魂と肉体
添削と次の話の執筆に手間取っているので次回投稿は9/16(金)とさせてください。
私も小説をただ書くだけの機械になれたら。
25/2/7 修正しました。
宴の翌日、私とニコラスは長老のシーブに連れられて山岳の麓の墓所を訪れていた。今日、私達は師匠の帰還を墓の下のご先祖様達に伝えに来たのだ。
森から十キロ程進んだ先にある山を麓から見ると地面が隆起して岩肌がむき出しになっている。その岩肌には先祖が削って作った登山道が頂上まで伸びている。私達はその道を登りながら山の頂を見る。山の中腹に黒曜石の巨石の門を設けた墓所の入口が見える。巨石は人の字の形に折り重なって支え合い、中を陰で隠していた。門をくぐると乾いた空気が充満していた。
巨石は黒曜石特有の無骨な光沢を見せながら私達を迎え入れた。墓所の入口は縦横人一人が通れるぐらいの大きさで、中は埃っぽい堅牢な石造りの部屋になっていた。部屋の床に直径1m程の穴がぽっかりとが穿たれ、覗き込むと中は見通せない闇に覆われていた。この穴の向こうに私たちの祖先が渡った先の黄泉の国があると聞いている。私たちはその暗い孔の縁に果実と花を添えて黙とうを捧げた。
長老のシーブは穴の中を無表情に見つめながら思いふけっている様だったので、私は声をかけてみた。
「この穴の向うにご先祖様達が沈んでいるんですか?」長老は私の言葉にぎこちなく頷いて歯切れ悪く答えた。
「ええ、この下は死後の世界で今もご先祖様達の魂が暮らしているとされています」長老の言葉にニコラスは顔を向ける。
「すみません。今更ですが、魂として暮らすとはどういう状態なのですか? なんというか…教えられたことではなく実際としてって意味なのですが」シーブは穴を見つめながら答える。
「言い伝えでは霊魂として地下の黄泉の国で人の姿で暮らしていて、新しい命が生まれるとその者に宿ると言われています。まあ…とはいえ私も産まれてこの方、霊魂の姿形を見たことはありません。実際のところはこの下の通路の先にある安置所にご先祖様達が眠っています」
霊魂とは前世でいうところのお化けに近いものらしい。対して魂は霊魂とは違って肉体に宿る意識の様な状態らしい。私達にとって魂とは人としての一貫性? 背景世界、無意識の形、エルフという種族にある取捨選択の傾向のようなモノと理解していた。前世で例えるなら日本での生活で培われた経験や価値観の一貫性がそれに当たる。思うに魂の一貫性とは遺伝子のDNAに含まれる遺伝情報の様なモノで親や社会から子に渡されるモノじゃないだろうか?
ていうか、霊魂を見たことがないのかぁ。異世界なんだから霊魂とかビックフットみたいなノリで歩いてたりしないのかな…? あの仮面は霊魂みたいなものだと思ったけど違うのかな? …そういえば忙しくて仮面のこと言うの忘れてたな…。もしかしてまだここら辺にうろついているのかな?
少し息を吐いた長老は穴の下の闇を見据えながら言葉を続けた。
「この墓所は安置所より下の階層に空気がありません。空気がないのでネズミどころか虫一匹も存在しません。このことを貴方達は次代に伝える役目がいずれ来ます。まず、それを理解しておいてください」
そう言うと長老は口元のしわを揉みながら穴の中の闇を杖で指し示して言う。
「魂だけが生物の生きられない死の世界を行き来できます。更に沈んだ先の地の底にあるとされている私達の故郷がエルフの還るべき魂の故郷とされています」
「この下にエルフの故郷が? それを信じているのですか?」
ニコラスは長老の話を幻滅したかのように言う。私も少し失笑してしまう。そんな昔話みたいなことをエルフが信じているのは滑稽に思えたからだ。前世で言うなら現代に死んだら地獄へ行くと信じている人を見つけるのと同じようなものだ。私は振り返って墓の入口である黒曜石の石柱へと近づき撫でた。ガラスの様な光沢の黒曜石の石柱は覗き込む背後の二つの人影を映し出していた。私は大きな石柱を見上げながらこの墓を作った始祖達について思いを馳せた。
私達の祖先はこの下の故郷から来たとされているけど。何故私達が此処に来て住むことになったのかな?
それは故郷を失ったエルフとオウムアレアの間で交わされた約定に端を発する。それはエルフが森から焼け出されて漂泊する中で新天地に見つけることをオウムアレアに約束した神話だ。
ーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーー
エルフとオウムアレアが繁栄を極めた中で突然、森に不吉な侵入者が現れた。それは頭に角が生え、あばら歯で手には鋭い爪があり、足は馬で蹄を鳴らす者達だった。その者達はこの地に居るエルフを浚うことを企んだ人身売買の一味であった。誘拐を恐れたエルフは戦うか逃げるかを迫られ、逃げることを選んだ。しかし逃げてもその男たちのいつまでも追ってきて追い付かれれば、また逃げるという不安定な生活が続いた。その生活の中でかつての人口と文化の繁栄は徐々に失われていった。
ある日、疲れ果てたエルフ達の前に「メメントモリ」と名乗る神官が現れた。神官は「やがてエルフはあの不吉な者に囚われ監禁されるだろう。だが、オウムアレアを差し出せばエルフの自由を約束しよう」と持ちかけた。エルフ達は神官の申し出を断った。神官は「差し出さなければお前たちは末代まで自由を求めて逃げ続ける運命になるだろう。いくら逃げてもお前らのその美しさは世界を惑わせ我がものにしようと浚いに来る。盗人は後を断つことはないだろう。それはその者等がそうするのではない、お前たちがそうさせているのだ」
しかしエルフはメメントモリの提案を固辞し、こう言った。「もし私たちが永遠に安住の地を得られないことでオウムアレアを自由にできるならそれを受け入れましょう。例えどんなに時が経とうとも私達一族はそれを後悔しないように子孫代々伝えましょう」するとオウムアレアは「では、私はエルフが安住の地を得られるまで世界のそらからエルフを見守り、助けましょう」と言った。神官メメントモリは呪いを受け入れられてしまい口をつむぐしかなくなった。
海辺にたどり着いたエルフは急いで船を建築した。海に船を浮かべたエルフ達は自由を求めて漕ぎだした。オウムアレアは火山の噴火と共に宙へと戻り星となって我々を導いた。エルフはオウムアレアの星に導かれ新天地へと向かった。
子孫よ忘れるなかれこの約定を。私たちはこの祖先の由来と約定に思いを馳せ、果たさんと願う流浪の末裔であることを。
ーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーー
この様に幼い頃からエルフは祖先の願いを果たし安住の地を手に入れるという約束をした。エルフ達はこの神話の約定の宣誓をことのほか好いて何度も聞いたり歌にする。恐らくエルフはこの約定を果たすためなら死んでも良いと思っている節がある。何故ならエルフにとって死は終わりではなく転生して再び蘇ることができるからだ。
長老は墓の入口から差し込む光に眼を細めて見つめながら言った。
「私もかつては先代にこの墓所のことを教えてもらいました。貴方達も次の世代が育ったらここのことを教えるのです。そうやって私達の営みは紡がれていくのです…ずっと…そうずっと…」
長老は疲れた様なため息をついて私達に言った。
「いずれ貴方達には私達の遺体をここに安置してもらわなくてはなりませんね」
私達は長老の唐突な言葉にヒヤッとする。もしかして長老のシーブはこのことを伝える為に私達を誘ったのでは? と思った。私はニコラスと顔を見合わせるが彼もどこか困惑したような表情を長老に向けていた。
「…申し訳ありませんが、長老には後千年は生きてもらわないと。ただでさえ人手が足りないので…」
ニコラスが長老の気まずい言葉になんとか答えたので私もそれに続く。
「いざという時のケツモチは長老しかできないので…」
シーブは私達の言葉の調子から不安を察知したらしく、一笑して言った。
「頼りにされるのは嬉しいですがもう少し労わりなさい! 命がいくつあっても足りません!」
私たちもシーブの言葉に笑う。私が見るとシーブはどこか吹っ切れたように清々した表情を浮かべていた。
今更だけどシーブ長老って何歳なんだろう? 確か千歳以上はいってると思うけど…。でも直で歳を聞くのもなんか失礼な気がするな…。
「長老、前から思っていたのですが」
「何でしょう?」
シーブは私の言葉を聞くと顔を向けず側に近付いて来た。
「エルフの寿命は一体どの程度なのですか? 大体千年ぐらいと聞いていますが…」シーブは少し間を開けてから答えた。
「…正直なところ…わかりません。しかし私の今までの経験から言えることは…エルフの全盛期は五百年程までで、寿命は千年ぐらいが一般的ではないかと思います。これは女のエルフが子を成せるのが五百年ぐらいまでだからです」
「成程」私は自分の顎を撫でる。
女性の閉経が生殖をする生物としての盛況の期間の一区切りとするのは筋が通りそうだ。シーブも腕を組んで考え込む様に話しを始める。
「ただ、ここからは私の仮説なのですが…。エルフの全盛期や寿命は大きく変わる条件があるのではと思っています。何故ならスカイは八百歳ですが、私が同い年の時より若々しく健康的です。そして私が千二百歳まで生き永らえたのは集落を支えなくてはという義務感だったように思えます。私が思うに寿命は精神の持ちようと肉体の健康さで数十%程度変化する可能性があると思っています」
シーブの言葉を聞いて私は顎に手を当てる。いや、簡単に言うけど寿命が十%も増えるって寿命千年のエルフにとっては破格すぎる。同時に老人の寿命が増えれば少子化のエルフ社会が詰みかねないのだが。
「成程。身体の健康さでいうなら、私たちは狩猟による肉や果実の栄養バランスの良い食事をしているので理想的なハズです。そうなると肉体の寿命は千年以上と見て間違いなさそうですね」
言いながら私はニコラスの真剣な顔を横目で見る。
ニコラスは母のスカイに対する愛情が強い。ニコラスはスカイの健康寿命を長引かせる話題には興味が尽きないだろう。ちらり見たニコラスは興味深げにシーブの話題に乗る。
「私も母とシーブ長老の違いは健康さで間違いないと思います。美も精神も全ては肉体に通じると思っています」
私はニコラスの言葉を聞いて『健全なる精神は健全なる肉体に宿る』という言葉を思い出した。
「そうですね。ただ、不安点が一つあります。賢者スピネルが言うにはエルフは統計的に自殺率が高いということです。…我々の風習もありましたが…どうも私達は病や老いに苦を感じると転生という考えに囚われてしまうようです」
ニコラスは口元を抑えながら長老に答えた。
「私もその賢者の書簡を拝見したことがあります。エルフは集落の役に立てず足手まといになったと自覚した時に絶望して生き恥よりは自殺を…と考える傾向があると。これは対処すべき問題です」
長老はニコラスの言葉に頷きながらその場に座る。
「役にたてなくなるということもそうですが…。やはり老いることで美しさが失われることが一番の絶望を引き起こしている気がします」
ニコラスも長老の対面に座ると語り始める。
「そうですね。だからこそ母の治療はいい例になると思います。身体を健康に保てば高齢になっても美しさを保てるという証拠なのですから」
「しかし大抵のエルフは健康的な生活を送っています。それでも老いて醜くなるものは居る。スカイだって病気の期間が無かったのに若々しい。あれは希少な例と考えるべきでしょう」
「一般的に老いが避けられないは事実です。どんなに健康でも人それぞれの速度で老いはやってきます。だから私達はその絶望に備える為に自分の外部に美しいモノに美を作り、保存しようとする」
「作る? 芸術のことですか? …いや、子供のことですか?」
「はい。美しさの有限を知った者はソレを外部の芸術や子供に求めるようになります。そしてソレに美しさが継承、保存されることで自身の老いを慰められるという訳です。美は主観的なモノから客観的なモノになる。そしてやがてそれは家族となり一族となる」
「ふむしかし…それだと輪廻転生を信じている者は死んで新しい命として再び美を手に入れようと自殺をするという問題に回帰しそうですね」
「だから我々は輪廻転生という考えを捨てて、責任論を信じる必要があったんですよ」
「成程、貴方達が赤子の弁論の時に提唱した運命の否定と責任論はそう繋がる訳ですね」
ニコラスの言う責任とは美を喪うのは健康的な生活を送らなかったその人の自己責任であって、神とか運のせいではない。そうすることで私達は美を自分のモノとして管理ができるというわけだ。
それにしても私はニコラス達の多弁に圧倒された。だが、幼少からスカイと老人たちの苦しみに寄り添って来たのだ。その蓄積された思考がエルフの自殺率という問題に当てはまってとめどなく溢れて止まらないのだろう。
立ち上がったニコラスは墓の入口から差し込む空の光を見上げて言った。
「はい、責任論を用いれば健康や病気は我々の努力で改善できます。そして輪廻転生を否定すれば自殺して新しい肉体を手に入れようとしなくなります。例え信じて居なくても医療や健康によって維持される自分の肉体を実感すればそれを信じるしかなくなります。なので重要なのは肉体の健康や病気を治すことのできる医術。それを人の世界で学ぶことでしょう」
長老は落ち着かない様子で立ち上がると部屋を歩き回って言った。
「成程…。いや、しかし。コトはそう単純ではありません。責任というお題目を掲げてもそれに納得できない人も居るのです。今まで輪廻転生や神の加護を信じてきた人がそれを奪われて「そうですか」と納得できない人も居るのです。それは今後数百年にわたって徐々に変えていかなければいけません」
「勿論です。だから老人たちに神殿で自分の肉体を実際を通して学んでもらうのです」
私はニコラスの言いたいことがわかった。幽霊とか地獄は精神的なモノだ。でも老いや病気は実際的なモノだ。私達はそれに苦しむ。その問題を呪いとか転生みたいな抽象的なモノにズラさせない為に”治療”する。薬を飲めば風が治る様に、肉体が麻酔の眠りに抗えない様に肉体は抽象的なモノから現実的なモノになる。つまり体調不良になったら霊障のお祓いに行くのではなく、病院に行って薬をもらう様になる。
「ニコラス。貴方…いえ…。貴方達と言うべきですか? まさか神殿を長老たちの収容所として想定していたのですか?」
長老の言う神殿はまたニュアンスが違う。治療と称して権力者を神殿に入院させるかさせないかを選べる。命の取捨選択。病気と称して権力者を監禁できてしまう。手術の失敗と称して殺害もできてしまう。
「いや、そんなことしませんよ。ねえ…」
ニコラスは私が聞いても上の空でその選択について考えている様だった。それを見て長老が顔を青ざめさせたので、私はニコラスを軽く肩パンチする。
「アハハ…私の眼が黒いうちはそんなことさせないから安心して下さい」
シーブはニコラスの顔を見て頭を抱える。
「ニコラス…。最近の貴方はどうも私に思うところがあるようではないですか。以前は私の沙汰に意見することも無かったハズです。何か私に不満があるのではないですか?」
ニコラスは髪を弄りながら淡々と答える。
「私は長老に不満はありません。しかし長老達はルリコの移民や神殿という考えを聞いてその効力に気付く。そしたらルリコに何かするかもしれない…。だから私はその行動の正当性を注視するべきだと思っているだけです」
シーブは苦虫を噛み潰したような顔になる。
「私はルリコを管理、コントロールできると思っていました。ライラ様の言う通り指導もできると。しかし移民や神殿については私ですら是非を判定できない未知のモノです。神殿に至っては貴方達が集落を独裁を可能にできるシロモノです。…私は公平を期す為に貴方達に批判的にならざるを得ません。そういう意味ではニコラスは正しいと言えますね。我々はもう密会を避けるべきでしょう」
私はシーブ長老とあまり会えなくなるのかと思うとそれはそれで寂しいような気がした。やっぱりシーブ長老に叱られるから気合が入るみたいなところは実際ある。
「だからライラ様は貴方をルリコの指導役として指名したのかもしれません。ライラ様の言葉を借りるなら政治的な手順や倫理を順守することは重要ではないのかもしれません」
「それは止めなさい。何でもアリなったら大樹の一族が人間にエルフの血をばら撒きかねません。ライラ様はそれを予想できていたハズなのに。どうしてあのようなことを言われたのか…」
その言葉に私達はゾッとする。あの一族ならやりかねない。彼らの持ってる手札は私達より圧倒的に多いのだ。シーブは頭を抱えてため息をつく。
「まあ、何をするにせよ、私達が医療を学ぶには人の世界のルールを知る必要があるでしょう。人間のルール…すなわち法が医療を学ぶ権利を規定しているだろうからです。それを得るには我々のエルフという存在が人間にどう法的に認知されるかも重要です。エルフが人間の法律の恩恵を受けられるのかどうかもわかりませんからね。ですからその法が記載された憲章が必須です。今日貴方達を連れて来たのは手紙の君主に謁見する際に憲章の確認、入手と写本をお願いする為だったのです」
「憲章って…もし本当にあったら私が翻訳作業に集中する感じですか?」
「翻訳は私がやりましょう。貴方達は旅なんてしたことがないからわからないでしょうが、長距離移動は若いエルフでもこたえるでしょうからね」
私は長老の憂いの様なものを察したような気がした。もしかしたら長老は自分の老い先を思って焦っているのかもしれない。
まあでも私も焦った方が良いのかもしれない。人間の手紙には謁見まであと一週間を切ったしね。雑務だけで手一杯で交易品の開発までは手が回りそうにないし…。私がもう一人いればなぁ…。
私がそう考え込んでいると「チッ!」という大きな舌打ちの声が聞こえた。音の方を振り返ると墓所から歩き出ていた長老が空の日差しを眩しそうに手でさえぎっていた。
「全くあの星環は夜も夕方も…ピカピカと…うっとおしい…。歳をとりますとね、眩しいアレのせいで夜も満足に眠れはしない…。眠りが浅くなって夢ばかり見る…。私達とてこの空は眩さに適合することはないでしょう…!」
長老はブツブツと言いながら進むとニコラスもそれに続く。その時にニコラスは私を振りむくこともなく部屋を出て行ってしまった。私はそれがなんとなく寂しく感じて黒曜石の石柱に身体を預けて暫く進んで行く二人を見ているしかなかった。
私の心の中にあるのは「またお母さんかぁ…」という呟きだった。だけどそれと同時に「わからないなら、わかるようにする」という言葉も思い出す。私は意を決して歩き出し、ニコラスの背中に声をかけた。
「ニコラスー。ニコー」
私はニコラスに近づこうと岩肌の山道を歩いて呼び止めると、彼は私を振り向いて手を貸してくれる。
「ありがとう」
そう言って私は彼の横に並び立つと率直な疑問を聞いた。
「ねえ、さっきの健康の話ってスカイさんが元ネタなの?」
ニコラスは私の背中に触れないように手を回しながら言った。
「いえ、母の健康が動機なのはそうですが…。貴方と私が話した課題ついて考えた結果です。そこから健康とは肉体、そして肉体の生きた証である子供や家族に行きついたのです」
「成程ねぇ」
私との約束を覚えていてくれたのが少し嬉しかったが、浮かれないように自分の気持ちを抑える。
「しかし私には家族…というもののイメージが欠けているのに気付いたのです。私は幼少の頃…大樹の一族の元で奉公の様なことをしていましたので」
「あーだから宴の時に大樹の一族の座敷を見ていたんだ」
「…そうですね。私は…あの人達を見て家族とは何かを考えていました」
「疎遠になったのは何か理由があるの?」
「疎遠になったのは大樹の一族が母と折り合いが悪いのが原因ですが…。別に仲が悪いわけではありません。恐らく今でも昔と変わらない関係を築けるでしょう」
「昔の関係?」
「叔父も叔母も私に親切でした。しかしフランや他の家族を見ていると私には母以外に家族の情の様なモノがないことに気付いたのです。私は彼らを”役に立つ家族”としか認識していないのです。知識を教えてくれる叔父とか…歌を教えてくれる叔母とか…」
「なるほどねぇ」
「そこでふと、思ったのです。肉体の目的は善き子供や善き家庭を作ることです。しかし…家庭を知らない私は善き家庭を作れず、善き子供も作れないことになるのではないかと…。私は壊れた家族しか造れず、その子供はその家庭で育ち同じような家庭を生み出す。それはまるで腐敗する菌のように集落を腐敗するかもしれない」
ニコラスの言い分は『カエルの子はカエル』とか『不倫した家庭の子は不倫する』みたいなことと似たものなのだろう。私からしてみればニコラスはただの考えすぎで少し気の毒だった。だがそれ以上に私は『ニコラスの興味の分野が家族にあった』とわかったことの嬉しさが勝ってしまった。私はその嬉しさの余韻を噛みしめながら言った。
「腐敗の菌みたいな人が実際に居たとしたら…そんな人は異性に相手にされなくなって自然に淘汰されるんじゃない?」
ニコラスは私の言葉に青くなって言う。
「それは困ります…。私が思うに善き家庭とは結局は善き男女関係が出発点なハズです。ルリコに聞きたいのですが、私は女性から見て善き男性でしょうか?」
「う~ん…まあ…そういうのをあけすけに頼んじゃう所からかなぁ…問題は特に感じないけど…どんな子が相手かで良い悪いも変わると思う。どんな子を想定しているの?」
「別に女性なら誰でも歓迎ですよ」
「あーそういうの一番良くないなぁ」
「では母の様な方がいいです」
「うーんそういうのもひいちゃう人も居るかなぁ」
「そうですか…では私と同年代以下で六科を修了し、自他ともに認める美人で、武芸に精通していて裁縫などの雑務も出来て多産でも許してくれて子供にやさしく議論は感情的にならないが明晰で…」
「うん、そんな女は居ないからもっと妥協しようか」
「わかりました。とにかく私は選り好みしません。しかし誰でも良いわけではありません。重要なのは結局のところ関係性の構築かと思います。しかし善き関係とはどういうものなのでしょう?」
ニコラスに聞かれて私は咄嗟に「じゃあ私とデートで練習する?」と言おうかと悩んだ。だが、少女漫画の主人公の様にウダウダ悩む性分でもない。男女の恋愛は大勢とする柔道の乱取り稽古の様に数をこなさないと駄目だ。
言ってしまえ。
しかしいざ口に出そうとすると私の肉体も心も相当に緊張を強いられる。
「うーん…じゃあ…私とデートで確かめてみる?」
…
ニコラスの返事を待つ時間が永遠に感じられる。自分の声や意味は届いているのか? 勘違い女として一蹴されないかという考えが頭の中を駆け巡る。どれだけの時間が経ったかわからないがニコラスはその場に膝まづくと言った。
「不束者ですがよろしくお願いします」
「いや、オーバーなんだよなぁ。変にへりくだったりしないで対等でいいんだよ」
そう言われてニコラスはすっくと立って言った。
「成程。改善します」
私はニコラスがデートを快諾してくれて正直に言うと嬉しかった。だが同時にニコラスにとあるひっかかりのようなモノを感じ始めていた。そして私はそれを何とか無理やり言葉にして伝えてみた。
「とりあえずさ…もっとこう頼りがいがあってリードしてくれる感じの方が好かれるかもしれない。女性って男性の中に子供っぽさとか未熟さを見ると『本当に大丈夫?』って不安になるんだよ。多分」
「成程…具体的な指導で凄く参考になります。わかりました。では後日、私からルリコに正式にデートを申し込みます。これは未熟とは反する行動でしょう?」
「ああ。それは頼りがいがあっていいかも。流石勉強できるだけあって適格だね」
「ルリコが明晰なお陰でフィードバックを得やすいんです」
「そりゃそうよ。私達は同窓の中じゃ勉強できる方だったんだから」
「同窓は四人しか居ない比較になりませんがね」
そんな軽口を叩きながら私達は山道を下っていく。私はニコラスが頼りがいのあるところを見せてくれたのと、デートのプランを考えなくて済むと思い浮かれていた。そのせいで私の頭からは「デートプランの難しさ」が抜け落ちていたのだ。