甘い罠、苦い罠
「残念だったね」
にこやかに笑ってそう告げる僕は、君の目にどんな風に映るだろう。
机に突っ伏している君は、知る由も無いだろうけれど。
あ~あ。君、影薄くなってるよ。
せっかくの休み時間なのに。
開けた窓からグラウンドで球技に騒ぐ生徒達の声と共に入って来る爽やかな春風、君のどんよりした空気がせき止めてないかな?
まあ、当然か。
僕は横目でそっと教室の入り口に視線を投げる。だって、視界の端でずっとウロウロしてる人影がうるさいんだ。
「秋緒ちゃんの料理、おいしかった?」
ピク、と反応した人影はパッと入り口の戸の陰に張り付く。あれで気配消してるつもりなのかな。廊下を行き交う生徒達にジロジロ見られてるよ~? まあ、僕には関係ないけども。
突っ伏している君が、頭だけで頷く。ツンツンした硬い髪の頭が上下した。うん、秋緒ちゃんの名前で少し浮上したかな。
その返事に入り口に張り付いた人影がぶわわっと花を飛ばした。いや、そういう雰囲気、という意味で実際に花をまき散らしてはいないんだけど。でもキュッと拳を握ったその人影は「Yes!!」と極小さな声で幸せを噛みしめていた。
まあ、幸せなのはいいことだよね。
「で、君が味見をした料理を秋緒ちゃんは先輩に出して、君は先輩に睨まれてすごすご帰って来たと」
今度は頷くまでに間があった。先輩が怖かったのかな。まあ、あの人強面だもんね。
君は秋緒ちゃんの味見係。秋緒ちゃんが、半年前から先輩に美味しい料理を食べて欲しいからって君に頼んでるんだ。
君は二つ返事で何の気なしにOKして、最初はただ、美味しい料理やお菓子をほくほくと喜んでただけだった。
のろのろと顔を上げた君は、肩を落としてすっかりしょげ返っている。視界の端で小さな人影がおろおろと気を揉んでいるのが見えた。けれど、あんなに怪しい人影に、君は気付く様子が無い。
「ねえ、視力いくつだっけ?」
君は脈絡のない質問にコツンと首を傾げたけど、答えてくれた。
「おれ両目とも2.0だぜ?」
「視力は良いのにね」
「うん?」と君は瞬く。
幾ら視力があっても視野狭窄だよね、君。精神的に。
「美味しいんだ……秋緒ちゃんの料理」
はあ、と感嘆の溜息を吐いた君は、次に深い落胆の溜息をこぼす。
「でも、調理室で味見する度先輩超睨んでくるんだけど! あの人超怖いんだけど! 激おこだったよおれどうしたら良いの!?」
頭を抱え込んで君は再び机に伏せる。小さな人影は、ガーンとショックを受けている。仕方ないなあと僕はフォローする為に口を開く。
「でも胃袋がっちり掴まれてるんだよね」
「だって美味しいんだよ!」
「だから好きなんでしょ?」
言葉に詰まった君はやや顔を赤らめてうろっと視線をさまよわせる。大変判り易くて結構。が、惜しい。人影は間が悪いことに既に姿を消していた。気配も無い。
あ~あ、いつもこうだよ。溜息が出る。
「もういっそ告白したら?」
「出来る訳がない!」
即答かあ。あ~あ、本当に君ときたら鈍いのだから、嫌になる。
窓に流した視線が捉えた空は、せっかくの五月晴れなのに灰色に見えた。
*
「もうっ! もうっ! もうっ! お兄ちゃんのバカぁ! ヒサギくんに嫌われちゃったらお兄ちゃんのせいなんだからあ!」
聞き覚えのある小さな声に気付いて、渡り廊下を歩いていた僕は足を止める。体育館にしかつながっていないこの廊下はあまり人が通らない。放課後だから今は無人で、運動部の声やボールの弾む音、キュッキュと鳴るシューズの音なんかが響いてる。僕は帰宅部で、ただ体育館裏に通い猫が居るからエサをあげに来たんだけど。
忍び足で角に張り付いて、そっと体育館裏を覗く。こちらに背を向けている小さな人影にキャンキャン噛み付かれてる先輩と目が合った。先輩の背が高いだけで、別に女子生徒が特別小さい訳じゃない。ちょっとくせっ毛な髪を頑張って伸ばしてる、ハムスターな印象がある彼女の向こうに居る先輩は目配せをしてきた。やる気の無い三白眼のつり目が、そこを動くな、しばらく待て、と言うようにすがめられ、あごを小さくしゃくられる。了解、という代わりに頷いて僕は顔を引っ込めた。
「ねえ、お兄ちゃん。聞いてる?」
すねて甘えた声音。それは確かに妹と呼ぶべきもので、甘える事が相手に許される事を知っている声と態度だ。
秋緒、と深い溜息を混ぜて先輩は小さな人影を呼ぶ。
「……俺は何もしてねェ」
ぶっきらぼうな、ちょっとびっくりするくらい低い声だ。でも秋緒ちゃん相手には少し柔らかいんだよね。普段はもう少しつっけんどんで、強面とあいまって近付きがたい感じなのに。
だから君も怖がってるんだよね、ヒサギくん。でも先輩は君に、別に何もしてないってさ。
「……お兄ちゃん、ごめんなさい」
秋緒ちゃんがしゅんとする。
「私、ヒサギくんと仲良くしたいの。他かに何の取り柄もないから、どうしても私の作った料理食べて欲しくて」
そうそう、そこまでは良かったんだけどね。ヒサギくんは君の手料理にがっちり胃袋掴まれてるよ。
「でも、ヒサギくんと話してたら緊張して、上がっちゃって……つい、お兄ちゃんの名前出してたの……」
どんどん声が小さくなり、暗くなる。
そう、秋緒ちゃんは引っ込み思案で恥ずかしがり屋で、誰とも打ち解けられないでいる。唯一、先輩を除いて。小動物っぽくて可愛いので結構狙われてる、んだけど。先輩がああなので周りは秋緒ちゃんを泣く泣く遠巻きにしている。別に先輩は何もしてないんだけどね。素晴らしい虫除けだ。秋緒ちゃんは友達すら作れないけれども、先輩の背に隠れて安心してる。
周りは勘違いしているのだ、先輩を。そして、二人の関係を。
確かに両想いというならば両想いだ、兄貴分と妹分としてならばね。
そう、二人は恋人同士じゃあない。
秋緒ちゃんの懐きっぷりと内弁慶、そして先輩の強面っぷりと硬派な感じが誤解を助長してるだけ。
けれど、それがネックなんだよねえ。このからくり、話しただけだと信じられないんだよ。実際に見たってちょっと目を疑う感じ。
「秋緒。ヒサギにいくらうまい飯を作っても、俺の為だと言ったら本末転倒だ。俺の為の味見だと言ったら誤解を受けて当然だ」
「わ、解ってるの、解ってるんだけど、……あなたの為、だなんて、私……私、言えない……!」
ブンブン首を振るのが見える様だ。人見知りと引っ込み思案をこじらせ過ぎてるよね、この子。
先輩の溜息が深いなあ。お疲れ様です。
「ヒサギに俺から話つけてやろうか」
拳で解決するのが頭に浮かんだけど打ち消す。先輩は見た目と違って不良じゃないんだよ。ちゃんと話し合いをするつもりなんだろう。ただ……。
「ダメよ、お兄ちゃん! ヒサギくんはお兄ちゃんに怯えてるのよ! 話し合いにならないわ。周りが勘違いして先生よんじゃうと思う」
そう、ヒサギくんは先輩がとうとう腹に据えかねて乗り込んで来たと勘違いするだろう。「い、いいの……今は、取り敢えず、ヒサギくんに食べてさえもらえるなら、それで……」
健気っぽいこと言ってるけど、本当にそれ、本心? 他人任せにヒサギくんからの告白を待って罠を張るだけで、本当に満足?
ぱたぱたと走り去る足音にそっと覗き込む。ふわふわの髪がなびく様が可愛らしい。やっぱりハムスターっぽいなあ。ちまちまっとした感じが。憎めないんだよねえ。
けれど、全く面倒な状況だった。
ザリ、と砂を鳴らして振り返った先輩の渋いかおが、僕と同じ心境だと僕に教えてくれた。
「お疲れ様です、先輩」
体育館の陰からサラミを差し出す僕を認めて目が少し和らいだ。自分の顔が怖いとわかってるから後輩にはこうして気遣いだって出来る。ヒサギくんのことは妹分の相手役としてふさわしいか観察してるから、ちょっと鋭いんだけどね。だからヒサギくんは怯えてる。
「人間の食い物は犬猫には味が濃い」
「ゆでて軽く塩抜きしてあります」
先輩はスライスしたサラミをかじって、油っ気も飛んでんな、と呟く。
「おい、ミケ。てめぇも食うか?」
ガサリ、と近くの茂みから猫が顔を出した。ミケ猫のミケランジェロ。エサを目当てに通って来る通い猫だ。先輩の足元にじゃれてエサをねだる。
元は飼い猫なのか、人を怖がりはしないが、エサをくれた相手にしか懐かない。多分秋緒ちゃんがいたから隠れていたのだろう。
サラミをつまんで振ってミケをじゃらしながらエサを与える傍ら、先輩は自分でも食べている。放課後だしお腹が空いてるのかな。
食欲は本能だ。人間にとっても三大欲求で、そこを攻めるというのは、秋緒ちゃんはなかなかの策士だと思う。
秋緒ちゃんはヒサギくんと仲良くなりたくて、得意な料理で勝負に出た。さっきも言った通り、ここまでは良いんだよ。ヒサギくんも秋緒ちゃんの料理がきっかけで彼女を好きになったのだし。
問題は、秋緒ちゃんがヒサギくんを前にして人見知りと引っ込み思案をこじらせ、つい口実として持ち上げた先輩。
二人ははとこで、家が近くて親が仲良しなものだから兄妹の様に育ち、とても仲良しだ。庇護下にいて秋緒ちゃんは今までさぞかし安心出来ただろう。
けれど、先輩は不良に見えるし秋緒ちゃんがそうして懐くから周りからは二人が恋人同士だと思われてる。ヒサギくんも誤解した。
そうしてずっと状況は膠着したままなのだ。
あの秋緒ちゃんに好きと言わせるのは難しい。
だからね、ヒサギくん。無理だなんて言ってないでさっさと告白してくれよ。そうすれば全部丸く収まる。
「ほら」
僕がじっと見ていたからか、溜息を吐いたからか。先輩はつまんだサラミを僕の目の前に突き出した。ぷらぷら振って見せる。
「……」
そりゃ放課後だからお腹は空いてるけど。猫扱いは止めて欲しいな。
じりっと音がして見てみれば、ミケが後ろ足をにじって尻を高く上げ、身を伏せて耳をピクピクさせながら尻尾をブンブン振っていた。オレの獲物だぜ、と気迫十分なスタンバイだ。
ふっ、甘いな。獣とは本能の赴くまま生きているもの。
僕はタッパーからサラミをつまんでミケの目の前を素早く横切らせる。爛々と輝く金色の目が、先輩の持つサラミから逸れ、目の前のサラミに釘付けになる。僕は返す手でやんわりと逆側へミケの目を釣り、獲物を手放す。
放物線を描きサラミが宙を舞う。
金色の目がキラリと光り、グンと身を低くしたミケは、たわめた力をバネに獲物に飛びかかる。弾丸の様に鋭い跳躍で大きく開けた口が難なくサラミをキャッチ。
すたん、と着地したミケははぐはぐうまうま幸せそうに咀嚼した。
僕も手前味噌だが自分でゆでたサラミをはぐはぐうまうま。
空になった自分の指を見て、先輩が顔を背け、口を手で覆う。あんなに大きな手なのに、「く」だか「ふ」だか小さく噴き出すのを止められなかったみたいだ。
覗き込むと、微かに笑みが浮かんでいて、珍しいと呟いた僕に気付いて、わしっと頭をわし掴まれた。僕の頭なんか一掴みな大きな手で下を向かされて、ワシワシと犬猫にでもするみたいに、多分これ、撫でてるんだと思う。照れ隠しなのか、よくできました、なのかはわからないけど。
ほら、先輩は怖い人じゃない。秋緒ちゃんがヒサギくんに料理を食べて欲しいと言う前、もう一年は前になる。僕がこの高校に入学して少し経った頃。体験入部の時期に僕が一人で探検してた時、猫にエサをやる不良をここ、体育館裏で見付けたんだ。ベタなシチュだなと感心して眺めていたら、「お前もエサやるか」ってぼそっとその不良は言った。まあ、実際には先輩は不良じゃなかったんだけど。
「先輩、ちょっと痛いです」
手荒さにギブアップを表明すると、悪い、と少しバツの悪そうな声と共に手が引っ込んだ。
毎日せっせと猫にエサをやる先輩とぽつぽつ話をするようになり、そうしたらよくつるむヒサギくんに秋緒ちゃんが味見を頼んで、僕は周りのみんなとは真逆の裏側の構図を見ることになった。知らなければさっさと諦めろと言っただろうけど、知ってしまったら仕方ない。妙な責任感を持ってしまったから。
「先輩、僕ストレスでハゲるのも胃に穴が空くのも嫌です」
ミケにサラミを食べさせる先輩が僕に視線をよこす。いつもやる気ない目がすっとすがめられてる。いいですね。やる気満々ですか。よほどストレスを溜め込んでるんだろう。
「一緒にヒサギくんをシメ……もとい、さっさとあの二人まとめませんか」
「シメるか」
「ノリノリですね。まあ、そんな訳で提案です」
さあ同士よ、今こそ結託して立ち上がる時だ。
「ねえ先輩。恋に必要なものって何か解りますか?」
*
「ふふ、面倒くさがりのあなたが調理部に体験入部したいだなんて、どういう風の吹き回し?」
まあ、当然の疑問だよね。入学時に入らないとにべもなく断った僕に、調理部部長である姉は頑固さを知ってるから渋々引き下がった経緯があるから。今更手の平を返す僕を訝るのは当たり前。
調理室では調理部員達が忙しく立ち働いている。邪魔をするのはちょっと気が引けるけど、彼氏に食べて貰ったり友達と食べたりと意外に自由なのだし、別に構わないよね。秋緒ちゃんがおどおどと僕を見てくるから、作戦決行と口角を持ち上げる。
「うん、僕ね、料理を食べて欲しい人が居て」
「あら、彼氏? 私、妹の恋を応援するの夢だったのよ」
恋バナ好きの姉の声がウキウキと弾む。
妹らしくない僕を嘆いていた姉。今でも僕を女の子らしくしようと画策してる。
ごめんね、思わせぶりなだけで実のない話なんだ、これ。
秋緒ちゃんが鍋を手から滑らせた。空で良かったね。
「さあ、どうかな」
姉は秋緒ちゃんを見るとも無しに観察する僕のこの答えでピンと来たようだ。長年の付き合いだけじゃなく、カンの鋭い女なのだ。
「ほどほどにね?」
黙認する事に決めたらしい姉は、どこかしょんぼりしながら別の部員のところへ去っていく。ごめんね。でも大好きだよ姉さん。
「さてと。ヒサギくんの為に頑張りますか」
びく、と秋緒ちゃんの肩が震える。
ヒサギくんと仲が良い僕を、彼女は誤解している。
――ねえ先輩。恋に必要なものって何か解りますか。
それは、障害という恋心を燃やす燃料だ。
わかりやすい障害はここにある。僕という恋敵を配置する。先輩では壁がぶ厚すぎる、だから僕だ。だってもう僕は彼女に敵認定されてるもの。
だから僕がヒサギくんに料理を作る。同じ土俵だからこそ、彼女は動かざるを得ない筈、とふんでるんだけど。
何を作ろうかな。
「ん?」
ポケットの中で携帯が震える。先輩からメールが来ていた。
――ヒサギの好物はナポリタンだ。
「ナポリタンかあ。ヒサギくん好きだよね」
子供舌だからなあ。
野菜を切る秋緒ちゃんがぷるぷる震えている。刃物持ったら手元注意してね。大方ヒサギくんからのメールとでも勘違いしてくれただろう。さあもっと疑心暗鬼におちいるがいい。とか言うとなんか小物っぽいかな。まあいいか、僕なんてどうせ小物だよきっと。しかしいいタイミングだったよね、今の。先輩ナイス。
野菜を切って、まずは玉ねぎを飴色に炒める。冷凍された玉ねぎが常備してあるあたりが調理部ってすごい。他かの野菜も入れて炒め、ミキサーにかけた缶詰めのトマトを投入。
沸騰した湯とパスタを魔法瓶に入れ、蓋をする。
色々言いたそうな視線があちこちから刺さるが、無視だ、無視。自信あります、という強気の姿勢だけが重要。
味付けをしていると、味見目的の人達が続々とやってきた。
「……あの」
意を決した様に秋緒ちゃんが近付いてくる。その向こうが丁度入り口で、ヒサギくんと目が合った。お前ここで何やってんの、というかおをするので、取り敢えずにっこり笑っておく。渋面な先輩はいつの間に来ていたのか、ヒサギくんをガン見している。なるほど、睨んでるように、見えるね。あれは。
「そのナポリタン、ヒサギくんに食べさせるの?」
背後が全く見えてない秋緒ちゃんは、僕に苦しげな顔で問う。細い声、震える肩、うつむきがちなかお。
可愛いなあ。男でなくても庇護欲をそそる。
でもね。
「秋緒ちゃんだって、ヒサギくんに味見してもらうんでしょ? 先輩に美味しい料理を食べて貰う為に」
秋緒ちゃんのかおが歪む。苦いよね。でもヒサギくんも同じ苦味を毎日味わってるんだよ。
言葉は刃だ。ごめんね。頑なな嘘を切り裂かなくちゃ、本音は出て来ないから。
「なら、僕がヒサギくんに美味しいものを作って食べさせてあげてもいいじゃない」
理屈だけならそうなるんだよ。だって、秋緒ちゃんとヒサギくんはそういう約束しかしてないじゃないか。約束以上の気持ちを、贈り合ってはいないじゃないか。
まして、その口実はずるい。
「秋緒ちゃんは先輩に美味しいものを食べて欲しいんだもんね?」
秋緒ちゃんは、ヒサギくんにそう言っただろう? これは秋緒ちゃん自身の言葉を返しただけだ。ほら、ちゃんと自分に向き合って、秋緒ちゃん。
にっこり笑うと、ぐっさり刺されたヒサギくんが入り口でしゃがんでいる。そんなとこで死んだふりをするなよ。邪魔だろう。
同じくぐっさり言葉で刺された秋緒ちゃんは目を潤ませ、ぷるぷる震えている。
「……がう……違うもん……私は! ヒサギくんに美味しい料理を作ってるの! お兄ちゃんはただの口実だもん!」
泣きながら、秋緒ちゃんは睨んでくる。
「ヒサギくんは私のなんだから! とらないで!」
うわあん、と泣き出す。小さい子供みたいだなあ。
でも。
「よくできました」
背が高い僕の腕の中にすっぽり収まる。先輩じゃなくてもやっぱり小さいのか。小さくて可愛いなあ。ふわふわの頭を撫でてなだめる。パニックになってわたわたおろおろしてるけど、それがまた可愛い。いじめてごめんね。
どゆこと、とヒサギくんがぽかんと見ているので、僕はニヤリと口端を引き上げて益々秋緒ちゃんを腕の中に囲い込む。
「ふふん、うらやましかろう? 悔しがるがいい。君がヘタレなのが悪い」
「ヘタレって、お前な」
ヒサギくんは顔をしかめる。でも目がうらやましいと如実に語っていた。本当にわかりやすいよね、君って。
聞こえた声にヒサギくんが先程の台詞を聞いていたのではないかと、彼女は益々あわあわする。
「ほら、君のヒサギくんだよ。美味しいナポリタンを食べさせてあげなよ」
ほら、と小さな背を押す。
潤んだままの大きな焦げ茶の目が、うろうろとさまよって、僕の後ろで先輩を見付けた、と思う。
「お兄ちゃん、」
「口実は、もう必要ないだろ」
言葉とは裏腹に優しい声がやんわり拒む。
桜色の小さな唇を噛んで、秋緒ちゃんは頷く。
「ありがとう」
ごめんなさいを言う時の顔で小さくそう言って、大好きなヒサギくんに駆けてく。
「先輩、すいません」
「火は気を付けろ。けど、助かった」
見かねてコンロの火を止めに来てくれ、そのまま席に着いている。口実だった先輩は今日からはお役ごめんなのだ。
先輩の視線の先を見やれば、件の二人は初々しく恥じらいつつも、仲良くナポリタンをつついている。
「大団円ですねえ」
伸びたパスタに焦げたソースを載せつつ、僕は頷く。
「ところで……先輩。何で箸持ってるんですか?」
それ僕のですけど。
「食べる」
不思議そうなかおをしたいのは僕の方だよ。
「だって、料理食べる役降りたじゃないですか」
「秋緒のはもう食べない」
何故僕の手元を注視するのかな。これは伸びてるし焦げてるんだけど。
「あげませんよ?」
「ヒサギは秋緒の作ったのを食べてるぞ」
何だか一瞬空気がピリッとした。
「ええ、そうですね。ヒサギくんにあげる予定もありませんよ? というか、これは僕が食べるんです」
箸を返せ。僕お腹が空いてるんだ。
手を伸ばすと、箸を掴む前に逆に手を掴まれて、あっという間に皿を取り上げられた。
くっ。リーチの違いか。
「伸びてるし焦げてるんですがね」
格好だけだからすごく適当に作ったのに。先輩は黙々と半分くらい平らげ、僕の台詞に顔を上げた。
「お前が作ったものだろう。ヒサギにやるのは業腹だ」
何だか怒ってるみたいに見えるような。
「何故ですか」
「……」
黙ってじっと見つめられる。
「ねえ先輩。何でですか」
言わないのにわかれだなんて、ひどいと思いませんか。ずるい。答えなんて、もうずっと前から用意してるのに。言ってくれたら、ちゃんとその答えを返すのに。 今回のこれは、二重の仕掛けなんだ。
秋緒ちゃんだけじゃなくて、先輩を釣る為の仕掛け。
秋緒ちゃんは甘くて美味しい罠を張った。でも僕は、苦い罠を張る。
ヒサギくんに嫉妬しましたか、先輩。
僕の料理は不味いけれど、それでも奪ってまで食べてくれるんですね。ねえ、それは何故?
僕はずるい。罠を張って、回りくどくじわじわ追い込んで。それでも、あなたから欲しい言葉を引き出したいんだ。
先輩もそうなのかな。どんな言葉が欲しいんだろう。
「先輩がそんなに僕の作ったものを喜んでくれるなら、料理の練習します。練習に付き合って、食べてくれますか?」
先輩の強面に微かに笑みが滲む。
「料理だけか? 単に、付き合って欲しい、の方がありがたい」
「僕の料理は要らないんですか?」
僕が皿を掴むと、「料理も込みで」と慌てて皿を腕で囲い込んでガードする先輩。その必死さが可笑しい。絶対不味いのに。
これから猛練習しようかな。
「じゃあ付き合いましょう。できたら墓場までがいいです」
墓場、ときょとんとしてから、先輩は口を手で覆って小さく噴き出した。
「そう、だな。できたらその方がいいな」
二人で笑い合っていた時は、それを見ていた恋愛脳の姉に家に帰ってから散々ハシャがれる事になるとは、流石の僕も思い当たらなかった。計算外だ。
女らしく! と妙な使命感に駆られた姉に散々まとわり付かれて面倒な事になるのだが、それはまた別の話だ。