13。永劫。
飛んでる……
イッタは一瞬、何もかもを忘れて飛翔し、世界を満喫した大勢の人々と共に、星々の大河を天の川を渡り、越えていこうとしていた。気づくとすぐ隣に白丸が飛んでいた。大空で平泳ぎをしている。けろけろと笑いながら泳いでいる。周りを見渡すと同じように翼を得た人々が、何かと共に夜空を飛んでいた。虫だったり、小動物だったりと、彼らの相棒は様々だったが、恐らくペットであるとか、家族同然の存在であることが彼らの表情から想像できた。犬や猫や盆栽等、人々と共に暮らしながら、人々ではない存在全てが彼らに、彼女らに付き添って一緒に飛翔していた。人々に付き添っている存在は、白丸が言っていた、囁く者なのだろう。イッタと白丸も同じだった。イッタの隣を飛ぶ、翼をもつ子供と小さな犬の会話が彼の耳に入った。
「がんばれ!がんばれ!」
燕尾服に身を包んだフレンチブルドッグは、子供を励ましていた。子供は聞いてか聞かずか、必死に翼を夜空に打ち付けて、上昇していく。
「もう少し!もう少し!」
フレブルは子供を応援する。子供は苦しそうだ。それでも必死に翼を動かしている。よく見ると子供は大怪我をしていた。血を流し、包帯を巻いている。両手の翼は血の染みた包帯で出来ていた。何故、今まで気がつかなかったのだろう。とても苦しそうだ。それでも、犬はふぁいと、ふぁいと、と子供の応援をして、彼を高く高く誘っている。子供は頑張っている。歯を食いしばり目を見開き必死に、羽ばたき続けている。身体を痙攣させながらも頑張り続ける。そうやって彼らはゆがんだじゃがいものような月に少しづつ近づいていく。イッタは漸くこの輝くゆがんだ物体は月ではないのかもしれないと思った。なんというか、全く別のどこかにつながる、あらゆるドアのような存在なのだと直感した。犬と子供はそこを目指しているのだ。でもそこは……
「そうだな、生の世界ではない。あらゆる意味でそこは死の世界だ。こちら側から見た場合。」
イッタはそれを聞いて彼らを止めようとした。そんなに苦しんで死に向かって進んでなんになるのだろうか。なんにもならない。早く止めなくては。急ぐイッタの目の前で、突然、子供の翼が折れた。羽が抜ける。犬は悲痛な悲鳴を上げる。
「残念だ。」
白丸はつぶやくが、何もしない。犬も落ちていく子供を助けることはしなかった。呆然とするイッタの目の前で子供は堕ちて……アスファルトの上を這いずり回る薄っぺらな人々に向かって、落ちた。
……ぺしゃん。
子供はぺしゃんこになり、恨めしそうに大空を羽ばたく人々を眺め、厚みのない腕を差し出す存在となった。呻きながら厚みのない腕でイッタを手招きしている。イッタは恐ろしくなり周りを見渡す。いびつな光に飛び込むもの、落ちていくものそれらが音もなく延々と繰り返されている。上も下もなく、始まりも終わりもない永劫そのものだった。何百、何千、億千万の繰り返しだ。それは右往左往する蟻の群れにも似たざわめきだった。上り、落ちる人々に圧倒されたイッタは、白丸に助けを求めて、彼を見た。
だが、そこには助けは無かった。
「さて、貴様も次の選択をする必要がある。光に飛び込むか、うすっぺらになるか。それとも。」
白丸はそこで言葉を止めた。縦に潰れた瞳でイッタを見つめる。宇宙のような夜空の中、落ちていく人々と登っていく人々のあいだで彼らは静止していた。
イッタは言葉もなく、白丸を見つめる。白丸はその視線を真っ向から受け止めて、イッタのことを見つめ返していた。ハナが死んでイッタの人生は意味を失った。色も音も味もなく、その存在が失われていた。死んでも良かった。辛いのなら。こんなに苦しいのなら死んでも良かった。何の意味があるというのだろうか。生きて死ぬだけの人生に。ずっと辛いのなら、今すぐ、終わらせたほうがいい。きっとそうだ。みんなもそうだろう。これが続くのなら死んだほうがマシだと思えることがあるよね。ぼくだってそうなんだ。ハナのことを見殺しにしておきながら、生き続けるのは辛い。ハナとのたった一つの約束さえ守れなかった自分が心底嫌になってしまった。死んだっていいんだ。今すぐに。
そう、想っていた。
そう、勘違いしていた。
いびつな光に飲み込まれていく人々を見て、
アスファルトの上の厚みのない世界にとらわれている人々を見て、
永劫の夜空を飛び続ける人々を見て、理解した。
漸く。
死と直面する人々の様子を見て、恐ろしくなった。
そして、理解できた。
死んでもいいと思えたのは、死のなんたるかを知らなかったから。
死は、怖い。恐ろしい。苦しくて、冷たい。
今の僕にはまだ、到底受け入れがたいものだ。
大空を飛び、落ちて潰れる人々、光に向かい必死に飛び続ける人。世界は人で埋め尽くされていた。きっと、向こう側もそうだろう。人だらけで、何からも逃げきれないのだ。目の前の苦痛から逃げ出したとしても、次の苦痛が待っているだけなのだ。そうだ。いる。どこにでもいる。延々と不平不満を並べ立て、まくし立て、自分の正当性だけを主張する人が。不満がなくなれば、次の不満を探す、次の憎しみの種を蒔き、呪いの水をかけ続ける。呪いを吐きかける相手を、自分は優れているのだと勘違いさせてくれる対象を探し続けて、日々の中を這いずり回る人々が。イッタもそうだったのだ。死んでもいいと言い訳をして、逃げ出そうとしていた。ハナを悲しませた責任を取りたくなくて。全てを終わらせたくて。でも、終わらないのだ。ひとつの不満の終わりは次の不満を連れてくる。死は通過点に過ぎず、次の生を運んでくるのだ。終わらない。ここから、この苦しみから逃れようとしても次の苦しみにたどり着くだけなのだ。死んでもまた生まれ、次の生を生きて死ぬのだ。苦しみから逃れたいのなら、それと向き合うしかないのだ。そうだ。それしかない。イッタが逃げ出そうとしていた世界の先には、永劫の大空と溢れかえる人々がいて、それでも、皆、終わらない苦痛と戦っていた。必死に羽ばたきながら。厚みを失いながら。イッタは想う。そうだ。想った。
ハナ、ごめんなさい。ボクは、君との約束を守れなかった。君を守れなかった。ボクは……
イッタの真紅の羽は一つ、また一つと抜け始めてぼろぼろと失われていった。それに伴いイッタは少しずつ、高度を下げていく。大空をさまよう亡者からは遠ざかるが、アスファルト上の厚みのない亡者の世界が近づいてくる。イッタはどんどん加速していく。このままでは、アスファルト激突し、ぺしゃんこになってしまう。イッタは泣きながら、叫び、もがいた。嫌だ、嫌だとだだをこねる。落ちることに?ハナを失ったことに?自分の弱さに?いずれにしろ、それは誰にも聞き入れられず……
「うまく着地しろ。」
鉄塔の鋒の白丸は祈るように呟いた。かれの背後では星々が爆破したかのように散りばめられ、瞬いていた。