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隣室の青年

作者: 梅子

 隣に泊まっている人は、今、何をしているのか、私がそのようなことを考え始めたのは、暇を持て余していたからに違いない。教員志望だった私は、採用選考を終えた大学四年の夏、心と体を休めるために、海に近く眺めの良いという宿に一週間ほど滞在することにした。採用選考に際して、努めて自分を良い人間に見せたいと背伸びをしていた私は、実際、疲れ切っていた。人の視線に過敏になり、もはや誰にも自分を見せたくなくなって、一人旅を決行したのだった。

 到着した日は良かった。思ったよりも海が見えない部屋にも、一人旅の高揚感のためか、自然、満足できた。畳に寝そべって、一日中、何も考えず過ごした。二日目も良かった。持ってきた文庫本を読み切って、感動や同情に浸っていた。三日目がまずかった。私は、朝食を済ました後、ふと何をするべきか悩み出した。テレビを見よう、そう思って電源を入れたが、朝方のニュースは、私を退屈させた。海を見てみた。私の部屋の大きな窓からは、他の宿ばかりが見え、左側のサッシを覗き込むようにすると、やっと海が見える。こちらは、三〇分が限界だった。採用選考の結果は、どうなるだろうか、とか頭に余計な思案が浮かび出すのだ。時計を見るとまだ一一時だった。竜宮城にでも来たかのような気持ちになった。私は、もともと人と話すのが好きで、好かれたいと思うがために気を回し過ぎ、嫌気が差すような、「人好き」だったので、そわそわと寂しくなった。そこからだったと思う。隣に泊る人のことを考え出したのは。

 私は、壁を見つめて、想像を膨らました。この宿は、古く経営状態があまり良くないのか、海の近さや規模のわりに、大学生が五、六日泊っても問題にならないほどの料金で泊まることができる。きっと隣の人も、贅沢するほどのお金はないが、そこそこの癒しを求めていると考えられた。何となく家族連れではない気がした。きっと中年男性が一人、有給を使って、自分への褒美の旅行でもしているのではないか、と根拠なく妄想していた。中年の小太りな男が、昼ご飯の時間を待ちきれずに、海を見ながら、カップラーメンを食べている姿が自然、私の頭に浮かんだ。時計を見ると、そろそろ昼ご飯の時間だったので、私は、食事会場に向かった。

 その部屋の宿泊客が、色白で線の細い、切れ長の目の青年であることを知ったのは全く偶然だった。私が昼食をとって、食事会場から部屋に戻ろうとした時、彼が丁度、出てきたのである。先述の興味を抱いていた私は、鍵を開けようとする仕草をしながら、見るともなくその顔を除き込んだ。想像をはるかに超える、美しい容姿に私の胸はどきんとした。彼はこちらに気付きもせず、すっと通り過ぎた。音さえ立たなかった。部屋に戻った私は、先程の興味が違う俗な意味を持ち出すのを感じた。最初の興味は、純粋なもので、全く発展性のないものだった。それが、彼を見たために、彼を詳しく知って、できれば近付きたいという思いが湧いてきた。急に退屈さが吹き飛ぶ感じだった。とは言っても、私にできることは何もなかった。彼がいつ部屋に戻るかもわからない。私は、少々冷静になって、畳に寝転んで目を閉じた。集中して彼の姿を瞼の裏に再生させるためだった。それは、存外、気の張り詰める作業だった。暫くすると、集中が切れ、眠たくなってきた。ぼんやりとした頭に、そうだ夜ご飯の後、彼が部屋に戻る時をねらって話してみよう、そのような曖昧な考えが浮かんだ。

 夜ご飯には、刺身が出た。私は、何だか呆然としながら食べていた。食事会場は、一応、個室になっていて、他の人の姿が見えなかった。私は、彼がどのくらいのタイミングで食べ終わるのか、そんなことばかり考えていた。四〇分ほどで、私は半ば料理を残して、食事会場を後にした。自分の部屋の前の廊下で、ぼんやり彼が来るのを待った。彼が来るのは、エレベータからだと予測した。階段は、私たちの部屋から遠い。お盆も過ぎて、客が少ないので、エレベータのベルが鳴るということは、すなわち、彼が来たのと同じことだと決めつけて待った。二〇分ほどして、ベルが鳴った。私は、胸が締め付けられるのを感じた。やはり彼だった。私は、すかさず鍵を今開けようとするふりをした。彼が私を通り抜けて、奥の自分の部屋に入ろうとするのに合わせて、私は、鍵を投げるようにして彼の前に落とした。彼は、自分の足元に不自然に飛び出してきた鍵に少しばかり動揺したようだった。私は、その隙をついて、わざとらしさを隠すために

「ごめんなさい。手が滑ってしまって」

と慌てるように言った。彼は一瞬、体を引くような素振りを見せたが、すぐに礼儀正しい感じになって、鍵を拾って、私に手渡した。私は、やはり彼は良い人だなと思った。

「ありがとうございます」

努めて笑顔で受け取ると、彼は、いえと軽く言って部屋に入ろうとした。私は、実際、少し慌てて、

「大学生ですか」

と唐突に尋ねた。彼は怪訝そうに

「いいえ」

と答えた。

「私は、大学生の一人旅なんです」

聞かれてもいないのに、私はせわしなく話した。そして、

「お一人ですか」

と、さらに訊いた。彼は、一瞬、人を遠ざけるような神経質な表情を浮かべたが、これは、生来のものなのか、品の良いおおらかな物腰で、

「はい」

とつぶやいた。私は、少しの会話で彼に大きなときめきを感じた。ただそれ以上、彼に何かを話しかけるのは難しかった。

「おやすみなさい」

私が言うと、彼はほっとしたように会釈して、部屋に入った。その夜は、眠れなかった。彼に、もっと何か訊けば良かったとか、いろいろなことが頭に浮かんだ。

 四日目の夜、私は、彼の部屋に入ることに成功した。それは、ほとんど犯罪と言ってもいいような方法によってだった。客が夜ご飯を食べている時、中居さんが布団を敷いてくれることになっていた。夜ご飯は、一八時半からと決まっていたため、彼を含めた客は全員、食事会場に移動する。私は、この時間を利用して、彼の部屋に忍び込もうと作戦を練っていた。昼ご飯をすました後、近くのコンビニでおにぎりを買っておき、帰りに、ロビーで

「今日は、夜ご飯は要りません」

と伝えるという準備までした。一七時におにぎり二つを食べてからは、テレビを見ながらぼんやりとしていた。一八時二五分になると、自分の部屋の中からドアに耳を澄まして、彼が食事会場に移動する気配を感じ取った。一八時四〇分に私は、廊下の外に出た。少しして、外国籍と思われる小柄な中居さんが二人やってきた。私は、

「ごめんなさい。隣の部屋の人と友達なのですが、食事会場で彼が忘れ物をしたと言って。代わりに取りに行くように言われたので、入ってもよいですか」

中居さんは、顔を見合わせた。そして、片言の日本語で

「どうぞ」

と言った。私はこの段になって、そら恐ろしくなった。誤解されては嫌なので、説明したい。私は、このように好意のある相手の部屋に忍び込むことを、日常にしている人間ではない。話の流れの中では、唐突に感じるかもしれないが、彼と話して以来、私の頭は、彼のことばかり浮かびぼんやりし、ややもすると憂鬱になり、どうやったって彼と話す機会はない、彼は明日帰ってしまうかもしれないと胃が重くなった。彼の顔は、一度見たら忘れられないほど、きれいだった。きれいなものに吸い寄せられる本能が目覚めるの感じた。ただ、その本能は、抑えなければならないと、本能に限りなく近い勘が働いていた。彼には、親しみやすい優し気な雰囲気に、どこか高貴な、とても私には近付けないようなオーラを漂わせていた。まぶしい光には目を閉じてしまうように、私には彼を正視することは許されないと、何だか分かっていた。それでも何とか近付きたい、彼がどんな人間なのか知りたいという思いは、絶えなかった。そうして、昨日一晩中考えて浮かんだ方法がこれだった。

 彼の部屋は、やはり整頓されていた。その中で目を引くのは、畳の部屋に唐突に置かれた勉強机だった。学校にあるような、木の一人掛けの小さな机と椅子が、海の見える窓と平行に設置されていた。机の隅には、ノートと、「構造」とか「記号」とかの言葉が題名にある本があった。閉じたノートの上に本が重ねられているのだが、それらは、机の角に、角をぴったり合わせて置かれていた。もう一つの私の部屋にもある、窓際の小さな丸い机の上には、几帳面に折られた新聞があった。同じ間取りの部屋のはずなのに、まるで別世界のような静けさや緻密さが、彼の部屋には漂っていた。さらに、この部屋に不思議な印象を与えていたのは、香りだった。何かは分からないのだが、淡い香気がするのだ。それは、清潔な香りであるが、石鹸の香りとか名前を与えられるほど鮮明ではなく、微かに、しかし確かにこの部屋を満たしていた。私は暫し、中居のいることも忘れて、部屋の美質に浸っていた。何とかごまかして自室に戻ると、朧月夜で海も見えなかった。

 目を開けると朝になっていた。実際、寝不足ではあったが、ここまで熟睡するとは、思わなかった。もう五日目になるかと、指を折って数えた。私はやはり彼を思っていたが、朝は、心持が穏やかで散漫なので、深い考えもなく食事会場に行って、干物などを食べた。エレベータで部屋に戻ろうとした時、白いワンピースの女性が後から乗ってきた。私は、急にぞっとした。その理由は、彼女が、あの部屋と同じ香りを漂わせていたからである。エレベータが着くと、私は、どうぞ、と言って彼女を先に降ろした。彼女の容姿を確かめるためだった。彼女を見た瞬間、私の目は、どうしても彼女に吸い寄せられた。美しかった。あまりに清らかだった。雪のような白い肌、凛とした瞳、小さくて可愛らしい鼻。私は、隣の部屋の彼のことを最上の美と捉えていたが、それを塗り替える光り輝く彼女を見てしまった。彼女は、彼の部屋の前でやはり止まった。そして、細い腕でドアをノックした。中から彼がドアを開け、彼女を迎え入れた。ドアが開いた時、微笑む彼女の上品な唇の両端が、愛嬌をこぼすようにさらに上がった。

 自室に戻ってから、私は壁に耳を当てて動かなかった。彼女と彼とは、恋人なのだろうか。彼女は、三十は超えているように見えたが、年などは問題ではなく、彼女には、彼では少しもったいないと思われた。私は、好意を持つ彼の部屋に女性が入ったという喪失感よりも、きれいな二人が向かい合っている、その価値を理解し、その場に、壁越しとは言え、立ち会っている自分に満足していた。向こうからは何の音もしなかった。私の頭には、彼の細い指が、彼女の体に向かう図を想像したが、何だかそれ以上のことを考えるのは、罪に当たるような気がして、呆然としていた。彼女は、彼の部屋に長く留まっていた。ドアの開く気配が全くしないままだった。食事の時間になれば、と私は待ち構える気持ちでいたが、二人は出てこなかった。私は、朝ご飯の後、こうして壁にずっと張り付いていたため、強い空腹感を覚えた。頭もぼんやりしてきたので、これでは却っていけないと思い、食事会場に走った。何が出ているのか分からないまま私は、取り敢えず料理を口に放り込み、十五分ほどで自室に戻った。何の変化も無かった。少しほっとして、窓の外を見ると、高いところに明るい満月が上っているのに気付いた。満月は、海に光の道を作っていた。左を覗き込むと、対岸の方で、雲の中が時々光っているのにも気付いた。雷だった。こちら側に何の動揺もない明るい月があり、あちら側に、不穏な点滅が繰り返される。その図は、私を暫し圧倒した。部屋の明かりも消して、ただ椅子に凭れ、見とれていた。そのうち、私の意識は、私の体を抜け出し、隣の部屋へ飛んでいった。

 二人は、海を見ている。彼女は、月を見ているが、彼は、雷の方を懸命に見ている。空が煌めく度に感心して、昼みたいですね、とか、近付いてくるでしょうかとか話しかける。彼女は、時々はあの微笑みで、彼に応じるのだが、丸く愛らしく、賢い瞳は、月に向かう。月が故郷かのように一心に見つめる。彼は、月の光に包まれて透き通るような彼女の白い頬を前に、自分の美しさも忘れて、ただ圧倒される。二人は、満月や雷、海の反射の中で、ただただ美しい。清浄。まさに「清浄」としか表現できない。


 急に高いところから突き落とされたような感じがして、私は目覚めた。一瞬、どこにいるのか分からなかったが、すぐに自室の椅子に腰かけていると分かった。自分でもどうして寝てしまったのか、嫌悪感はあったが、やはり何か満足感を抱いていた。顔を洗って海を見た。昨日のことはなかったかのような晴天だった。私は何も考えず、食事会場に移動し、朝食を済ました。部屋に戻る時、彼の部屋から出て行く彼女とすれ違った。私は、はっとした。彼女は、昨日と同じ白いワンピースを着ていた。すれ違う時、やはりあの香りがした。私は、咄嗟に彼女の後を付けることにした。

 彼女は一定のスピードで歩いた。海に近いこの町は、観光業が盛んであり、宿の周りにも、宿が立ち並び、生活感がなかった。坂が多く、一旦、宿の外に出ると、海はどこかの宿に隠されて見えない。その中を彼女は、悠然と進んだ。ヒールの音が響いた。彼女の周りだけ、何か別の時間が流れているようだった。少し行くと、宿が無くなり、山に近付いて閑散とし出した。彼女は迷いなく進んでいた。傾斜がきつくなるほど、道は、くねくね曲がりだした。私は、彼女に気付かれないよう、カーブを活かして慎重に進んだ。私が、あるカーブを曲がって見てみると、彼女が視界から消えた。焦って見渡すと、小さな横道があって、そこに彼女の白い背中が見えた。私は、必死に追いかけた。気付かれたのでは、と一瞬疑ったが、彼女は、何の変化もなく歩いていた。まるで、美しくないものは目に入らないとでもいうかのようだった。最近の運動不足もたたって、息が切れ始めた頃、彼女は、品の良い洋館に入っていった。こんな家に住むことのできる人もいるのだと、何だか溜め息が漏れた。見渡すと、海が広がり、きらきらしていた。

 私は、彼女について知りたいと思った。呼び鈴を鳴らして、彼女に、あなたはどんな人なのですか、と聞きたい衝動に駆られた。それを抑えて、坂を降り始めた時、品の良い老女二人が、立ち話をしているのに出くわした。私は、走り寄って、二人に話しかけた。

「最近、こちらに引っ越してきまして。散歩をしていると、坂の上に洋館がありました。どの家も立派ですが、あそこに住まれている方は、何をされているのでしょうか」

老女は、一瞬怪訝な顔をしたが、おしゃべり好きと見えて、

「あー、○○さんのところでしょう。あそこは、もともと大学の先生のおうちなのよ。よく学生さんが遊びに来ていたわ。だけど、数年前に旦那さんが亡くなって、今は、若い奥さん一人でしょう。お子さんもいないし、お気の毒よね」

私は、彼女が「奥さん」と呼ばれること、「お気の毒」と言われること、全てに何か違和感を抱いた。

「旦那さんが亡くなった後も、一度、学生さんを見かけたわ。熱心な学生さんでね、旦那さんが亡くなる前からあのお屋敷によく出入りしていたと思うの。きっと、奥さんは学生さんを子供代わりに思っているのでしょうね」

もう一人の老女も、口紅の浮いた口で話した。私は、軽く礼を言ってその場を離れた。私には、その「学生さん」が彼のことを言っているとしか思えなかった。亡くなった先生の奥さんに、どんな用があると言うのだろう。やはり、二人は恋仲なのだろうか。私は、妄想に浸った。


 大学の研究室、先生は、学生たちを誘う。

「少し遅くなってしまったね。今日は、うちでご飯を食べないか。ここの近くなんだ。今から、店を探すのも難儀だし、混んでもいるだろう」

彼は、申し訳ないですよ、とか寮に戻ってご飯くらい何とかします、とか言う他の学生たちに同調しているのだが、

「研究に付き合わせて悪いから。遠慮はいらないよ」

と言われて、しょうがなく皆で付き合うことにする。彼は、学生の中でも優秀で、道すがら先生に何度も話しかけられる。その度に真剣に考えて返事をするから忙しい。他の学生は、彼に感心しながらも、時々、茶々を入れ、和やかな雰囲気の中、一行は山道を登る。洋館に着くと、学生たちはあまりの立派さに今更ながら、遠慮を示す。しかし、先生は、ここまで来たのだから、などと言ってちっとも気にしない。広い庭を抜けて、ドアを開けると、彼女があの笑みで迎える。

「お帰りなさい、あなた。皆さんも、ようこそ」

その瞬間、学生たち、奥さんのあまりの可憐さに言葉を失う。遠慮深い彼は、視線を離そうとするが、それでもやっぱり見つめてしまう。食卓についても先生は、学生たちにいろいろな質問をする。他の学生がまともに答えられず、笑ってごまかすような問いにも、彼は正面から向き合って、適切なことを言おうと最善を尽くす。その姿は、素直で愛らしく、切れ長の目は、鋭く賢い。酔っぱらった先生は、冗談のように話し始める。

「こんなことを言うと、贔屓とか言われるし、困るだろうけど、私はね、君の目が好きなんだよ。そんな純粋な目は、そうそう見られるものではないからね。こんなこと言ったらさらに困惑するだろうけど、人生の中で、そんな目を私に向けてきたのは、君と私の妻くらいだよ」

片付けをしていた彼女は自分が話題にされていることに気付くと、手を止めて、少し戸惑ったように笑う。そして、彼の目を見て、何を言っているのか分からないわね、といった風に、笑いかける。彼は、そのまぶしさに呆然とし、恐縮して会釈することしかできない。周りの学生は、羨望の目を彼に向け、また、何か冗談で場を茶化そうとする。

 数年経って、先生が事故で亡くなる。彼女はふさぎ込み先生と共に過ごしたリビングで、テーブルに頬杖をついて、ぼんやりしている。唐突に呼び鈴が鳴る。彼が訪ねてきたのだ。最初は、先生の話ばかりする。しかし、段々と、彼は彼女への気持ちを打ち明け始める。しかし、賢明な彼女は、彼を受け入れない。真面目な彼は、誰かに心を伝えたこともなく、恋愛もしたことがないので、却って、失恋ということに疎く、拒まれても彼女に思いを伝え続ける。その姿は、関わりのない人でも涙をこぼしてしまいそうなほど、痛切で愛おしい。彼女は、根負けして約束をする。一年に一度だけ、会って思い出話でもしましょう、と。彼は嬉しい気持ちもあるが、同時に先生に対して気が引ける思いがする。そこで身の程知らずに条件を出す。宿で会うことにしませんか、と。そして、大学を卒業した今なお、彼女と彼は、密会を重ねている。

 そこまで考えたところで宿に着いた。部屋に戻って、しばらく冷房に当たって、休憩をした。自然に、勉強机に向かっている彼の姿が目に浮かんだ。勉強に少し倦んでノートに鉛筆で彼女の姿を描いている。丸く凛とした瞳、小さな鼻、賢く上品に微笑む唇。どんなに上手く書こうとしても、到底、彼女の美しさには、及ばない……。

 私には、彼女を愛する彼が、何をしているのか、手に取るように分かる気がした。


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