クリスマス
12月24日、クリスマスイブ。
エリカと悪魔を乗せた旅客機が、イタリア北部にある商業の中心地、ミラノのマルペンサ空港に着いた。
「まあ、綺麗、絵に描いたような素敵な街並みね」
空港を出ると、ミラノを象徴する高さ108メートルのミラノ(ドウオモ)大聖堂が二人を迎え入れた。
世界最大級のゴシック建築。天に向かって真っ直ぐに伸びる135本の尖塔が印象的な建物で、ステンドガラスや彫刻、巨大な石柱に囲まれた大聖堂内は、神聖な雰囲気が漂っていた。
階段を登って、エリカと悪魔は聖堂の上からミラノの街を一望した。
「ねえ」
とエリカは振り向いて声を掛ける。
「なんだ? 今度はどんな願いを叶えて欲しいんだ」
「そんなんじゃないわよ……ただ」
「ただ、なんだ」
「悪魔って、すっごく長生きするのよね」
「ああ、死なない。永遠にな」
「そんなに生きられるなら……付き合ってよ」
「だから、こうして付き合っているだろう」
「そう嫌そうに言わないでよ。いいじゃない、私は生きて、精々五十年。でもあなたは死なないんでしょう。少しぐらい、今日一日ぐらい付き合ってよ」
「そうだな、お前には興味があるし、何より面白い」
「何よ、面白いって。そこは、好きになったって言わないと、雰囲気が台無しじゃない」
口を膨らませてエリカは言った。
「デートなんだから、ナポリの、本場のパスタやピザを、お洒落なワインを飲みながら食べたいんだけれど、一人で食べても雰囲気でないし、つまらないわよねぇ~」
と嫌味を言いなが悪魔を見る。
「仕方ないだろう、欲しくないんだから」
「欲しくないんじゃなく、肉以外は食べれないんでしょう。素直に言いなさいよ」
次に向かったのがサンタ・マリア・デッレ・グラシィェ教会。
世界遺産にも登録されているカトリック教会の聖堂である。
エリカのお目当ては、修道院の食堂にあるレオナルド・ダ・ビンチの大作、『最後の晩餐』を見ることだった。
一生に一度、もう見ることはないだろうと、この機会に出来るだけ見て回ろうと決めていた。そして、人生で最高の思い出として残るために、今日一日は何も考えずに楽しもうとエリカは考えていた。
悪魔の忌み嫌う神が書かれている最後の晩餐。
「予は、行かないからな、意地でも行かない。絶対にだ」
駄々をこねて行こうとはしない。
「そんなに嫌なの……」
「ああ、行かない」
頑として、首を縦に振らない。
「仕方ないなぁ。じゃあ、一人で行くね。ちゃっちゃっと見てくるから、少し待っていて」
悪魔に貴重な時間を退屈させてはならないと、エリカは駆け足で修道院の食堂に向かった。
最後の晩餐の巨大な壁画の大きさに驚くエリカ。
絵画に興味がなかったものの、その画力に引き付けられ、つい見入ってしまう。
迫力ある名画を見ていて、ふとエリカは思った。
確か、レオナルド・ダ・ビンチって、モナリザも描いたんだっけ……。
モナリザの絵を頭の中で思い浮かべ、そして国立新美術館に仕舞っていた悪魔の絵と比べる。
レオナルドが16世紀に描いた肖像画の『モナリザ』
ルーブル美術館が所蔵するモナリザは、世界でもっとも有名な絵画とされている。
作風が、輪郭のぼやけ具合が似ている。――まさか、悪魔を封じたのは、レオナルド?
エリカがスマホでモナリザを検索する。
すると、1974年に来日したとあった。
一度来たことがあるんだ。モナリザの絵と一緒に来て、その時に美術館にまぎれ込んだんだわ。
ルネサンス期を代表する芸術家であり、飽くなき探求心と尽きることのない創造を兼ね備えた人物。
画家としてではなく、万能の天才と呼ばれるレオナルドは、様々な分野に優れた発明家でもあった。
絵のタッチが、悪魔の絵に似ている。封印したのがレオナルドだから、駄々っ子のように嫌がって……来たくなかったのかな。
素直に言えばいいのにと、エリカはクスっと笑った。
確か、火山の噴火で生まれたと言っていたわね。もしかして、ポンペイ?
またまたスマホで調べる。
西暦79年、ベスビオ火山の大噴火。火砕流によって、一瞬にして地中に埋もれて消滅したポンペイの町。
だとしたら、年齢は1940歳じゃない。
彼は噴火と共に人々に災いをもたらす悪魔、地獄の使者として、この世に生を受けた。人間とは違う、自然の猛威、でも彼は悪くない。彼も言っていた通り、悪魔の存在は、自然の摂理なのかもしれないな……。レイは、ながぁ~い歴史と共に生きて、ものすごぉ~く頭がよくって、誰よりも強い。あと彼に愛、人を慈しむ心があれば、神に近い存在になれるんだけれど、愛という言葉は、悪魔には一番に合わない言葉よね。愛だけは変えられない。だって、レイは悪魔だもの……。ダメ、ダメよ、考えちゃ。
とエリカは軽く頭を叩きながら、
レオナルドさんに絵の中に閉じ込められ、ずーっと我慢していたんだもの。好きに、自由にさせてあげなきゃ……。今日は、今日だけはそのことを忘れようと、楽しむために来たんだから……。
そう自分に言い聞かせ、
あっ、いけない。レイは退屈なのが一番苦手なのよね、早く戻らなきゃ。
慌ててエリカは悪魔のもとへ向かう。
退屈そうに待っている悪魔を見て、思わずエリカはクスッっと笑った。
「何がおかしいんだ?」
「秘密よ」
「で、次はどこに行くんだ?」
「この国の、イタリアの首都、ローマよ」
ミラノ中央駅から、イタロの高速鉄道に乗ってローマに向かう。
定刻通り三時間で、ローマの玄関口であるテルミニ駅に到着した。
ミラノでの観光に時間を費やし、すっかり暗くなっていた。
とうに太陽は地平線に落ちて、夕闇が迫る。
「すっかり暗くなったわね。でも、夜のローマも良いかも」
ローマの街はクリスマス一色に染まっていた。
中心街は華やかなネオンの光に覆われている。
「本場のクリスマス、良いでしょう」
エリカが興奮気味に言うと、
「フン、ただ目障りなだけだ。第一、何故予が、神の誕生を祝わなければならんのだ」
不満を漏らす。
古代ローマ時代の遺跡と中世のバロック建築が混在する街並み。
二千五百年の歴史と、その華やかな文化と美しさから『永遠の都』と呼ばれ、世界遺産の集中するローマ。
ローマの公共広場という意味のフォロ・ロマーノは、政治・経済の中心として栄え、ユリウス・カエサルが『賽は投げられた』と言った有名な演説が行われたのもこの場所だった。
テルミニ駅から地下鉄B線に乗って二つ目の駅。
三分ほどでコロッセオ駅に到着。
コロッセオ駅を出ると、目の前直ぐがコロッセオだった。
ライトアップされたコロッセオは迫力が増す。
コロッセオは、紀元80年、ローマ皇帝ティトゥス帝の時代に完成した円形闘技場。
古代ローマ人の娯楽施設として、中では剣闘士がライオンなどの猛獣と死闘を繰り広げたりするなど、様々な催しが開かれた。約五万人を収容できる闘技場では、中央のアリーナ(闘技場の舞台)の板張りの床の上に砂を敷き、剣闘試合などで血に染まるたびに新しい砂がまかれた……。
「残念ね、コロッセオは一番見ておきたかったところだったのに……」
営業時間は19時までで、とうに閉館していた。
残念がるエリカに悪魔が言った。
「今日は特別な日なんだろう、見れるさ」
「だめよ。いくらクリスマスだからって、勝手に入っちゃ、捕まっちゃうよ。世界遺産だし、セキュリティも万全でしょうから」
エリカの忠告も聞かずに、勝手に悪魔は入場口からコロッセオに入って行く。
コロッセオの観客席は一階から四階、アリーナを取り囲むように配置されている。
一階の観客席には貴族階級。二階は騎士。三階は一般市民。最上階には市民権を持たない奴隷や女性の席が設けられていた。
エリカと悪魔は巨大なコロッセオの最上階まで登って一望する。
最上階からの眺めは最高で、何故か悪魔が西の方を睨んでいた。
「そうだった。向こうには世界最小の国家、キリスト教の総本山として有名なバチカン市国があるのよね。有名なミケランジェロの絵画がある。見たかったなぁ」
とエリカが言うと、
「フン、そんなもの、燃えて無くなればいいんだよ」
悪魔がバチカン市国を睨み付けた。
ローマ北西部の丘の上にあるカトリック教会の本拠地。
サン・ピエトロ大聖堂内には、十字架から降ろされたキリストを抱く聖母の像を表現したミケランジェロの代表作『ピエタ』が置かれてあり、隣接するバチカン宮殿内のシスティーナ礼拝堂には、『創世記』や『最後の審判』の壁画がある。
ふとエリカが薄暗いコロッセオの内部に視線を移すと、眼下にアリーナが見えるが、
「何あれ? 迷路みたいなものがあるけれど」
不思議そうにエリカが覗き込む。
眼下に見える地下の通路や部屋。初めて見る構造物に自然と視線がいき、興味の眼差しで見る。
「今はむき出しのようだが、剣闘士の待機所であり、猛獣を檻に入れていた場所だ」
悪魔が詳しく説明する。
闘技場の下には地下エリアがあって、大道具の倉庫や世界各地の猛獣を入れた檻、試合を待つ奴隷達の土牢などがあり、迷路のように仕切られた壁は床板の支えになっていた。
「へぇ~、そうなんだ。知らなかったわ」
と感心するエリカに、
「もっと良く見える場所に行こう」
と悪魔が言ってエリカをエスコートする。
一階北側、テラス上の貴賓席。
「皇帝の座る席だ」
悪魔の説明を聞き、
「ここに、私が座るの?」
「ああ、他に誰が居るんだよ」
ちょこんと、遠慮勝ちにエリカは座った。
「少し目を閉じていろ。面白い物を見せてやるから」
そう言われエリカは目を閉じた。
しばらくすると、
――何か人の声。歓声?
「ねえ、目を開けてもいい」
「ああ、その目で見てみろ」
ゆっくりと目を開ける。
「ここは?」
真昼のように明るくなっている。
耳をつんざくような歓声が聞こえ、何故か大観衆に包まれていた。
一枚の布を体に巻き付けただけの服を着た、明らかに現代ではない。
「二千年前の世界だ。過去に予が見た、記憶の映像だがな」
「これが、映像なの……凄い……。あれ? なんで水に浸されているの」
いつの間にか中心部の闘技場が満水になっている。
「ハハハ、なんにも知らないんだな。そもそもあの競技場は、剣闘士による試合だけではなく、海戦用にも造られたのだ。血生臭い剣闘士の決闘より、こっちの方がお前には向いていると思ったからな」
血生臭い剣闘士競技が行われていたと思っていたエリカにとって初めて聞く模擬海戦。
悪魔の言った通り、ゲートから船が出て来た。
両舷に数多く備えられた櫂。人力で櫂を漕いで進む軍船はガレー船と呼ばれる古代の軍船。
「私、コロッセオって剣闘士の戦いだけかと思っていたんだけれど、プールにもなるんだ。二千年前なのにコンクリート造り。日本だと精々、土を混ぜた土器ぐらいだもの」
感心するエリカ。
木製の床を取り外し、ローマ水道より引いた水を張り模擬海戦を上演する。
死刑囚二万人に海の兵士の格好をさせ、二組に分かれて船に乗せて、どちらかの船が沈没するまで激しい殺し合いをさせ、その模様を見て観客は楽しむ。海戦は歴史上で実際に起こった戦いを模して行われた。
「こうして模擬海戦を見ていると、人間っていう生き物は、残虐性を秘めているものなのね」
「ほう、今頃気付いたのか」
「殺し合っている姿を見て、喜んでいるんでいるんだもの。私の体の中にもその残虐性が秘めているのかな。そう考えると、悪魔であるレイと人間である私達って、仲良くやっていけそうな気がするの。共に歩んでいけると思うのよ」
「さあな」
それは人間次第だろうと言わんばかりにエリカを見た。
コロッセオを出て、次にエリカが向かったのはトレビの泉。
細い路地を抜けると現れる華やかな噴水。
テレビや映画で目にすることの多いトレビの泉は、美しい彫刻で装飾されたローマ最大の噴水。後ろ向きでコインを投げ入れると、もう一度ローマを訪れることが出来るという言い伝えが有名で、コインを持った観光客で賑わっていた。
「トレビの泉は入場時間の制限がなかったから良かったわ」
昼間とは違うライトアップされたトレビの泉に、エリカは目を輝かせて見入っていた。
ポーリ宮殿の前に広がるトレビの泉は、古代ローマ時代、皇帝アウグスツゥスア造らせた人工の泉。
単なる人工の小さな池。悪魔には良さが分からない。
「恋人との永遠の愛を願う人は、コインを二枚投げると良いんだって」
トレビの泉といえば欠かせない儀式がコイン投げ、エリカが説明する。
泉に背を向けて投げ入れるコインの数で願いが変わると言われ、コインを一枚投げると、もう一度ローマを訪れることが出来る。二枚投げると、愛する人と永遠に一緒に居ることが出来る。三枚投げると、恋人や伴侶と別れることが出来る、と言われている。
また、教会へと続くスペイン広場。
ローマ中心街にある世界遺産にも登録されているスペイン広場は、ローマを訪れたら行っておきたい人気の観光名所。
135段の波打つスペイン階段を上った先にトリニタ・デイ・モンティ教会が。南側にはブランド店が建ち並ぶコントッティ通りがあり、多くの観光客で賑わっている。
コントッティ通りは首都ローマの繁華街の一つで、スペイン広場の舟の噴水前からコルソ通までの三百メートルほどの路地。そこには世界的なファッションブランド店が並んでおり、ローマでも有名な高級ショッピング街となっている。
すっかり映画の主人公にでもなった気分。
傍らには、悪魔だが理想の男性が居る。
あれも見たい、これも見たい、とエリカのわがままに付き合わされる悪魔。
それを受け入れる悪魔も楽しんでいるように見える。
どんな苦境に陥っても、『良いじゃん!』と、全てを受け止めてしまうエリカの笑顔に、悪魔は恋に似た気持ちと、放れたくない気持ちが高まっていく。
「ねえ、私達人間と仲良くは出来ないの?」
「前にも言ったが、予は影のような存在だ。影が自由に生きるためには、人間どもを倒さなければならない宿命なんだ。共存など出来ぬ。考えても見ろ、予達を拘束した兵士共を。同じ人間同士でありながら考えが全く違うではないか。しかも、何百年も争い続けている。尚更、悪魔と人間とは相容れない存在ではないか。だが……」
「だが? なによ」
「だが、お前が生きている短い間に、予の考えを変えさせるんだな」
「でも、たった一日じゃー……」
「なら……」
悪魔の言葉を遮り、
「いや、そんなことは出来ない。ずっとそばに居てよ、なんて」
自身に言い聞かせるように言ってエリカは笑みを見せる。
「あなた、この場所は詳しいんでしょ、色々と案内してよね。全てを忘れる位に楽しみたいの。朝になるまでの間、彼氏彼女として付き合ってよ。始発電車が来るまでの間、思いっきり楽しもましょう、最後のお願いだから」
午前零時。
すれ違う人々から『メリークリスマス』と声を掛けられ、「メリークリスマス」とエリカは挨拶した。
周りのカップルに刺激され、エリカは強引に悪魔と腕を組む。
ロマンチックな夜の街。とめどなく流れる人波の中、二人はクリスマスで賑わう夜のコンドッティ通りへと消えて行った。
やがて、しらじらしく夜が明けてきた。
25日の朝を迎え、二人に別れの時が迫っていた。
沈黙の時間が流れる。
その沈黙を破るように、突然、立ち止まったエリカが、
「世界征服とやらを、頑張ってね」
と悪魔に言った。
「見送りはいらないから。だって、この先、あなたを頼れないでしょう」
「しかし……」
「心配はいらないよ。ドジで駄目な私でも、これからは、一人でやってけるから。なにせ、悪魔であるあなたと一緒に過ごしたんだよ、誰にも経験しかことのない体験をしたんだから」
これで良い。悲しくなんかない。それが二人にとって最善の選択だもの。
辛さを押さえ、プルプルと震えるエリカは、悪魔に気付かれないように、あえて笑顔で言って、見事に演じ切った。
エリカの、
「人間にはなれないの?」
との問いに、
「なれるさ」
悪魔は迷わずに言った。
その言葉を最後に、二人は分かれた。
悲しさを堪え、エリカは一人で帰国の途に着くためにローマの南西のフィウミチーノ(レオナルド・ダ・ビンチ)空港行きの地下鉄の電車に乗り込んだ。
短い間だったけれど、悪魔と一緒に居られ、親しくなった。
人間と悪魔。それを越えて二人を繋ぐものがあるのだとエリカは思った
でも、これでもう二度と会うことはないのだと思うと目頭が熱くなり、涙がこぼれそうで上を向いて必死に堪えた。
車窓から悪魔の姿が見えた。
まさか――。
見間違えではなく、ホームに悪魔が居た。
馬鹿! なんで来るのよ。気持ちが揺らいじゃうじゃない。必死で忘れようとしているのに。
いつになく真剣な表情を向けている。
悪魔の姿を見て、今まで必死で堪えていた涙が、堰を切ったように一気に溢れ出てきた。
発車のベルが鳴る。
ゆっくりと電車が動き出す。
悪魔がエリカを追って歩み出す。
エリカも隣の車両に渡り、また次の車両、最後尾の車両まで行く。
そして、車窓から悪魔の姿は消えた……。
次週で終話になります。最後まで読んでいただけると幸いです。