第5話 食堂の囁き妖精たち
エマはようやく食堂の前にたどり着いた。
扉のすき間からは、女たちの声と、温かい食べ物の匂いがもれてくる。
(よかった……ここで間違いない)
その扉をそっと押すと、暖かな灯りがゆっくりと目に馴染んだ。
高い天井の梁から古びた燭台がいくつも吊るされ、蝋の灯りが石壁に優しく反射している。
大きなテーブルがいくつも並び、素焼きの器とパンの籠、黒い大鍋から湯気の立つスープが控えめに並んでいた。
室内には焼きたてのパンと、少し酸味のあるハーブの香り。
奥の窓のすきまからは冷たい霧の名残がしのびこみ、空気はわずかに湿っている。
天井近くで、ざわざわとした声が渦を巻いていた。
長いテーブルのあちこちで侍女たちが肩を寄せ合い、スープをすすりながら、ちらちらとエマの方へ視線を向ける。
彼女たちの服の裾やエプロンは、一日が終わったばかりのようにわずかにくたびれて、テーブルに置かれたパンくずさえもどこか所在なげだ。
「新入りの子よ」
「……例の十五歳?」
一瞬、話し声が止み、誰かが椅子を引く軋みが響いた。
数人が期待と警戒が入り混じった顔で身を乗り出してくる。
「新入りさん、スープは自分でよそって。ここにおいで」
きょろきょろしていると、声が飛んできた。
エマはスープをだけよそって、呼ばれた席に座る。
「パンは自由に取っていいからね」
と、籠に盛られた白いパンを一つ取って渡される。
しっとりしているけれど、ところどころ穴のあいた、質素なものだった。
それを、よそってきたじゃがいもと玉ねぎをくたくたに煮たスープに浸して食べる。
スープに浮かんでいるのは、ほんのわずかなハーブと、ちぎったキャベツの葉だけ。肉や豆の姿は見えず、スープの色もどこか薄い。
「はい、これも」
差し出された小皿には、塩気の強い硬いチーズの塊が乗せられていた。
新鮮な果物や青菜はなかった。デザート代わりにと、古いリンゴが籠の中でいくつか転がっている。
「――この食卓に、神さまと妖精と、作ってくれた人の手の恵みがありますように。みんなが無事に今日を終えられますように。いただきます」
修道院と同じように感謝の言葉を述べて手を合わせたが、心の中ではひそかに違うことを考えていた。
(……これじゃあ、修道院のほうが、まだ栄養があったかも)
スープをすくうスプーンの音が響くたびに、その水っぽい色が気になって仕方なかった。
「あなた、今日来た子でしょ? 名前は?」
「エマです。サント=ヴェール修道院から来ました」
「エマは、王城に来るのは初めて?」
「はい。お城は想像よりも……入り組んでいて、迷子になりそうです」
すでに迷子になったことは黙っておくことにした。
「十五歳なんでしょ。ずいぶん、急に決まったって聞いたけど」
エマは、あたたかいスープの器を両手で包みながら答える。
「えっと……わたしは小さい頃に修道院に預けられたので、本当に十五かどうかも、よくわからないんです」
暗い過去をさらり言われて、女たちは顔を見合わせた。
「でも、マリーと同じくらいよね」
エマは自然に周りを見回す。食堂にいる侍女たちは、エマより明らかに年上ばかりのようだ。
「そう言えば、マリーが倒れたところ見たの? やっぱり具合悪そうだった?」
「はい、階段のところで突然……。でも呼吸はしていましたし、すぐに侍女さんたちが来てくれて……」
それを聞くと、侍女たちはエマには聞こえないように、口元を隠しながらひそひそと何かを話していた。
「王妃さまがすごく大事にしてるから、マリーのこと、皆、気にしてるのよ」
その時、エマは手にしたパンを落としそうになり、思わず声を上げた。
「あっ、もう! コルヌが!」
エマの言葉に、その場の空気が一瞬止まる。
年長の侍女たちが顔を見合わせてきょとんとした後、隣の侍女がふっと吹き出した。
「やだ! 修道院にもル・コルヌがいるの? 王城にも時々現れるのよ。パンが焦げたり、鍵が消えたりしたら、だいたい妖精の仕業。でも――」
侍女は少し声をひそめた。
「王城では、妖精の話はしちゃダメ」
食堂の奥でパンを切る音や、誰かがスプーンを落とす高い音が続いている。
暖炉の薪がパチパチと燃え、灰色の窓の向こうでは夕暮れの霧が広がっていた。
「ねえ、新入り。あんたはまだ知らないかもしれないけど、この城の噂、侍女が『あの部屋』に呼ばれたら、どうなるか知ってる?」
「『あの部屋』?」
エマが少し首を傾ける。
「王女様の遊び部屋、よ」
年配の侍女が囁くように言い、他の侍女たちも重く静かな視線をエマに向けた。
「……いなくなるのよ。昔から、王女様と同い年の侍女が呼び出されると、その後食堂で姿を見かけることはないわ」
「もし呼ばれても行っちゃだめよ」
「あたしらがこうして忠告しても、みんな行く。それで、いなくなる」
もしかして、王城に呼ばれた子は、皆戻ってこないっていう噂の事だろうか、とエマは考えた。
誰に呼ばれるのだろうか……と、口には出さず考える。
「それにしても、王女様と同い年が二人になるなんて、ずいぶん珍しい」
「でも、今マリーは王妃さまのお気に入りだから、まだ呼ばれてないの」
エマが反対に首を傾けると、若い侍女がため息混じりに言う。
「王女様と同い年の子が呼ばれたら、それっきり帰ってこない。そしたらまた新しい子が呼ばれるって、昔から皆が知ってる」
「ねえ、エマ。あんた、灰色の瞳、見たことある?」
別の侍女がふと話題を変える。
「灰色って珍しいでしょう? 王様も、マリーも、あの男の人も、みんな同じ色の目をしてるのよ」
「灰色……」
エマはスープの表面にぼんやり自分の影を映していたが、ふと回廊で見た青年の顔を思い出す。
確かに、マリーの瞳と同じ色だった。会ったことのない王様も同じ色のようだ。
その時、テーブルの向こうでパンを落とした侍女が「あっ」と声を上げた。
「どんくさい!」と誰かがからかうと、小さな笑いが食堂の重さを一瞬だけ和らげた。
けれど、その笑いはエマのすぐ手前で止まり、エマだけがこの城の輪の外にいるような気がした。
外の窓に、薄く曇った夕霧が貼りつき、蝋燭の灯りが細く揺れる。
エマは椅子の固さと、空気の湿り気を背中で感じながら、心のどこかで、この城の秘密も、マリーのことも、さっき耳にした陰謀めいた会話も、すべてがこの薄暗い空間の中で渦巻いているような気がしていた。




