待つ人:ニコラスsub 3
私は老シフに果物を渡した後、宴に戻りました。その頃には宴はとっくに最高潮を過ぎて母屋に戻る人たちも出始めていました。その間も私はずっとここから養育費を払って出る方法を考えていました。
家政が利益と求めるモノは一般的な森で採れる資源では認められない。それは家政にとっていつでも手に入るものだからです。何千年もここで暮らしている大樹の一族が欲しがるものはこの森にはない。恐らく何を献上しても数か月の養育費と相殺されるぐらいだろう。
ここに居る期間が長引く程、養育費は膨らんでいく。だから何とかしてここから出ないといけない。
宴が終わって、住まいの小屋に戻って、日が落ちて。その間、ずっと私はここから出る方法を考えていました。しかし一向に思いつかない。夜が更けてピスが就寝した後も、考えはおりてきませんでした。元々、私はアイデアに向いてない自覚はありました。そういうのは私はルリコに任せきりでしたから。
アイデアが浮かばないなら知識を使って合理的に考えるべし。シーブ長老の教えです。しかし大樹の暮らしに対してはどうしても合理というものは相性が悪い気がしていました。お腹が空いたら食事をするのが合理なのにここの者は我慢をする。しかしそれはここの人達にとっては当然の理なのです。だからここから出るには彼らの理に則らねばなりません。しかし彼らは当然の欲求を我慢してしまう。要求のない相手を満たすことなんてできません。
私は自分を幼馴染四人組の中で一番学科が秀でていると思っていました。なのに実際の問題を目の前に頭の中の知識を総動員しても何も手が思いつかない。もしかしたら私は無能なのだろうか? などとも思いました。
この時の私は母の為という軸が折れかけてかなり追いつめられていました。
私は自分のアイデアに活路を見いだせなくなり、他の幼馴染だったらどう考えるか? などという奇妙な思考にすがっていました。
アキンボだったらこの現状に駄々をこねて暴れるでしょう。流石に私はアキンボより冷静だ。ルリコは何か奇抜なアイデアを思いつくだろうが、奇抜過ぎて大事になるだろう。フランだったら…フランだったらどうするだろう?
わからない。何も思いつかない。もう母に会えないのだろうか?
そう思うと目が潤んで涙が溢れ出てくる。途端に頭の中の思考がぐちゃぐちゃになって哀しみに覆われてしまう。私は自分が泣くのを必死に抑えようとした。
自分が議論で負けるパターンで最も多いのは泣いてしまい合理性を維持できなくなった時だ。泣いたら負ける。しかしもうどうしたらいいかわからない。
「ニコラスどうしたの? 泣いてるの?」
私が泣いていると気づいて、寝ていたピスが起きて来ました。
「何でもありません」
私は母に男があまり涙を見せるものではないと言われてきたのでピスから顔を背ける。しかしピスは私の背中に乾いた笑い声をかける。
「ハハ…。ニコラス、何を格好つけて居るのか知らないけど私と貴方の仲じゃない。この数か月、貴方のおねしょを何度始末したか…もう両手の指じゃ足りないんだから。何か悩みがあるならこのピスに聞かせてよ」
私はピスに言われて「最もだな」と思ってしまいました。いくら合理性だの格好をつけたところで私は自分の尻ぬぐいもできない小僧でしかありませんでした。
暫くして気持ちが少し落ち着いた私はピスに相談に乗ってもらいました。
「母に会いたいのです」
「会いに行けばいいじゃないですか」
一瞬、相談する相手を間違えたかという考えが脳裏をよぎりました。
私は母に会いたいという単純な理由で泣くような人だと思われているのだろうか?
「家政に養育費を返済するまでは出ることが叶わないと申し付けられています」
「そうなんですか」
「この森はほぼ大樹の一族の資産の様なものです。奉公という労働もどれくらいの稼ぎかわからないので返済が完遂するのが何時になるかわかりません」
「では逃げてしまえばいいのでは?」
「病床の母の治療費を家政に補ってもらっているので出来ませんし、そもそも法に反する行いです」
「まあ、ニコラスならそう言うと思ったけど。私も家政を裏切れなしいね」
じゃあ何故そんな提案をしたんだろう…? ああ、イライラしてしまう。
「長らく考えましたが何も思いつきません。自分の考えの至らなさに情けなくて涙が出てしまいました」
「ふぅん。そうですか。ニコラスでも気づかないんだね」
「…? どういうことですか?」
「この森になくて一族が最も欲するものが何なのかってこと」
「ピスは知っているんですか?」
「”私達”は知ってるよ」
「教えてください。それは何ですか?」
「子供」
「子供?」
「赤ちゃん」
私はピスの言葉の意味をなんとなく理解して怖気がはしりました。てっきりピスは私の世話係、姉の様なものだと思っていました。しかし今にして思えば同じ部屋の下に男女を住まわせるというのは”そういうこと”なのかもしれません。急に私はピスが家族ではなく、女という存在なのだと察してしまい。そう思うとなんだか落ち着かない気持ちになりました。
改めてピスという女の顔見ると、細目のせいで何を考えているかをわからなくて、不気味に感じました。
「ちょっとちょっと。ニコラス。何でそんな目で見るの? 私は貴方の質問に答えただけだよ? 何かしようって言うならもうとっくに何かしてるって」
ピスの言葉は理路整然としていて私も『それもそうか』と納得できるものでした。
「一応聞きますけど私とニコラスが番になれれば話が一番早いんだけど。どう?」
「どう? とは?」
「だから一緒に居たいとか、好いているとか。そういうやつですね」
私がピスを好きかどうかはわかりませんでした。そもそも特定の誰かを私は好きと感じることはなかったのです。ただ、ピスに関する思考は『相手に合わせて行動する人』で終わっていました。恐らく、私は彼女に対して興味が失せていたのだと思います。
「…申し訳ないのですが、私はピスを姉の様に慕っています。そこに恋愛感情は存在しません」
「だろうと思った。明らかに女として見てない感じだったもん。まあ、私もおねしょの世話をしていると弟みたいに思えてきちゃって…。まあ、だからこそ弟の悲しんでるところは見たくないみたいな? 一応手としては子種だけ残して坊ちゃんは出て行くって方法もあるんだけどな?」
「…そんなの自分の借金を貴方と子供に押し付けてるだけじゃないですか」
「子供からしてみれば、大樹の一族に連なるなら悪くないからね。まあ、男だったら一生滅私奉公で可哀想なことになるけど…。ここでは男は誰でもそんな扱いだよ」
「ピスにはもっとふさわしい相手と結婚した方が良いですよ」
「いい男が居ないんだよねぇ。ここの男は家政に牛耳られてこじらせた男ばっかりで…」
「最善ばかりじゃなくて次善にも目を向けるべきですよ」
「いや、千年近くも一緒に生きるんだからちゃんとした男がいい」
私はピスと話していて自分の「最善ではなく、次善」という言葉で思いつきました。
借金返済ではなく、その前段階の目的なら達成できるのでは? 例えば、一時的な外出なら何か手立てはあるのでは?
「思いつきました。一時的な外出なら達成は容易いと思います」
「へえ。ニコラスなら何か考えつくだろうとは思ってたけど…。落ち着いたららしくなってきたね」
一緒に考えてくれてたわけじゃなくて私のアイデア待ちだったのか…。
「そうですね。しかし結局は家政が欲している物を用意して外出許可を取るという問題に突き当たりますが」
「それならこのピスに任せてくださいよ。私の家族に頼めば助けてくれると思う」
「…それは大丈夫でしょうか? 貴方達の家族の負担になってしまうのでは?」
「ニコラスは私にとってもう弟分みたいなもんだし。だったら助けるべき家族でしょう?」
「…じゃあ一応確認だけお願いしてもらって良いですか? 決して無理はせず」
「解ってるって。頭働きは私はニコラスに及ばないけど、人付き合いは得意なんで」
それから数日して小屋の中でピスに私の外出の許可が家政から下りたと報告がありました。それを知ったのは夜の部屋での報告会でした。
「ニコラス。例の件ですが、私が穏便に済ませておいたから」
「それはどういう…私は確認だけお願いしたと思うんですが…。何をしたんですか?」
「いやぁ家族には反対されちゃったから。私が個人で取引をしたんだ」
ピスはそう言うとヘヘッと笑う。
「それでは貴方が結局損を被ってるじゃないですか。…でもありがとうございます。里に戻ったらその借りは返すので家政に何を支払ったのか教えてください」
「銀の腕輪だけど、私の所有物だから大丈夫だよ」
「…実家に帰ったらそれを補填してもらえるだけの財を融通してもらうと約束します」
「うん。頼りにしているから」
「ではもう実家に帰る予定を組んでも構わないんでしょうか?」
「うん。でもお目付け同伴だから向うの予定と合わせる形で決めるらしいよ」
「わかりました。ではなるはやで実家に帰りたいと先方に伝えて下さい」
「なるはや? まあ…わかったよ」
その日の夜はそのまま就寝しました。それから一日、二日と経っても進展はありませんでした。ピスに聞いても「目付の都合が合わないんだって」と答えるだけです。なんだか妙な感じがしましたが、ピスに託した以上任せるしかありませんでした。
三日後、その日は雨でした。いつもの星環は雨雲に隠れて森は薄暗く、雨音が耳に煩かったのを覚えています。昼頃にカシワラ様に奉公していた私の下にピスが来てお目付役が予定を相談したいと言っていると伝えました。待ちに待った連絡だったのでカシワラ様に暇をもらって会いに行きました。
母屋を出てピスに連れられてきたのは森の外れにある寂れた小屋でした。道中は森の葉にたまった大きい雨水がピチャピチャと沢山落ちてきて鬱陶しかったですが我慢しました。小屋の前には二人の女性のエルフが立っていました。
「母さん…。連れて来たよ」
ピスが母さんと呼んだエルフは金髪の中肉中背で目の化粧が派手な方でした。どことなく顔の肉が弛んでいてシワのようになっていて中年のエルフという印象でした。その隣に立つ女性は高い背に黒い髪で青年ほどの年齢の女性に見えました。ただ、その女性の目つきはどこか陰があるような眼差しで私を検分するかのようにジロジロと見ていました。
「この子が相手なのユニカ? まだ子供じゃん」
その時私は黒髪の女性の気だるげな喋り方に何となく嫌な感じを受けました。
「そうだよラン、二人にやり方を教えてやってくれないか」
「ふーん。まあ、いいけどさ」
そう言うとその女性は厚手の上着の真ん中をはだけました。その隙間から裸体が覗いていました。その隙間から覗いた鎖骨とあばら骨と裸が、ひっくり返った虫の腹筋の様に感じて気味が悪く感じました。
「中に入ってきたら遊んであげるよ、坊や」
そう言うとランという黒髪の女性は小屋の中に入って行きました。私はピスを振り返ると彼女は申し訳なさそうに俯いて居ました。
「どういうことですか? これは?」
ピスの母のユニカはじれったそうにため息をつくと言いました。
「ピスが貴方の為に家宝を家政に贈ってしまってね。その代わりと言っては何だが。悪いけど子種をもらうよ」
私はユニカの言葉に頭が真っ白になります。
「その損失は私の実家から補填させてもらうと伝えたハズですが…」
「悪いけどね。それは私らが判断することなんだよ。ピスは私達の家族なんだから。そもそも男に決める権利なんてありゃしないのさ」
どういうことなのかさっぱりわからない。何を言っているのだろうこの人は。
「そもそも男は女にとって子供を作る為の種の様なものなんだよ。それも仕事なのさ。ただ、アンタらは仲が良かったからね。結婚をしてくれるならそれで良かったんだよ。でもこのバカ娘はコンシを家政に贈っちまったのさ」
「コンシ?」
「結婚資金さ。私達家族がピスの為に人間の市場で買って与えた装飾品さ。ピスは一族から男をめとる時に対価として装飾品で支払う手はずだったんだよ。それをお前を外出させる為だけに使ってしまうなんて。それも結婚もするつもりもない男にね」
中年のエルフの言葉に私の胃はヒヤリと冷える。
「私が働いて買い戻します。なのでどうか何卒怒りを鎮めてください」
「いいや、それはお前の子供に働いて返してもらう。さあ、観念しな」
ユニカが私の腕を掴む。ユニカの手はあかぎれたガサガサでした。その感触が本当に嫌で逃れようと身をよじらせました。しかしユニカは私を強引に引き寄せる。
怖い――。
そう思った。背後のピスに助けを求めようかと思ったらピスは私の両肩に手を添えて言った。
「ニコラス。大丈夫。目を瞑ってれば終わるから。痛くしないから。尽くすから。だから…」
その瞬間私はもう我慢の限界をこえて雄たけびを上げながら引っ張るユニカを押した。ユニカは引き寄せようとしてた私がいきなり突っ込んで来たので体勢を崩して転んでしまいました。転ぶときにユニカは私の服を掴んで破いてしまいました。
母屋に戻る道を振り返るとピスは驚いた顔をして立っていた。私はピスの顔を見ましたが、彼女が味方なのかどうかわかりませんでした。ただ、私はピスの顔に水浴びを見つけた時の顔が重なり合いました。
ピスは味方かもしれないけど…女は味方じゃない。
言語化は難しいのですが、この時、私はそう思っていました。
「このガキ!」
ユニカが立ち上がろうとする気配を感じたので私は母屋に戻ることを諦めて道から逸れた森の茂みに飛び込みました。
「助けて!」
そう叫ぶが後ろから女の声が響く。
「無駄だよ! どんなに叫んでもこの雨じゃあ声は届かないよ!」
私は懸命に走りましたが、毎日採取に水汲みをして身体が出来上がっている女のエルフの身体能力に子供が勝てるハズがありませんでした。徐々に迫る足音に私は焦って転んでしまいました。後ろから来た女エルフが私の身体にのしかかりました。
「何をそんなに嫌がるんだい! 楽しめばいいじゃないか!」
「母さんもうやめて!」
後から追いついて来たピスの声が響く。私は最後の抵抗として地面を掴みながら仰向けにされないように丸まってうずくまりました。それを持ち上げようとユニカの手が腰に回されて抱えあげられてしまいました。
「ああああああああーーーー!」
最早その後は力の限り叫んで暴れるしか出来ませんでした。私はありたけの力で叫んで暴れてなんとか窮地を脱しようとしましたが、その私の声に誰かが合わせてハモりを入れてきました。
「アーーーーーッ」
まるで合唱の音合わせの様な声色の方に目を向けると顔に白粉をべったりとつけた小人が私の目の前でおどけて声の調子を合わせていました。私を抱えたユニカは唾棄する様に言いました。
「なんだ、道化か」
「アリャ! 道化はお呼びじゃナイ!?」
裏返った様な調子の声で道化が言う。それを中年エルフは追い払うようにシッシと足を振る。
「薄気味悪い。この子の種に用があるんだあっちへ行きな」
「いやぁ…あっちへは行けません。道化はあなたの方。つまりこっちへ行きたいわけで…」
「何を言って…」
「実はネ。さる御方がご立腹でして…。ああ、あっちには行けません」
そう耳打ちする道化の背後から黒い影が現れた。その黒い影は黒髪で前髪が右側だけ長く顔にかかった麗人でした。その長い前髪も下には黒い眼帯があり、右耳が欠損している様でした。麗人の顔は石こうの様に白く、暗い森の中でぼんやりと光っている様に見えました。黒い外套をゆらりと揺らしながら歩くさまは話に聞く死神の様な出で立ちでした。その黒いシルエットの中で唯一腰に下げた銀色の剣の柄だけが現実を感じさせる依り代に見えました。
「マ、マフディ-様…!」
ユニカの声に怯えの色がはしると私を放るようにその場に投げ出して平伏しました。私もその場に投げ出されて平伏するような感じになってしまいました。頭を下げながら恐る恐る目で眼帯の麗人を見ると、麗人は眼帯に手をあてて沈痛そうに顔を歪めていました。側の道化は大げさに口を抑えながら微動だにしていませんでした。
「雨の日は傷が痛むから…。近所でぎゃあぎゃあと騒がないでくれたまえ」
「御見苦しい所を見せて訳ありません…しかしこれには深いワケがありまして…」
ユニカがマフディーとかいう麗人に事情を話そうとするとその表情はますます険しくなり、その手が剣の鞘の頭にかかりました。
「も、申し訳ありません! 命ばかりはお助けを!」
麗人は鞘から手を離すとユニカの言葉にうるさそうに頭を抱えました。
「ただの癖ですから。とにかくそういうのは他所でやってくれたまえ」
そう言うと麗人はきびすを返して来た道を戻って行きました。その後を道化が口元に指を立てながら足音を立てないようにそろそろとついて行きました。彼らが去って後、ユニカが声を潜ませて言いました。
「ニコラス。大人しくこっちに来るんだ。もう冗談じゃ済まされないんだからね」
私はユニカを無視して森の中に進みますが、服を掴まれヒソヒソ声で注意されました。振り返ると這いつくばっているユニカに対してピスはうなだれるように立っていました。恐らくピスはマフディーに平伏してなかったのでしょう。
「あんた殺されても良いのかい!? アイツは戦争で平原の中で人間と渡り合ったホンモノなんだよ? 人間の集落を襲って…見境なく殺したんだ」
それを聞いて私は胸がすくような気がしました。そしてその清々しい感情をユニカにぶちまけました。
「そうですか。でも貴方達に良いようにされるぐらいなら先ほどの人に手を下してもらった方が気高くいられます。もう放っておいてください。じゃないと彼を呼びますよ?」
ユニカは忌々しそうな顔をすると言いました。
「アンタには私が悪党か魔女に見えてるんだろう? 意地悪な女にね。でもね、男女には多少の強引さも必要なんだ。森の果実と同じさ。沢山の実の中から私達はあれかこれかなんて選ぶから子供の数が減っていくんだよ」
「いえ、相手の意思を無視している時点で何の説得力もありませんね」
「じゃあ、仲睦まじい夫婦や恋人にそれがあるのかい? どうやってお互いそれを確認する? 無理だね。男と女は”つくり”が違い過ぎる。だからいつもどっちかが我慢して喧嘩になる」
「だからこそ相手への思いやりが重要なのでは? わからないからってお互い勝手に押し付けあうのは違うでしょう?」
「…他の男が皆、アンタみたいだったらそうなっただろうけどさ。男は私を子作りの道具としか見なかった」
「貴方もさっき、男を子作りの種と言ってたじゃないですか」
「そうだよ。だから若い頃は私だってこんなところ出て行きたかった…でもね…」
ーー出られなかった。だって私達は家族なしでは生きていけないから…。
「ヒヒッ」
突然森の中でひきつったような笑いが響きました。声のした方に私達は目を向けると凍り付きました。そこには先ほど消えたはずの道化が木の影からこちらを覗いていました。
「ア、バレタ」
その道化の張り付いたような笑顔の中に本気で嘲笑うかのような影を見ました。バレたとわかった道化は手をバイバイと振ると木の影に隠れました。ユニカは私の服から手を離してうなだれました。
「もういい、ピス。帰るよ。アイツが花に告げ口でもしたら余計に厄介なことになる。いいかい、ニコラス。どんなに口が上手くても借りは借りだ。タダじゃおさまらない。キッチリ返してもらう。いいね?」
そう言ってユニカは来た道を戻って行きました。しかしその向うにいたピスが私の方に歩いて来ました。私はピスの顔も見たくないのでその場で顔を膝に埋めて縮こまりました。ピスは屈んで私に話しかけているのか声は耳元で聞こえました。
「ごめんねニコラス。こんなことになるなんて思ってなかった。貴方を傷つけたくなかった。でも…仕方なかったの…。でもね。仕方なかったの。母さんの言う通り…。私は…私達は…家族がないと生きていかれない。家族で協力して、一緒じゃないと。一人だと」
――森の中では生きていけない。
その時私は自分が情けないような気持に襲われました。ピスにおねしょを始末してもらい、自由になるお金すら払ってもらっている。労いすらピスの言いなりのままで自分から送ろうと思ったことはない。私は彼女にしてもらってばかりだ。
もしかしたら僕は最低な人間じゃないだろうか?
それから私はずっと自分を憐れむ感情に浸っていました。気が付くと周りには誰も居なくなっていました。そろりと立ち上がると特に考えもなく、自暴自棄な気持ちに任せて茂みを突き進みました。でも、身体を葉や枝が傷つける痛みに耐えられなくなり。その場で止まって天を仰ぎました。
結局、私は我が身が可愛いだけで、傷つくことを恐れているだけだ。
私の脳裏にピスやユニカのカサついた手が思い浮かびました。そして母の言葉が脳裏に浮かびました。
「ニコラス、男でも肌は奇麗に保たないといけない。水仕事をして手が荒れていると偉い人にはなれないからな」
もしかしたら、この森で最も愚かなのは私かもしれない。
そう思うと頭を抱えそうになる。道は二つしかない。ピス達が戻って行った方の道か、麗人が来た方の道か。私は半ばやけになって目の前の道なき道を選びました。このまま突き進めば母屋に付くだろうという算段はありました。しかしそれ以上に道なき道に身体を投じて突き進んでやろうとヤケになっていました。私は身を投じて草木をなぎ倒しながら転がるように進みました。
それを何度も繰り返すと奇妙な広場に出ました。その薄暗い広場には平屋ほどの高さの木が生えていてその根元にはぬかるんだ泥と背丈の低い雑草がまばらに生えていました。木の根元には洞窟の様なウロがぽっかりと口を開けていました。
もう無理だ…ここで休もう。
私は泥のぬかるみを無視してウロの中に身体を倒れ込ませました。運よくウロの中は乾いた腐葉土がたまっていてフカフカの布団の様でした。その寝心地に私は身を縮こませながら眠りにつきました。