第2話 王城からのお呼び出し
1491年1月――
幼い王女が亡くなってから、十二年が過ぎた。
その間、モン・ルグリュの空は、まるで誰かの悲しみを映すように、晴れ間を見せないままだった。
本当は陽が差す日もあったのに、国民は「今年も空が灰色だ」と言って、小さな王女を弔う。
国境近くのピエルモンの町は、灰色の石壁と屋根が肩を寄せ合っている。
新年のにぎわいも消え、広場では、商人や旅人が朝霧のけぶる中を行き交っていた。
その日も、サント=ヴェール修道院の鐘は、朝の空気を小さく震わせる。
礼拝堂のステンドグラスには曇り空の光が淡く滲む。灰色の空とは対象的に、色とりどりの小さな光が静かに床を照らしていた。
エマは小さな旅行鞄を片手に、礼拝堂の長椅子の間をそわそわと行ったり来たりしていた。
昨日まで着ていたフードの付きの修道服は脱いだので、ブラウンヘアが歩みに合わせてゆらゆらと揺れる。
「……うーん、ない。おかしいな……」
いつもの癖で、手にした鞄の革紐や布のほつれを、無意識に指でなぞる。ものの形や質感を確かめるのが、エマの癖だ。
手に伝わる鞄の感触――この革紐の編み方はグローレ地方の伝統で、布地ほつれは三年前に町の食堂のテーブルのささくれに引っ掛けたあと。その細かな違いが、エマの指先に伝わってくる。
足音静かに、院長アニエスが白い石の床を歩いてきた。
立ち止まると、ローブの裾にわずかな光が反射する。エマはその一瞬の輝きを目で追った。
「エマ、何を探しているの?」
「あっ、院長さま。……お帳面が行方不明で……」
「また、ル・コルヌの仕業?」
エマはちょっと肩をすぼめて、恥ずかしそうに笑った。
「きっと館の妖精ですよ。パンを落としたのも、靴が片方なくなったのも、だいたいあの子のせいですから。木炭をばらまいたのも」
院長は小さくため息をついて、手に持っていたペンと帳面を差し出した。
「あなたがうっかり置き忘れたのを、妖精が見つけておいてくれたのかもしれないわね」
アニエスの手に探していたペンと帳面があり、エマは苦笑しつつ受け取った。
「いたずら妖精が王城にもいてくれるといいんだけれど」
アニエス院長の言葉の意味を察して、エマは肩をすくめる。
「いないと困りますよ、院長さま。王城でお皿でも割ったら、妖精のせいですって言い訳できなくなっちゃいます」
エマのブラウンの瞳は好奇心を滲ませていたが、少し不安の色も混じっていた。
「でも、どうしてわたしが王城に呼ばれたんでしょう。ちょっと怖いですけど……」
王城の侍女として特別に選ばれたと聞かされたが、いつも妖精にいたずらされている自分には実感が湧かないのだ。
でも、もし誰かに期待されていたり、自分にできることがあるなら、それを自分の目で確かめてみたい――
エマはそんな好奇心の方が、不安よりも少しだけ強かった。
院長は、母のようにやさしくエマの肩を抱く。
「エマ、あなたは素直で賢い子よ。神さまがきっと、大切な役割を与えてくれたの。だけど、自分だけは、どうか偽らないで」
エマは小さく頷き、院長の言葉を頭の中で何度も繰り返す。
院長がこうして言う時、たいてい何か本当に大切なことが待っている。それを知りたいという感覚が、エマの胸の奥で小さく灯る。
「はい。アニエス院長は、いっつもそう言いますね」
「嘘やごまかしでは、誰も幸せになれないものよ。それに、あなたの本当の姿を知っている人は、きっとあなたを大切にしてくれるはず」
静かな回廊に、どこか遠くから鳥のさえずりが届いた。
エマは深く息を吸い、外の空気に混じる湿った苔と古い木の香りを、意識的に胸いっぱいに取り込んだ。
この場所の匂いも、音も、手触りも、忘れずに持っていきたいと願っていた。
「院長さま……わたし、戻ってこられるでしょうか」
アニエスは少し黙り、ゆっくりと答えた。
「それは、神様だけがご存知です。でも、エマ。あなたの帰りをここで待っています」
ちょうどその時、門の外で馬車の車輪が石畳を静かに転がる音がした。
ふたりは回廊を抜け、門の方へと向かった。
「エマ様、王城よりお迎えに参りました」
黒い制服の従者が礼儀正しく頭を下げる。その動きのきちんとした所作や、磨かれた靴先に付いたわずかな泥。
エマは、その細部を自然に観察していた。そして、雲の動きから「もうすぐ雨が降る」と静かに予感した。
アニエスの方をもう一度見つめる。
「あなたの心に私の声が届くよう、毎日お祈りしていますよ。自分の目で見た物を信じなさい」
院長はやさしく微笑んだ。
「はい、院長さま……。本当に、ありがとうございました」
「エマ、どうか気をつけて」
ふたりはしっかりと抱き合った。
エマにとって、物心つく前から育ててくれたアニエス院長は、母親のような存在だ。
その服に染み付いた香の香りも、腕のぬくもりも、忘れないように胸と記憶に刻んだ。
† † † † †
外の空には、鈍色の雲が折り重なり、修道院の鐘がまた響き渡る。
修道院の門をくぐり、エマは重い一歩を踏み出す。
空気はひんやりとして、肩先にかかる髪がしっとりと湿気を帯びていた。
黒い制服の従者は無言で馬車の扉を開けて待つ。
従者の袖に施された刺繍のほつれ、小さな銀ボタン――エマは何気なくそれを目にとめた。
「ありがとうございます」
エマが小さく頭を下げて乗り込むと、扉が静かに閉じられる。
車輪が石畳を軋ませて、ゆっくりと修道院を離れ始めた。
車窓から見える景色は、どこまでも重い灰色。
修道院の白い壁と尖った鐘楼が、霧の向こうにぼんやりと遠ざかっていく。
馬車が城下町に差しかかると、通りに立つ人々がエマの方をちらちらと見る。
だが誰も声はかけず、帽子のつばを下げたり、そっと視線を逸らしたりする。
エマはガラス越しに景色を観察し、昼間の光の加減と、自分の映り込みを比べてみる。この視線は、自分ではなくこの馬車に向けられていると直感した。
(不安? 不満? 王城で、一体何があるのかな?)
膝の上の鞄――革紐の端や、金具の磨り減り――
目に見えるものを一つずつ確かめながら、エマは窓の外に広がる町を静かに観察した。
古い家並みの間に洗濯物が揺れ、青白い霧の中へ溶けていく。
井戸のそばでは、老婆が静かに水を汲んでいる。
どの家の窓も堅く閉ざされ、窓辺の花さえも、どこか寂しげにうつむいていた。
その時、不意に隣の座席から従者が声をかけてきた。
「……エマ様。失礼ですが、道中、ご不安なことはございませんか?」
エマは、従者の方を向いて、小さく首を振った。
「あ……そう言えば、王城に呼ばれた子は、皆戻ってこないっていう噂を聞いたことがありますけど、本当なんですか?」
従者はわずかに目を伏せ、言葉を選ぶように沈黙した。
「そうした噂は、どこにでもあるものでございます。ですが、どうかご安心を。王城には何もご心配は……」
その声は、どこかぎこちなく、最後はかすかに揺れて消えた。
エマは曇った窓ガラスの向こうに広がる灰色の町を見つめながら、小さく「わかりました」とだけ答えた。
馬車は町外れの坂道をゆっくりと登っていく。
灰色の雲は湿度を帯び、小雨が降り始めた。
石畳が土の道に変わると、両側には樹々の枝が絡み合い、薄暗いトンネルのような陰影が広がる。
霧の奥で揺れる木々の葉――エマはそのわずかな動きも見逃さず、静かに目で追う。
草の匂い、濡れた土の冷たさ。
エマは心の中でそれらの名前をひとつずつ思い浮かべ、世界を形作る線や色、空気の湿度を確かめる。
馬車の中には、馬の蹄の音と、幌を叩く小さな雨粒の音だけが静かに響いていた。
やがて丘の上、霞んだ雲を背にして、モン・ルグリュ城の黒い尖塔がゆっくりと姿を現した。
この旅が自分の運命を変えてしまうこと、この国に流れる『噂』が、本当は単なる噂ではないことを、エマはまだ知らなかった。




