12。血の翼。
「そのままでは堕ちるぞ。貴様は死ぬ。意識しろ。選択するのだ。」
イッタの意識とは無関係に彼の体がくるりと向きを変え白丸と向き合った。白丸は鉄塔の上にあぐらかいて座っていた。表情のない潰れた瞳でイッタのことを見つめている。白丸は吸盤の付いたまあるい指先で空をさした。
「飛ぶのか、
今度は下を指す。
堕ちるのか。」
白丸の指が指し示す方を見たイッタは、ニヤニヤ笑う逆さ男に気がついた。その隣では、パンダの乗り物が狂気じみたテンポで身体を前後に揺すっている。逆さ男は大好きなスイカをを大きな手で鷲掴みにし、口いっぱいに頬張っては、咀嚼している。とても汁気の多いスイカを食べているようだ。赤い汁が吹き出している。飛び散っている。満面の笑みを浮かべて、スイカを頬張り、垂れてくる果汁で、逆さの顔中が真っ赤だ。汁を浴びて喜ぶその顔は、しかし、逆さで、不機嫌そうに苦痛で歪んでいる。
あれ。ああ。違うだろうか?気のせいだろうか?
逆さ男が食べているスイカには黒くて細くて長い何かが生えている様に見えた。どうだろう?違うかもしれない。少し細いだけの蔓かも知れない。世界が昏くて判然としない。ああ、何もかもが、昏くてわからなくなってしまった。喉が渇きひび割れて行くイッタを楽しそうに見上げながら、びちゃびちゃバキバキと逆さ男はスイカをたべる。一つ、また一つ。またまた一つ。もう一つ。ねじ切れそうに身体を揺するパンダの乗り物に付いているヒトの瞳は、隠しきれない狂気を孕んだ笑みを浮かべている。彼らの周囲のアスファルトは、潰れた人々で埋め尽くされていた。それはどこ迄も続き広がり、まるで、まるでまるでまるで世界の大地全てを覆い尽くしているかの様だった。
イッタは金縛りのまま、目を背ける様に大空を見た。が。空も人々で埋め尽くされていた。
人。人人人。
世界は人だらけで、何処にも行く場所が無い。居場所が無い。イッタは一人だった。僕はひとりだ。世界は人で埋め尽くされているのに、それでもなお、僕はひとりだ。たった一人だ。怖い。何処に行こうと言うのだろうか?何処に行けばいいのだろうか?この旅は、何処かに辿り着くのだろうか?怖いよ。ああ……
「時間だ。行き先は決まったか?」
白丸は表情を見せずに告げた。イッタにはわからなかった。でもそして、金縛りが溶けて世界は動き始める。イッタは上げた足をそのままそっと、鉄塔から踏み出し、堕ちて……
ふっ……と、ハナを想った。
ハナのまあるい笑顔を想った。ずっと、永遠に一緒だと想っていた彼女は、小さな二人の家を飛び出して、それっきり帰ってこなかった。末期だった彼女は、血を吐いて倒れ、誰も見ていない所で死んでしまった。
「僕が長生きして、ハナの事を見送ってあげる。そしたら淋しく無いでしょ。」
あの時、イッタは約束した。ハナは沢山泣いて、沢山ありがとうを言った。ハナは淋しいのが苦手だったので、イッタのこの言葉に救われる想いだった。あたしはダイジョブなんだって安心したのだ。でも、結末は違った。冷たいアスファルトの上で、誰にも気付かれないまま、ハナは亡くなった。
……ハナ。
自分勝手だと想った。酷い人間だと想った。それでも今、イッタが思い出すのは、ハナのまあるい笑顔だった。病気に苦しみ、薬に我を忘れていたハナのことは思い出せなかった。きっとこれが、イッタにとっての真実だったのだ。イッタにとってのハナは、笑顔だったのだ。まあるい笑顔なのだ。
何かがイッタの胸から、溢れ出した。
叫びたかった。叫びたかった。叫んでいた。叫びながら落ちていた。叫び声は喉からではなく胸から、イッタの心から溢れ出していた。イッタは落ちて行く。
逆さ男は笑う。ガシャガシャガシャ。大好きなスイカを投げ捨てて、イッタが落ちてくるのを迎え入れる。両手を広げ受け止める仕草を見せる。当然、最後の瞬間には、受け止めず、叩き落とす。イッタもぺしゃんこにするのだ。ガシャガシャガシャ。パンダもその瞬間を待ち焦がれている。ぎぃぎぃぎぃ!
白丸は何も言わずただ、落ちていくイッタを見つめている。ただ、静かに。
イッタの叫びが続き、続いて続いて続いた。このまま落ちていけば、アスファルトに激突して、イッタは破裂するだろう。血を吹き出して、ぺしゃんこになるだろう。きっと、逆さ男は笑い、白丸は表情を変えないだろう。で、ハナは?ハナはどうだろう。泣くだろうか。喜ぶだろうか。彼女の心に何かさざめきが起こるだろうか?
そして、イッタの胸は破裂した。血が炎のように吹き出し、燃え上がるように全身を包んだ。まだアスファルトには届いていない。逆さ男は、表情を無くし、後ずさりして家々の隙間に溶け込んでいった。パンダは動きを止めて、また日中の陽の光の中、子供達をあやす苦行の毎日に戻る。白丸はけろけろと笑った。
イッタは燃えるような真紅の羽に包まれていた。それは大きな翼を形成し、羽ばたいていた。翼はイッタの意識とは無関係に羽ばたき、彼をぐんぐんと大空に連れて行く。鉄塔の高さを越え、先に飛んでいた仲間たちをはるかに越えて飛翔した。高く高く飛ぶ彼に、じゃがいものようにゆがんだ月がどんどんと近づいて来る。月は、ついにはイッタの世界の大半を占めてしまった。余りに強いその月の光は、夜空をうっすらと蒼色に照らし出していた。