06 ただいま
帰宅すると、家の空気が少しだけ弛緩した。母は玄関まで俺を迎えに来て、
「よかった。夏樹が戻ってきて」
そう言って、泣いた。
あの日、葵は「ちょっと出かけてくるー」と言い残して、そのまま帰ってこなかったのだ。
――いや。本当は今、葵は俺の隣にいる。そして、
『ただいま! ただいま! た、だ、い、まー!!』
と甲高い声で叫んでいる。しかし、母には届いていない。
母は涙を拭いながら、
「晩御飯、食べるでしょ?」
「うん。荷物を置いたらすぐ行く」
ほっとした顔の母を残して、俺は2階に上がった。自分の部屋に入り、ショルダーバッグを床に放り投げる。それを後ろから見ていた葵が、
『お兄ちゃん。憑依して、お母さんにただいまって言いたい』
深刻そうな顔で、そう言ってきた。……気持ちは分かる。しかし、
「だめだ」
『なんで!? あたし、ちゃんと憑依できるし、その後はちゃんとお兄ちゃんの身体から出ていくよ?』
「そういうことを心配してるんじゃない。今の状態の母さんにお前が憑依して会いに行ったって、タチの悪い冗談……俺の芝居だと思われるだけだ。お前だと証明する方法がない。だろ?」
俺が諭すと、葵は黙り込んだ。葵をいじめるつもりはないが、母にこれ以上負担をかけたくなかった。
「……分かるな? 葵」
俺が確認すると、葵は目を伏せたまま、無言で頷いた。
その日の夕食はカレーだった。……葵が嫌っていたにんじんは、相変わらず入っていない。
「おいしい?」
やつれた笑顔で、母は言った。父は無言で、スプーンを動かしている。
「美味いよ」
俺が答えると、母は微笑んだまま、俺の隣を見た。
なにもないその空間は、かつて妹が座っていた場所だった。
葵は今でもそこに座っている。けれど、母にはやっぱり見えていない。
「明日は何が食べたい?」
カレーを食べ終える頃、母が俺に訊いてきた。相変わらず、張り付けたみたいな薄い笑顔で。
何が食べたいか。これはいつも訊いてくることなのだが、俺は悩んだ。
というのも、その質問に俺が答えたことはあまりなかったからだ。いつもなら、葵が答えていた。
「うーん……」
唸る俺に、ぼそっと
『チンジャオロース』
葵が呟いた。
「……チンジャオロースがいいかな」
俺がそう言うと、葵は目を丸くし、母は首をかしげた。
「夏樹は、ピーマンが苦手じゃなかった?」
「最近ちょっと好きになりだしたんだよ。だから、チンジャオロースにしてくれ」
俺は笑いながら、食卓を離れた。葵が不思議そうな顔をして、ついてくる。
『お兄ちゃん?』
「明日の晩飯、お前が食えよ。許してやる」
『憑依してもいいの?』
「ああ。だけど、ちゃんと俺のフリするんだぞ」
『やったあ!!』
葵は嬉しそうに、その場でとび跳ねた。……音は、しないけど。
例えば俺はいつでもハンバーガーを食べられる。
だけど葵は?
葵が成仏する前に、いなくなる前に、俺が葵にできるのはそれくらいしか思いつかなかった。




