23 何言ってんの?
お父さんが浴衣の準備をしだしたのを見て、あたしは慌てた。
「おと……父さん、温泉に行くの?」
「ああ」
お父さんは無表情で、浴衣のサイズをチェックしている。
「夏樹も行ってきなさいよ。私ももうすぐ行くし」
お母さんは洗顔用具の入ったポーチを準備しながら、あたしに向かって笑顔で言う。
「あ、ああ……」
そうは言ったものの、心の準備ができてない。
お父さんとお風呂。
お父さんとお風呂。
お父さんと
「夏樹、行くぞ?」
「は、はい!!」
あたしは男性用の浴衣をひっつかみ、慌てて外に出ようとして、
「お前、替えの下着は?」
「……あ」
下着を取りに戻った。
温泉は、とにかく立派だった。大浴場はプールみたいな広さだし、五右衛門風呂や打たせ湯もあった。テーマパークみたいだと思った。けれど。
おじさんたち、前を隠してほしい。切実に、前を隠してほしい。
前というか下というかなんというか。
「夏樹、お前はどうして胸まで隠してるんだ?」
お父さんに言われて気付く。あたしは右腕で、必死に胸を隠していた。お兄ちゃんは男だから、胸まで隠す必要はないわけで、でもあたしとしては抵抗があるんだけど……。
「いや、気にしないでよ。あはは」
お父さんは一応、タオルで下を隠している。それを見て少しだけほっとした。
あたしはお父さんの後にくっついて、そそくさと歩いた。とりあえず、こんな恐ろしい無法地帯で一人ぼっちにはなりたくない。
お父さんが五右衛門風呂に入ったので、あたしもそれに続いた。
ここのお湯、いい感じにぬるい。
「……母さんは」
お父さんが、細長い滝のような打たせ湯を見ながら、呟く。
「今頃一人で風呂に入ってるんだろうなあ……」
その独り言が何を意味するのか。あたしはちゃんと、理解できているんだろうか。
「……葵さ、もしかしたら一緒に来てるかもよ。ほら、温泉旅行楽しみにしてたし。今頃、俺たちの横で笑ってるかもね」
あたしが言うと、お父さんが珍しく笑った。それから言った。
「来てたとしても、男湯にはいないだろう」
いや、それがいるんですよ。男湯に。
いつも無口なお父さんは、この時はなんでかとてもよく喋った。
あたしは、お喋りなお父さんを初めて見た。いつもは無口で、無表情で、……あたしが死んでからは、それがより一層酷くなってたような気がした。
温泉パワーかな、と内心で笑った。その時だった。
「葵のことは、俺が悪かったのかもしれん」
え?
「……何言ってるの?」
あたしが眉をひそめると、お父さんは両手でお湯を掬って、バシャバシャと顔を洗った。それから
「やっぱり自分が男だから、思春期の女の子とは接しにくくてな。……俺には異性の兄弟がいなかったから、余計に。どう接してやればいいのか、分からなかったんだ」
お父さんはもう一度顔を洗った。洗ったというか、きっと、『隠した』。
「葵の話を、もっとちゃんと聞いてやればよかった。……女のことは母さんに任せた方がいいだろうって、距離を置いてたんだ。母さんにすべてを押しつけてたのかもしれない」
「…………」
「そうじゃなくて、俺もちゃんと話を聞いてやったりしておけばよかったなって。母さんが非力だったんじゃない。俺が、非協力的だった。もっと協力的だったら、そうすれば、もしかしたら葵は」
「何言ってんの?」
そう言い放ってから、あたしも顔を洗う。涙を隠すために。
「葵は自殺じゃないんだよ。あれは……事故だった。父さんのせいでも母さんのせいでもない」
あたしの言葉を聞いて、お父さんは怪訝な顔をした。
「お前は前にもそう言っていたな。自殺じゃない、と。なぜだ? 遺書がなかったからか? それじゃ、屋上にきちんと揃えられていた葵の靴はなんだっていうんだ」
あたしは黙り込んだ。そこら辺の記憶がいまだに曖昧で、きちんとした答えを返せない。
あたしはどうしてあの時、屋上で靴を脱いだんだろうか。




