第4話 倒れたマリーと密会
「マリーさん!」
エマは慌ててマリーの肩に手を添え、呼びかける。
階段の踊り場には冷たい石と埃の匂い、壁の燭台が揺らめいていた。
ゆっくりと顔を覗き込み、マリーの胸が上下しているのを確かめる。
(大丈夫、息はしてる――)
エマは小さく安堵の息をついたが、修道院で教わった通り、マリーの頭をそっと横に向けて呼吸がしやすいよう姿勢を整える。
不幸中の幸いか、マリーが倒れるのがもう一瞬早ければ、階段を転がり落ちていただろう。そこに、後ろをついて階段をのぼっていたエマも巻き込まれていたに違いない。
そして周囲を見回したとき、背後から痛いほど強い視線を感じた。
その方向に振り向くと、誰かが回廊の影に静かに立ち、じっとエマとマリーの方を見つめている。
――冷ややかな、灰色の瞳――。
「誰か! 助けてください!」
張り上げたエマの声が、石の壁に反響し、すぐに複数の侍女たちが慌てて駆けつけてくる。
布の擦れる音、靴音、息を呑む気配がいっせいに回廊に溢れ、さっきまで静かだった古城の空気がざわめきで満たされた。
「まぁ、奥様のお気に入りが……」
「大変! 水を――」
「早く、お部屋へ!」
灰色の視線はマリーの様子をしばらく見ていたが、すっと身を翻し、足音をかすかに残して影の奥へと消えていった。
侍女たちが慣れた手つきでマリーを支え、手早くその体を運び去っていく。
廊下の奥へと消える一団の足音が、石造りの天井に響いた。
「あ、あの……」
声をかけると、ようやく年配の侍女がおいていかれたエマに気付いた。
「あなたも一緒に来なさい。部屋はマリーと同室です。それと、新入りがあまり騒ぎ立てるものじゃありませんよ」
「……あ、はい」
エマは小さく頷き、侍女のあとをついて歩き出した。二人の足音が回廊にコツコツと響く。
城の回廊は、薄暗く、微かな埃と古い石の匂いが漂っていた。
――まただ。誰かが、見ている。
ふいに、回廊の奥の影から強い視線を感じた。
そっと振り向いても、そこには人影があるような、ないような。壁の燭台の火だけが揺れ、彫刻が一瞬、人の顔のように見えた。
(コルヌなの……?)
ここに住む人たちの、ささやき声とざわめきが耳の奥で交じり合う。
マリーが運び込まれた部屋の前では、侍女たちの噂が聞こえてきた。
「……また倒れるなんてね……」
「この子もどのくらいもつかしら」
エマと共にやってきた年配の侍女は、部屋の入り口でたむろしている侍女たちに声をかける。
「マリーの具合は?」
「呼吸はしています。でも、意識はありません」
「よろしい。すぐに医者を呼びます。あなた方は仕事に戻りなさい」
そう言うと、振り返ってエマを一瞥した。
「あなたは医者が来るまで、ここでマリーを見ていなさい」
「はい……」
エマはマリーの傍らに膝をつき、彼女の顔色や呼吸の様子をじっと見守った。
頬は青白く、額には汗がにじんでいる。まぶたが時折ぴくりと震えるが、目を覚ます気配はない。
(何があったんだろう? またってことは、倒れたのは今日が初めてじゃないってことね)
しんと静まり返った部屋の中で、外の霧が窓ガラスを曇らせていた。
エマはそっとマリーの手を握り、ぬくもりを確かめる。そしてそっと手首の内側に指を当てた。
(脈が弱い……)
やがて廊下から足音が近づき、侍女長とともに、初老の医者が現れた。
医者は慣れた手つきでマリーを診察し、侍女長に何事か小声で告げる。
侍女長は頷くと、エマに向き直った。
「あなたは、ここで待っていなくていいわ。夕食の時間です。食堂へ行きなさい」
「……あの、食堂はどこでしょうか?」
「この廊下を真っ直ぐ進んで、階段を下りて左。二つ目の扉よ。誰かに尋ねずとも、迷わないはずですよ」
エマは部屋を出ると、教えられた通りに廊下を歩き始めた。
だが、回廊はどこまでも同じような景色が続き、重たい扉や暗がりがいくつも現れる。
足音だけが一定の間隔で反響し、自分がどこにいるのかわからなくなってくる。
何度も立ち止まり、窓の外の霧や、自分の足音だけが静かに響くのを聞いた。
(……本当に、こっちでいいのかな……)
石畳を踏みしめながら角を曲がると、見たこともない長い廊下が現れる。
扉には古い紋章、燭台の火がゆらめき、どこからか食事の匂いも漂ってくるが、目指す食堂が見当たらない。
(……まさか、わたし、迷子になっちゃった……?)
エマは食堂を探して薄暗い廊下をさまよった。
曲がりくねった石壁の奥、半開きの扉から微かな声が漏れているのに気付く。隙間からこぼれる明かりが床に細い帯を落としている。
(……あっ、誰かいる?)
足音を忍ばせて扉の前に近づくと、部屋の奥で低く押し殺した声が交わされていた。
一人の侍女と、王城に着いた時に、回廊ですれ違った灰色の瞳の男だ。
「……で、倒れた時の様子は?」
「……特に前触れもなかく、突然崩れるように倒れたらしいです」
「その時、近くに誰がいた?」
「ええと、確か、今日来たばかりの新入りがすぐそばに。私ともう一人は井戸に居たので……」
一瞬、男の声が低くなる。
「何か、食べ物や飲み物は?」
「……お昼にお茶を少し飲んでいました。でも、いつもの薬草茶です。私が用意しましたので怪しいことは何も……」
「毒や異物の匂い、味はしなかったか?」
「いえ、全く……。ただ、マリーが先月も体調を崩していたのは確かです」
「先月も……? 何か以前と変わったことは?」
「あ、……いえ……特には」
しばらく沈黙が落ちる。
「用心しろ。今夜は特に、彼女の様子から目を離すな。王妃様にも余計なことは言うな」
「はい……」
エマは思わず、手に汗を握った。
そのとき、扉の向こうの空気が急に張り詰めたように感じ、エマは慌ててその場を離れた。




