17。ありがとね。
ちりりりりん。
熊ベルの音に眠りから掬い上げられる直前、イッタは懐かしい声を聞いた。笑いながらでも大真面目な彼女の様子が、生き生きと蘇った。
「ほら、熊ベル。これもう怖くないでしょ?熊だって、お化けだってこの音で逃げていくんだから。」
いつの間にかイッタがお化けのことを怖がっていることを知ったハナは、ある時突然、熊ベルを買ってきて居間の梁に吊るしてしまった。夜中に突然鳴ったりするので、逆に怖かったが、ハナの優しい気持ちが嬉しくて、そのままにしていた。イッタは熊ベルの音を聞くたびに、ハナの声を思い出した。
おはよ。
いってらっしゃい。
お帰り。
おやすみ。
何気ない、何気ない、日常の繰り返しを現す言葉。句読点のようにしょっちゅう現れて、邪魔に思うときもあるが、なくなるとすべての意味が失われてしまう。なくてはならない言葉たち。ベルの音を聞くたびにそれは、イッタのことを励ましてくれた。
ちりりりりん。
ベルの声に掬い上げられて、イッタは目覚めた。
目覚めて初めて寝ていたことに気がついた。泣き疲れて寝るなんて、ハナが見たら笑うだろう。居間に僅かにタバコの香りが残り、昨夜の出来事を肯定していた。その香りは、白丸の存在を裏付けていた。ふと、まだそのあたりに白丸がいるかもしれないと考えた彼は、家を飛び出した。お礼を言わなくては。イッタは家の前の道路で左右を見渡す。白丸は居ない。そこには、昨夜のような不思議な空気は何処にもなく、何処にでも有る住宅街の朝が大人しく拡がっていた。
今、朝に包まれて、漸く彼は理解した。言葉ではなく、感覚として理解することができた。昨夜、彼が血の色の翼で、皆が必死に渡ろうとしていたのは天の川ではなく、三途の川だったのだ。死者と生者の国の境を決める大河だったのだ。あのカエルはハナとの約束を守るため、イッタを連れ戻すために現れたのだ。弱虫イッタが死んでしまわないように、ハナの代わりに助けに来たのだ。三途の川の向こう岸に行ったり、潰れてぺしゃんこになってしまわないように。
イッタは白丸にお礼を言いたくて周囲を見渡した、当然、白丸は居ない。イッタは暫く、家の前をウロウロしたが、どうしようもなかった。白丸にお礼を言う事を諦めて、家に戻ろうとしたイッタは、ふと気づいて思わず声をあげた。
「は?」
イッタは我が目を疑った。アスファルトの上でカエルが死んでいた。車に潰されたのだろう。すぐ横にタバコが落ちており、同じ様に潰されていた。スーツは着ていなかったが、カエルの額には白い丸があった。
「……まぢか。」
住み慣れた住宅街は、涼やかな空気に包まれていた。夏が大きく大きくなっていくのを予感させる、どこかわくわくする空気だ。空に雲はなく、世界は天に向かい高く抜けていた。空を飛ぶ可哀想な人々も今はいない。アスファルトはどこまでもアスファルトで、亡者達が潜む隙間など無かった。昨夜、白丸はアシタシンデシマウカモシレナイ、とイッタに告げた。だから、自分の信じる所を信じて進むしか無いのだと。確かに、とイッタは想った。そして、不謹慎にも笑ってしまった。魔術師でさえ、死を避けて生きる事は出来ないのだ。自分ごときが何を出来るというのだろうか?自分は弱虫だ。力んでも仕方がない。そうだ、信じて歩いていくしかないのだ。行き先や歩く理由は自分で作り出すしかない。誰も、何も、与えられることはない。
そうだよね。いいんだよね、ハナ。ごめんね。ありがとね。
ハナに話しかけながら、イッタはカエルの死骸を見つめた。昨夜の数々の白丸の不遜な言葉を思いだして、また、彼は笑ってしまった。彼でさえ、死んでしまうのだ。彼の死は何故だか、当然で真っ当で、正しいことのように感じられた。それは、希望を示唆していた。僕たちは、永遠を生きるような化物になるべきではなく、生まれては死んでいく、世界の一部であるべきなのだと教えてくれた。全てはあるがままであることを許されているのだ。イッタはあははは、と笑った。
早朝の澄んだ空気を揺らして、イッタの笑い声が彼らの住む街の中を通り抜けて行った。確かに辛いことが多く、逃げたしたくもなる。時は巻き戻せず、だから、後悔は続く。闇は深く恐ろしい。でも、イッタは、感じていた。
……世界は想うより明るいのかも知れない、と。
早朝の街の中で、名前も知らない小鳥が囀り、夏はちょっとずつ膨らんでいった。どこか遠いところで、ベルが鳴った。
さよなら、イッタ。元気でね。もう泣いちゃダメだからね。