11。鉄塔の上の世界。
「遅いぞ。」
白丸は冷たく言った。イッタは漸く、鉄塔の頂上の鉄骨に手をかけた。地上80mの世界だ。白丸は遥か以前に頂上に達しており、今は異次元ポケットから取り出した、タバコとコーヒーを楽しんでいた。彼の背後には高い高い夜空と冷たく輝く星々。世界に散りばめられた星々は、爆発を思わせる荘厳さを備えていた。その広大な天の川の拡がりを楽しむ白丸は、相変わらずつややかで美しい緑に輝いていた。
「つか、危なくない?ここ。」
「下も相当に危ないぞ。油断していると死んでしまうのは、ここと変わらない。」
ごもっとも。イッタは言葉を飲み込んだ。まぁ、とにかく、旅の終点だ。白丸が何のために現れて、どうしてここへ自分を連れてきたのか。漸く知ることができる。全てを理解する時、旅の終わりだ。息を切らせながらも何とかここまで登ってきた、イッタの体力はそろそろ限界だった。帰り道がすごく心配だったが、まぁ、でも、とりあえずは、問題ない。
「見ろ。」
そのイッタの気持ちを読み取りながらも無視して、白丸は促した。イッタは白丸が指し示す方へ……夜の世界に視線を投げた。夜空では歪に欠けた月がそれでも鋭く美しい光を放ち、海の底の様な世界を照らし出していた。鉄塔の先端に腰を下ろすイッタは空に囲まれ、空はそのまま宇宙へと繋がっていた。イッタは月の光と、大空の闇に包まれていた。光る空の中で鉄塔の頂上に座るイッタは、月を見上げる人型の穴になっていた。鉄塔の上の世界は、宇宙に浮かんでいる様な感覚をイッタに与えた。星々は高く高く重なり、果てし無く際限なく、伸びていた。その宇宙とも夜空とも区別のつかない空間を何かが飛行していた。イッタは最初、人工衛星や飛行機を想像したが、違った。それらは羽ばたいていた。翼を持ち、飛翔する大きな鳥だった。いや……
「……人?」
「そうだ。」
イッタの呟きに白丸が返した。イッタは愕然となった。両腕を翼に変えた人達が無心に羽ばたいているのだ。遠目からは暗くてわからなかったが、無数にいた。夜空は空飛ぶ人間で埋め尽くされていた。彼らの羽ばたきで、星々が瞬いている。彼らは星々の大河を渡ろうとしていた。
「初めて見るのか?まぁ、そうだろうな。彼らはお仲間だ。イッタ。貴様の仲間だ。皆、囁く者に連れられて……そそのかされて……夜空を彷徨っているのだ。どうだ?貴様も飛んでみるか?」
イッタは何か返そうとして、言葉が出なかった。月の光に輝きながら、深い深い大空を飛ぶ無言の無数の人間達。美しく、不気味だった。滑稽だが、荘厳だった。
イッタは何の判断も無いまま、ゆっくりと鉄塔の上に立ち上がった。空飛ぶ人々の姿に魂を抜き取られたようにぼんやりと立ち上がった。不思議と風はなかった。白丸は真面目な顔で、イッタを見つめる。言葉はない。イッタは少しずつ、進んで行く。鉄塔の先端へ、その切っ先へと。イッタには立ち上がり歩いている意識はなかった。ただ、ふんわりと落ち着いた気持ちになっていた。
……そうか、ここだったんだ。ここに来る必要が有ったんだ、僕は。
白丸が現れる前、イッタは、一人で旅立とうとしていたが、明確に何処へという目的地はなかった。ただ、彼はハナが居そうな場所に行こうと思っていた。でも違った。彼はここに来たかったのだ。その必要が有ったのだと、理解した。イッタはふわふわと歩き、遂に鉄塔の先端にたどり着いた。風は無い。白丸は喋らない。イッタは無心で飛び回る仲間達を見つめている。今にも踏み外そうとしている足元は見ていない。当然、その遥か下のアスファルトなどは、気にも留めていない。堕ちて潰れた人々で埋め尽くされていても。潰れた人々が薄っぺらな腕を伸ばして、イッタの事を捕まえようとしていることも、気付いていなかった。薄っぺらな腕で大地が波打っている事にも気付いていなかった。自分は飛べるものだと信じて疑わなかった。
そうまるで、そう、ハナとのささやかな生活が永遠に続くんだと信じて疑わなかったように。
そう。ハナを幸せに出来るんだと根拠のない確信を抱いていたように。イッタはみんなと同じ様に大空を飛べると信じていた。空を飛ぶ人々と同じ数の潰れた人々がいることには、気づかずにいた。公園では再び、逆さ男がブランコを漕いでいる。パンダも苛々とした貧乏揺すりを再開していた。イッタは何も気付いていない。
皆そうだ。
そうなのもしれない。いよいよ堕ちてしまうその瞬間こそ、無意識に過ぎて行くものなのかも知れない。イッタはぼんやり霞んだままの状態でゆっくりと足を踏み出し
「死ぬぞ。」
白丸が告げた。唐突にイッタに意識が戻る。片足立ちで、鉄塔の先端にいた。悲鳴も上げられない程の恐怖……いや、身体全体が硬直して、動けないのだ。イッタは金縛りになっていた。