第37話 祠の前――社伝
木曜の朝。
目覚ましのアラームを止めたあと、昨夜の文面が頭をよぎる。
『明日の放課後。祠の前で社伝を確認する。武臣さんも立ち会う。来られるか』
もう返信はしてあるが…
なのに、思い返すだけで胸の奥が少しだけ冷える。
“明日”が“今日”に変わり、段取りが現実になっていく。
(……行こう)
私は小さく息を吸って吐いた。
次に吸い込むまでの、ほんの短い“間”に意識を置く。
黒髪。黒に近いこげ茶の瞳。
学校の私を、今日もきちんと定着させて、教室へ溶け込んでいく。
放課後。
ほのかが机に鞄を落としながら、こちらを見て笑う。
「シエル、今日の放課後は神社の用事だよね?」
「うん。鳴瀬のほうで……ごめん」
「全然。じゃ、弓道はまた今度、続きやろう」
あっさり手を振って、見送ってくれることが、ありがたい。
“普通”の予定が、ちゃんと次へ繋がっていく感じがする。
廊下に出ると、結衣が待っていた。
顔を見るなり、短く頷く。
「行ける?」
「うん。大丈夫」
「じゃ、帰って……そのまま鳴瀬、だね」
「うん」
言葉が少なくても、足並みが揃う。
それが今は、支えだった。
家に戻ると、武臣さんは準備を終えていた。
車のキーを握り直し、息をひとつ置き、シエルたちを見て一言。
「寒くなる。上着は持っていけ」
「はい」
「持った」
結衣が短く返して、私の鞄の口を指で押さえた。
「シエル、無理はしないで。お願いね」
「……うん」
“命令”じゃない。
でも、断れない優しさで縛ってくる言い方。
車が走り出すと、住宅街の匂いが遠のいて、山の気配が近づいた。
窓の外の緑が濃くなるほど、胸の奥のどこかが静かに構えてしまう。
(境目に行く)
昨日の夜、そう決意して眠ったはずなのに。
管理用の道から鳴瀬の家へ入る。
車を降りた瞬間、空気がひんやりとして、肺が少しだけ冷えた。
玄関の戸が開き、宗一さんが出てくる。
手には、風呂敷に包まれた厚い束――社伝。
「来たか」
「お邪魔します」
「……お願いします」
私が頭を下げると、宗一さんは「うん」と短く返した。
武臣さんにも同じように目を向け、丁寧に頭を下げる。
「武臣さんも、ありがとうございます」
「立ち会うだけだ。余計なことはしない」
余計なことをしない、という宣言が逆に頼もしい。
居間に通され、湯飲みが置かれる。
私は座布団の上で背筋を伸ばしたまま、そっと呼吸を整えた。
黒を保とうとする意識を、いったん緩める。
視界の端の滲みが引いて、体の奥の張りがほどけていく。
銀髪と碧い瞳が、静かに戻ってくる感覚。
宗一さんはそれを見ても、何も言わなかった。
武臣さんも、ただ湯飲みを持ち上げるだけ。
“見られる”ことに慣れてしまうのが怖い……
でも、今は慣れたほうがいい。ここは、隠すための場所じゃないから……
「行くぞ」
宗一さんが社伝の包みを持ち、立ち上がった。
「結衣も来るか?」
「行く!」
私も頷いて立ち上がる。
そして胸の奥で、糸が細く張り直されるのが分かった。
祠へ向かう小道は、昼の名残の明るさがまだ残っている。
けれど木々の影は濃く、足元の土がしっとりとしていた。
鳥の声が一つ、遠くで切れる。
祠は変わらず、古めかしい。
小さな屋根、薄い板、時間に擦れた木肌。
でも“変な札”があった場所だけが、妙に記憶の中で強く光っている。
宗一さんが祠の前に風呂敷を広げ、社伝をその上へ置いた。
ページを開く音が、森に吸われていく。
「……ここだ」
指が、ある見開きで止まる。
宗一さんは、声を張らずに読み上げた。
淡々としているのに、言葉が妙に重い。
「“塞の神は、辻と端に坐し、迷いを返す。返し札は、境目の作法を補うもの。――ただし、名なきものには効きにくい”」
結衣が眉を寄せる。
「……名がないと、返せないの?」
「“戻れ”と言って押し出すことはできる。だが、押し出された側が、また迷って入り込む」
武臣さんが低く言った。
「要するに、しつこいってことだな」
宗一さんが頷き、続きを指で追う。
「ここに“手順”がある。札を作る紙、墨、置く場所、読む言葉。……それと――」
宗一さんの指が、余白に近づいた。
その瞬間。
胸の奥が、ひゅっと細く冷えた。
四角い窓。
意味の分からない文字の列。
“警告”みたいな気配。
見える、というより、“重なってくる”。
社伝の紙の上に、紙じゃない白さが一瞬だけ貼り付く。
そこに、記号みたいな線が走る。
(……来た)
息が浅くなる。
「シエル」
結衣の声が近い。
肩に触れるわけじゃないのに、距離だけで分かる気配。
私は目を閉じた。
吸って、吐く。
次に吸うまでの短い“間”に、意識を置く。
弓道場の、音が落ちていく静けさを思い出す。
そこに一瞬、体を置く。
すると、重なっていた白さが、少しだけ薄れる。
宗一さんが、声を変えずに言った。
「……今、なにか見えたか?」
私はゆっくり目を開けて頷いた。
「はい。ほんの一瞬、四角い……窓みたいなものの中に記号のような文字列が……」
武臣さんが、社伝から目を離さずに言う。
「読めたか?」
「読めませんでした。意味の分からない、文字列だけ……」
宗一さんはページをめくる手を止め、少しだけ息を置いた。
「なら、今日はそれで十分だ。次へ進む」
“止める”じゃない。
先へ繋げる言い方。
宗一さんは、社伝の別の箇所を示した。
「“名を拾う”と書いてある。名が分からないなら、境目で“名を拾う作法”を行う」
結衣が、私を見る。
「……拾うって、どうやって?」
「息を置け、とある」
宗一さんが、余白の手前で指を止めたまま言った。
「境目で息を置く。息の“間”に、こちら側の名が落ちる。……古い言い方だが、要するに――焦るな、ということだ」
分かりやすい言葉にされた途端、胸の奥の糸が少しだけほどけた。
私は小さく頷いた。
「焦らないで……名を拾う」
そのとき。
祠の影から、白いものがぬるりと出てきた。
「……雪」
結衣が、声を緩める。
猫の雪は、何事もなかったみたいに社伝の風呂敷の端へ寄り、ぐいっと頭を押し付けて、勝手に撫でられ待ちの体をとる。
「来るタイミング良すぎ」
「こいつ、分かっててやってるんじゃないか…」
武臣さんが言うと、雪は「にゃ」とだけ返した。
返事が雑で、逆に安心する。
私は雪の背中にそっと触れた。
温かい。確かに“名のある”重さだ。
(名があるって、こういうことだ)
呼べば来る。
呼ばれれば返す。
こちら側のルールに、ちゃんと乗っている。
宗一さんが雪を追い払わず、社伝を閉じる。
「よし。確認ができた。次は“塞ぎ直し”の準備だ」
「いつ?」
結衣が即答で聞く。
「週末。天気と人の手を見て決める」
そして、宗一さんは私を見た。
「シエル。今日みたいに“引っ張られたら”すぐ息を置け。無理に読もうとするな」
「……はい」
武臣さんも、短く言った。
「無理はするな。事前に言え」
言い方は不器用なのに、守る線は太い。
私はもう一度、息を吸って吐いた。
境目は怖い。
でも、手順があるなら前に進める。
社伝の紙の匂いは、ちゃんと“こちら側”の匂いだった。
帰り道、森の影が少し伸びていた。
結衣が歩きながら、小声で言う。
「今日、見えたのはどんな感じだった?」
「……うん。昨日よりはっきり“来た”って分かった。だから、息を置けた」
「よかった。今日は、それが一番」
結衣の言葉が、足元を固くする。
祠の方から、雪が一度だけ鳴いた。
見送るみたいに。
私は振り返らずに、前を向いた。
名のないものは、まだいる。
でも、焦らず、手順通りに進めばいい。
境目で息を置く。
名を拾う。
それが、次の一歩だ。




