第7話 書かれたものと、書かれなかったもの
翌朝。
灰色の巨人の城の中は、何事もなかったかのように、静かに日常へと戻っていた。
マリーを介抱したことを咎められることも、褒められることもなかった。
廊下を行き交う侍女たちの声は落ち着きを取り戻し、厨房からは焼いたパンと温いスープの匂いが漂ってくる。
エマがいない間に、王妃がマリーのもとを訪れていたらしい。そんな言葉が、侍女たちの噂話の中に混じる。
エマは、その輪の外にいた。
特別に呼ばれることもなく、問いただされることもない。
まるで、最初からそこにいなかったかのように。
倒れた翌日の朝、エマはとなりのベットのマリーに声をかけた。
厚手のカーテンを開けてぼんやりした朝日を室内に取り入れる。マリーは枕に身を預け、少し青白い顔で微笑んだ。
「マリーさん、起きられそうですか?」
そう尋ねると、マリーは小さく頷いた。
「ええ……休んでいちゃ、いけないもの」
マリーは少しつらそうに体を起こし、寝間着から服を着替える。寒そうに慌てて着替えていたが、エマはマリーの背筋の近くに赤い痣があったのを見逃さなかった。
多分、自分では鏡を合わせて見ないと気づかない場所だ。
マリーは、髪をまとめると囁くように言った。
「あなた、私の代わりに書庫の整理を任されたみたいだけど……」
「はい。本がとっても重たいらしいので」
「大丈夫なの?」
「修道院では、本を五十冊まとめて運んでました」
「……そ、それは……頼もしいわね」
その返事に、安堵と寂しさが入り混じったような響きがあった。
マリーは、それ以上何も言わなかった。
† † † † †
その日の午後から、エマは書庫に通うことになった。
書庫は城の奥、厚い石壁に囲まれた静かな場所にある。人気の少ない回廊に、エマの足音だけが響いた。
普段は記録係や学士が出入りする程度で、侍女が足を踏み入れることは少ない。
高い棚に並ぶ書物はどれも古く、背表紙の文字は擦れて読みにくい。
革装丁の縁はひび割れ、紙の端は黄ばんでいる。埃を払うたび、紙と革の匂いが立ちのぼり、どこか修道院の蔵書室を思い出させた。
書庫の奥では、時間そのものが、外よりも重く沈んでいるように感じられた。
エマは棚の奥で、一冊だけ妙に手触りの違う本に気づいた。
長く開かれていないはずなのに、埃が均等に積もっていない。
背表紙の溝に、薄く指の跡のようなものが残っている。
(……この本、埃綴りの妖精に守られてるのかな?)
エマがそっと本を引き抜いた瞬間、ふわりと埃が舞った。
埃は、舞いながら一瞬だけ形を揃え、すぐに崩れた。
その刹那、人の輪郭のようにも見えた。
「……やっぱり、プルヴィアだ」
掃除を怠った棚に、いつの間にか増えている。
修道院で何度も感じた気配と、よく似ていた。
埃綴りの妖精プルヴィア。
長く読まれなかった本を守り、新しい真実を嫌う存在。
エマは、いつものように、本を丁寧に扱った。
背を撫でるように埃を払い、ページをゆっくりと開く。
「大丈夫……読ませてほしいだけ」
囁いたつもりはなかったが、言葉は確かに口から零れていた。
埃が、ふっと軽くなる。
そう感じただけかもしれない。
本の中身は、王家の系譜だった。
分厚い羊皮紙に、代々の名が几帳面に記されている。
エマは、途中で指を止めた。
あたらしいページの行と行の間に、わずかな不自然さを見つける。
文字の間隔が揃っていない。
指でそっとなぞると、そこには紙を薄く削った感覚。インクの色と滲みぐあいが、そこだけ微かに違う。
その瞬間、鼻先に、インクの匂いが濃く漂った。
(……リグネア?)
書痕妖精リグネア。
本に書かれたことと、書かれなかったことを知る存在。
もちろん、そこに姿は見えない。
けれど、行間が、かすかに揺らいだ気がした。
ここに、消された名前がある。
この国の王ロバンと王妃マリアンヌの間に生まれた子どもは、二人。
バルテレミ王子と、マルグリット王女。
王子は今、二十歳。
……それだけだ。
本来なら、もっと書き込みがあっていい。
出生順、後見人、乳母の名。
なのに、そこだけが、綺麗に抜け落ちている。
エマは小さく息を呑んだ。
「……消した? のかな」
その瞬間、行間の揺れが、すっと静まった気がした。
エマは、そっと本を閉じた。
埃が、元の場所に戻る。
まるで『気づいたね』と、確かめられたように。
その後も、エマは黙々と本を並べ替えながら、自然と周囲を観察していた。
書庫の奥には、壁に沿っていくつかの肖像画が掛けられている。
年代の異なる王や王妃、幼い王子や王女の姿。どれも色あせてはいるが、描かれた瞳の色だけは、不思議とはっきり残っていた。
灰色。
淡く、冷たい色。
(……みんな、同じ灰色だ)
エマは、ひとつひとつの肖像を、端から順に見比べていた。
夕べの食堂での侍女たちの噂を思い出す。
――王様は、灰色の瞳だという。
――マリーも、同じ灰色の瞳をしている。
それが、侍女たちの言うマリーが『王妃のお気に入り』の理由なのだろうか。
そして、昨日出会った人の中にも、王とマリー以外に、灰色の瞳を持つ人物がいる。
マリーが倒れたとき、振り向いた先にあった視線。
毒の噂を、侍女と小声で交わしていたあの場にいた人物。
――灰色の瞳。
この城には二十歳になる王子がいるはずだ。
バルテレミ王子。
この肖像画のどれかに描かれた幼子が、そうなのかもしれない。
そのときだった。扉の向こうから足音が聞こえてきた。
エマは慌てて、整頓作業に戻った。
扉がぎいっと軋んだ音を立て、低い声が背後から落ちた。
「……誰だ?」
エマは、思わず肩を震わせて振り向いた。
ここまでお読みいただきましてありがとうございます。
年度末がちょっと忙しいので、少しまとまって書けてから更新する予定です。
自分の目標では4月には再開したいです。週一で(^^;




