第6話 エリュディウスに笑われる
エマが今度は迷わず部屋に戻ると、石造りの壁に灯る蝋燭の光がかすかに揺れ、霧が窓ガラスを白く曇らせていた。
その静けさの中、マリーがベッドの上でそっと身を起こしていた。
エマは食事の盆を抱えたまま、靴音を立てないように足を運ぶ。
「マリーさん、もう大丈夫ですか?」
マリーはぼんやりと窓の霧を見ていたが、エマに気づき、薄く微笑んだ。
「……大丈夫。少し、頭はふらふらするけど。……ごめんなさい、案内するって言っていたのに。迷子にならなかった?」
「なんとか、大丈夫でした」
と、エマははにかみながら、さりげなくマリーの顔色と指先、呼吸の様子を観察する。
(手の震え、唇の色、首筋の汗……)
「これ、持ってきたんですけど、食べられそうですか?」
エマが食事の乗った盆を差し出すと、マリーはそれを膝にのせ、そこからパンを手に取った。だが、少しだけ指先に力が入らず、パンが手の中で滑りそうになった。
しかし、ル・コルヌがいたずらをしに現れることはなく、パンは小さくちぎられ、無事にマリーの口に運び込まれる。
パンをスープに浸すことなく食べ、スプーンでスープの中の少ない野菜を漉し取るように丁寧にすくって食べていた。
やっぱり王城には、コルヌは居ないのかな……と考えていると。
「私が王城に来たのは去年の春なんだけど、……実はここに来てからずっと体調が悪くって」
エマは食堂に行く前に聞いてしまった話のことを思い出した。
灰色の瞳の足音がしない青年と、侍女の会話――。
誰かがマリーに毒を盛っているのか。
それとも薬草茶がマリーの体質に合っていないだけだろうか。
「体調が悪いこと、誰かに相談しなかったんですか?」
「ここの侍女たちはみんな身元がしっかりした人なの。でも、私は孤児院の出だから弱みは見せられなかった。それに、王妃様が私には良くしてくれるので、余計に悪いことは言えなくて……。でも、エマは私と同じ十五歳だから……」
(同じ、十五歳……と言うことは)
エマはふっと首をかしげて、マリーの顔をじっと見つめる。
「……あの、マリーさん。すみません、じっと見てしまって。でも――神の目の妖精エリュディウスが、こういう時こそよく見てごらん、って囁いてる気がして」
マリーは一瞬驚いたように目を見開く。
窓越しの霧の明かりが、その灰色の瞳をやわらかく照らした。
「神の目の妖精?」
「――たぶん、こうだと思うんです」
エマは照れ隠しにそっと頬を掻きながら続けた。
「もし間違っていたら、エリュディウスに笑われちゃうんですけど……」
エマは一歩前に出て、
「……マリーさん、少し血が足りなくないですか?」
ごく自然な口調で切り出した。
「修道院では、春先や十歳を超えた女の子には、先生が血の味のするものを食べなさいってよく言ってました」
マリーは手の中のパンを見つめたまま、小さく息をつく。
「でも、ここでは血の味のものはほとんど出ないわ」
言いながら、スープの中の野菜をまた濾すように口に運んだ。
「……それにスープも、ここのはあまり好きじゃなくて。味が薄いでしょう? だから野菜だけ先に食べて、汁は残すことが多いの」
エマは小さくうなずいた。
マリーはパンをスープに浸さず、そして、少ない具材だけをすくって食べていた。
「生野菜はさっぱりして好きなんだけど、なんだか体が冷えるし……」
「でも、他の方は倒れたりしないんですよね。マリーさんはどこから来たんですか?」
マリーは少し考えてから答えた。
「北の方の、小さな港町よ。海風が強くて、冬はとても寒いところ」
「港町……つまり」
「孤児院では、黒いパンと干し魚をよく食べていたわ。それから、魚が崩れるまで煮込んだスープも」
(なるほど……)
エマは盆の上の器を見る。
薄いスープ、白いパン、硬いチーズ。
「城の食堂、さっき見たんですけど……大きな鉄鍋で煮てました」
「ええ、あの黒い大きな鍋」
「だから、きっとみんな少しは血を補えてるんだと思います。でもマリーさんは、味の薄いスープは苦手……と言うことは」
マリーがスプーンを持つ手を止める。
部屋には二人しかいないが、少し恥ずかしそうに声をひそめる。
「……実は、先月、初めて月のものが始まってしまって……。今日もなの」
エマは考え込む。
「なるほど。個人差はあるけど、特にからだを大事にしないといけない時期ですね」
マリーは少し目を丸くし、それから小さな声で微笑んだ。
「……でも、どうして私が血が足りないって分かったの?」
エマは隣りのベッドに座り、そっと答える。
「……倒れる前、と言うか、最初に会った時から、マリーさんの顔色が青白くて。今も手がとても冷たいんです。それから、目の周りと、唇の色も真っ白。それに、食堂でお肉とかレバーの料理が全然出ないのに気づいたんです。みんなパンとスープとチーズだけで。たぶんずっと続いたら、わたしも倒れちゃいそうです」
エマは、ふと思いついて自分の鞄を開ける。
「そうだ、よかったら……」
革の編み目の中から小さな布袋を取り出し、マリーへ差し出す。
「これ、乾燥イチジクなんです。修道院で体がだるい時や立ちくらみにはイチジクがいいって教わったから、院長さまから渡されたんです」
マリーは、手にしたイチジクを見つめてから、
「あなた、本当によく見てるのね……」
とぽつりとつぶやく。
エマは少しだけ首をすくめ、
「そんなに大したことじゃないです。きっと、神の目の妖精が助けてくれただけ」
マリーがイチジクを口に運ぶと、甘い香りがかすかに広がった。
「でも、ここで妖精の話は、しない方がいいわ」
と、マリーは静かに呟いた。




