17 俺に憑依しろ
葵の部屋に来てから、どれくらいの時間が経ったのだろう。
葵は泣きやまないし、俺は何もしてやれない。
さりげなく、ハート形の時計で時刻を確認した。午前3時過ぎ。夜中なのか、朝なのかも分からない時間。
「……その、好きだった奴に、自分の気持ちを伝えたいのか?」
葵の机に置いてあった恋愛の本のことを思い出しながら、小さな声で訊く。葵は鼻をすすりながら、
『分かんない』
「分かんない?」
『どうしたいのか、自分でも分かんないの。でも、あたしは』
そう言ったかと思うと、ぼろぼろと涙をこぼした。
『あたしはここにいるのに、そこにいたのに、誰にも気づいてもらえなかった。……今日ね、色んな人に声をかけたの。だけど、あたしの姿は誰にも見えてない。お母さんにも、お父さんにも見えてなかった。お兄ちゃんに、しか、見えてないの』
寂しかった、と呟くように付け足した葵の言葉は、薄暗い部屋の中に溶けた。
『もしもあたしの姿が、お兄ちゃんにも見えなくなったら? そしたら、あたしはっ……』
そうなったら葵は?
葵がいつも『お兄ちゃん! お兄ちゃん!』と叫んでいた理由を、ようやく理解した。
怖かったんだ。自分の姿が、誰にも見えなくなることが。
だから確認した。自分の姿が、俺に見えているかどうか。声が、聞こえているかどうか。
――空元気、だったのか?
俺が夜眠っている間、葵は一人で何を考えていたんだろう。
葵は泣きじゃくり続けている。
俺は答えられない。気の利いたセリフも思いつかない。俺は元々霊感があったわけでもないから、葵の姿がこれからもずっと見えるかどうかも分からない。
俺、情けねえ……。
『――お兄ちゃん、なんで泣いてんの……』
「うっわ……」
泣いてしまったことに自分で驚き、そして焦った。
俺は腕で乱暴に涙を拭うと、葵の方を見た。
「葵、俺に憑依しろ」
『え?』
俺は、壁に貼り付けられている半紙を見る。葵が小学生の時に書いた、書き初めだ。校内で特別賞に選ばれ、しばらく廊下に張り出されたと自慢していた。
書いてある言葉は――……「希望」。
「俺に憑依して、手紙を書けばいい。俺の身体を使ってるとはいえ、お前が憑依して字を書いたら、お前の筆跡になるんじゃないのか?」
葵は泣き腫らした目で俺の方を見る。……幽霊でも、泣いたら目が腫れるらしい。
『そうなの、かな……?』
「やってみなきゃ分かんないけど、多分」
俺は両腕を組む。ラブレターなんて俺はもらったことないけど、
「好きな奴に手紙を書け。で、その手紙を俺が渡してやる。死んだ妹の机から出てきたって言えば、どうにかなるだろ。レターセットとか、持ってるか?」
『持ってる、けど……』
葵は戸惑ったように、視線をさまよわせている。
「けど?」
『なんて書こう?』
それは知らん。
「お前の好きなように書けばいいんだよ。あ、『好きでした』とか、過去形にはするなよ。あくまで死ぬ前に書いた手紙ってことにするんだから」
俺が笑うと、葵も笑った。少しだけ、部屋の中が明るくなったような気がする。
「んじゃ、さっさと憑依して書けよ」
『うん。お兄ちゃん、トイレは大丈夫?』
「は?」
いきなり訳の分からない質問をされて、俺は間抜けな返事をした。葵は笑いながら、
『だってあたし、お兄ちゃんの身体でトイレに行きたくないもん。なんか、変なのついてるし』
「変なの言うな」
俺は葵の頭をこづくジェスチャーをする。それから二人で、笑った。




