼んでいる。
因みに私は老年期のスピネルを見たことがある。彼女の第一印象は世捨て人だった。髪はボサボサで何日もお風呂に入ってない様だった。目は虚ろで、エルフの中ではかなりくたびれた容姿をしていた。鼻は尖り、ほうれい線の深いシワは魔女の様な容姿だった。しかしそれ以上に彼女の特徴的だったのは殺気だった雰囲気だった。彼女からは残りの寿命を一秒も惜しんで読書するという気概が迸っていたのだ。周知の事実として、スピネルがタブラと結婚した理由はその所蔵する資料目当てだったのは両人も認めているところだ。そんなスピネルさんを私はヤバイ人だと思ってはいたが、老年期でも衰えない精力的な姿勢には脱帽していた。もし同世代ならきっと仲良くなれた違いない。…毎日水浴びをさえしてくれれば。
とにかくそんな彼女が死者蘇生に注視していたなら、何かあるのだろう。
「スピネルさんが扱うってことは聖人の奇跡は事実だったんですか? そんな力があれば王族がこぞって使いそうですが…」
「聖人の奇跡の一部はお前のやった様な医療行為だったらしい。それが奇跡と勘違いされたのだろう。だから死者蘇生に関してはツレも疑っていたようでな。実際に蘇生した人物に会ったこともあるらしいが死亡した人物と蘇生した人物が同一か証明できなかったようじゃ」
話の流れからするとスピネルさんは教会人と深いかかわりがあったように聞こえるが、その話しをほじくるとややこしなりそうなので一旦置いておくことにした。師匠は耳の穴をほじりながら言った。
「そんなことより、重要な議題がある。思ってた以上に、人間の世界は油断ならないってことだ。今後は基本的に団体行動だ。別行動する場合は護衛に俺かスカイを付けて行動しろ」
スカイは師匠の言葉に肩をすくめた。
「そうは言っても、どの商隊も兵士崩れの傭兵が徒党を組んで護衛していた。森じゃあともかく街では傭兵に囲まれたほぼ勝ち目はない」
少し逡巡してから私はため息をついて言った。
「しょうがないから人間の護衛を検討しましょう」
師匠は鼻から息巻いて言った。
「護衛なんて兵士崩れの傭兵で上出来の部類だぞ? だいたいが金なし、家無し、女なし、借金持ち、その他訳アリのブラック人材。裏切らない理由を探す方が難しい」
「じゃあ、面接しましょう…選考基準は…」
私の言葉に師匠は手を払って言った。
「信頼できる奴を二人目から選ぶとかいう方法は必要ない、どうせ信用する気はないからな。むしろ裏切られることを前提として女の護衛を雇う…女なら力で圧倒できるからな。まあ、細かいことは街で俺が伝手を当たってみる」
師匠の鶴の一声に部屋の中の皆は顔を見合わせた。エルフは人間社会の悪意には慣れていないから師匠の独壇場だ。かくいう私も前世では治安の良さで有名な日本に住んでいたのでそこら辺の事情には疎い。前世ではイジメ、痴漢や付きまといぐらいしか経験しなかった。ましてや戦争なんてどこか遠い場所の出来事でしかなかった。
話し合いの中で何回か鐘が鳴り、昼過ぎ頃。部屋に杖突の大男がやってきて城行きの船の準備が整ったことが伝えられた。私達は大男に案内されて教会の横の河の船着き場に向かった。
船着き場の舟は、荘園の舟より一回り大きかった。その大きさは前世の地球の漁船ぐらいだった。船の船体からオールが何本か伸びていて、船の船首と船尾はアラジンの靴に出てくるようにそり上がっていた。三角形の白い帆が船体から三本程突き立っていて、畳んだ帆が風になびいていた。私達は船に渡された板を伝って船へと入った。船の中には吹き抜けのタープを張ってあり、その中の敷物に私達は座った。船の前後のオールにはターバンにアラジンパンツという水夫風の男たちが配置についた。その中で私達の側のオールだけ、小さい男の子が座わった。
水夫たちが配置に着くと、船のイカリが上げられ、帆が張られるとオールを何度かのビートに合わせて漕ぎ出すと歌のリズムに合わせて「ヘイ・ホー」とオールを操作し始めた。船に帆があるのは城が標高の高い場所にあるから自走の必要があるからだろう。城は山の麓の飛び地の山の上に建設されていた。城の背後には山がそびえているから攻めるのが難しそうだ。その山の向こうには海が広がっているハズだ。思うにここは大地同士がぶつかってエベレストになった様な理由と同じ作りになっているのかもしれない。
突如、私は視線を感じたので見てみると、小さい男の子が私を振り返っていた。男の子は私と眼が合おうと前を向くが、暫くするとまた目線を感じた。私はこんな小さい子までが働いてるんだなぁ…と目線に気付かないふりをした。男の子は長い髪の毛をチョンマゲヘアーの様に後ろに束ねて、服はサウジアラビアっぽい白い服を着ていた。男の子は私達の方を何度も振り返り、船頭らしき人に怒られると前を向いて、また振り返ってを繰り返した。私は男の子のその様子を見て笑うと、彼は歯をむき出しにして笑った。それがおかしくて更に笑ってしまった。すると彼は私達に得意げにこういった。
「マスター、もうかりますか? ぼちぼちでんがな」
「マスター、ホンマ今日はいい天気ですわ。天気なんて見ればわかることを、アホちゃいますか?」
少年は私に自分が見聞きした商人の言葉を言って楽しませようとしているのだと解った。言葉の意味がわからない長老達もそのおどけた態度にとまどいながらも、ニコラスの翻訳で意味を知って苦笑いした。おどける男の子の下に船頭が来て言った。
「お前ホンマにええかげんにせえよ! 黙らんと川に叩きこむで!」
「あ、じゃあ僕、泳いで帰りますんで君このオール持っといてくれる?」
「持たせていただきます…って、なんでやねん!」
実際は関西弁などでは話していないが、言葉の訛りからそう訳せてしまうのだ。多分私達を寸劇で楽しませようとしているのだろう。それでもし寸劇が不興を買うなら船頭が少年を叱って納める、そうでなければ続けるという手はずなのだろう。船頭は杖つきの大男と違って少しやせ気味のひょろ長い男だった。あの修道院では見なかったので、船専属の従業員なのかもしれない。少年は更に調子に乗って寸劇を続けた。
「皆さま、目の前に見えますは三十三の塔で作られた城壁です。遠く聖地の都市をパクり…インスパイアしたものとなっております。あのGivitasはその中に住むgivesが由来です」
暫く私達は少年の言ってる意味が解らずポカーンとしていた。少年が題材にしたであろう城壁は遠目に見えている。だがその城は中世の映画で見る様な石造りの城でしかなく、少年の言い分とどう関わるのかさっぱりわからなかった。私が頭を捻っていると船頭が注釈してくれた。
「えーこいつはですね、都市の[civitas]を構成するのが住民の[cives]両方にgiveをかけているわけです。都市も住民も与えろ与えろ、ギブギブって言うからgivitasでgives。要はクレクレ君の街って言ってるわけですな…ってなんて不遜なこと言うんだいお前は」
少年は船頭に船頭に突っ込まれて「滑った?」みたいな顔で見上げていた。するとこの空気をどうにかしようとダメ押しの様に言った。
『ししょー、鼻毛出てますよー!』
少年の口からエルフ語が出た瞬間、皆は息を飲んだ。師匠に至っては指で鼻毛を抜きながら「こいつどうしてやろうか」という顔をしていた。その表情から察したのか船頭はひざまずいて許しを請うた。
「ご不快な気持ちにするつもりはなかったのです。ただ、私たちはこいつを皆様のしもべに加えていただければと思ってのことです。元はただの戦争から焼け出された孤児でございますのでなにとぞにご容赦を…」
寸劇が始まった時から仕込みは何となく察してたけど…。一種の売り込みだったのか…。まあ、飛び込みの面接みたいなものかな?
「勿論ただの小僧ではありません、こ奴は神から記憶や算術の才を授かっています」
私はとりあえず面接のつもりで掘り下げることにした。
「そんなに、頭がいいなら何故貴方達で育てないんですか?」
「はい…できればそうしたかったのですが…こ奴は神が何たるかを理解せず、神から恩恵を授かっていながら尊敬もしていません。その上、身分をわきまえません。教会も商人もその様な者を雇いません…」
そんな厄介な人材を紹介するのもどうなんだろう? 師匠も私の翻訳を聞いて鼻を鳴らす。でもまあ、トゲ抜きされてない新卒なんてそんなものか。私は少年を手招きすると、船頭は少年からオールを引き継ぐと私の近くに座った。こんだけ若いんだから躾さえできれば才能で補えるハズだ。私は少年の能力がどれ程のものなのかはかってみることにした。
「少年、私は君に試験をしてもらって記憶と算術がどれ程か確かめさせてもらう。まず、こちらに銅貨があるね? 私が表、君が裏とで出た方が一銅貨ずつ奪い合う賭け事をした場合、表と裏の確率はどちらが高いですか?」
「確率はどちらも同じです」
「そうだね、じゃあ君がイカサマのコインを使って私と君とで勝負したらどうなるかな?」
少年は少し考えてから言った。
「はい、マスター。それなら裏が沢山出せる僕が有利です。でも、私は負けます。何故ならこのギャンブルを全てを勝つとイカサマがバレます。だから全て勝つ訳にはいかず負ける演出を何回かしなければなりません。今、私の持ち金の十銅貨を投入したら場合、負けの演出を入れたら無一文どころか借金になります。それを数字で表すなら私は77%の確率で破産して負けると表せます。これ以上の確率で勝つとインチキを疑われるだろうという数字です。ですがそれ以前の前提としてギャンブルはお金と権利を持っている人が有利という罠があるので賭けにのるべきではありません」
「わかってるんだ。じゃあどうする?」
今、私の言いたいことを彼が説明した。神と貴族、前提条件の不利なものに挑むのは得策ではない、ということだ。それはそのまま身分制度に抗うことの難しさも表している…と思う。少年は俯いて言った。
「…修道院の皆は貴方のことを奇跡を成し遂げたと言いました。しかし修道長はそうではなく、貴方の医術によるものだとおっしゃいました。奇跡とはコインの表をイカサマなしで連続で出し続けて勝つようなものです。しかし医術は算術の様な技術でしょう? 僕はそれを予測できる頭があります。それを使ってお役に立ちたいと思います。どうか私を貴方のしもべにしてください」
少年は私に平伏すると、私達の間にニコラスが座って言った。
「貴方が私達に忠を尽くすならしもべに加えましょう。しかし私達は貴方が望むものを与えません。その代わり私達が貴方に必要なものを与えます。だから貴方は私達が望むもの、必要なもの、全てを与えなさい。それが条件です。これでどうでしょう?」
ニコラスは少年に「ルリコではなく、エルフにしもべとして仕えなさい。そうでなければ連れていけない」と至極真っ当なことを言っているのだ。それをあえて強調したのは少年が私の奇跡を聞いて来た、と思ったからだろう。だからしもべは望むものは与えないと言ったのだ。少年からすればカリスマ美容師を目当てに店に直にきたら予約が一杯で弟子が理髪するけどいいですか? 案件というわけだ。暫く少年はニコラスを見て居たが、頭を下げて言った。
「承知致しました」
少年が頭を下げると、船頭は「良かったなぁ」と頭を撫でた。私達が船頭の可愛がりを見ていると、テントの陰に更に大きな日の影がおおった。外の景色を見ると、船は既に要塞の膝元の堀へと侵入していた。船の帆はいつの間にか畳まれ高い壁の堀の水路を滑る様に進んだ。
堀の壁を間近で見るとレンガで組まれたものに漆喰が上塗りされていた。船はオールを収納して水流に乗って行った。砦側の壁にトンネルがあって水流と共に内部へと滑り込んで行った。私は船の帆が橋に当たるのではと思っていたが、全然余裕があった。トンネルの天井はアーチ型になっていて、そこには敵の侵入を防ぐためであろう鉄の柵が引き上げてあった。トンネルの中は広い空間があってレンガ造りの船着き場が両端にあった。接岸部には背の高いものと低いものがあって、そこから荷下ろしに不便がないように階段で繋がっていた。通路の向こうには上る階段があり、階段の上には荷を昇降させる木のクレーンの様な物が設置してあった。
なんかこういう場所は秘密基地みたいでテンション上がるなぁ。
船が船着き場に着くと、昇降用の橋が渡され私達はそこに一列に並んだ。私とニコラスの背後にスカイと爺が来て言った。
「お主達、あの小僧を本当に連れて行くつもりか?」
「ニコラス、あの子供は不安要素がある。あの子はルリコに忠があって、エルフにある訳ではない」
爺とスカイはあの子供があまり気に入らないようだった。
「そうですね…だから彼のその欲望を満たさないことを条件としました…。彼は能力もそうですが、しもべに頭脳労働は期待してません。むしろ宗教に染まってないことの方が評価点かと…」
長老達はニコラスの意見に渋る様な表情を見せた。
「ワシは忠告したからな」
そう言うと爺は先に階段を登って行ってしまった。船は既に荷下ろしを終えているようで、船員と少年は私達の話合いがどうなったか固唾をのんで見守っていたようで、私が少年に手招きをすると船員たちは安堵の表情を浮かべた。船員たちは少年に別れの挨拶をしている様で頭をなでたり、激励するかのように肩を叩いたり、せんべつを渡したりしていた。
ああいう不器用な子の方が案外可愛がられたりするものだ。少年は船の人たちと別れを済ませると私達のところへと走って来た。私の隣にいたニコラスが一歩前へ出ると少年はニコラスの下で止まった。
「これからよろしくおねがいします。マスター」
「よろしく…私の名前はニコラス、貴方の名前はなんですか?」
「…もしよろしければ、貴方に名前をつけていただきたいです」
「それは構いませんが…どうしてですか?」
「生まれ変わりたいからです。僕は修道院の小僧より、吟遊詩人が歌った英雄の一団に仕えた従者のような数奇な人生を願います。私に仕える者としての自覚を与える為に今ここで名前をお与えください」
「…わかりました、では貴方の名前はサムで。エルフの伝説に伝わる名従者の名前です」
「承知しました、マスターニコラス」
ニコラスとサムが階段を登っていくのを見ながら私は後に続いた。駆け上がる少年を見ていると、前世であの年齢なら家で家族と平和に暮らしていたハズなのにと思うと胸が切なくなる。いくら異世界とはいえ、児童労働は心が辛いからなんとかやり方を考えよう。それにしても、二コラスはサムに関しては随分積極的だったが、やはり新天地とあってニコラスにも思うところがあるのかもしれない。私もニコラスを見習ってフランの赤ちゃんの名前をそろそろ決めなくちゃいけないな…。
私が階段を登り切ると踊り場で少年が振り返った。その目線の先を追うと、私達を運んだ船があった。私が少年を見ると、船を潤んだ眼に焼きつけるかのようにずっと見続けていた。
私は男の子の泣き顔を見るのを忍びなく思い、踊り場に向かった。踊り場は船から降ろした荷物の置き場になっていた。その荷を担いで男たちは階段を上り扉の向こうへと運び出していた。扉は人より一回り大きい重厚な鉄の引き戸で、その脇には鉄の防具と槍で武装した兵士たちが立っていた。その扉の側に人間の男が立っていた。男はやせ型で頭でっかちな小顔でナナフシの様な印象だったが、自信に満ちた態度が逆にやり手っぽく感じた。格好は亜麻色のシャツにズボンと外套とここいらでは良く見る普通の格好をしていたが、体からは香草の臭いがたっていて、高貴な身分に思えた。彼はうやうやしく頭を下げると言った。
「エルフの方々、城塞ゲルゲルへようこそいらっしゃいました。私は商会ギルドの長達の一人、ロード・ピムのチーズマンと言います。今回は私がケペンに変わって皆様をご案内したいと思います。こちらの階段を登りますと商業区が管理する工房のエリアとなっています。どうぞ付いてきてください」
名前の癖が凄い!
そんなことを内心思いながらも彼の案内について行った。階段を登ると周囲は静まり返った石造りの通路と家の壁に囲まれた場所に出た。私達の頭上には鉄格子が跳ね上げられていた。階段を登った先のまっすぐの通路の光景に違和感を感じる。通路の壁には扉が一枚もないのは、侵入を想定しての建築なのだろうか。私が頭上を見ると二階部分は窓を鉄格子の板が張り渡され、空中回廊の様になっていた。その鉄格子ごしに見張っている屈強そうな男の影が見えた。一階の家同士の隙間は頭一つ分もないのに対して二階部分は家同士の隙間が広く作られていて、その間を作業をしている人々が行き交っていた。空中回廊同士は柵はなく、空の男たちはその回廊を飛び回って縦横無尽に各建築物に出入りしていた。
チーズマンは私が空中回廊を見上げているのを見て、言った。
「頭上が騒がしくて申し訳ありません。上の者たちは決して皆様の服にホコリを落としたりしないよう躾けてあるのでご安心を! たった今、お客様の到着を各工房に伝達しているのです。ここらの区画ではスパイを警戒してあのような護衛を雇っているのです。ですのでどうかご容赦を」
男は何が楽しいのかかん高い声で笑いながら私達にそう言った。いわゆるハイテンション系の営業ってやつなのだろうか…。
「ところでケペンの手紙には皆様を工房にご案内するようにと書かれていました。これは間違いないでしょうか? いえ、工房と言いましても下賤なしもべ達の住まう場所、あまり見ても良い気分にはならないでしょうが…お連れしてもよろしいでしょうか?」
「よろしいっす」
「よろよろ~」
暫くは見に徹していた大将のキールが頷き、先生のロゼッタがそれに続いた。どうやら二人は挨拶程度の人間の言葉は覚えてしまったらしい。
「ではお連れしますので、付いてきてください」
私達がチーズマンに付いて行くと、進むにつれて木を打ち付ける様な規則的な作業音が響いて来た。音の方を見ると、織物工場の様な建物があった。工場はレンガ造りだが正面の壁は一面ぶち抜かれていた。建物の地面には敷物が広げられていて、二階部分から色とりどりの布が洗濯ロープにかけられていた。干された布がのれんの様になっている建物の手前は左部に染料の入ったたらいや煮立たせているカマドの番をしている人達が集まり、右部の方は折り畳んだ織物を詰めたカゴがうずたかく積みあがっていた。建物の内部は洗濯紐が部屋を仕切る様に干されていて、布の向こうには簡素な梯子が二階に繋がっていて、その梯子の上を干した後の取り込んだ敷物をうずたかく摘んだカゴを頭乗せ、もう二つを両手に持った女性が足だけで梯子を降りてきた。
建物は人が絶えず出入りして、壁の排気口からはカマドの毒々しい色の蒸気が立ち上ぼり周囲は染料の臭いでむせ返していた。よく見ると染物を棒で叩いてる人の手や腕は染料の色に変色していた。チーズマンは鼻を曲げるかのように逸らして言った。
「中もご覧になりますか~?」
『ご覧になるよ、音立ててる仕掛け見に来てんだから』
そう答えたキースと共に私とチーズマンは、奥にある機織機らしきものを一目見ようと建物の奥に入った。しもべ達は私達を物珍しそうに見ているが人によって好奇、いぶかしんだ目つきを向けてきた。先行していたキースの背中から顔を覗かせると部屋の奥の壁際に博物館で見た様な機織り機が規則正しいリズムを立てながら布を織っていた。機織機の女性は音が鳴るたびに手元の作業台の上で糸付きの舟の様な物を左右交互に滑らせて布に織り込ませた。
『何がどうなってるのかさっぱりわからんが、師匠でも無理だろこれ。俺が作るより、中古で買った方が早いってこれ』
キースは誰ともなく機織機に付いての感想を愚痴っていたので、聞いてみる。
「買ったとして使い方とか修理はわかりそう?」
『いや、これ簡単に見えて結構な職人技なんじゃねーか? 機械もそうだが織主も必要なんじゃないか?』
織主を背後から見てみると確かに他の人とは一線を画した品のような感じがしなくもなかった。でも立場のある人がこんなすし詰め状態で働くとは思えない。ずっと見ていると機械の下でうごめく姿が私の目に留まった。機械の下には座って布を織る二人の老女が居た。老女たちは機械の音を意に介さず手で織っていた。二人の老婆はボソボソとおしゃべりをしながら布を織っていた。良く見ると職場の中はまったりとした雰囲気が漂っていて、手を止めてお互いに声をかけて笑いあったりしていた。前世の日本の殺伐としたライン工よりよっぽどのどかな雰囲気だった。
私はチーズマンに彼女のような職人を仲間にできないか聞いた。
「彼女らは織物の職人集団ですから簡単には手に入りませんよ。育てさえすれば人件費はかかりませんが、教えられたことしかできません。ギルドの規則で同じ商品を売ることは禁じられているので結局は商品別の教育の手間がかかります」
そういえばしもべは衣食住さえ褒賞すれば賃金はいらないんだっけ…。人件費かからない方がよっぽどチートだよ…。
「彼女らは一日に何時間働いているんですか?」
「ご飯を食べて寝る時とトイレ以外はずっと働いています。哀れに思うかもしれませんが仕方ありません。下賤は暇を与えると怠けたり、ギャンブルや犯罪などの良からぬことに手を染めるので忙しくさせておくのが良いのです」
随分偏った考え方だけど、この世界の貴族にとっては一般的なのかもしれないなぁ。私の翻訳を聞いて大将はため息をつく。
『でもそのせいで集中が途切れて、浮ついた仕事になってる様に見えるけど? 休ませたほうが良いんじゃない?』
キールはおしゃべりしてるばあちゃん達を見て言った。私はチーズマンさんに「休ませた方が効率的じゃないのか? 疲れていないのか?」と聞いた。するとそれを聞きつけた梯子の女性が振り返って言った。
「お姉さん、その御方にそんな口を利いてはいけないよ!? ギルドの長達は私達に色んな物を授けてくれるんだ。それはとっても幸運なことなんだよ?」
天上から声がして私達が振り返るとさっきのやじろべえみたいになってる女性がはしごに足をかけながら言った。
「自由に外に出たって私達のワザを盗もうとする奴らに痛めつけられるだけさね。仕事を与えてもらえることに感謝して勤勉に生きれば天国で楽な暮らしできるってもんさ」
愛想よく話してくれる梯子のお姉さんは肌が浅黒く織物の籠を頭と脇に抱えたまま、良く見ると背中に子供まで背負っていた。チーズマンは梯子の女性を腕を組んで半眼になって言った。
「梯子の上の君。この御方達は君たちを心配してくれたんだよ。この御方達は道中哀れな孤児を引き取って下さった慈悲深い方なんだ。そう神がお造りになられたんだ」
「あら、それは失礼しました。だったら心配しないでくださいな。毎日食事をいただいて、雨風しのげて、尽きない仕事に仲間も居る。私達は本当に幸せなんです」
そう言って女性はウィンクをして軽やかに梯子を上って行った。私は大将にそう翻訳すると小声で呟いた。
『此処で生まれてここで死ぬ人生が?』
異世界の人間の幸せを決める権利は私にはないかもしれないけど、こんな小屋の中で一生を終えることが本当に正しいのだろうか? …でもそれは森の中で一生を終えること、日本の中で一生を終えるのとどう違うのだろう。たとえこの建物が世界のすべてでも幸せであると自覚できるなら、そっちの方が良いんじゃないだろうか?
「それで、あの機械だけどフレームはともかく細部壊れたら全バラしで組み立てだからさ。部品を削り出しするならもう一からつくるようなもんなんだけど…聞いてる?」
「…えーと、じゃあどうすればいいんですか?」
「はいー? どうすればいいのかこっちが聞いてるんですけど? あるかもわからない図面を頭に叩き込むにしてもお前が何をするか次第なんだよ?」
「そうですね、一旦外出て考えましょうか」
チーズマンの言葉から察するに同じ商品が出せないというのは、自分たちの利益や仕事を守る為なのだろう。仮に勝負するにしても人件費ほぼゼロの工場じゃ勝ち目がない。新規の商品を考案するにも市場調査が必要か。
「どうですか? ご満足いただけました?」
チーズマンは大きく息を吸うと笑みを浮かべて私達を振り返った。外に出ると爺とシーブとロゼッタは煮立つカマドをボンヤリと見て、スカイとニコラスと師匠は天空回廊の男たちを見て相談をしていた。サムはニコラスの側でぽつねんと立っていた。
「そうですね、次は市場とかあれば見てみたいんですが…」
「わかりました、先ほどの通りに戻っていただいてまっすぐ行って右手が広場で、その裏が市場となってます」
「皆行くよー!」
私達は観光ツアーさながらにチーズマンの後をぞろぞろとついて行った。道を進んで行くと徐々に道が開けていき、右手から巨大な建築物が姿を見せた。建築物は赤と白のレンガで作られた横長のゴシック調の建物でその建物同士を繋ぐ高い塔には鐘があった。
前世の横浜の赤レンガ倉庫を思い出すが、それよりでかい。周りの皆を見ると、口をあんぐりと開けて建物を見上げていた。私が作ったものではないけど、文明人として得意な気分になってしまう。
「あの建物は教会のもので主に役人達が努めています。あの施設ではあらゆる文書が作成され保管されているのです。そのお膝元が広場となっていて、そこで市場が開かれています」
言われて見ると建物の側の広場には屋台がズラリと並んで目を引いた。皆は市場の盛況さに引き付けられるようにフラフラと進んだ。その後ろから師匠に声をかけられる。
「おい! 各自一人でウロウロするなよ!? スカイ、お前は長老達見ておけ!」
「どうぞお買い物をお楽しみください。私は上の城から鳥車を呼んでまいりますので、三の鐘になりましたら反対側の広場の噴水までお集まりください」
私たちは三つの鐘がなんなのかわからなかったが返事もなあなあに目の前の市場にふらふらと引き寄せられた。
私達若いエルフは長老達と別れて屋台巡りをすることになった。私は屋台を見回すときらびやかな光物の並んだ屋台に目が眩んで近づいた。やっぱり光物に引き付けられるのは女の性なのだろうか。そして男性陣が女の買い物に興味がないまま付き合わされるのも共通のお約束のようだ。大将と先生、師匠は私たちの背後でひっそりとついてきていた。
最初に目についた屋台はきらびやかな金銀の装飾品が並んでいた。屋台の両脇には屈強な男たちが見張っていて商品には盗難防止と思われる縄がつけられていた。最初に目についたのは銀の食器やポット、皿、コップだ。その銀は磨き上げられ、太陽光を蠱惑的に反射していた。その次が装飾品。金の髪飾り、トルコ石のついたブローチ、ブレスレット!
物にあふれた現代なら金銀きらびやかなのは下品って感じだけど、どこを見ても草、木、虫、獣の森の生活の後だと心が躍る! あー…でもここであからさまに欲しそうにしたら催促してるみたいになるか…。
私は欲しい気持ちを殺して屋台を見回すと、一番高い場所に珍重そうに飾られている物があった。それは何かの楽器の様にも見える動物の牙の杯で飲み口には黄金の装飾が被せてあり、持ち手にはひとりでに立てられる様に犬の装飾のスタンドが付属していて、牙の先は装飾がつけられていた。私がずっと見ていても商人は文なしとみたのか一切営業をかけてこなかった。
押し売りされないのは助かるがなんか腹立つな…。
私は屋台から興味なさげに目線を外して、後ろ髪引かれる思いで隣の屋台に行った。隣の屋台は服の店で毛皮のマントやベスト、金糸の刺繍の入った豪華な外套、重厚なブーツ、革靴が置いてあった。流石にここら辺のファッションは自分にとって派手なのでスルーだが、社交界とかではここら辺の服がトレンドなんだろうな…。私は服は趣味に合わなかったので早々にスルーして次へ行った。
大きく通路を隔てた隣の屋台は薬屋のようだった。薬の名前は特有の名詞で判別できなかったが、かろうじて読めた毒下しだけは下剤と察せられた。他にも断片的に興奮、発毛、若返り等あった。どうやら人類の悩みは世界が違っても変わりがないようだ。美容、香りという言葉のあるエリアでは臭い立つ香草の箱が置いてあり、洗髪剤が入った陶器の壺らしきものもあった。美容品もそこそこあるなら美容品で稼ぐのも難しいか? そんなことを考えていると横でぼそぼそと喋り声がするので目を向けると、長老達が隣の屋台を見ていた。
隣の屋台は木の檻に入れられた動物の見本市みたいになっており、鳥かごに入った鮮やかな鳥が絶えず泣き声をあげ、止まり木に足枷をつけて鎮座した大きなワシみたいな鳥が私をにらみつけていた。店の中の台と地べたにはカゴが置かれており、中段の棚の檻にはイグアナや蛇といった中くらいの大きさの動物が入っていた。下段の檻には大きな動物が居て、猿や犬、ヤマネコが入れられていた。長老達は屋台の奥の中段のカゴに集まっていた。見ると長老のシーブは屈み混んで檻の中のシャム風の猫を覗き込んでいた。猫はシーブを見つめながら大口を開けて鳴いた。
「にゃー、まーお…にゃー」
他愛もなく鳴いてるだけの猫をシーブは深刻そうな雰囲気で鳴き声に相槌を打っていた。そしてシーブは口を開けると猫の鳴き声に呼応するように猫の鳴き声を上げた。
「にゃーん、にゃー」
スカイと爺はそのシーブの様子に呆然としていた。私もペット界隈でもペットに話しかける系の人が居るのは聞いたことがあるが、あまりにも真に迫った猫の鳴きまねに背中の冷や汗を禁じ得なかった。
ふと視線を感じて見ると、その様子を店の奥の店主らしき髭のおじさんが変な人を見るような眼で見ていた。どうやらこの一幕は私が来る前から行われていたようで、店主はシーブが猫との対話を試みているという確信を得ていたようだ。
「ちょっと何やってるんですか! お店の迷惑になるでしょう!?」
私は声を潜めながらも、三人に呼びかけた。
するとシーブが私にうろんな表情を向けて言った。
「丁度良かった、ルリコ、この子を身請けする資金を用立ててください」
そう言われて私は猫の六百マナの値札を見て血の気が引いた。
「銀貨六枚とか無理です」
「なんとかしてください。この子には助けが必要なんです」
長老は疲れているのか虚脱したような口調でお願いをしてきた。しかし私達の資金は石鹸をお土産に残したので金貨一枚にも満たない。これから不意の出費を考えれば買うわけにはいかなかった。
「い、良いですか? 私達が履いてる靴と長老達のお高い毛皮の靴合わせて値引きしてもらって二百マナなんですよ? さっきの宝石店の銀の髪飾りすら三百マナなんですよ!? この子は宝石より高い!」
するとニコラスと共に付いてきていたサムが背中越しに言った。
「マスター、希少な動物は贅沢品より高いです。その毛並みの猫ならそれぐらいしてもおかしくないです」
「そ、そうなんだ」
長老はエルフ語だが、私が呟いたこの世界の言語と状況から長老が猫を欲しがっているのを察したサムが声をかけてくる。集落から石鹸を十個持ってきていたが靴の交換に二つ使って、現金化したのは五百マナだった。残り三つの石鹸は領主に献上しようと思っていたのだ。しかしこれは逆に言えば幸運だったかもしれない。現金が足りていたら買う羽目になっていたかもしれない。
長老は私に言い付ける様な口調で言った。
「値段は関係ありません、いいですか? この子ははるか遠い砂漠の地に生まれた由緒正しき猫の生まれですが、売られるために親元から離され、私と出会った。これは運命なのです」
ヒートアップしそうな長老の側に店主のオジサンが近づいて来て言った。
「お客様、どうかいたしましたか?」
見ると店主は長老の様子に興奮した動物たちを落ち着かせるために重い腰を上げたらしい。私は店主に頭を下げて言った。
「すみません、ウチの長老がこの猫を大層気に入ってしまって…。…もしかしなくても回数払いとかできませんか…?」
「申し訳ありません、そういった販売はしておりません。物々交換か、借金ならできなくもないですが…この子と同等の値段を持つ物品を貴方達はお持ちではなさそうです」
直ぐに店主は断りの文言を告げると頭を下げて固辞の意を示した。
「失礼ですが借金の場合は利子はどの程度…」
「十日で一割です」
「取り置きお願いします」
「承知しました、と言いましても動物を移動させる予定はありません。いつでもお待ちしていますよ」
長老は猫を買えない失意のせいか、呆然としていた。いつもより多いそのほつれ髪と呆然とした目が正気を失っているようにも見える。そんな考えを私は振り払うように言った。
「長老、街で稼ぎましょう? ね? そうすればあのネコちゃんは手に入りますから」
長老は私の言葉に虚脱したように俯くと言った。
「そうですね…。あの子を手に入れる為にお金を稼ぎます! どうすればいいですか?」
「あ、後でチーズマンさんに聞きましょう、さ、行きましょう。商売の邪魔をしちゃいけない…」
私達が店を後にした。
「マスターお待ちください」
サムの声に振り返ると、その手には長老の杖が握られていた。
「杖をお忘れですよ」
「ああ、いけない…。きっと猫に夢中だったから…」
私は長老が本当に大丈夫なのか観察していた。その途中私の鼻腔を美味しそうな料理の臭いが刺激した。臭いのもとを見ると、豚や羊っぽい肉が裸のままぶら下がった屋台が見えた。屋台の台所では店主が肉切り包丁で何かをさばいて、その隣では若い男が肉を調理していた。その料理は肉を魚醤とニラと卵で軽く炒めたモノだった。森の中で野菜か肉の塩料理ばかりだった私はその臭いについ「食べたい…」と立ち止まってしまった。突然私の手が誰かに手をひかれ、変な人に手でも掴まれたかと思って見るとニコラスだった。
「母さん、私とルリコは残りの市場を視察したら追いかけますので先に行ってください」
スカイはニコラスの意外な行動に面食らったようだが、ニヤリと笑って言った。
「そうだな、行ってこい」
「いや、別に後でも…」
言葉を口にしようとすると、スカイが師匠の胸を叩いて横目で睨んで言った。
「年寄りにはこの人ごみはいささか答える、後は若いものに任せよう」
しかし師匠はスカイの主張に難色を示した。
「お前達じゃ防衛力が大分不安なんだがな…」
ロゼッタとキールは師匠に言った。
「だったらルリコに武器でも与えて攻撃力で補えばいいじゃない」
「そうです、彼女の修行の日々に免じて行かせてあげましょう」
師匠はロゼッタとキールの目を見ながら、腰帯の剣に手をかけ鞘ごと抜き去ると私に放って言った。
「もしもの時は迷わず、ヤレ」
こんな街中でヤルわけないと思いつつも頷いた。自分はショートソードの方がやりやすいと解ってて、長剣を預けるのは悪意しかない。私は剣帯の長さを調整しつつ、少し考えてから髪の毛を長剣の刃で斬って鞘と剣のツバを戒めるように結んで帯を肩にかけた。
屋台に近づくと大きな鉄板の上にタレや香辛料が塗された肉が香ばしい臭いを上げて焼かれていた。焼きあがった肉は男によって木の串に通されて鉄板の端に置かれていた。鉄板の下には値段が描かれた木の板が置かれていた。オーロ、シュラ、ピグ、と書かれていた。
「あのトカゲ恐竜は食べれるのか…」
使われている香辛料は臭いから恐らく塩やギョショウなのだろう。地球で言うと鳥に対応しているのがシュラっぽいけど…。
メニューにはヘビ、カエル、コウモリ等の表記もあってどの肉も一緒くたに軽く積み上げられているので各動物の油が混じった混沌とした物になっていた。
「すみません」
ニコラスが私が逡巡としていると呟くように謝って来た。
「本当だったら、ここで奢るのが男の甲斐性というものでしょうが、あいにく持ち合わせがなくて…お金がないと人の世界では何もできないんですね…」
どうやら私が肉をめっちゃ食べたいと思われたようで謝られてしまった。
「まあ、それは私も見通しが甘かったし、それに今が楽しければいいんじゃないかな?」
そう言って、私はニコラスの腕をひいて次の屋台に行こうとすると、三人の黄色い襟のようなスカーフを垂らした女性達が目についた。その女性の中で色気が溢れる年長者っぽい女性は赤いスカーフをつけていた。その後に黄色いスカーフを付けた金髪の少女とまた子供っぽい背の低い少女達はがついて行っていた。その女の子達は肩と胸が溢れそうな程に胸元が大きく開いたワンピースを着て、小脇に花の入ったカゴを抱え歩いていた。
ニコラスも女性達に気付いたのかそれを目に追っていた。エルフの集落では見ない煽情的な装いは彼の眼には毒かもしれなかった。
「何ですかあれは…はしたない…」
見るとニコラスは頬を染めながらも、眉をひそめて女性たちを見ていた。何なのかと聞かれて私は昔プレイしたゲームの設定を思い出した。
「そう言えば聞いたことがある、花を売るっていうのは女の春を売るみたいな感じで売春の隠語みたいなものだって…もしかしたら彼女達もそうなのかもしれないね…」
「貴方の言っていたお金で自分を売るという行為は本当にあるんですか…? しかし何故?」
「それは…お金が欲しいからじゃない?」
「でも…お金じゃ自分は買えないですよね? 例えば時間とか、魂は…お金と交換できません。彼女らは騙されているんじゃないですか?」
「いや、さっき自分でお金がないと何もできないって言ってたでしょ…」
「そうですけど…」
「お金で何を取引するのは他人の自由だと思うけど、割り切れない気持ちがあるのも事実だと思う。でもそれは彼女たちの気持ちなんだからとやかく言えないと思うよ。さあ、行こう」
私はニコラスの腕を組んで次の屋台へと誘った。
隣の屋台は飯店らしく、カマドに添えつけられた鉄板に米と細切れ肉を入れてギョショウで炒めたものをチャッチャと作っていた。その炒めた飯は葉っぱに乗せるとツル紐で包んで脇に置かれる。鍋の横の大量の作り置きからはアツアツの湯気が立ち上って美味しそうだった。その隣のカマドの鉄鍋では温めた油の中に小麦粉をこねた様な物を入れてキツネ色に揚げたパンを作っていた。
その隣の屋台は魚料理らしい。まな板の上で魚をさばいてから焼いたり、素揚げにしたり、屋台の天井に吊るしたり、地面のゴザで干したりしていた。抜かれた魚の肝は壺に一緒くたにされており、ハエの様な虫がひっきりなしに魚の回りを飛び回っていた。扱われている魚はブリっぽいものや、アジっぽい魚やらそのまま素揚げにするしかないような小魚だった。特筆するべき点は屋台の店員たちが色黒の人種で恐らくシハナカなことだ。
飲食系の屋台は高級品より多いみたいだが、大体はこの三種が基調になって焼くか痛めるか揚げる調理法が中心の様だった。パン屋はないみたいだが、やはりカマドが必要だから屋台では売られてないのかもしれない。私はここから商売のヒントでもないかと頭を捻った。
転生系のセオリーだとマヨネーズとかカレーとかだけど…。カレーのレシピなんてわからないし、突き止めてもカレーの香草を集められる気がしない…。マヨネーズはできるかもだけどこの衛生状況だと怖い…。他にはパンを膨らませる酵母とかドリンクとか…色々できそうなことがある。でも権利とか売り方とかが不安だな。残るこの世界に無い物をつくるとか…電気? 紙?
ふと私は紙作りならいけるのでは? と思った。
小学校の頃見学した紙作りの工房は知っているし、開発して販売さえしてしまえば法的にライバル企業がない独占状態に持ち込める。その上で役所の書類で使われるようになったら勝ち確である。原料の木も森に沢山あるし…。機織りの機械程難しい仕掛けでもなかったハズ。なんだかいけそうな気がしてきた。
先日の荘園の印刷の提案といい、商売の種がどんどん形になってきている予感がした。
「ニコラス、私達が絶対に儲かる仕事思いついたよ…」
そう言って私が振り向くとニコラスの姿はそこにはなかった。一瞬不安になって私は肩の武器を小脇に抱えて構えた。構えてから暫く考えてニコラスは先ほどの花売りの女性たちを追って行ったのだろうと思い直した。私は肩に武器を背負い直すと、少女達が去った方向へと歩いて行った。暫く進むと広場の端の手すりにたどり着いた。手すりの下には水路に沿った住宅地のようなエリアがあった。その水路は階段で降りていくようだ。水路は住宅地を穿つ様になっていて、凹の様な形の間を橋が繋いでいた。橋の下には堤防の様になっていて、そこに女性二人が立っていた。女性の一人は先ほどの赤いスカーフを巻いた色気たっぷりの黒髪の幸薄そうな女性でもう一人は黄色いスカーフを巻いたでもう一人はサイドの髪型はあげられ、片方に垂れ下がらせたキツそうな女性が腕を組んで立っていた。黄色いスカーフの女性は前世の日本の暴走族のレディースをほうふつとさせる髪型だった。その女性二人を橋から見下ろすように少女とニコラスが見つめあって立っていた。少女は黄色いスカーフを解いて手に持っていた。そのスカーフは風邪でなびいていた。
「ーーー」
咄嗟に私はニコラスに声をかけようと思ってやめた。ニコラスは少女にどうして売春するのか聞くために追いかけたのだろうと思ったからだ。
ニコラスの納得のいくようにさせてみよう。
少女はニコラスの顔を食い入る様に見ながら言った。
「あーやっぱり貴方超イケメン。ねえ、お兄さん。私と遊びたいの?」
少女はニコラスをからかう様な声でそういった。
「遊ぶというのは、貴方と行為をする、ということですか?」
少女はニコラスの答えにイジるかのような嗜虐心を隠さない表情で言った。
「何その言い方。君ムッツリでしょう? 昼はデートでそういうのは夜。君が夜一人で眠れない子なら私が添い寝してあげようか?」
ニコラスは少女の悪意に気付かないのか淡々と答える。
「私は貴方に人間的魅力を感じることを否定しません、目がキレイだから」
少女はニコラスが煽りを全く意に介さず、むしろまっすぐに見てくるのに困惑したらしい。顔が好みというのは本音なのか、視線を迷わせる。
「めっちゃ口説くじゃん。じゃあ私達って両想いなの?」
少女は気恥ずかしさを隠すように「フフッ」と喉の中で笑い声をあげた。
「でも私は貴方と釣り合わないと思います。私はお金を持っていないので」
それを聞いて少女はくすぐられてもだえるように笑った。
「何かそれ逆にクルものがある。お金がなくてもアタシが欲しいのかなって考えちゃうよ。本当ならお金ない奴なんか一秒も相手にしちゃダメなのに。アンタとはずっと話していたい。これがホレた弱みってやつなのかな? むしろお金払わせてくださいってカンジ。…愛ってお金じゃないじゃん? むしろ今は金出される方が萎えるわ~ってカンジ」
そう言うと少女はニコラスの耳元に口を寄せて言った。
「アタシ、……。まだウリはしてないんだけど…、だから最初の練習はお兄さんだったらいいかなって。イケメンだし、優しそうだし」
「貴方は私と婚姻を望むんですか?」
すると少女は橋の柵の上で組んだ腕に顔を埋めてイヤイヤをするようにこすり付けた。
「勘弁してよー! 君って修道士? 仲間で私をオトせるか賭けてないよね? それだったらマジで泣くよ?」
「聖職者はそんな人を貶める様な行為をするんですか?」
少女はニコラスのつれない態度にムッとしたのか、眉を吊り上げる。
「…君さ。アタシ達をウサギだと思ってる? アタシ達はね、タカなの。アタシは女優の母に似て姉妹一の美人だから女衒に一番高く買われたの。アタシと話すのはタダじゃないんだよ? だから抱くのか抱かないのかさっさと答えなよ。こちとらイケメンのアンタに抱かれたことでハクを付けるつもりなんだ。でもあんたがアタシを賭けのダシにしよってんなら乱暴されたって言って女将さんに証文書いてもらって借金付けにしてあげようか? それでアンタは顔だけのヘタクソって言って女を寄り付かなくしてやれるんだから」
「その理屈だと私に悪意がなければ貴方は私を肯定的にとらえるということですか? 私は貴方と良好な関係を築きたいと思って誠実に対応したいです」
「…アンタ何言ってるの? 文なしの癖にさ…。もしかして私に堅気になって嫁になれってこと? 冗談じゃないよ。アンタはいい人ごっこできて満足だろうけど、アタシはお金持ちになりたんだ! アタシと結婚したかったら金持ちになりな!」
「わかりました、ではお金を払えばウリはやめてくれますか?」
「それって君がアタシを囲うってこと…?」
「囲うってなんですか…?」
「君と私が関係を契約するってこと…アンタ専属の女になるってこと」
彼女は後ろ手にもじもじしながら言った。
「それがその関係が友人とか味方という意味合いならそうですね…」
「アリガトー! キミッテヤサシイネー!」
彼女はニコラスに抱きつくと顔をうずめて首筋に口付けして吸った。それを見ていた私の心に殺意が囁いた。
おい、小娘。この鉄剣で頭をカチ割ったろか?
しかしその少女を慈しむような眼で見ているニコラスを見たら殺意は萎えて湿った様な気持ちになった。
私の魂はおばさんなのに…肉体が若いせいかすっごい切ない…。落ち着け私…パワハラ叱責をされた時の様に心を殺すんだ…。
そんなことを考えながら、私は階段をゆっくりと降りて階段の影に剣を隠した。このまま見ていようかと思ったがこれ以上は頭がおかしくなりそうなので収拾を付けようと思ったのだ。私はニコラスに話しかける前に営業スマイルを自分の顔に貼り付けた。
階段から少女とニコラスの様子を見るとと少女は橋の下の年配の女性とハンドサインで対話している様だった。浮かれている少女にニコラスがいさめようとする。
「待ってください…友人の定義についてお互い確認しましょう…。異性の友人は口付けなんてしないんですよ…」
「んーわかってる。でも最初に私のこと褒めてくれたからそのお返し。そして貴方が知らんぷりできないようにキスマーク付けた。契約の徴みたいなものだよ」
そう言うと少女は自分の首筋を突き出すと指さした。さっきから私の心はチクチクと痛むが心を殺しながら笑顔に努めながら私はニコラスに声をかけた。
「ニコラス」
声に振り返ったニコラスは困った様な顔をして首に手を当てていたが、私に近づくとこう言った。
「ルリコ、この子をカコウ為のお金を貸してください」
その瞬間私は鉄剣を叩きこむべきなのはコイツなのでは? という考えが一瞬よぎった。そのニコラスの発言を聞いた少女は呆れた様な声で言った。
「君、ヒモなの!?」
ニコラスは少女の言葉を聞いて不思議そうに聞いた。
「ヒモ…って何ですか?」
イラっとしながら私は営業スマイルで言った。
「女の稼ぎをアテにして労働しない人のことだよぉ…」
「…お金をねだることは確かに問題かもしれませんが、何故女性限定なのでしょう? 男性に対してもお金を無心するのは倫理に反するのでは? それに私は労働してますよ」
「それは…!」
それは恐らく男女の恋愛感情を背景にした無心だからなのだろう。それはつまり私にニコラスへの気があることへの思わせに繋がる。それはなんかハメられたみたいで嫌だ。私は誰かを好きになる時は、感情ではなく理性で好きになりたい。
そもそもニコラスは顔が良いと近づく女性を評価してない節がある。それは例えるなら就活の様なものだ。株式会社ニコラスに入社を死亡する動機は何か? その答えが「顔がイケメンだから」と答えたら面接官ニコラスはこう反論するだろう「でも僕以外の株式会社エルフは顔はいいですよね? その中で弊社を選んだ理由は?」そう、株式会社ニコラスに入社するには理性的な根拠が必要なハズだからだ。まだ私にはそれがない。
私の駆け巡る妄想を少女のクソでかため息が中断した。
「…君さあ…そんな奇麗な奥さんが居るなら…言ってよぉ…。しかもアタシよりキレイ…」
突然少女は泣きそうな湿った声を出してボロボロと泣きだした。
「ルリコがキレイであることが貴方のキレイにどんな不都合があるんですか?」
「ブスの奥さんと美人の愛人ならいいけど、美人の奥さんにブスの愛人とか意味ないじゃん!」
私はニコラスの美人発言に心のシャッターがしまってしまい、スンッとした面持ちで会話を聞いていた。
「貴方の理屈はおかしい。美人Aに美人Bが加わったら美人が二人になるハズですよ。イチたすイチは二です」
「足し算じゃない! 崖から奥さんと私が落ちそうになったら誰を助けるかって選択なんだよ! 一番になりたいの! 捨てられたくないんだよぉ…」
「ダイヤとトルコ石はどちらも美しいですが、上も下もありません。それに場合によってダイヤ装飾が良い日もあれば、トルコ石の方がいい日もありますよね」
すると少女は泣き止んでぐずりなら言った。
「コーデを変えるってこと…? でも周りにはバカにされる…」
「その時は味方の私を頼って下さい。力になりますから…」
ニコラスが子供に言い聞かせるように少女に下肢づくと、お腹が鳴る音がした。少女は顔を赤くして言った。
「もういい、わかった…。アタシお腹空いちゃた…」
どうやら少女はニコラスに付いてくるつもりらしい。どうしよう、人手を集めるとは言ったけどこんな犬猫拾うみたいな手軽さで増やされたらとんでもないことになる。…けどここでダメと言うとやきもちを焼いてるみたいでなんだかみっともない気もしてしまう。
「じゃあ上の市場で何か食べましょう…えっと貴方の名前は」
うん…落とす女の名前を知らない様な奴なら大丈夫か…?
「アタシの源氏名はママ・ノンノ。ノンノって呼んで。貴方のことは”ニコしゃま”で良い?」
うん、やっぱ普通の男なら減点で落第するところだけど、圧倒的イケメン要素がその暴落を阻止している。やっぱニコラスを野放しにするとどんどん老若男女区別なく拾ってくる気がする…。特に可哀想な女系を…。
「あだ名みたいなものですか? 勿論いいですよ」
ノンノはニコラスの側について市場に向けて歩いて行った。私はニコラスの後をついて行きながら階段に置いた剣を肩にかけた。ノンノは私を振り返りながらニコラスの袖を引いて言った。
「ニコしゃま! 奥様に箸より重いものを持たせるなんて格を疑われますよ!」
「私達の集落は女性でも力仕事をすることがあるんです」
「そうなの? でも私は箸より重いものは持てないんです。この前、花瓶を持ったら肩が外れて女将さんが淑女は力仕事をしてはいけないって。後、お腹が空き過ぎるとめまいがする性質なんです。紳士は淑女を空腹にしておかないもんです」
「では、上の屋台でパンでも買いましょうか…」
先ほどの屋台に行ってパンを買うとノンノはついばむ小鳥の様に食べた。もちろんお金は私が出したけど。心なしか屋台のお兄さんのノンノを見る目が卑猥だった気もするが、気付かないフリをした。食べ歩きの行儀についてニコラスに物申すノンノと一緒に、私達は皆の下へ戻った。待ち合わせの広場は教会の建物の反対側にあるのでそこへ向かった。
広場には多種多様な人達がうごめいていた。楽器を奏でて詩を歌っている者、上半身裸の体に塗料を塗って、丸い石の上で剣をジャグリングしている者、台の上に立って羊皮紙片手に雄弁に語っている者、目深に被ったマントの集団が渦の様な文様がついた旗を掲げながら祈り寄付を募るもの、地べたに座って無軌道に喋っている水兵風の若者等、カオスな空間になっていた。
広場の奥には泉があり、その向こうに正方形の白い巨大な大理石とそれを一面覆うタペストリーがかけられていた。泉の水はシャコガイの口の様にうねった土台から湧いていて水面に流れていた。泉は深緑色に濁っていて、それを尻目に話し込んでいる妙齢の男女や、泉で洗濯をしているおばちゃんや、半裸になって入水して身を清めているお腹がだらしないオッサンが居てこっちもカオスだった。
その泉の前で鳥車が止まっていて、それを取り囲む様に皆とチーズマンが談笑していた。
「お待たせしました」
そう言ってニコラスが皆の下へ行くとその視線がノンノに集まった。スカイがノンノを指さして言った。
「…なんだ、この娘は?」
ニコラスはスカイの言葉に笑顔絵で答えた。
「はい、カコイました」
「かぁ…っ!」
スカイがショックのあまり息継ぎが失敗したかのような音を立ててよろけた…。
「あ、あたしの子供が…堕落したあああああ」
ニコラスはシーブに抱えられているスカイに弁明をするように名前を呼んだ。
「母さんどうしましたか?」
ノンノは暫く一団を見渡してから、私の傍に来て小声で言った。
「ねえ、奥様、あの小さい子は使用人かしら?」
ノンノの目線の先にはサムの姿があった。
「そうね。私達の…しもべみたいなものかな…?」
「そうですか、下働きの方がいてよかったです。でもできれば女性の方が良いとニコしゃまに言っておかないと。その間はあの子をお借りしますね。そこの! 手を貸しなさい!」
サムはノンノに呼ばれて近づくと言った。
「あら、そのキレイな御召し物は新品かしら? 申し訳ありませんけど、フィンガーボウルにお水を汲んで来てれませんか?」
「はい、この服はせんべつとして修道長に頂いたものですが…失礼ですがフィンガー(指)ボウル(鉢)?とは何でしょうか?」
「手桶というのかしら? その手で水を汲んで来てください。パンの油がね。ちょっと顔を借りるわね」
そう言うと彼女はパンの油で汚れた指をサムの顔で拭った。それを見ていた私と他のエルフは唖然とした。
「えーとノンノ、何故サムの顔で指を拭ったのかな? イジメ?」
「え? いけなかったかしら? 私の服は汚したくないですし、彼の服も新品だったし、髪も油が付いてたから顔で拭ったの」
するとその会話を聞いていたチーズマンが割って入って言った。
「その少女は実に合理的ですよ。私の叔父も社交界で指が汚れた時はしもべの手に擦りますから。むしろ新品の服に配慮するなんて心優しいのでしょう」
そんな補足は欲しくなかった…。サムはシャコガイの様な彫刻に登って手と顔を洗ってから湧き出る水を手桶で汲んだ。サムの様子を見守っていると、泉の背後の大きな大理石の織布が風でめくれた。その布の下の岩に字が刻まれていることに気付いた。私はチーズマンに岩のことを聞いてみた。
「ああ、あの岩ですか? あれは初期の市壁の名残ですね。あれは起源の岩と言って初期の市壁は上層の砦を囲う程しかなかったんです。それが段々と拡張され、その度に壁はバラされてレンガとして切り出され積み上げられていったんです。だが、起源の岩だけは記念碑としてああやって残されているというわけです…まあ、実際はあまりに重すぎて分解するしかないのですが、もったいなくてできないのが本音なのでしょうね」
何となく感心したが、あの岩は一戸建ての一階部分程の大きさがあって重さが一トン行くほどかと思わせる程だった。確か記憶ではストーンヘンジとかの岩はどうやって運ばれたかわからないなんて話しを聞いたけど、これこそ一体どこから持ち込まれたのかサッパリわからなかった。まあ、でもこの岩もストーンヘンジもモアイも実在したのだからきっとなんらかの方法があるんだろう…。そんな考えに意識をとばしているといつの間にかノンノはサムの手桶に顔を埋めるようにして水を飲みほした。
「ご苦労」
ノンノはサムに尊大そうに振るまって働きをねぎらっていた。スカイの方はニコラスの説得が上手く行ったのか落ち着いた雰囲気になっていた。しかし私を見るスカイの表情が怒りと悲しみに表情を歪めながら「どうして連れてこさせたんだ!」と表情で訴えてきて、私は肩をすくめて苦笑するしかなかった。
その時教会の塔から鐘の音が響いた。鐘の音はカランカランと三回鳴ると段々と遠雷のように音が遠のいた。チーズマンは鐘の音に満足したように頷くと言った。
「ではそろそろよろしいですか? これから皆さんを領主の住む天上要塞にお連れします。もちろん宿泊も向こうで行います」
いいかげん私も歩き疲れてしまったので、そうしてもらうよう頭を下げた。
「よろしくお願いします」
鳥車に乗り込もうとすると、後ろでノンノがニコラスに小声で話しかけていた。
「ニコしゃま、天上というのは尊き御方達の血族が住まう場所のことですか?」
「どうやらそのようですね」
「ニコしゃまがそんな出世頭だとは…もしかして貴方様方は貴族だったりします…? 私のことは秘密にしてください…。教会関係者は娼婦を目の敵にしてますから」
「貴方はまだウリはしてないんだから娼婦とは言えないのでは?」
「それを後からどうとでも理由をこねてつけるのが坊主なんです」
「ノンノ、これを着な…」
私は荷物から麻の外套を取り出すと背負う形で着させた。ノンノはちょっと不安そうにしながら言った。
「虫とかついてないですか? 大丈夫ですか…?」
なんか私が不潔と言われてるみたいで腹立つな…。
「ついてません、ダイジョブ」
私と長老とノンノ、チーズマンが乗っていた。その時隣の長老が私に何かを促す様な目線と仕草を送って来たので猫を買う為のお金稼ぎについて聞いてみた。
「あの…すみません、実はこちらでお金が入り用になりまして…。何か働き口とかあったりしませんか?」
「エルフの方々の働き口ですか?」
「はい…手織りとかであたっりは…」
「いやぁ、ないですね。どこも基本人件費ゼロでやらせてもらってるんで…」
基本人件費ゼロが強すぎる件。
「他に何かお金を稼ぐ手段があったりとかは…」
「あるにはありますが工房となると専門的な技術が必要です。これらは幼少の頃から学ぶ必要がありますし、技術はギルドの契約で秘伝となります。現場仕事もありますが力仕事なので身体が作られた方でないと無理でしょうね…。事務仕事も教会関係者が中心で周辺も天下りというか縁故採用になってしまっています」
「えっと…すみません…普通の人々はどうやって暮らしているんですか?」
「普通…? 普通というか市民は仕事をするかしもべになるか教会の慈善活動のお世話になるでしょう。そもそも街の市民は君主を頂点とした下請け業者の集まりみたいなものなんです。だからそれ以外はサービス業か、材料を持ち込む個人事業主の商人ぐらいです。例外として五体満足の者は兵になったり…。多少裕福な者は商人から貴族になったりと…」
チーズマンは私達の表情があまりにがっかりとしたものなのか、更に補足を加えた。
「誤解なきよう言っておきますが、壁の中にいる人達はそれだけでも幸運だと自覚しているでしょう。外の世界は財産や家族を守ってくれる壁がないのですから。かつては農民だったり、辺境の地主が落ちぶれたのが放浪者なのです。その財産をつけ狙って盗賊たちも現れる。しかしこの盗賊達もかつては兵や農民といった放浪者なのです。つまり壁の外の世界は地獄です、だから彼らは保護や救いを求めて教会やこういった城壁に安寧を求めて集まるのです」
彼は大仰に手を広げて言った。
「商売人の私から言わせてもらえれば中や外の人が求めているのは金なんかではなく、安心です。逆に言えばその不安を払拭することが”お金を儲ける方法”ということになります」
チーズマさんの言葉を聞いて私は先ほどの工場のお姉さんの言葉を思い出し納得した。
「毎日食事をいただいて、雨風しのげて、尽きない仕事に仲間も居る。私達は本当に幸せなんです」
こんな世界では衣食住と安心が保障されているだけで幸せと思うのは仕方ないのかもしれない。むしろお金は余計で、たくさんあれば良からぬものに狙われるし、贅沢品など余計ないさかいの種でしかないのかもしれない。
「成程、ではやるべきことは決まりましたね…」
シーブはチーズマンの言葉に頷いて拝聴の姿勢を解いた。
「私は放浪の方々の安心を提供することで対価を得られる方法を検討したいと思います。チーズマンさん、ありがとうございます」
「…いえ、どういたしまして。しかし貴方は異人を本当に救うことを商売にするつもりなんですか?」
「それはわかりません。正直方法も検討がつきません。しかし私達エルフの祖先の魂であれば困った人を助けるのは当然と断じるに違いありません」
「そうですか、しかしその考えはあまり得策ではないかもしれません」
驚く私達にチーズマンは膝の上で揉み手をしながら言った。
「私達は基本的に商売敵を許しません。それは商売だけでなく宗教も政治そうです。仮に貴方達が人々の救済を掲げれば教会は貴方達を異端では? と疑うかもしれません。そして人々を守る壁を築けば、それを脆い建築だと誹謗するでしょう」
行動の傾向が決まりかけていた私達は揃ってため息をついた。
「まあ、向かう要塞では大司教が迎えに来る手はずになっています。彼だったら貴方達に書類仕事を振ってくれるかもしれません。なんせこの世の書類仕事は教会人が手掛けているんですから。兎に角まずは会ってもらった方が早いでしょう」
どうやら私達はこれから城の大司教に会うらしい。寺院の司教プマンクは良い人そうだったけど…。だいたい異世界とか中世のファンタジーで悪役は大司教ってイメージがあるけど上手くやれるのだろうか? 私がニコラスを横目で見るとその腕をノンノに抱かれていてもどこ吹く風でチーズマンを見ていた。ふと、腕のノンノが私を見ながら含み笑いを浮かべていた。その笑顔の憎たらしさが余ってなんだか可愛く見えてくる。どうやら私はノンノをライバルと思うには彼女はあまりに若すぎて妹にしか見えない。私は小さくため息をついた。