21 行ってらっしゃい
旅行当日。葵は張り切っていた。
『お兄ちゃん早く!! 出発時刻になっちゃうよ!』
俺は携帯で時刻を確認して、笑う。
「まだ大丈夫だよ」
『もう! この部屋、時計がないから時間が分かりにくいよ』
「お前の部屋の、文字盤が見えにくいハート形の時計もどうかと思うが」
俺が指摘すると、葵はふくれっ面をした。
『あれは友達からもらったものなの! ……確かに私も、あの時計は不便だから新しいのがほしいなーとは思ってたけど』
ぶつぶつ反論しながら、葵は俺の方をちらりと見た。
『お兄ちゃん、ちゃんと着替え入れた?』
俺は鞄の中身を確認しながら答える。
「ああ、入れてる」
『財布も?』
「あるよ。あんまり無駄使いするなよ?」
俺は財布の中身を確認しながら釘をさす。すると、葵は笑った。
『お金は、あたしのを使うから大丈夫だよ。こう見えてあたし、結構貯金してたんだから。お年玉とか』
「え?」
『だから、財布だけ貸して』
葵はうきうきとした笑顔で笑う。俺は頭を掻きながら、言うべきことを忘れないうちに言っておく。
「……一応携帯は持って行くけど、電話がかかってきてもメールが来ても無視しろ。なんかあった時は、俺の身体から一度抜けてくれ。とにかく、温泉旅行以外は何もしなくていい。分かったな?」
『うん!』
葵は嬉しそうにうなずいた。俺もつられて、笑う。
「服装だけど、お前はこんなのでいいのか?」
俺は自分の服装を見下ろす。青色の半袖パーカーに、黄土色のダボダボズボンという超ラフな格好。……まあ、おしゃれな服なんて俺は持ってないんだけど。
『うん、それでいいよ。動きやすい服の方がいい』
「……なら、いいけど」
俺は鞄のチャックをしめた。多分、入れ忘れたものはないだろう。
「じゃ、気をつけて行ってこいよ」
『お兄ちゃんも行くんだけどね』
「変な感じだな」
葵は笑った。それからゆっくりと、こちらに近づく。
『じゃ、お兄ちゃんの身体、借りるね』
「ああ、行ってらっしゃい」
そこで、俺の意識は途切れた。
目を開けると、お兄ちゃんの部屋が見えた。あたしは自分の手を見る。あたしよりも大きくて、ごつごつした手。あたしのじゃなくて、お兄ちゃんの手だ。
「憑依成功」
誰にでもなく、呟く。あたしはお兄ちゃんが用意していた荷物を持って、部屋を出た。自分の部屋に寄って、お兄ちゃんのボロボロの財布に自分のお金を入れる。
これからあたしは、「水野夏樹」として過ごさなきゃ。
外に出ると、お父さんが既に車のエンジンを入れて、車内に空調を効かせていた。排気ガスの独特のにおい。助手席に座っていた母が、あたしの方を見て笑う。それから窓を開けて、顔だけひょこっと出した。
「夏樹、遅かったじゃない」
お母さんの笑顔を見て、あたしも笑った。
「ちょっと準備に手間取ったんだ」
お兄ちゃんの口調を真似てみる。我ながら、結構似てると思う。
「家の鍵、閉めといてね」
「ああ」
鍵が閉まっていることを確認して、車に乗り込む。助手席の後ろに座ると、お母さんが不思議そうな顔をした。
「夏樹、どうしたの? いつもはそこに座らないでしょ」
そう言われてぎょっとする。そうだった。いつも車に座るときは、助手席にお母さん、運転席の後ろにお兄ちゃん、助手席の後ろに私が座ると決まっていた。いつもの癖で、お母さんの後ろに座ってしまった。お兄ちゃんなら、ここには座らないはずだ。
「……ちょっと気分を変えてみようかと思って」
あたしが苦笑すると、納得したのかしないのか、お母さんは前を向いてしまった。それまで無言だったお父さんが、不意に口を開く。
「じゃ、出発するぞ」
「うん!」
「どうしたの夏樹、そんな張り切って」
「あ。いや、なんでもない」
こうして、3人の乗った車は無事に家を出発した。




