16。こころのうちからあふれだす。
着地の瞬間、どおんと花火の音の様な重い振動が彼の世界を揺らした。イッタの両肩に世界の重みが覆い被さる。みしみし、めきめき。彼を押し潰そうと押さえつけて来る。だが彼は必死にその力と戦い拒絶した。すべてを振り払うかの様にイッタは踏み堪えて、潰されそうな身体を起こした。耐え切ったのだ。彼は立ち上がった。
が、周囲のアスファルトがめくれ上がり、彼を呑み込もうと覆い被さってきた。水に落ちた雫を覆う王冠のように。アスファルトの薄い闇は、イッタを取り囲み飲み込もうとした。闇の中には、薄っぺらな人々が苦痛の笑みを振り撒いていた。イッタにのしかかる。彼の頭上で世界が閉じる、直前、
「お疲れ。」
白丸がイッタの頭上に最後に残った世界の空隙から顔を出し、彼を労った。白丸はけろけろと笑う。それが合図だった。
ぽん。
薄い闇の世界が破裂した。シャボンの様に。
破片の一つ一つに無数の薄っぺらな人々が、閉じ込められていた。それらは笑い声とも泣き声とも判断できない叫びをあげながら、闇と共に消えていった。消え去っていく闇の世界のカケラを体中に浴びながら、イッタは疲れ果て、その場に跪き、両手をついた。息が切れていた。喉がカラカラで痛い。首がヒリヒリする。体中がしびれている。喉が詰まっていた。必死に空気を求めて喘ぐ。首がとても痛んだ。
首が?
ちりりりりん、と熊ベルがなった。
イッタは自分の首から、ネクタイの様にぶら下がるビニール紐を見て、我に返った。そのままの姿勢で見上げる。
見えたのは、二人の家の天井。
破裂した闇の外側には、小さな大切な二人の家があった。剥き出しになっている居間の梁には、ささくれがあり、それがビニール紐を引き裂いたのだ。椅子を蹴り倒し、首を吊って旅立とうとした瞬間を思い出した。カエルの王様や鰤の化け物は、全て幻だったのだ。生と死の狭間の世界での出来事だったのだ。彼の魂の内側での出来事だったのだ。
イッタはゆっくりと立ち上がる。何故どうして何が彼の死を阻んだのか彼にはわからなかったが、そう言うこともあるのだと、理解した。それで充分だ。何かが……誰かが……何かを望み、イッタの首紐は切れて、彼の命は繋がったのだ。
ちりりりりん。
熊ベルが鳴る。
ちりりりりん。
開けっ放しの居間の大窓からゆっくりと風が入ってきている。夜風に熊ベルが揺れている。イッタは、風に誘われるように、振り返った。居間の大窓とその向こうにある庭を見る。外は昏く、彼の顔がガラスに映っていた。笑っているのに苦しんでいる、逆さの顔が。
「俺はいるぞ。何処にでも、だ。」
イッタは逆さまになってしまった自身の顔を確かめるように両手で顔をまさぐった。ちがう、逆さではない。ガラスに映る逆さ男はガシャガシャと笑った。彼はそこにいた。少し不愉快そうだ。逆さ男は二重ガラスのあいだに存在していた。背後の庭ではいつの間にか、パンダが気狂いの貧乏揺すりをしている。
「俺は狭間の王。光と闇、生と死の狭間の王国にいる。俺はそこではロロクエストラムダと呼ばれる。俺は諦めた訳じゃ無い。待っているぞ。おまえが俺に苦痛を差し出してくれる日を。待っているぞ。冷たい魂を抱えたまま、俺に跪く日を。いや、それとも……。
逆さ男は黒い腕を差し出した。ガラスから突き出された腕は、イッタの前で掌を上に向けられている。
「それともやはり、今、来るか?連れて行ってやってもいいぞ。何が有ると言うのだ。最愛の人を見捨てたおまえの人生に、何が残っていると言うのだ。死ねばいいと思わないのか?思うだろう?そうだろう?最早おまえには働いて死ぬだけの人生しか無いのだ。苦しいぞ。辛いぞ。それは必要なのか?それは人生と呼べるものなのか?どうだ?俺は必要だ。おまえが。お前の苦痛が欲しい。さぁ?どうだ?来るか?来るのか。そうだろう。当然だ。ようこそ。ああ、俺は幸せだ。ありがとう。そうだ、パンダも歓迎している。さてさてでは、早速、跪くのだ。跪け。」
イッタに返事をさせる隙を与えずに、逆さ男は、手を伸ばす。イッタの頭に長すぎる6本の指が生えた手を乗せた。そのままぐいぐいと、イッタを押さえつけて、ぺっしゃんこに、
「割れろ。」
白丸の命令が響いた。居間の大窓は砕け散り、逆さ男はまたしても小さな悲鳴だけを残し、家々の隙間に拡がる闇に、吸い込まれていった。汗だくになってイッタは床に崩れ堕ちた。激しく息を切らしていた。白丸は落ち着いた様子で、イッタに告げる。
「心しておけ。奴は、狭間にいる。あらゆる隙間を埋め尽くす闇だ。忘れるな。貴様が世界の垣根を越え様としたことを、奴は忘れない。永遠に、だ。奴は貴様に目をつけた。貴様の苦痛を欲しがっている。奴は諦めない。決して。心しておけ。奴を遠ざける事が出来るのは、貴様の意思だけだ。ここから、世界に立ち向かう、その意思だけが狭間の世界を遠ざけるのだ。」
イッタは少し恐ろしくなった。またいつか薄い闇にとりつかれた時、僕はああいった者たちに立ち向かえるのだろうか。意思を維持出来るのだろうか。ひとりで戦えるだろうか。イッタはキッチンカウンターの上で威風堂々と仁王立ちする白丸を見つめた。彼の冷たい瞳は、助けるのはこれっきりだと明確に伝えている。イッタは、助けを求めることが出来なかった。
「さて、中々楽しかったぞ。イッタ。私はそろそろ帰る。全ては貴様が決めればいい。此処に居たければいれば良い。行きたければ、それでもいい。私はカエルの王で魔術師だ。そう、世界の摂理を曲げる力を持っている。その私でさえ、時は戻せぬし、明日、うっかり死んでしまうかもしれないのだ。運命は存在し、覆ることはない。運命はただ、拡がり、姿を現すことはない。だから、みな、其々に其々の気持ちだけを信じて進むしか無いのだ。後悔も有るだろう。苦痛がまとわりつくことも有るだろう。でもな、だがな、そうだからこそ、貴様も貴様の信じる所を信じて進めばいいのだ。さぁ、夜が明ける。私はもう、行かなくては。」
イッタは大切な何かを言おうとして言えず、別れを引き延ばす為につまらない質問をした。
「あのさ。なんで助けてくれたの?何故、僕の事をほおって置かなかったの。」
白丸は偉そうに異次元ポケットから、タバコを取り出し、火をつけた。煙を吐き出しながら、答える。
「ハナとの約束だ。ハナは貴様が我らの同類を助ける度に手を合わせて祈っていた。仲間の命を助ける代わりに一つだけ、あたしの願いを叶えなさい、とカエルの神様に祈っていたのだ。全く人間とは図々しいものだ。」
確かに図々しい。ボクがカエルを助けたのに、ハナの願いを叶えろだなんて。
「で、何て願っていたの?ハナは。」
ふーっと、白丸は煙を吐き、興味なさそうに答えた。
「イッタは弱虫だから、助けてあげて。彼は弱いから、助けてあげて。と、いつも祈っていた。ただ、それだけだ。ハナは、全ての命を信じていた。全ての内に広がる魂を信じていた。八百万の神々を敬っていた。今時の人間にしては、珍しい。我々魔術師は、ハナのような全ての命を信じる存在の想いを力に術を行うのだ。だから、彼女達のような存在を無視出来ない。彼女は正しく、強く、美しかった。だから特別に願いを叶えることとした。貴様は小さい男で助けるに値しないが。」
イッタにはよくわからなかったが、涙が零れた。ハナの声が彼の脳内で再生される。
……イッタは弱虫だから、助けてあげて。
その瞬間、確かに彼女の柔らかにざらつく声が聞こえた。もう枯れたと思っていた。彼女が死んでしまった時、泣いて泣いて身体中から、涙が出て行ってしまったと思った。でも、また、涙が零れた。悲しいのか、さみしいのか、嬉しいのか、イッタにはわからなかった。ただ、心がざわめいて、ハナを求めていた。どうして僕は泣いているのだろう。どうして。ああ。なんでだろう。一体……
……この涙は何処から来るんだろう。
イッタにはわからなかった。白丸は、何も言わず、イッタが泣くままにして、居間から立ち去った。振り返らず、煙を吐きながら、玄関のドアを開けて、去って行った。白丸は、やれやれと、ネクタイを少しゆるめながらアスファルトの上を、道路のど真ん中を、堂々と歩いて行った。
イッタは、二人の家で、静かに泣き続けた。そのうちに東の空に白い光が現れ、水が流れる様に夜の闇を攫っていった。朝靄を打ち払い、世界は目覚めていく。そう、いつもと同じ朝が、世界を起こしていった。