16 お兄ちゃんの馬鹿
夜中、ふと目が覚めた。今夜は暑くて寝ぐるしい。俺は上半身を起こして、扇風機の前に座った。風量を「強」にしているものの、生ぬるい風が勢い良く吹いているだけで、ちっとも涼しくない。
……冷たい麦茶でも飲もうか。俺はため息をついて立ち上がった。
右肩をぼりぼりと掻きながら、廊下に出る。そのまま葵の部屋の前を通り過ぎようとした時、
『……ひっ、う……』
しゃくりあげるような声が、はっきりと聞こえた。
――葵が、泣いてる?
俺はしばらく考えて、だけどやっぱり気になって、ドアを小さくノックした。あまり大きな音を立てると、両親に気付かれる。
「……葵?」
小声で声をかけると、先ほどまで聞こえていた嗚咽がぴたりと止まった。
「俺だけど。大丈夫か?」
返事がない。その代わりに、鼻をすする音がかすかに聞こえた。
どうするべきなんだろう。このままそっとしておいた方がいいんだろうか。
そんな意志とは裏腹に、俺の右手はドアノブへと伸びていた。
「葵。入ってもいいか?」
確認するが、やはり返事がない。しかし葵の性格からして、嫌なら嫌と言うはずだ。俺は葵の返事を待たずに、ゆっくりとドアを開けた。
葵は、自分のベッドの上に座っていた。涙を止めようとしているのか、必死になって目をこすっている。窓から差し込む月の光が、葵の部屋をわずかに明るくしていた。俺は、壁にかかっているハート形の時計で時刻を確認する。深夜、2時過ぎ。
「眠れないのか?」
声をかけながら、葵の方に近づく。すると、葵が首を振った。
『眠れないとかじゃないの。眠らないんだよ、幽霊は』
「え……?」
初めて聞いた。それじゃあ今まで、葵は一人ぼっちで夜を過ごしていたということか?
俺は足音をたてないようにゆっくりと歩き、葵の横に立った。
「……隣、座っていいか」
無言でうなずく葵。俺は黙って、葵の横に腰掛けた。夕方、葵の様子が明らかにおかしかったのを思い出して、訊く。
「今日、なんかあったのか?」
俺が訊くと、葵はまた泣き出した。俺の妹はこんなに泣き虫だっただろうかと、ぼんやりと思った。葵はしばらくぼろぼろと涙をこぼしてから目をこすり、ため息をつくように深呼吸をした。そして、
『……す』
「す?」
『好きな人に……会いに、行ったの』
「――うん」
次の言葉は、予想ができた。きっと、葵の姿は
『その人に、あたしの姿は見えてなかった』
あたしの姿はお兄ちゃんにしか見えない。そう言ったのは、そのせいか。
『あたし、好きだって、――好きでしたって、言えなかった……!』
そこまで言うと、葵はわんわん泣きだしてしまった。俺はどうすればいいのか分からず、葵の横で黙って座っているだけだ。――ああ、そういえば
美鈴とも、こんな風に過ごしたことがあった。
「……葵。俺の身体に憑依して、その人に好きだって言って来いよ」
俺が提案すると、葵はパッと顔をあげた。それから
『お兄ちゃん、馬鹿なの?』
眉間にしわを寄せた。
「え?」
『お兄ちゃんの身体で、男の子に好きだなんて言ったらどうなると思うの?』
――俺は想像した。俺の身体で、男の子に好きだと言ったら、
それはなんていうか、違う物語が生まれそうだ。
「すまん。やっぱりやめといた方がよさそうだ」
『お兄ちゃんの馬鹿』
はっきりとそれだけ言うと、葵はまたもやわんわん泣きだした。
恋人同士とかそんな関係ならともかく、目の前で泣いてるのは実の妹で、だからそんなことするつもりもなかったのだけれど、俺はここにきてようやく気が付いた。
俺は葵を、例えば抱きしめてやったり、手をつないでやったり。
そういうことが、できないのだと。
憑依だって、葵が俺の中に入ってる間は、俺の意識はなくなってしまう。つまり、憑依中の出来事を共有することはできないのだ。
俺は結局、葵に何もしてやれない。
今更そんなことに、気付いた。




