エプロンタッチ
これは、とある人から聞いた物語。
その語り部と内容に関する、記録の一篇。
あなたも共にこの場へ居合わせて、耳を傾けているかのように読んでくださったら、幸いである。
こー坊は、自分が服を着る理由を考えたことがあるか?
たいていが体温の調節のためだと思うじゃろう。恒温動物たる人間は、自分の意志で極端に温度を上げ下げする力を持たない。
一定の温度を保つには外部の助けを得る必要もあり、すぐに脱ぎ着ができる衣類は強い味方といえるじゃろう。
ところでこー坊、お前は自分で自分の着る服を選んでおるか? 親をはじめ、他人から「これを着るように」と用意してくれたものを、疑いなく袖を通しておらんか?
たいていはそれで問題なく過ごせる。じゃが、よく注意をしておかないと、思わぬ困りごとに出くわす恐れもあるようでな。
じいちゃんが年の離れた知り合いから聞いた話だが、耳へ入れてみんか?
その友達の子供が、小学生くらいのときの話じゃ。
年度初めの家庭科の時間は、ミシンを使ったエプロンづくりじゃったという。
その前の年はリュックの作成で、私物として扱う程度に過ぎなかった。しかし、今回のエプロンは一年を通して、調理実習の時間で使っていくという話。作成できないと、仲間外れになる公算が高かった。
子供は家庭科の時間が好きではなかったが、村八分に遭うのはもっと嫌だったらしい。ミシン相手に苦労しながらも、どうにか期日通りに終わらせることができた。
いくつかある生地のデザインから選んだ、無地の紺色だったという。
どのエプロンにもいえることじゃったが、エプロンの前面にはポケットがついておった。
めいっぱい詰め込むと、カンガルーなどの育児のうそっくりな見た目になってしまってな。からかうクラスメートもそれなりに多かったようじゃ。
それ以前に、その子は自分のミシン掛けに自信がないこともあってな。めったにその中へものを入れることはなかった。その日の授業も、せいぜいサランラップをいっぽん、入れておくくらいじゃったという。
子供が任せられるのは、お湯を沸かすのと火の番が中心じゃった。
材料を切らせるとろくなことにならんと、すでに証明済みだったらしいからな。仕事はおのずとふり分けられている。
水を汲んでコンロにかけ、火を焚いている間、じっとそこにたたずむ。
少し目を離すと、火は何が起こるかわからんしな。じいちゃんもよくやる。
だが、遠慮ない若者の心理からすると、でくのぼうと紙一重の立ち位置。子供も内心、そう感じながらも、ヘタなことをすれば足を引っ張りかねない自覚もあり、動くに動けないまま時間が過ぎていったという。
それは調理も大詰めに入ったころじゃ。
食器を並べ始めていた班員が、ついフォークを机から落としてしまう。何度か小さく跳ねたフォークは、滑りながらやがてその子の足元へ。
拾うためにその場でかがんでしまうことを、誰が止められよう。その子もフォークを拾おうと膝を折りかけて、ぐっとその動きを抑えられてしまう。
引っ張られたのは、エプロンのポケットじゃ。
腰ごとコンロの基部に押し付けられるほどで、完全に突っかかる感触があった。
しかし首を向けたとたん、引っ張られていたポケットが、かすかになびきながら元の位置へ下りていくだけ。明らかに誰かがつかんでいた手を離した瞬間にしか、見えなかったという。
代わりに、教室中へ響き渡る自分の腹の虫。10秒ほどたっぷり長引いて、つい顔を赤くしてしまうほど、みんなの笑いの的になってしまったとか。
大恥をかかされたその子は、コンロのどこに引っかかったか丹念に調べるも、異常は見当たらなかったらしい。
じゃが調理実習以外に、自宅で手伝いをお願いされたときのエプロンでも、似たようなことが起こったらしい。包丁が使えなくても、煮込みや餃子の皮包みなどは戦力になれるからな。
それが座っているときでさえも、違和感を覚えたんじゃ。少し腰を浮かし、遠目に置いた皿の上へ餃子を置こうとするとな。引っ張られるのだそうじゃ。
わずか数センチのすき間しかない、机のふち。口つけるかのようにつまみあげられていたのは、やはりエプロンのポケット部分。そして後を追って鳴る、腹の虫。
今度はエプロンは引っ付いたまま離れない。何が起こっている? とばかりにエプロンを裏から引っ張って。
手ごたえがあったんじゃ。それも水音を介してな。
もちろん、ポケットの中には何も入れていないはず。それがぐちょりと音を立て、重みのままに垂れてくるもんだから、子供はつい手を中へ突っ込んでみた。
最初に来たのは、くすぐったさ。次にかゆさが腹の上を駆ける。そして指先に触れるのは、いま包んでいる餃子に似た肉の手触り。じゃが、外気に冷えた餃子の具と違い、手と大差ないぬくもりがにじんでおった。
取り出す手のひら、および指。そこには香り立つほど、真新しい血のりがにじんでいたそうじゃ。
指を切ったわけではない。そしてこのようなものは、餃子の具からにじみはしない。
もう一度突っ込んだポケットは何も異状はなく、エプロンを脱いだ腹にも、一分の傷も浮かんではおらんかったようじゃ。
ただ止まない腹の音と、後を追う空腹感。そしていつもよりたらふく食べた後にもかかわらず、体重計はほんの数時間前に測ったよりも、数キロ軽い数値を示していたらしいのじゃ。
当初、その子は病院で診てもらおうと思っていたらしい。
すでに時間は遅く、明日になって異状が残るようなら……と、いったん先延ばしにした。
ところが、翌日になって起きてみると、夕食以降の食事をいっさい摂っていないのに、体重がもとの数値を指し示していた。
たとえ自分が信じていても、数字を突き付けられると疑念が湧くのが人間。
ひょっとして、ほっといてもいいんじゃないかと、日和見根性が首をもたげてくる。しかしまだ疑いも根強い。
おりしも、今日もまたエプロンを使う機会がある。今度こそ真偽を見極めてやると、子供はそっと裁ちばさみをポケットに忍ばせ、授業へ臨んだ。
そしてお湯を沸かす段になり、あえてコンロにエプロンをこすりつける形で立っていた子供に機が訪れる。
かがもうとして、引っかかるポケット。身体を押しとどめる強い引き。はばかりなく響く腹の虫。
そのいずれも観測しきらないうちに、自分の手はズボンの中へ伸びている。
抜くやキャップを取り払い、その刃をいまだコンロに引っ付き、大いに伸びたポケットのど真ん中にあてがうと、バツンと大きく閉じ合わせた。
洪水が起きる。
それも「ジャー」とか「ザバザバ」といった、水の成すものではない。「ポロリ、ポロリ、コンコンコン……」と、細かい粒がこぼれる音。
ポケットの中から出てきたのは、大量の砂金だったのじゃ。しかしいずれも血のりに汚れ、腐臭めいた香りをまとう。周りの誰もが目を見張り、鼻をつまんで、拾おうと動く者はひとりもおらんかった。
そして裁ちきったポケットの切れ端。その裏には血のり以外にも、なまこめいたふくらみがぴっとりとへばりついていたという。そしてはがれたポケットの真下、エプロンの裏側の服にも血がにじみ、更にめくってみると昨日はなかった、血を流す小さい穴が開いていたそうじゃ。
せいぜい安全ピンを刺した程度の、小さい小さい穴ではあったがな。
それからしばらく、事件を疑われて、親である知り合いも相当な面倒を被ったらしい。
今でも、思い出したくない部分がある、と苦々しい顔で話すから相当なものじゃろう。
どうにかいまは普通に暮らせとるし、子供も同じようなことは起こらずに済んでいるらしい。
わしが思うに、子供の身体はポケットを介して、砂金を溜める金庫代わりに使われていたのではないかと思うのじゃよ。あのときは、それこそ身体の深くまでポケットが届いて負ったのじゃろうな。